福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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原発事故  そのとき病院が直面した現実   ――ある医療従事者の体験


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 東日本大震災と原発事故発生から2年。
 あのとき何が起きたのか。
 原発推進の流れが強まる中、忘れてはならない事実のひとつを記録しておく。 



震災関連死


 東日本大震災の犠牲者数は、死者15,861人、行方不明者2,939人。(昨年6月、警察庁)
 さらに、直接の地震・津波による犠牲ではなく、避難過程や避難生活の中での体調悪化、あるいは自死などによって亡くなった「震災関連死」が、3,004人。(昨年12月、復興庁)そのうち福島県内での震災関連死が、1,184人と全体の約4割。とくに原発事故による避難区域がかかる双葉郡8町村と田村市、南相馬市、飯舘村の11町村での震災関連死が合計で1,051人と、全体の9割近くを占めている。


  
20キロ圏内の病院で


 当時、福島第一原発から20km圏内には7つの病院が存在しており、原発事故によって避難を余儀なくされた。そこで起こった事態について、『国会事故調報告書【本篇】』(東京電力福島原子力発電所事故調査委員会)では、以下のように記述されている。

 「福島第一原発から20km圏内には、大熊町、双葉町、富岡町、南相馬市の5市町に7つの病院が存在する。県立大野病院(大熊町)、双葉病院(同)、双葉厚生病院(双葉町)が5km圏内に、今村病院(富岡町)、西病院(浪江町)が10km圏内に、市立小高病院(南相馬市)、小高赤坂病院(同)が20km圏内にある。事故当時これらの7つの病院には合計約850人の患者が入院していた。そのうち約400人が人口透析や痰の吸引を定期的に必要とするなどの重篤な症状をもつ、又はいわゆる寝たきりの状態にある患者であった」
 「当委員会の調査によると、平成23(2011)年3月末までの死亡者数は7つの病院及び介護老人保健施設の合計で少なくとも60人に上った。『震災後の避難前の時点』から『別の病院への移送完了』までに死亡した入院患者数は、双葉病院38人、双葉厚生病院4人、今村病院3人、西病院3人であった。また、双葉病院の系列の介護老人保健施設の入所者は同病院の患者と一緒に避難したが、そのうち10人が死亡している。なお半数以上が65歳以上の高齢者である」〔下線は引用者〕

 『国会事故調報告書』では、7つの病院及び関連施設において発生した苛酷な事態について、一定の紙幅を割いて、事実と原因の究明を行っている。また、もっとも犠牲の大きかった双葉病院については、『なぜ院長は「逃亡犯」にされたのか 見捨てられた原発直下 「双葉病院」恐怖の7日間』(森功著 講談社 2012年3月11日)において、克明な取材が行われている。


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imr003.jpg〔散乱するベッドや車イス。避難時の修羅場が想起される/写真は双葉病院、上下とも〕


 
ある医療従事者の体験


 本稿では、第一原発から9キロ、第二原発から3キロにある今村病院に当時勤務していた佐藤慎司さん(仮名 30代)の体験を紹介する。
 佐藤さんは、その日も通常通り出勤し、事故に遭遇し、患者の避難に奮闘した。 
 佐藤さんと初めてお会いしたのは8カ月ぐらい前。原発事故下の病院で体験したことを話してくれたのだが、当初の話は記憶が錯綜し感情も起伏して、インタビューとしてはなかなか難しかった。苛酷な体験である上に、自分を責めるような気持ちがあったからなのかも知れない。
 事故から2年、ようやく佐藤さんが事故当時の体験を落ち着いて話せるようになった。
 あくまでも、一人の医療従事者の体験を通してだが、佐藤さんは、次のように訴える。
 「『放射能で死んだ人間はいない』なんて言うけど、実際にはウチの病院をはじめ、たくさんの人が避難やその後の負担で命を落としているわけだから。・・・原発再稼働に賛成とか反対とか、安全基準だとか、いろいろ議論されているけど、『ひとつ、原発事故が起こったら、こんなに犠牲が出るんですよ』ということを考えてくれたら、結論は、やっぱりはっきりしているんじゃないかと思うよ」

 以下は、佐藤さんのお話を整理したもの。なお、事実経過をわかりやすくするため、適宜、数字的な事柄や時系列的な記録、『国会事故調報告書』の引用などを挿入した。


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〔医療法人社団邦諭会 今村病院。福島第一原発から9キロ、第二原発からは3キロの地点にある地域の中核病院。内科、神経内科、消化器科、循環器科、外科、脳神経外科。また、「初期被ばく医療機関」として、「放射性物質による汚染を伴う傷病者の診療に関する覚書」(2006年3月)を東京電力との間で締結している。事故当時、職員総数は90人。入院患者96人でうち重篤患者が67人/写真は今村病院HPより〕



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【Ⅰ】 3月11日14時46分 地震発生





――3月11日はどういう日でしたか?

佐藤:8時半から始まって、いつも通りの1日。強いて言えば、あの日は、学校の卒業式だったでしょう。それで、子どものいる女性スタッフが、卒業式ということで休んでいる人もいて、その分、忙しかったと記憶している。
 地震発生は、午後の診療が始まって、一時間ちょっとたったぐらい。

――富岡町は震度6強でしたが?

佐藤:なんせ初めてだったね、こんなに揺れるのは。よく、立ってられないとか言うけど、ほんとにそうだった。
 で、すごく長かった。普通の地震なら、地鳴りがしてガーとなって、あ、来たなって、ある程度待てば、収まってしまう。それが収まるどころか、徐々に徐々に、強くなっていく一方で止まらない。どうなっちゃうんだ。これは止まんないぞという感じ。尋常じゃない。
 機材なんかが、右に左に動いていた。本当にヤバいという感じ。病棟の詰め所にある棚とかは軒並み全部倒れていた。立っているものはすべて倒れるみたいな。停電にもなったけどそれは数分ぐらい。すぐに非常電源に切り替わったから。
 ただ、これは、ものすごいことになるとすぐに感じたね。

――それは津波ということですか?

佐藤:いや、そのときは、まだ津波のことは頭になかった。
 ただこれだけ揺れたし、たぶん、転んだとか、ガラスで負傷したとか、まず、そういう人がすぐに駆け込んでくるだろうとは思った。
 まず、現状の確保だね。入院の患者さんのこと、あと自分の担当していた患者さんの把握。ある程度、動ける人はいいとして、寝たきりの患者さんの状況。それから外来の患者さんの誘導とか。
 こういうとき、患者さんは、みんな、帰りたいと言うんだね。家が心配だからだろうか、家族のいる人もいない人も帰りたいと。でも俺は、帰らない方がいいって言ったんですよ。たぶん、町の中もパニックっているだろうし、タクシーなんかつかまんない。慌てて帰ったら、かえって危ない。病院にいてもらった方が、安心だからね。
 で、落ち着いて下さいって話しかけて。でも、これは、自分に向かっても言ってるんだよ。われわれまでテンパっちゃうと伝わるからね。


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〔富岡駅。海に接近しており、津波の直撃を受けた/写真冒頭も〕


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津波警報 14:49
津波第一波到達15:27
富岡町の津波の高さ21.1m
富岡町の死者・行方不明者24人
   (死者・行方不明者は2012年11月14日時点/震災関連死122人を除く)

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――すると津波を認識したのは?

佐藤:津波警報が発令されるのはどの時点だったのか、記憶が曖昧。ただ、自分の感覚の中では、津波という情報が入ったのは、地震から30分ぐらいたってからだったような気がする。
 たぶん、病院中が直後の対応に追われていたから、冷静にテレビを見るとか、外部からの情報を正確にとらえられる状況になるには、30~40分あったんじゃないかな。
 なので、「津波がくる」という情報が入って、実際にそのことが起きるまでの時間というのは、15分とか20分だったかもしれない。

――津波の被害は?

佐藤:スタッフの中で犠牲になった人はいない。親戚や知り合いに広げたら、違うけどね。
 病院から海は見えないので、津波を見たか見ないかというと、見てない。ただ、ちょうど病院の南側に富岡川がある。そこの水が逆流していろんなものが遡ってくる。何なんだ、これ?動画の逆再生というのも変だけど、なぜ川が反対に流れているの?どういうことなの?いつもより水かさが3倍ぐらいになって、逆に流れていくんだよね。いろんなものが。車やら建物やらが。
 どうしようもないということがあるんだと思ったな。たまたま、津波の直接的被害が、うちの病院はなかったけど、地震は防ぎようがないし、津波は海と反対側で、高いところに逃げるしかないなと。


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〔流されてきた車両。富岡駅付近〕


◇川に車が

佐藤:で、川を見てたら、流されてる車に人がいる。人間3人と犬1匹。引き波というか、上がってきたものが下がっていくとき、たまたま引っかかったような形になっている。
 みんなは、救急とか、レスキューとかと言うんけど、待ったって来ないと思ったわけ。こういう場合、単純に近くの人が、やるしかないんじゃないかと俺は思った。みんなには止められたけど。何やってんのって怒られた。逆にあんたが持ってかれたらどうすんだ。これから怪我人がどんどん運ばれていくるのに、ということだね。
 でも、俺には「見捨てろ」と聞こえたわけ。
 で、止められたけど、俺は行った。腰ぐらいまで泥に浸かってね。もちろん俺だけじゃなくて、何人も、いろんな形で。例えば水道のホースを投げて手助けしてくれたり。
 その車の一人は、どうもこう動きが鈍かったんで、おかしいなと思ったんだけど、後日、正確な診断で、頚椎損傷だったらしい。自力では脱出できない状態だったんだね。その後、回復したらしいけど。
 ちょうど、津波が起きて、川が増水していたときは雪がちらついていた。風があって。寒かったよ。だから、まともに被害にあった人は、さらに寒かったでしょう。



さながら野戦病院


――怪我人などが担ぎ込まれてくるのは?

佐藤:そうこうしていると、いろんなところから情報が入ってくるわけね。慌てて家に戻ったスタッフとかから連絡が入ってきて、徐々に状況が分かってくる。あそこの道は通れないとか、トンネルが落ちちゃってるとか、どこまで水が入ってきたとか。まあ、いい情報は一つもないけどね。
 と同時に、救急車も入ってきた。続々と。病院はあの辺には他にないからね。
 だから次の作業としては、そこですよ。まずは、スペースの確保。後は、エレベーターとか全部止まっているので、資材から患者さんの運搬から、1階から2階に上げるのも、2階から1階に下すのも、単純にマンパワーですよね。担架なりなんなり。
 津波の人も、地震の人も、いろいろ。ちょっとしたケガの人もいるし、もちろん重症の人もいる。ある種の戦場ですね。一番ひどい状態の人は、最前線にいた人。消防や警察の人で、たぶんぎりぎりまで、海のそばで避難を呼びかけていた人たち。
 最前線の人間だからこそ、そういう目にあってしまった。その人たちに対して、今度はわれわれが最前線じゃないですか。だから、もう逃げるわけにいかない。どうにかできる範囲でできることをやるしかない。お互いが、そういう感じ。
 救急車がついたら、救急隊の方の情報を聞きながら、コミュニケ―ションをとって、「じゃあ、上にあげましょう」とか。救急隊も、われわれスタッフも、若い事務の男の子も、とりあえず手が空いていれば、「担架で運んでやってくれ」「背負っていってくれ」と。もちろん、ドクターやナースは、治療に携わんなくちゃなんないし。

――誰を先に治療するかといった難しい問題は?

佐藤:トリアージね。講義や訓練は受けている。でもトリアージというはフランス語で「選別する」という意味でしょ。「人間を選別する」というのはどうだろうね。
 結局、小さな病院だから、やれることしかやれない。それに、地元の病院だから、患者さんの顔もある程度わかっている。だから、ちょっと切ったとか、そういうケガだったら、「少し待ってね」って。患者さんも、わかるから。みんなそれなりに気をつかったり、考えながらやっていたと思う。
 津波にあった人は、水を飲んだり、泥を飲んだりしている状況で担ぎ込まれてくる。肺の洗浄とかをしてあげられれば、もっと容体を確保できたのかもしれないけど、残念ながらそこまでできなくて、酸素を投入するとか、気道を確保するとか、それしかできていなかったと思う。それが最善とは言わないけれど、あの状況でできうる限りの対応だったと思う。
 さっきもいったけど、その日は、学校の卒業式で、若いスタッフたちの休みが多かった。もちろん、スタッフの数はちゃんと揃えてシフト組んでいるんだけど。やっぱり肉体的な即戦力になる若いスタッフが少なかったね。でも、津波の後、非番のスタッフが応援に来てくれたりもしたからね。


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〔写真上は富岡駅付近/写真下は浪江町請戸付近〕
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【Ⅱ】 11日16時36分 炉心への注水不能





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3月11日
15:42第一原発1、2号機 交流電源喪失
16:36第一原発1、2号機 緊急炉心冷却装置が注水不能
20:03知事、第一原発の半径2キロに避難指示要請
21:23政府、第一原発の半径3キロ内住民に避難指示、
10キロ内住民に屋内退避指示


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そこまでは行かないだろう


――そういう中で、実は原発が危険な状態になっていくわけですが?

佐藤:まず、原発という発想はなかったのね。原発がおかしくなるなんてね。
 とりあえず道路が壊れたと言っても、一日か二日、頑張ればと思っていた。だから、二晩ぐらい泊まって対応すれば落ち着くだろうと思っていたわけ、そのときは。電気が止まっていても、バックアップのボイラーで発電すれば何とかなる。それに二日ぐらい寝なくても死なないしとか。
 だから、その時点で印象に残っているのは、なんせ、ずっと揺れている。止まらない。体に感じる地震がずっと続いている。そして、たまに大きいのが来る。いつ止まるんだって。それに寒い。

――「原発の状態が危ない」という情報はいつ?

佐藤:そのときは、地震と津波で、ある種のパニックのようなものだったから、あまりはっきり覚えていないんだけど、原発のことも、たぶん耳には入っていたんだと思う。いつの時点からとかもはっきりしないし、確定的な話ではなく非常に薄い情報だったと思うけど。
 というか、そういう会話は、あえてお互い口にはしなかった。それに、どっかで希望というか、そうは言ってもそこまで行かないだろうと思っていたのかな。
 たしかに、スリーマイル島とかチェルノブイリとかは知っていたけども、やっぱり対岸の火事と見ていた。それに、ソ連とか、アメリカならまだしも、これだけの技術のある日本でそこまでにはならないだろうというのもあった。安全神話ということかな。

――あえて原発のことを口にしないという気持ちは?

佐藤:それは、やっぱり各々、いろんな気持ちがあったと思うね。でも、患者さんにたいする責任感の方が、上回っていたというか、腹を決めたという感じかな。
 ということと俺の場合なんかは、もう道路が崩落したとか、段差があって通れないとかという情報が入ってきたし、帰ろうにも無理だから、残る外はないなと。



帰るか、残るか


――その時点での対応の指示は?

佐藤:その日の夜の時点で、たしか、小さな子どものいるナースとか、家で介護をしているスタッフは、優先的に帰そう。帰ってもらった方がいい。そんなようなことを言ったような気はする。
 たぶん、院長とか婦長とかというところで話し合って、部署ごとに伝えられたということだったかなと思うけど。
 とにかく自分からも、若いナースには、帰った方がいいという話をしていた。
 自分なんかは家まで遠いけど、ナースたちはだいたい地元で富岡とか川内とかそばで、やっぱり子どもや家族のことが心配だろうし、まず地震であれだけ揺れたんだから、家の中はむちゃくちゃだろうなと、誰でも想像しただろうし。
 だから、まあ、自分は帰らないという腹積もりだったけど、若いナースには帰れってことを言ってたね。それに、帰りたいということを言いだせない人もいたろうし、帰りたいけど立場上、難しい人とかもいる。でも、仕事を取るか、家族を取るかという風にしたらね、家族取るのは、間違いではないでしょう。
 帰る人は、みんな、申し訳ないって言って帰った。そういう気持ちはあったと思う。こっちも感情的な部分は押し殺しているから。そうしないと平常でいられないわけだし。みんな、何とかこらえていたけど、強張っていたと思う。顔そのものは笑ってごまかして、和やかな感じをつくろっているけど、それは見え見えだったね。
 でも、いまでも、よく「誰々は逃げた。逃げなかった」という感情を引きずっている人がいるけど、俺は、そういう気持ちは、いまも、当時もない。

――そうすると残る人と帰る人の数は?

佐藤:その日にいたスタッフは、卒業式でいつもより少なくて50人くらいか。それで、当初のバタバタした状態からひと段落して落ち着いた時点で、半分ぐらいが帰ったと思うな。だから残ったのは25人ぐらいか。

――ご自身の家族は?

佐藤:ある程度、落ち着いた段階で、連絡がだんだん取れてきたんだよね。俺の場合だと、まず、東京の知り合いからかかってきた。
 途切れ途切れの電話の中で、たぶん家族に1回だけ連絡ができたかな。まず無事という確認と、状況が状況だけに、1日で済むのか、2日で済むのか分からないけど、とにかく俺は病院に残るよっていうことは電話したと思う。

――その日の夜は?

佐藤:夜はラジオをつけながら、救急外来にいつでも対応できるようにということで、1階の受付辺りにスタッフは待機していた。
 で、極力、電気を使わないようにということで、みんなロビーに集まっているようにしていた。一階の受付とかフロアーとかに、患者さんを寝かせる状態。ソファとか、患者さんに優先して、使ってもらって。さっき言った「帰らないで」って残ってもらった人もいるし。けど、とにかく揺れていたからね。寝るっていう状況じゃない。





【Ⅲ】 12日15時36分 1号機爆発





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〔双葉病院の正門付近〕




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3月12日
 5:22第二原発1、2、4号機 冷却機能喪失
 5:44政府、第一原発の半径10キロ内住民に避難指示
 7:45政府、第二原発の半径3キロ内住民に避難指示
    10キロ内住民に屋内退避指示
10:17第一原発1号機 ベント操作
15:36第一原発1号機 爆発
17:39第二原発の半径10キロ内住民に避難指示
18:25第一原発の半径20キロ内住民に避難指示


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「何やってんだ」とタイベックが


――原発の深刻な事態を認識するのは?

佐藤:翌日12日の1号機の爆発。そういうことが起きたということを聞いたのは、3時半過ぎぐらいかな。
 「何やってんだ」という感じでタイベックを着た警官が跳びこんで来たのが、たぶん、初めての情報だったと思う。
 テレビなどの情報はなぜかなかった。東電からもなかった。役場からもなかった。
 タイベックを着てたら、異様だわね。いきなり雪崩込んできて、浴びせるように、「爆発したんだから、逃げろ」みたいなことをいきなり言うんだよ。
 「え~?!」という感じ。ほんとに。

――爆発したと聞いて何を考えましたか? 

佐藤:原子炉の機械的なことの知識はなかったけれど、爆発したってことは、イコール放射能が漏れるという考えは浮かぶよね、単純に。
 どれくらいの量で、どういう範囲で、とかわからないからものすごい恐怖。知識がないから、単純な恐怖。知っている人は知っているなりの恐怖感があるんだろうけど、知らない者の恐怖感というもあるんだね。
 ちょっとは覚悟した。「もしかしたら、俺、ヤバいかも」って。
 でも、同時に、ずっと情報が薄い中で、情報らしい情報、具体的な情報が初めて入ってきて、何か救われたような気持ちも半分あった。入ってきた情報は最悪の情報なんだけど。それでも、まだ、「どっかで誰かが対応してくれて何とかなるだろう」と。そのときは、まだそう思ってた。ただ、実際にはそうではなかったということだけど。

――12日の早朝には10キロ圏内にも避難指示が出ていますが?

佐藤:なぜか、知らなかった。教えてくれなかったというか。少なくとも僕のところでは全く。
 まあ、腹は立ったよ。どうしてくれちゃったんだと。国なり、県なり、町の首長なり、東電なり、何で誰も教えてくれないんだ。何やってんのって。
 原発立地地域の病院で、初期被ばく医療機関にも指定されているところなんだから、優先的に情報は来てもいいんじゃないかと思っていた部分がある。
 ところが、真逆だったというか。何も知らなかった。

――やはり、本当に事実はそういうことですか?

佐藤:そう言われると逆に聞き返すんだけど、避難指示とか、みんなはいつ知ったのって。
 国の指示も、マスコミの情報も、俺はやっぱり記憶にない。一番近いところにいるのに。爆発してから言うなよってことだよ。
 もしかしたら、耳に入っていたかも知れないけど。でも、回りのみんなも、避難なんてことで、騒いでいなかった。そこにタイベックが跳びこんできて、いきなり「逃げろ」と。


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富岡町への連絡及び避難指示
事故発生福島第二について10条通報、15条通報を受信
3月11日夜 東電職員2人が状況説明
10キロ避難指示報道や大熊町の防災無線で認知
自治体から住民への避難指示12日朝 富岡町独自に全町民避難指示
避難の詳細12日午前8時頃 バスで川内村へ6千人避難
16日ビックパレットふくしまへ避難
            
(『国会事故調報告書【本篇】』)

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「逃げろ」は飲み込めない


――「逃げろ」と言われたことに対しては?

佐藤:いきなり「逃げろ」と言われてもね。やっぱりみんな、自分だけ逃げたいということはなかったと思うね。ある種の正義感か、責任感か。避難にしても、何にしても、患者さんをどうにかしたいというか、患者を残してその場からという奴はいなかったね。
 「とりあえずに逃げろ」。事態は分かったけど、その言葉は、「患者は構わないから、とりあえず逃げられる人間だけ逃げろ」みたいに聞こえたね。タイベックの警察官の言葉が。その人自身がかなりパニックになっているわな。
 「とにかく逃げろ」と。そうしたら、意思伝達ができて、避難行動がとれる人に限られるわけじゃないですか。「逃げろ」という言葉は、逃げられる人間の言葉であって、それが病院とか、医療従事者の立場からすると、疑問を感じるというか、どうも、飲み込めない言葉なんだな。

――実際の避難の方策は?

佐藤: 警官が来て「爆発した」と言うのと、避難要請的なことは同時進行だったんだと思うのね。大型のバスが2台来て、「それに乗って、逃げて下さい」という言い方だった。
 でも、そもそも、避難なんて無理。国とか県は各病院の自力で、みたいなことを言ってきたわけだけど、どう考ええても不可能。うちの病院の患者さんたちを動かすなら、患者さんの数倍の人と車を投入して、ものすごい時間をかけてやらないと。
 でも実際に来たのは2台。それだけ。およそ、実情に対応していないわけだな。患者さんに対する対応としては、かなり薄いというか、何も考えていない。病院を避難させるということがどういうことなのかについて、国も県も、実際に何も考えていなかったということだ。

――そのバスは誰が手配を?

佐藤:詳しいことはまったくわからない。そんなことをいちいち確認してもどうにもならないからね。


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 富岡町に対するヒアリング=「バスを手配しようとしたが、浜通りのバスはどこも出払っており1台も手配できなかった。12日午後4時に町役場は撤退したが、残された病院は町ではなく『別の対応』がされると聞いた。結果的にそれが自衛隊であり県警だった」
 (『国会事故調報告書【本篇】』)

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座れない人は乗れない 


――バスへの乗車は

佐藤:バスが来るまで何も知らないということは、第一歩からして遅れちゃう。しかも、そもそも、すべて、普通より時間がかかるのに。ウチの病院は、脳卒中の後遺症とか、寝たきりの患者さんが多いわけだから。
 そこに、バスは椅子だよね。で、「椅子に座れない患者さんは、乗せられません」というわけ。そんなことをどこが決めたのか、それが結論なのか。バス会社さんは、「いま、いろんなことでうるさくなってるから、椅子に腰かけてシートベルトつけられない方は乗せられません」ということをはっきり言うわけ。
 じゃあどうする?通路に寝かせていくかとか、いろいろ考えるわけだよ。
 で、次に、「1人の患者さんに対して、看護師さんを1人つけてください」という話が出てくるわけ。理屈はわからないわけじゃないけど、どう考えてもそれは無理でしょう。普段だって、1人のナースが5~6人を相手にやっているわけでしょ。それをこんなときに、椅子に座れない患者さんを乗せないとか、ナースを1人ずつつけろとか。そういうことを言うわけよ。
 さらに、われわれの避難だってある。誰しもその場から離れたいと思うだろうし、「誰が乗るの?私が乗るの?私は乗れないの?」ということになるでしょう。
 単純に「職員が何人いて、患者さんが何人いて」という計算の下にバスを手配しているんだろうけど、それと実際とは全然違う。

―――どういう患者さんが残ることに?

佐藤:結局、言われた通りの範囲の中でやるしかない。
 だから、残念ながら、そのときには乗せていけない方もいた。観光バスが2台来て、座席が余っていても、条件的には乗せられないと。
 自分で歩ける方、介助すれば移動できる方と、全介助で2~3人いないと動かせない方となったときに、一番、状態の良くない方に待っていただくという判断にならざるを得ない状況だった。
 12日の夕方。たぶん、4時とか4時半とかにそういうことをバタバタやっていたんだと思う。

――バスに乗る患者さんとスタッフの数と、乗らずに残った人たちの数は?

佐藤:12日の夕方で患者さんが90人ぐらいで、スタッフが30人ぐらいか。第一陣で避難した患者さんが20人ぐらい。それに同じぐらいの数のスタッフがついて行ったのかな。
なんせ「逃げろ」と言われてバタバタだったから、数字的なことは定かじゃないな。

――その時点で残った患者とスタッフについての方針は?

佐藤:その時点では、1回で運び切れないなら、2回、3回という考えでしたよ。だから最初のバスは第一陣ということだったと思うな。自分は行ってすぐに戻るつもりでしたよ。「まず、患者さんを全員避難させよう」という頭があったから。
 患者で残した人は、みんな全介助で、コミュニケーションも取れない人もいたし、症状としてはかなり重いし、ケアもかなり労力を要するという状態だったね。
 だから、戻るまでの間、何とか頑張ってほしいと。
 あとで、そうならなくなるんだけど・・・。


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 「(入院患者96人のうち)重篤患者67人と病院職員8人を残して、軽症患者にほとんどの病院職員が付き添い、川内村に避難した」
 (『国会事故調報告書【本篇】』)

 「12日:バスが病院に到着し、移動に耐えられると判断された軽症の入院患者が、川内村を経由して郡山市内の高校へ避難した」
 (『国会事故調報告書【参考資料】』)

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【Ⅳ】 バスでとにかく山の方へ





――バスに乗った患者をどこに運ぶか、どこで受け入れてもらうかは?

佐藤:そのときは、たぶん何も決まってないでしょう。何も決まっていないけどとにかく出ると。「どこどこに逃げてください」とか、「どこどこの病院に受け入れてもらえますから」なんて話はないから。ただ「逃げろ」という感じだったと思う。「とりあえず山の方に逃げろ」みたいな。富岡から言うと、山の方というのは、川内とか郡山方面ということになる。
 で、まず、第一目的地としては川内となった。川内村に診療所があるんですよ。そこの施設にお願いする。もちろんナースも何人か残るということだったと思う。
 川内辺りから通っているスタッフもいるし、たまたま、結婚を機にウチの病院を辞めてその診療所に移った人がいたので、患者さんとか家族とか地域の人とつながりがあったから、比較的安心ということもあった。
 軽度の方は川内で降りて、比較的症状の重い方は、それなりの管理された条件がないといけないということで、郡山の病院に連絡を取りながら。で、ある程度、引き取ってくれる病院で何人かをわたして。という作業を、たぶん12日の深夜までやっていたと思う。

――その過程で容態が悪くなることは?

佐藤:そもそも重症の人たちではなかったから、すぐに症状が悪くなるという心配はなかった。逆にそういう心配のある人は、動かさなかった。というか動かせなかった。
 だから、郡山に着くまで、容態の大きな変化はなかったと思う。病院に受け入れてもらってからの状況まで掌握できていないけど、とりあえず受け入れてもらうところまではそういうことだったと思う。

――受け入れが終わったらまた富岡に戻ると?

佐藤:それが、そうならなくなってしまった。どの時点だったかはっきりしないんだけど、郡山辺りで、「自衛隊の部隊が、川内村辺りまで行ってまた撤退した」という話が入ったわけ。
 その時点で、これはほんとにやばいなと思った。
 それで、まずは、川内にいったん降ろした患者さんをもう一度、乗せるために川内に戻ったんだ。
で、自衛隊が撤収するということは、「病院に残してきた人はどうなるのか」ということになる。
 県の災害対策本部というところを中心に、われわれの動き方とか、避難所の情報をもらいながらやってたんですけど、その災対本部から、「放射線量が高いので、近づかない方がいい」と。で、「救出に関しては、自衛隊の方にお任せするしかないでしょう」と・・・。
 自衛隊の方でも、というか災対本部を経由している話だけど、「できる限り、努力はします」と。逆に言うと、「運べないと判断したら、それを了承してください」というニュアンスだったと思う。
 もうわれわれの手ではどうすることもできない。警察とか自衛隊に委ねるしかない。・・・そういう事態だった。
 

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郡山でサーベイ


――郡山に着いてからは?

佐藤:薬とか点滴とか、いろんなものが足りなかったし、カルテも置いてきた。そんな状態で郡山に着いた。で、着いたら、まず、スタッフ全員、患者さん全員、まず機械で放射能汚染の検査。で、「サーベイに引っかかった場合には、患者さんは引き受けません」と言うんだ。これはほんと深刻だなと思った。

――すぐに受け入れ先が決まらない患者さんは?

佐藤:それは郡山高校の避難所に。ドクターとナースがついて。
 僕らスタッフは、郡山高校の患者さんが落ち着くまでついていて、最後は僕らの寝るスペースはないということなんで、郡山北高校に移った。
 で、翌朝からは、とにかく、普段やっているケアをできる限りやるということだね。口から食べれる人だったら、出された食事を与える。胃瘻の患者さんだったら、それをやる。それを持ってきてやっていた。あとは、排泄から、何から、なるべく普段通りに。
 何とか、その人たちを支えることができた。最悪の状態になった人はその時点ではなかったと思う。その後、病院に移ってからのことは、今の時点ではわからない。



3人の方の死亡
  

――国会事故調では、3人の患者さんが亡くなったと報告されていますが?

佐藤:自分が認識している範囲では、12日の段階で残った方が、ベッドの上で亡くなっている。
 パーキンソン病で、嚥下性肺炎を起こして入院されていた70代の方。全く動けない状態。
コミュニケーションも取れない。酸素吸入や排尿の管が付けられている状態。そして最低2時間おきに吸引とかのケアが必要な患者さん。
 だから、もともと大変な容態だったことには違いない。だけど、亡くなった原因としては、すごく難しい事態とか、病気そのものが悪化してということではなくてね・・・。
 もちろん、残った医師とナース、スタッフの態勢でできる限りのことはしただろうけど。ただ、残念ながら・・・。
 なぜその患者さんのことが印象に残っているかというと、この方のご家族が、郡山の避難先に訪ねてこられてね。「うちの人がここに来ているはずなんですけど」と。ところが、その時点では亡くなっていたんだな。
 それで「自衛隊の方々にも、手伝っていただいたんですが・・・、残念ながら」という話を病院の方からしたということがあったと思う。

――つらい話ですね・・・。

佐藤:たしかに、患者さんの状態から言って、かなり厳しい状態であった。ただ、人間の尊厳として、どういう人であれ一緒なんだから、こういう形で亡くなったことは、本当につらいし悔しい。家族の方にたいして、申し訳がないですよ。
 地震と津波ではこういうことは起こらなかった。避難はないわけだから。「原発さえなければ・・・」ということだね。


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 「13日:午後には自衛隊ヘリが到着した。重篤患者を乗せたヘリが、複数回にわたって郡山市内の高校に向かい、翌14日未明にまで及んだ。
 院長及び事務長は、一時避難の終了後、転送先の病院を探した。しかし、県内には多人数の患者の受け入れ先がなく、院長らは県から自力で探してほしいと言われた。最終的に院長が、個人的人脈を使って県内の病院に加えて、群馬、茨城、山形の病院に患者を転院させた。転院の手段も、県から支援はなく、県外の病院に提供を受けた。避難の途中で、重篤な症状があった3人が死亡した」
 (『国会事故調報告書【参考資料】』)

 「今村病院では15日、医療設備のない体育館への一時避難が終了した後、医療環境の確保のため県災対本部に電話したところ、『自力で探してほしい』と指示された。その後、同病院の知り合いに電話を掛けたが、断られるか、先方の人員不足から看護師とヘルパーの同行なら場所を貸すという条件付きの承諾がほとんどであり、転院の終了は17日となった。避難を待つ間、体育館で待機していた重篤患者に、発熱、低酸素血症など、明らかな容態の悪化がみられた」
 (『国会事故調報告書【本篇】』)

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【Ⅴ】 制御できないものをつくった責任





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 「避難区域内の病院は避難の実施において苛酷な環境に置かれたが、福島県及び市町村は病院の重篤患者の避難に関して積極的な支援を行わなかった。病院は、行政からの支援が期待できず、十分な情報もない中、独力で全患者の避難手配を行わなければならず、結果として適切な避難先及び避難手段を確保できなかった病院の患者は過大な負担を強いられた」
 (『国会事故調報告書【本篇】』)

 「7病院中6病院は、県地域防災計画で原子力災害時に病院が独力で患者の避難を行わなければならないと定められていることを知らなかった。唯一、原発事故時の避難マニュアルを用意していた今村病院においても、全患者の避難や複合災害を想定したものとはなっておらず、同病院の関係者は『想定外で全く役に立たなかった』と述べている」
 (『国会事故調報告書【本篇】』)

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――2年がたって改めて感じることは?

佐藤:まず、2年がたってようやく少し話をする気持ちになったかなという感じ。
 当時、いっしょだった人たちとも、会ってない。集まりましょうという話もあったけど、病院を再開するというなら行こうかと思ったけど、再開の見通しもなく、昨年1月にはわれわれスタッフは全員解雇になっている。
 国会事故調の報告書の病院に関わるところは読ませてもらったけど、う~ん、たったこれだけ?書いてあることは、間違ってはいないけど、大まかで、人の動きが見えてこない。

――現場を体験したものとして言いたいことは?

佐藤:誰が責任を取るんだということなんだよ。国なのか、県なのか、首長なのか、東電なのか。そこがまずはっきりしない。遺族にとってみたら、謝られて許すとか、認めるという問題じゃないだろうけど。
 大きな意味で、国の体制みたいものに疑問を感じる。国というのが、最終的には何もしてくれないというか、遺族にとっては、納得するなんてことはあり得ないと思うんだよね。 
 医療に携わってきた人間として悔しい・・・。医療としてベストを尽くしても助けられないことはたくさんあるけど、今回は、医療のベストを尽くせない状況に叩き込まれたわけだから。
 本来、一番弱いものとか、そういう人を優先的に助けようということでしょ。それが、一番の症状の重い人たちの避難が結果的には後になってもっとも大変な状態になった。それは、もう、大きな矛盾だよ。
 だから、制御できないものをつくった人間の責任なんだろうね。
 われわれ医療の仕事というのは、患者さんに関わるとき、最悪の状況を想定した上で、関わるんですよ。でも、東電がやってきたことは、その逆だね。最悪の状況を想定外にしていたわけだから。

――原発の再稼働か否かということが議論になっていますが?

佐藤:どう議論したって、結論は一緒になると思うよ。制御できないものをつくちゃったわけなんだから。
 「放射能で死んだ人間はいない」というけど、実際にはうちの病院をはじめ、たくさんの人が避難やその後の負担で亡くなっているわけだから。
 病院関係だけでも避難で何十人と亡くなっている。避難ということ自体が、避難をせざるを得ないという事態が、このような死を強制するということだったんだ。そういうところに町があり、病院がある。というかそういうところに原発がある。
 では、日本全国で、原発から半径50キロには医療施設はつくらないということにしたら。だって、いざというときは避難できないわけだから。でも、それじゃあ、その範囲では生活できない、生活圏にならない。結局、そういうところは日本中どこにもない。
 原発再稼働に賛成とか反対とか、安全基準だとか、いろいろ議論されているけど、「ひとつ、原発事故が起こったら、こんなに犠牲が出るんですよ」「動かしてはいけない人を『逃げろ』という話にしてしまうんですよ」ということを考えてくれたら、結論は、やっぱりはっきりしているんじゃないかと思うよ。

(了)





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テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2013/03/09(土) 10:00:00|
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