福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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被災1周年 福島県民が全国に訴える    3・11県民大集会

 

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(3月11日 2時46分、全員で黙とうを行う。 郡山市・開成山球場)

 




 地震・津波・原発。3・11から1年。福島の人びとは、言い知れぬ喪失感と、時を経ても癒されない気持ちを抱えて、この日を迎えた。

 3月11日、各地で、追悼と新たな出発を模索する行事が行われた。そのひとつ、郡山市内で開催された、東日本大震災・福島原発事故1周年「原発いらない!3・11福島県民大集会」に参加した。



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(球場の椅子席が埋まり、会場の外に人が溢れた。1万6千人が参加)


 集会は、加藤登紀子さんのオープニング・コンサートのあと、実行委員会委員長として、福島県教組委員長の竹中柳一さん、呼びかけ人を代表して、福島大学副学長の清水修二さん、連帯のあいさつとして、作家の大江健三郎さんが、それぞれ発言した。
 さらに、県民の訴えとして、自主避難者、強制避難者、農業者、漁業者、高校生など、7人が登壇した。

 この7人の県民の訴えが、何より心を揺さぶった。7人はどの人も特別の人ではないが、被災の現実に、否応なく向き合って生きているがゆえの、真実の言葉と深い思想が、聞く者の胸に鋭くせまってきた。
 実行委員会委員長の竹中さんが、「福島の思いを全国に発信したい」といい、「この集会が終わりではなく、大きな変革の始まりとしたい」と訴えたが、いみじくも、県民の訴えは、日本の変革を訴えるメッセージとなっている。

 以下に、6人の県民の訴えを全文掲載した。できるだけ多くの人に読んでいただきたい。 



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(集会後、3つのコースにわかれて市内を行進した)



自主避難しても福島を思う


 福島市から米沢市に自主避難している3児の母親
                    かんの・ともこ さん


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◇逃げる・逃げない、食べる・食べない

 3人の子どもを持つ母親です。
 3・11原発事故を境に、目には見えない放射能が降り注ぎ、放射線量から高い地域から遠ざかっても、自身やわが子がすでに被ばくし、いずれ影響が体に現れるのではないかという不安は、付きまとっていました。
 毎日、毎日、否応なくせまられる決断。逃げる・逃げない、食べる・食べない、洗濯物を外に干す・干さない、子どもにマスクをさせる・させない。様々な不自由な選択をしなければなりませんでした。
子どもたちは、前のように自由に外遊びができません。学校の校庭で運動もできない。運動会もプールも中止。子どものことを、日に日に考えるようになってきました。

◇子の健康を思い自主避難へ

 そこで私たち家族は、10年後、後悔したくないという思いから、子どもの夏休みを機に、福島市から山形県米沢市に、同居していたお姑さんと子ども2人と私の4人で、自主避難しました。
 現在は、借り上げ住宅に住んでいますが、避難生活は経済的負担がかかり、二重生活や住宅ローンが重くのしかかります。
 仕事の都合で家計を支える父親は、地元・福島市を離れられず、週末だけ子どもに会いに来ています。
 そして、私は、精神障がい者の施設で、いろいろな支援に携わっている仕事をしていますので、米沢市から毎日、福島市内に通勤しています。
 子どもたちは、区域外通学ということで、2月から米沢市の小学校に転校しました。
 福島からきた子と運動着の色が違うことで、いじめに合うのではないかと心配しましたが、1学期からすでに福島からの転校生がいたり、いじめの事実もなく、2学期からの転校生は十数名おりました。
 学校の先生やお友だちにあたたかく迎え入れられ、お友だちもあっという間にできて、遊びに行ったり来たりしています。
 外で思いっきり遊ぶこともできます。米沢は、雪が多く、スキーも生まれて初めての経験でしたが、「楽しい。滑れるようになった」と、うれしそうに話してくれます。
 中には、学校や環境になじめず、福島に戻られた方もおります。

◇子どもの心の叫びは

 子どもたちは、不満をいわず、元気に過ごしていますが、子どもの心の叫びは――

 原発がなければ、福島から米沢にくることも、転校することもなかったし、福島の友だちと遊ぶこともできた。
 米沢はマスクもいらない。放射能を気にすることなく、外で遊べる。
 でも、福島の方が楽しかった。

――と、時折、寂しそうな顔をします。
 私たちは、福島第一原発の事故がなければ、福島を離れることはありませんでした。子どもを守りたいと、米沢にきました。それでも福島が好きだという気持ちは変わりません。
ありがとうございました。



「頑張ろう。日本」でなく「変えよう。日本」を


               二本松市で有機農業を営む
                      すげの・せいじ さん


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◇農業者への打撃

 原発から約50キロの二本松市東和町で、コメ、トマトなどの専業農家をしています。
 原発事故から1年。とりわけ、自然の循環と生態系を守り、健康な作物、健康な家畜を育み、何よりも子どもたちの命と健康のために取り組んできた、有機農業者への打撃は深刻です。
 「落ち葉は使えるのか、たい肥は使えるのか、米ぬかは、油粕は・・・」。これから様々な資材を検証しなければなりません。
 改めて、福島の地域支援の大切さを感じています。
 津波で家も農地も流された農家。自分の畑にすら行くことができず、避難を余儀なくされている苦渋。そして自ら命を絶った農民。
 私たちは、耕したくても耕せない農民の分まで、この苦しみと向き合い、耕して、種をまき、農の営みを続けてきました。

◇再生の努力とそれを潰すもの

 その結果、放射性物質は、予想以上に、農産物への移行を低く抑えることができました。新潟大学の野中教授をはじめ、日本有機農業学会の検証により、粘土質の有機的な土壌ほど、セシウムが土中に固定化され、作物への移行が低減されることが分かってきました。
 つまり、有機農業による土づくりが、再生の光であることが見えてきました。
 幸い、福島県は、農業総合センターに有機農業推進室がある、全国に誇れる有機農業県です。見えない放射能を測定して、「見える化」することにより、「ああ、これなら孫に食べさせられる」と、どれだけ農民が安心したことか。夏の野菜も、秋の野菜も、ほとんどゼロから30ベクレル以下でした。
 ただ、残念なことに、福島の特産である、梅・柿・柚子・ベリー類は、50~100ベクレル以上。きのこ類も菌糸がセシウムを取り込みやすく、山の原木があと何年、使えないのか。椎茸農家や果樹農家の中には、経営転換を迫られる農家、離農する農家が出てきています。
 1月に農水省で発表した福島県の玄米調査では、98・4%が50ベクレル以下です。500ベクレル以上出たわずか0・3%の玄米が、センセーショナルに報道されることにより、とれだけ農民を苦しめているか。
 私たちは、夏の花火大会の中止、福島応援セールの中止、ガレキの問題など、まるで福島県民が加害者であるような自治体の対応、マスコミの報道に怒りをもっています。マスコミが追及すべきは、電力会社であり、原発を国策として推し進めてきた国ではないか。

◇人間と原発は共存できない

 私たち人間は、自然の中の一部です。太陽と土の恵みで、作物が育つように、この自然の摂理に、真っ向から対立するのが原発です。
 農業と原発、人間と原発は共存できません。
 戦前、東北の農民は、農民兵士として、戦地で命を落とし、戦後、高度経済成長のもと、高速道路に、新幹線に、ビルの工事に、私たちのおやじたちは、出稼ぎをして、労働力を奪われ、過密化した都市に電気を送り、食糧も供給してきました。
 その東京は、持続可能な社会といえるでしょうか。
 福島の豊かな里山も、きれいな海も、約3500年も続いてきた黄金色の稲作文化も、まさに、林業家、漁業家、農民の血のにじむような営農の結果なのです。つまり、第一次産業を守ることが、原発のない、持続可能な社会をつくることではないでしょうか。

◇生産者と消費者を分断するのではなく

 私たちのおやじたちは、そのまたおやじたちは、30年後、50年後のために、山に木を植えてきたように、田畑を耕してきたように、私たちもまた、次代のために、子どもたちのために、この福島で、耕し続けていきたいと思うのです。
 そして、子どもたちの学校給食に私たちの野菜を届けたい。孫たちに食べさせたい。そのためにしっかり測定をして、放射能ゼロ目指して、耕していくことが、福島の私たち農民の復興であると思っています。
 生産者と消費者を分断するのではなく、都市も農村も、ともに力を合わせて、農業を守り、再生可能なエネルギーをつくり出して、雇用と地場産業を住民主体でつくり出して行こうではありませんか。
 原発を推進してきた、アメリカ言いなり、大企業中心の日本のあり方を、今変えなくて、いつ変えるのでしょうか。いま転換せずに、いつ転換するのでしょうか。
 「頑張ろう。日本」ではなく、「変えよう。日本」。今日を、その出発点にして行こうではありませんか。



夫の採ってきた魚を市場で売る、活気ある仕事をもう一度


         相馬市で夫とともに漁業を営んできた
                            さとう・りえ さん


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◇真っ黒い波が山のように 

 去年の3月11日、東北沿岸は、巨大津波を受け、私たちが住む相馬市も、甚大な被害を受けました。漁業、農業、観光業、すべてを飲み込み、美しかった松川浦の風景は、跡形もありません。
 私は、港町で育った漁師の妻です。夫が所属している相馬双葉漁業協同組合は、毎年、水揚げが毎年、70億円と、沿岸漁業では全国有数の規模を誇っていました。私は、その日も明け方5時から、水揚げした魚を競りにかけ、販売し、午後1時ごろに自宅に戻り、魚の加工販売の準備をしていました。そのとき、あの地震が起きたのです。
 長い揺れが収まり、ぼう然としながら、落ちてきたものを片付けていると、消防車が「津波がくるから避難して下さい」と、海岸沿いを巡回していました。私は、「ほんとに津波なんか、くんのかぁ」と、半信半疑で道路から遠くの海を眺めると、真っ黒い波が山のように見えたのです。
 「だめだ。逃げろー」。息子は子どもを抱きかかえ、私は夫ともにやっと高台に駆け上がりました。そして、そこから見た光景は、まるで地獄のようでした。
 それから私は、もう夢中で実家の両親や弟たちを捜したのです。
 その頃、弟は、自分の船を守るために、すぐに命も顧みず、必死に船を沖に出したのです。沖では仲間たちと励ましあいながら、津波が落ち着くのを待ち、やっと帰ってこれたのは、3日後でした。
 しかし、両親は逃げ遅れ、家ごと津波に飲まれて、帰らぬ人となりました。本当に残念でなりません。

◇放射能が再開を許さない

 そして、津波から守った漁師たちは、9月になれば、何とか漁に出られると思い、失った漁具を一つひとつ揃え、頑張っていました。
 しかし、放射能がそれを許しません。
 毎週、魚のサンプリングをして、「来月は大丈夫だろう。船は出せる」と期待しては、落胆の繰り返しでした。市場や港は、変わり果てた姿です。元通りになるまでには、まだまだ時間がかかりますが、私たちは、1日も早い漁業の復興を望んでいます。
 現在、漁業者は、海のガレキ清掃に出ています。しかし、夫たちは、もう一度、漁師として働きたい、私は、市場で夫の採ってきた魚を売る、活気ある仕事がしたいのです。そして、もう一度、あのおいしかった福島の魚を、全国の皆さんに送り届けたいのです。



「新しい避難村」を要求する


        飯舘村から福島市に避難中の農業者
                      かんの・ひろし さん


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◇すべてを失って

 5月から福島に避難して、お世話になっています。
 飯舘村では、高原野菜を作っていました。しかし、今回の原発事故で、すべてを失ってしまいました。野菜を国民の皆さんに届けることができません。飯舘村の農家は、ほとんどが農地も牛も、すべてを失って、涙を流して、廃業しました。もう、飯舘村で農業を行うことができないのです。
 避難をしていても、何もすることがないのです。農家は、農業をやることが仕事です。どうやって生きろというのですか。誰も教えてくれません。

◇放射能は火山灰じゃない

 事故から1年が過ぎます。
 飯舘村は、去年の3月15日の時点で、44・7マイクロシーベルト/毎時です。この高い放射線量の中に、飯舘の村民は放って置かれたんです。長期間、被ばくをさせられたんです。
 誰の責任ですか。
 さらには、放射能まみれの水道水まで飲まされていたのです。加えて、学者も、国も、行政も、「安全だ」といっていました。
 どこに安全があるんでしょうか。その物差しがないでしょう。これをどうしてくれるんですか。答えがほしい。
 国民に、国も学者も、政治家すべてが、正しく教えるべきであり、正しく道を引くべきであります。死の灰をまき散らしておいて、「放射能は無主物」〔※〕だと言います。
何事ですか。火山灰ではないのです。原発事故は天災ではないのです。明らかに人災なのです。
 東京電力と国は、きちんと責任を取って下さい。
 
〔※ 誰の所有にも属さないの意。二本松市のゴルフ場が、放射性物質による汚染の除去を求めて、仮処分の申し立てたことにたいする、東電側の答弁書にある言葉。「東電には責任はない」という意味〕

◇何が除染だ

 いま、大手ゼネコンが、相馬・双葉地域に入っています。
 「除染、除染・・・」。歌の文句のようです。何を言葉を並べているのでしょうか。
 路頭に迷う住民の、私たちの今後の暮らしのことについては、住民の意向をなにひとつ汲んでいません。今後の暮らしの希望の持てる施策がないのですよ。こんなことで、許せますか。よいのですか。それはないでしょう。
 被害を受けて私たちは、悲惨な思いで生活をさせられています。まだまだ長生きできたはずの村の高齢者が、次から次へと他界していきます。家に帰れないで、避難先で悲しくも、旅立ちます。

◇新しい避難村を

 放射能の心配がなくて、元のように、美しい村になって、安心して、安全に暮らすことができる、そういう生活の場所と、いままでのようなコミュニティーの形を作った「新しい避難村」を、早く、早く、私たちに建設して下さい。
 美しかった飯舘村は、放射能で、そこには暮らせません。新しいところを、求めなければならないのであります。国にも、行政にも、子どもの健康と、若者が未来に希望を持って、暮らすことができる、そういう生活できる、そのためには、住民の意向を、十分に反映した新しい施策を要求します。
 皆さん、この悲惨な原発事故を、この事故を、二度と起こしてはなりませんし、この起きた実態を、風化させてはなりません。国民が忘れてはならないのです。
 福島県の皆さん、全国の皆さん、とくに福島県の皆さん、県民が一丸となって、もっともっと声を大きくして、全国に、世界に訴えていきましょう。

 

原発について何も知らなったが、いまここに立っている


         富岡高校から避難してきた女子高生
                          すずき・みほ さん
 

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◇ヨウ素剤が配られて

 私の地元は郡山ですが、サッカーがしたくて、(サッカーの名門)富岡高校に進学しました。寮生活をしながら、サッカーに明け暮れ、仲間と切磋琢磨の充実した日々を送っていました。
 地震が起きたのは、体育の授業中でした。ものすごい揺れで、あのとき必死で守ってくれた先生がいなければ、私は、落下してきたライトの下敷きになっていたと思います。
 校庭に避難しているとき、まさに津波がきているということ、そして、原発が爆発するということは、想像もできませんでした。
 この震災が起きるまで、私は、原発のことを何も理解してしませんでした。
 翌日には、カップ麺と携帯を持って、川内村に避難しました。乗り込んだバスの中には、小さな子どもを抱えた女性や、お年寄りの方がいました。自衛隊や消防車が次々とすれ違っていく光景は、現実とは思えませんでした。避難所に着くと、小さな黒い薬を配る人たちがいました。それは、恐らく、安定ヨウ素剤だと思います。配る様子は、とてもあわただしく焦っているようで、私は、やっと事態の深刻さが飲み込めました。

◇原発作業員の方を思うと

 1号機が爆発し、川内村も危なくなり、郡山に避難することになりました。
 私のことを郡山まで送ってくれた先生は泣いていました。先生には、原発で働く知人がいたのです。
 原発事故を終わらせることができるのは、作業員の方だけだと思います。でも作業員の方は、私の友人の両親であったり、誰かの大切な人であったりします。こうしている今も、危険な事故現場で働いている人がいます。
 そのことを考えると、私は胸が痛みます。

◇「頑張れ」という言葉は嫌い

 爆発から2か月後、私は転校しました。たくさんの方々がやさしく接してくれ、サッカー部にも入部し、すぐに学校にも馴染むことができました。
 でも、私は、被災者になっていました。被災者ということで、様々なイベントに招待されたりもしましたが、正直、こういう配慮や優しさは、かえって自分が被災者であることを突きつけられるようで、それが一番、つらいものでした。
 「頑張れ」という言葉も、嫌いでした。
 時がたつにつれ、原発事故の人災ともいえる側面が、明らかになってきています。原発がなければ、津波や倒壊の被害にあっていた方々を、助けに行くことができました。それを思うと、怒り、そして悲しみでいっぱいです。
 人の命を守れないのに、電力とか、経済とか、言っている場合ではないはずです。
3月11日の朝、私は、寝坊をして、急いで学校に行ったのを、覚えています。天気も晴れていて、また、いつものような一日が始まろうとしていました。
 しかし、その日常に戻ることはできません。線量が高い郡山で、生活し続けることに、不安を持っていますが、おじいちゃん・おばあちゃんを置いて移住することはできません。私は、原発について何も知りませんでしたが、いまここに立っています。
 私たちの未来を考えていきましょう。



国策によって二度も棄民された


警戒区域の浪江町民で本宮市の仮設住宅で暮らす
                          たちばな・りゅうこ さん


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◇着の身着のまま

 浪江町は、原発のない町。しかし、原発が隣接する町です。
 私は、先の大戦から引き揚げてきて以来、浪江町に在住していました。現在は、本宮市の仮設住宅に入居中です。それまで9か所の避難所を転々としました。
 あの原発事故のときの避難の様子は、100人いれば100人の、千人いれば千人の苦しみと悲しみの物語があります。語りたくとも語れない、泣きたくとも涙が流れない、つらい思いをみんな抱えています。
 津波で多くの人が亡くなった浪江町請戸(うけど)というところは、原発から直線で6~7キロの距離です。でも、事故の避難のために、その捜索もできずに消防団を初め、救助の人たちは、町を去らなければならなかったのです。
 3月11日は、津波による高台への避難指示、3月12日が、「避難して下さい」というのみの町内放送でした。「なぜ(避難なのか)」がなかったのです。したがって、ほとんどの町民は、2~3日したらと思って、着の身着のまま避難しました。そこから、そのまま長い避難生活になるとは、どれほどの人が考えていたでしょうか。
 もっとも、浪江町長へも、国からも、東電からも、避難指示の連絡はなかったとのことです。町長はテレビで避難指示を知ったといっています。テレビに映ったので初めて知りましたとのことでした。
なぜ浪江にだけ、連絡がなかったのでしょう。原発を作らせなかったからでしょうか。〔※〕疑問です。
 そんな中で、避難はまた悲劇的です。114号線という道路を避難したのですが、そこを放射線の高いところばかりでした。朝日新聞の「プロメテウスの罠」の通りです。
 津島の避難場所には、3日間いました。テレビはずっと見ることができました。15日に、再度、東和の避難場所に変更。この日の夜まで、携帯電話は、一切通じませんでしたから、誰とも連絡の取りようもなく、町の指示で動くしかありませんでした。
 12日と14日の太陽の光がチクチクと肌を差すようだったのが、いまでも忘れられません。

 〔※ 東北電力の小高浪江原発建設計画にたいして、住民は、農地・土地を武器にした抵抗で、今日まで阻止をしてきた。〕

◇戦争の記憶

 12日の避難は、私にとっては、戦争を連想しました。戦争終結後、中国大陸を徒歩で集結地に向かった記憶が蘇りました。
 原発事故の避難は、徒歩が車になっただけで、えんえんと続く車の列と、その数日間の生活は、あの苦しかった戦争そのものでした。
 そして、私は、怯えました。国策によって二度も棄民にされる恐怖です。いつのときも、国策で苦しみ悲しむのは、罪のない弱い民衆なのです。
 3・11からこの1年間、双葉郡の人びとのみならず、福島県民を苦しめ続けている原発を、深く問い続けなければいけないと思います。脱原発・反原発の運動をした人も、しなかった人も、関心があった人も、なかった人も、原発があった地域も、なかった地域も、福島第一原発事故の被害を隈なく被りました。

◇差別と分断

 そして、復興と再生の中で、差別と分断を感じるときがあります。これを見逃すことなく、注視していくことが、今後の課題ではないでしょうか。
「福島は、東北は、もっと早く声を出すべきだ」との意見があります。でも、すべてに打ちひしがれ、喪失感のみが心を覆っているのです。声もでないのです。展望が見えない中で、夢や希望の追求は困難です。しかし、未来に生きる子どもたちのことを考え、脱原発反原発の追求と実現を課題に、生きていくことが、唯一の希望かも知れません。

◇子どもが大人に問うだろう

 先の戦争のとき、子どもたちが大人に、「お父さん、お母さんは戦争に反対しなかったの?」と問うたように、「お父さん、お母さんは原発に反対していなかったの」というでしょう。とくに54基もの原発をつくってしまった日本。そして、事故により日々、放射能と向き合わざるを得ない子どもたちの当然の質問だと思います。
 その子たちの未来の保障のために、「人類とは共存できない核を使う原発はもうたくさん、もういらない」との思いを示すこと。一旦、事故が起これば、原子炉は暴走をし続け、その放射能の被害の甚大さは、福島原発事故で確認できたはずです。この苦しみと悲しみを日本に限って言えば、他の県の人たちには、とくに子どもたちには、体験させる必要はない。膨大な金と労力を原発のためでなく、再生可能なエネルギーの開発に向けていくべきです。
 なぜいま原発稼働?このように大変なことに遭遇していても、まだ、「原発が必要だ」という考えは、どこから来るんでしょう。他の発想をすることができないほど、原発との関わりが長く深かったということなのでしょうか。
 でも立ち止まって考えましょう。
 地震は止められないけど、原発は人の意志で、行動で止められるはずです。

◇傷はあまりに深い

 私たちは、ただ静かに故郷で過ごしたかっただけです。
 あの事故以来、われわれは、何もないのです。長い間、慈しんできた地域の歴史も、文化も、それまでの祖先からの財産も、われわれを守っていた優しい自然も。
 少し不便でもいい、少し堪えた豊かさでいい、どこに根を張っていけるかなんて考えられません。
 子どもやわれわれが、放射能を気にせず生きることのできる自然を大事にした社会こそが望まれます。
 どうぞ全国のみなさん。脱原発・反原発に関心を持ち、お心を寄せて下さい。
 ささやかでいい、確かな一歩をみんなで踏み出すために力を寄せて下さい。
 そして、もう少しの間、寄り添って下さい。傷は、あまりにも深いのです。
 3・11福島県集会の私からの訴えと、いたします。ありがとうございました。

 



以上

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テーマ:東北関東大震災 - ジャンル:ブログ

  1. 2012/03/15(木) 10:17:20|
  2. パレード・座り込み
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
<<福島原発事故の責任をただす   福島で告訴団 | ホーム | 原発収束作業の現場から     ある運動家の報告>>

コメント

言葉が軽んじられているように感じます

一周年は「一周年」でひとつの言葉ですが、
周年にアラビア数字を付けた場合、すなわち
「1周年」では意味合いが違ってしまいます。

記事のタイトルに使われていらっしゃるので、
「一周年」の言葉の持つ意味の重さを
今一度よくお考えください。
  1. 2012/04/25(水) 13:07:32 |
  2. URL |
  3. 国語辞典 #NNWCxszY
  4. [ 編集 ]

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