福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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8000人の賑わい 久之浜花火大会 その2

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久之浜花火大会 記事
<その1> 「2000発が夜空を染める」
<その3> 「地元青年とボランティアの活躍」
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絶望的状況から花火まで

 
 8月27日、久之浜で花火大会が行われた。
 しかし、そんなことは、その数カ月前には、想像もつかないことだった。

 下の写真は、3カ月前、5月の久之浜。
 久之浜の町は、津波に流された上に、火災に焼かれ、町の中心部が失われた。ここで63人の方が犠牲に。さらに原発の爆発で大半の人が避難を余儀なくされた。

 震災から2カ月以上たった5月下旬でも、ガレキはほとんど手つかず。復旧とか復興とかと言うにも、どこからどう手をつけていいのか分からない。ここで生活を再建しようという気持ちにもなれない状況だった。
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 5月中頃から、地元の青年たち数人が、何とかしないと集まった。ガレキの撤去をはじめた。全壊・半壊の家屋の中に詰まったガレキを運び出す作業だ。膨大なガレキに比して、あまりにも人手が足りない。
 そこに福島県内外のボランティアが少しずつ集まり始めた。地元の解体業者との連携も生まれた。しかし行政や町の有力者たちは冷ややかだった。

 ガレキ撤去を始めた頃は、秋には目処が出るか、それとももっとかかるのか、そう話し合っていた。 
 6月、7月とだんだん作業がはかどり、そういう中で、花火をあげようという話が、青年たちの間から持ち上がった。当初のイメージは、花火はせいぜい10発ぐらい、あとはミカン箱の上で決意表明、というものだった。
 そもそも、久之浜での花火大会は、1960年代前半を最後に、途絶えている。だから、どうやったらいいかも、誰も知らない。

 しかし、青年たちが各方面に働きかけ、それに応えて協力を申し出る人びとが生まれていった。寄付も集まりだした。そして久之浜の青年たちの思いをともに実現したいという献身的なボランティアが、全国各地からやってきた。

 そして、せいぜい10発ぐらいと思っていた花火大会が、いつの間にか、2000発を打ち上げ、演奏や出店で賑わい、8000人が詰めかける一大イベントとなった。
 


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久しぶりに笑ったよ


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 花火が始まる遥か前の昼頃、火災で家屋の土台だけが残っているところに、人が集まって、焼き鳥とビールで盛り上がっていた。

 津波前、この場所に住んでいた、ご近所同士のみなさんだ。みな一様に家も何もかも失っている。津波に飲まれ、一時は死んだと思われていた人もいる。 
 津波前は、しばしば飲み会をやったり、流しそうめんをしたりと、近所同士で楽しんでいた。旧街道のなだらかな坂に面しているので、「坂道会」と呼んでいたという。
 しかし、家を失い、避難先もバラバラで、みんなが揃うのは、3月以来、この日が初めて。
 この場所で電気屋さんを営んでいた佐藤さん(69 写真左端)は、「久しぶりに、あっはっはって笑ったよ。津波以来だな」としみじみ。
 この日を本当に喜び、楽しんでいた。

 ここのみなさんの希望は、津波の来ない山側の大久地区へ、近所同士でそのまま移住することだという。
 やはり津波の恐怖は容易に忘れることはできない。
 と同時に、ご近所の同士のつながりは何にも代え難い。



 
子どもたちが戻ってきた


 津波と原発事故以来、久之浜では、子どもたちのにぎやかな声をきくことはなかった。
 自宅を喪失した人たちは、家族で内郷の雇用促進住宅や民間の借り上げ住宅、親戚の家などに避難。また放射能を避けて県外に避難さしている子ども少なくない。さらに、放射能問題があるため、久之浜小学校は閉鎖され、久之浜に残っている子どもたちも、中央台の小学校に仮編入し、スクールバスで通っている。

 この日は、外に出てはしゃぐ子どもたちの姿が戻ってきた。


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ヨウヨウ釣り、水鉄砲などに小学生が夢中。

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かろうじて焼け残った建物で、この日だけ駄菓子屋を再開。
おじさんは人気者だ。

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スタンプラリーでシールをゲット。





踊り・儀式・屋台・発言


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「オットット久之浜」という地元の踊り。
歴史は浅くこの数年だが、学校でも教えていて、みんな知っているという。


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この花火大会は、正式には「奉奠(ほうてん)祭花火大会」。
流失した神社跡で儀式が行われた。


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大久地区の人びとによる「じゃんがら」。
「じゃんがら」とは、いわき市に伝わる念仏踊り。起源は江戸時代に遡るとされる。明治政府は、「じゃんがら」に発露する民衆のエネルギーを警戒して禁止した。

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「じゃんがら」は、新盆の行われる。この年の「じゃんがら」とくに意味深い。


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どこも屋台は大賑わい。

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久之浜の小学生(写真上)と、20代の女性(写真下)などが次々に登壇し、それぞれの思いを言葉にした。


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  1. 2011/08/29(月) 11:11:42|
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