福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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仮設住宅の生活が始まる

 いわき市中央台・高久(たかく)に応急仮設住宅が建設され、6月末から7月にかけて入居が進んでいる。
 中央台は、丘陵を宅地に造成してつくられた新興住宅地で、「いわきニュータウン」と呼ばれる。その一角に、まだ分譲されていない広い土地があり、それが仮設の用地になっている。

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 中央台の仮設には、楢葉町と広野町から避難している人びとが入っている。
 楢葉町が567戸、広野町が201戸。
 上掲の写真のうち、上が楢葉町、中・下が広野町の仮設住宅。
 楢葉町は20キロ圏内の警戒区域、広野町は緊急時避難準備区域に指定されており、津波の被害もあるが、ほとんどが原発事故による避難だ。


着の身着のまま

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 広野町から避難している大和田さん(60)にお話をきいた。大和田さんは、7月20日に、二次避難先の湯本町の旅館から仮設住宅に移ってきた。

 大和田さんは、原発事故が起こったとき、息子さんが消防団にいるお陰で情報が早く、3月12日には「すぐ逃げろ」ということで、家の鍵もかけないで、あるだけのお金と、着る物と毛布をもって、車で飛び出した。
 そして、広野町から西に30キロの小野町の体育館で10日ほど過ごした。
 1日に2食、それも前の日のおにぎり。「つらかった」という。
 その後、湯本町の旅館に移った。
 6畳の客室に息子夫婦と小3の孫の4人。荷物もあるから、ふとんが敷けないくらい狭かった。食事は3食用意してくれてありがたかったが、どこに行くにもいちいちフロントを通らないといけない。湯本の小学校に臨時に通っていた孫の送り迎えにも。
 「つらかった。仮設に来て、すこしほっどしている」という。


2DKに4人

 この一帯の仮設住宅は、広野町の人たち。そして、広野町で近所だった人や親戚の人が、仮設住宅でも隣近所にいる。申し込みのときに、行政が配慮しているとのことだ。
 大和田さんの部屋を見せてもらった。

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 大和田さんの所は2DK、4・5畳の部屋が二つ、あとは台所とユニットバス。
 収納が足りないため、衣類などが袋に入ったまま。
 二次避難先の旅館がつらかったため、ここに来てひとまず「ほっとしている」と言っているが、4・5畳2部屋に4人が暮らすのは、やはり狭い。 

仮設住宅の環境・条件

 ところで、間取りや負担など、仮設住宅の環境・条件は以下のようになっている。
●広野町からの避難者が入居する仮設住宅の間取りと戸数。
     1DK     (5畳 1部屋)   1~2人用    33戸
     2DK   (4・5畳 2部屋)   3~4人用   135戸
     3K (6畳、4・5畳 2部屋)   5人以上     33戸
●入居期間は2年以内。
●家賃は無料だが、電気・水道・下水道・プロパンガスの費用および共益費は入居者の負担。なお、ガス代は、サウジアラビア政府の寄付で割引になるとのこと。
●6点セット=冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、電気ポット、炊飯器、テレビが、日本十字社から寄贈。エアコンは設備として据え付け。ふとん一式も。


エアコンつけない人も

 ひと通り揃っているように見えるが、大和田さんは、生活費の負担を訴える。
 大和田さんの家は10代も続く農家で、野菜は全部自前、買うことはまずなかった。
 いまは息子さんがガレキ撤去の仕事に出て、何とか日銭を稼いでいる。
 しかし、仮設住宅に入って、生活費は自己負担なので、苦しいという。
 負担を減らすために、エアコンをつけない人もいるという。ここのところ、いわきでは涼しい日が続いているが、暑さが戻ったらプレハブはエアコンがあっても暑い。
 しかも、仮設住宅は仮設なので、2年後までに出なければならない。

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(写真は、閉鎖中の広野町役場の建物。役場の機能は、湯本町に移している)
 
全部ダメに

 大和田さんにとって、自分の畑でとれた作物の直売が楽しみだった。
 「じゃがいも。肉じゃがにしたらおいしいよ。子どもも好きだった。金じゃない。作るのが楽しみ。疲れたときでも、畑に行くと清々した」。
 しかし、「それが全部ダメになった。それがつらい」。
 大和田さんは、広野町の風景を思い起こしながら、「山の方だけど、窓を開けたら海。春は山桜。こんないいところはないと、ずっと思っていた」という。
 そう言った後、「原発を除けばね」と付け加えた。


ずっと不安だった 

 大和田さんが小学校の頃に、原発がやってきた。学校の先生が、「原発は危険だ」と言っていたのをよく覚えている。ビキニの被ばくの話も聞いたという。
 「ずっと不安だった。だけど、まさか、本当にこんなことになるとはね」。
 そして、「原発の恩恵なんて私らにはないよ。年に2回ぐらい、東電の職員が2人組で、石けんとタオルをもって、あいさつにくるぐらい」。

            ・     ・     ・     ・     ・

 最後に、「今、何が必要ですか」ときくと、即座にこう答えてくれた。
 「広野町の家を除染してほしい。緊急時避難区域の指定解除の話もあるけど、子どもが帰れないようなところでは困る」と。
 放射能を取り除き、家を、畑を、ふるさとを返せ。これが一番の要求なのだ。
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テーマ:東北関東大震災 - ジャンル:ブログ

  1. 2011/08/02(火) 22:00:23|
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