福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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4カ月後の一時帰宅

【福島第一原発から南側20キロ圏に入る楢葉町に暮らしていたY・Sさん。突然、住み慣れた土地を追われたY・Sさんが、一時帰宅の日の想いを手記にした。印刷物で配布されたものを転載する。小見出しは転載時につけた。写真は本文とは別】

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原発事故避難から4カ月後の一時帰宅の日

                          楢葉町 Y・S


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(写真は、本文とは別。5月12日川内村の一時帰宅)


恐怖が蘇る

 7月7日、気の重い朝。
 私は、夫と車で、現住所の会津若松から磐越自動車道、常磐自動車道を経由して広野・楢葉インターで降りた。
広野町の小学校の体育館は、一時帰宅のための中継点であり、到着したときは、胸がドキドキして体が緊張しているのが分かった。
 そして同時に、避難のときの恐怖が蘇ってきた。


避難の日、見納めになるかも

――3月11日の翌12日、防災無線が流れた。
「楢葉町は、第一原発の事故により、全町民の避難を決めました。ただちに避難して下さい」という内容だった。
 私と子ども3人は、前日の地震で物が散乱している家の中、とりあえずの着替えと身の回りのものだけをそれぞれバックに詰め込み、毛布を抱えて車に乗り込んだ。
 「きっと2~3日で戻れるから!!」原発事故の怖さを知っていても、そう信じていたかった。
 「早く!早く!」私は急いで車に乗るように子どもたちをせかした。
 原発があっても絶対にこんな日は来ない。私たちにはやって来ないと思っていた。
 私と子ども3人は、誘導されるままに南のいわき市方面に向かった。町道から国道6号線はすぐに渋滞になった。車が進まない。当たり前だ。全町民が一斉に同じ方向に移動すればどうなるか、誰でも予想はつく。
 いつも見慣れたふるさとの風景、そして楢葉町のほととぎす山を、震える手でケータイで写真に納めた。
 これで見納めになるかも知れないと思ったから。
 子どもを乗せているのだからしっかりしなくちゃと思う一方で、ペダルを踏む足も震えていた。
 そのときの言いしれぬ不安…失望…悲しみ…虚しさ…。言葉では言い表せないほどに重く、まだ太陽が出ているというのに、真夜中のような気さえした。――


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(写真は本文とは別。6月9日川内村の一時帰宅)

東電社員見たくない 

 中継点の体育館には、東京電力の社員がたくさんいた。そして町の職員も…。そして4カ月ぶりに会う、ご近所の方とあいさつを交わしたりした。
 しかし、私が感じたのは、この状況すべてが異常なことだということ。
 本来であれば、小学生が体育の授業や学校行事で利用すべき体育館。それが、原発事故の一時帰宅の中継点になっているという光景。隣には、スクリーニング用のテントもあった。
 体育館は、その説明の場となっていた。
 白い防護服、ペットボトルの水、パンなどが配られ、そこから、自宅近くまでのバスに分乗する班に分けられていた。
 班ごとに座ると、東京電力の社員が一同に並び、「この度の福島第一原発の事故に際しましては、多大なご迷惑をおかけして申し訳ございません」というような謝罪を述べ、住民に向かって頭を下げていた。
 私は下を向いた。どの社員の顔も見たくはなかった。
 私は、東京電力という会社は、もともと苦手である。しかし東京電力の社員とひとくくりで人間を見るのはおかしい、という気持ちもあった。
 この地域で生活していく上で、原発がある以上、東電社員と関わることは避けられない。 子どもたちがともに学校で学び、私もPTAなどでいろいろと関わりを持ってきた。その中には東電社員である保護者もたくさんいたし、教育活動に熱心な方が多かった。
だからこそ、今まで築き上げてきた人間関係が何だったのか、むなしく、悲しく、崩れてしまいそうだった。
 私は、どうしても、その日、東電の制服を見るのが耐えられなかった。個々の人間を理解したくてもできないほど、この原発事故で、私たちの当たり前の生活や人間関係までもが、根こそぎ奪われてしまったのだから。


たった2枚のビニール袋 

 体育館では、白い防護服、手袋、足カバー、キャップなどの着用の方法を説明された。
 たとえば、手袋は、まず綿手袋をはめ、バスを降りて自宅までその上にビニール手袋。自宅でビニール手袋を外して綿手袋で作業するように説明があった。
 放射線測定器も首にぶら下げる。頭には、シャワーキャップのようなものをかぶり、マスクをつけた。靴の上にはすっぽりとカバーを履き、バスを降りて自宅へあがる前に、その上から足に別のカバーを履く。帰りのバスに乗る前に、カバーを履き変える。すべて放射性物質の付着を防ぐためとのことである。また、水はバスに乗る前、乗ってから、そして終了後にも配られた。
 一人あたりの防護服やペットボトルなど、通常とは違うゴミもあり、一時帰宅で出るゴミの量もすごいものだと思った。
 そしていよいよ持ち出す荷物を入れる2枚1組のビニール袋。70×70cmのゴミ袋と同じサイズである。
 考えてみてほしい。1人世帯も7人世帯もこの袋1組である。中に入れられるものは限られてくる。
 そしてそれ以上に思うことは、その家族が暮らした思い出、気配、日々の何気ない営みは、この袋に入るのだろうか?こんなビニール袋に何をどう持ち出せというのか?私は、楢葉町へ向かうバスの中で、そんな想いで胸がいっぱいになってしまった。


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(写真は本文とは別。警戒区域内の牛)

花たちが咲いてくれていた 

 噂には聞いていたが、牛がウロウロしている。田んぼも畑も草だらけ。猫の姿もある。ものを言えぬ生き物たちは、何を思っているのだろうか。
 バスは4カ月ぶりの楢葉町に近づいた。
 避難するときに見たほととぎす山は変わらない。しかし海の方に目をやれば、津波の被害が痛々しい。
 子どもたちが通い学んだ楢葉中学校の脇を通り、いよいよ自宅が近づいてきた。夫と私は坂の下でバスを降り、坂を上った。
 見えてきた自宅は、クモの巣などが張っていても外観は変わらなかった。入り口のペンキのはげた赤いポスト、植えっぱなしのハーブは伸び放題に伸びていた。アジサイの花も、夏椿の花も、バラも、ひまわりも、草に負けじと咲いていてくれた。その咲き方は、いつもより力強く感じた。


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(写真は本文とは別。5月10日川内村の一時帰宅)

4カ月間、時を刻んでいた鳩時計 

 4カ月前、慌ただしく出た玄関の鍵を開け、散らかったままの自宅へ入る。
 与えられている時間は2時間。私はまず、子どもたちが書いたメモを見ながら品物を探した。―貯金箱、ガンダムのファイル、ネックレス、買ったばかりの花柄のシャツ、リボンのついた半ズボン、ポーチ、ネックレス、写真など―かさばるものはあまり入らないから、なるべくコンパクトにまどめてビニール袋に入れた。
 懐かしむ暇もなく、荷物をつめた。丸1時間はあっという間に過ぎた。
 ふと、壁の鳩時計に目をやると、それが何としっかり動いていた。地震の少し前に修理して、電池も交換したばかりということもあり、主がいないまま動いて、独りで4カ月の時を刻んでくれていた。
20年前に結婚祝いに友人からいただいた鳩時計だった。
このままここで時を刻んでいてほしいと思った。3月12日にこの家を慌ただしく不自然に出たあのときから止まってしまった時間。でもこの部屋は、時計と祖父母の写真が守ってくれるような気がした。
 少しの間、居間に座り込んで周りを見ると、「なんだ!片づけたら今すぐにもここでまた暮らせるじゃない?」と思えるような、そんな家族の気配がまだ充分にあった。
 制限時間が迫っていた。部屋の片づけなどは何もできないまま、自宅周辺と家の中の様子を写真におさめ、鍵を閉めて、自宅を後にした。


情けなくて、納得できなくて、しかしどうしようもない 

 想像してみてほしい。4カ月前に突然、家を追われ、避難生活を強いられ、それから4カ月後、限られた時間とビニール袋ひとつの荷物持ち出しの一時帰宅。
 それがどれだけ情けなくて、納得できなくて、しかしどうしようもないことか。しかも、この自宅へ戻り、以前のような生活ができる見通しが立たない。
 「メルトダウン」「レベル7」、こんな事故が福島第一原発で起きたということは現実である。もう元に戻ることはできないし、汚染された土地や生き物が元のままの姿に戻ることはない。そしてそれ以上に、日本中に汚染が広がってしまっているという虚しさ。
 さらに失望するのは、同じ日本の各地にある原発をすぐにでも止めなければならないのに、それと福島原発は違うと言っている人たちがいるということだ。チェルノブイリのときも、「日本の原発は安全だから、あんな事故は起きない」と言っていた人たちを、私は覚えている。
 日本中の原発が立地している地域の長の方、議員の方、住民の方、国会議員の方!
 この事故によって住民のいなくなった土地や家屋がどういうものか、一時帰宅とはどういうものなのか、ぜひ今、福島に来て、見て、体験していただきたい。
 水や空気、動物や魚、また野菜、米、果物、そして人間の命の根を奪ってしまうのが原発であること。他国のことではありません。今すぐ見つめ直しましょう。
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コメント

納得できない

もしも自分がY・Sさんの立場だったら…と考えました。
やはり「情けなくて納得できない」と思いました。
そして、どれほど多くの人が、Y・Sさんと同じ思いをしているか…。
中国の高速鉄道の事故で、人々が駅構内で抗議をしている場面をテレビで見ました。解説者が、人々が自分の怒りや思いを示すことで、政府を動かせると感じ始めていると、言っていました。
日本の私たちはどうなのだろうと、考えざるをえませんでした。
私ができる、怒りや思いの示し方、考えたいと思います。

 

  1. 2011/07/28(木) 22:08:40 |
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  3. とうこ #-
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  1. 2011/07/30(土) 01:47:27 |
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