福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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【論考】  被ばくとガン  福島第一原発の現場から 第2回

 

【論考】 被ばくとガン 

 福島第一原発の現場から 【Ⅱ】

 

 

 「防護基準を守っていても労災は起こる」――福島第一原発の収束・廃炉作業に従事して白血病を発症したBさんの労災認定(2015年10月)に関して、厚生労働省の担当者が出したコメントである。厚生労働省はさらに以下のように述べている。
 「今回の認定により科学的に被曝と健康影響の関係が証明されたものではない。『年5ミリ以上の被曝』は白血病を発症する境界ではない」[1]
 「労災認定は補償が欠けることがないように配慮した行政上の判断で、科学的に被ばくと健康影響の因果関係を証明したわけではない」[2]
 「防護基準を守っていても労災は起こる」[3]
 労災認定の基準と法定の被ばく限度に関する踏み込んだ言及である。
 すなわち、ひとつは、労災認定の基準(白血病では年5ミリシーベルト以上の被ばく)は健康被害が起こるかどうかの境界線を示すものではないという。
 また、いまひとつは、防護基準すなわち<5年間で100ミリシーベルト。かつ1年間で最大50ミリシーベルト>という法定の被ばく限度について、被ばく限度以下でも健康被害が起こるとしている。
 つまり、労災認定基準にしても、法定の被ばく限度にしても、被ばくによる健康被害から労働者を守る役割は果たしていないということを認めたような発言である。しかし、だとすると、この基準や限度というのは一体何なのかということになる。

     ・         ・         ・

東京電力福島第一原子力発電所の収束・廃炉作業に従事した作業員のガン発症と労災認定を巡って4回に分けて検討しているが、今回【Ⅱ】では、「防護基準を守っていても労災は起こる」というのであれば、その法定の被ばく限度とは一体どういう根拠に基づいて設定されているのかについて考えたい。また、労災認定基準の問題については次回【Ⅲ】で考えたい。


 ◇「労働者を守る」は本当か?


 原子力施設で働く作業員の被ばく限度は法令で定められている。労働安全衛生法に基づいて定められた電離放射線障害防止規則(以下、電離則)で、<5年間で100ミリシーベルトを越えず、かつ、1年間で50ミリシーベルトを越えない>と明記されている。

 ところで、そういう法令を定めた目的はなんだろうか。その点について、厚生労働省作成のパンフレット[4]では、「電離放射線の危険から労働者を守ることを目的としている」「有害な電離放射線から労働者の健康を保護するために、事業者が守らなければならない事項が定められています」と解説している。
 つまり、「電離放射線の危険から労働者を守る」「有害な電離放射線から労働者の健康を保護する」ために、被ばく限度を定めているという。
 一般的な認識としても、防護基準とか法定の被ばく限度といえば、<労働者の健康を守るため>となっているだろう。
 とすると、「防護基準を守っていても労災は起こる」という厚生労働省のコメントの方が、法令の趣旨に反した不規則発言なのか。それとも、「労働者の健康を保護するため」という厚生労働省パンフレットの触れ込みの方が欺瞞なのか。
 そこで、防護基準=被ばく限度がそもそもどういう考え方に基づいて設定されているのかを見てみたいと思う。



 ICRP1990年勧告の論理
  ―「科学ではなく社会的な判断」



 日本の国内法である電離則にある被ばく限度は、ICRP(国際放射線防護委員会)の「1990年勧告(Publication60)」
[5]の下記の結論を取り入れたものである。
 「いかなる1年間にも実効線量は50mSvを超えるべきではないという付加条件つきで、5年間の平均値が年あたり20mSv(5年間で100mSv)という実効線量限度を勧告する」
 ICRPは、各国の原子力推進機関などから助成金を受けて運営される民間の組織で、放射線防護に関する勧告を行っている。1950年代から現在までに、100以上の勧告文書を出している。民間組織の勧告であるから拘束性はないが、原子力を推進する国々は、国内の放射線防護に関する施策において、基本的にこの勧告を取り入れている。
 原発や被ばく問題について考えてきた読者にとって、上述のようなICRPの勧告の結論的な内容については今更の話かもしれない。ただ、その結論を導き出す過程の論理についてはどうだろうか。その論理がいわば科学ではなくイデオロギーによっているということは十分に知られているとは言えないだろう。
 よって、長くなるが1990年勧告が線量限度設定の根拠を説明した部分を抜粋し、その後でその論理を検討したい。


   ◎ICRP1990年勧告からの抜粋
 〔抜粋の㋐~㋔の記号および下線は引用者が便宜上つけた。
                     ㋐~㋔は原文の順序とは違う〕 

【㋐】線量限度の数値は、この値をわずかに超えた被ばくが続けば、ある決まった行為から加わるリスクは平常状態で“容認不可”と合理的に記述できるようなものとなるように選ぶ、というのが、委員会の意図である。したがって、線量限度の定義および選択には社会的な判断が入ってくるこれらの判断は、線量限度はある決まった値にしなければならず、他方、可能性を計るものさしに不連続はないことが唯一の理由で、難しい。電離照射線のような作用因子については、被ばくによって起こるある種の影響の線量反応関係にはしきい値を仮定できないので、この困難をのがれることはできず限度は健康の考察だけに基づいて選択することはできない。 〔1990年勧告〕   
【㋑】もしすべての放射線リスクが確定的性質のものであってそのしきい線量は比較的高いとすれば、線量限度を選定することは高度に科学的な仕事であり、得られる結果はしきい線量の大きさに大きく依存することになろう。残念なことに、わかっている確定的影響のしきい値よりも低い線量において確率的影響のリスクがこれに加わる。確率的影響の線量反応関係に大きな不連続性が存在しないかぎり、線量限度の選定は一部が科学的判断であるにすぎない線量限度の選定は主として、科学的な情報にだけでなく正常状態において容認不可と通常考えられるようなリスクレベルに関する知見にも基づくことが必要と思われる、一つの価値判断である。   〔1990年勧告・付属文書〕  
【㋒】試行値の各々に対する連続的均等被ばくの結果が順次見積もられる。次にどの値が容認不可のほんのわずか下、すなわちぎりぎり耐容可と判断される結果の組み合わせを与えるか、についての見解が得られる。そのとき、この値が線量限度として選ばれる。このアプローチは必然的に主観的であるけれども、多くの互いに関係のある因子、より適切には属性と呼ばれるが、を考察に加えることを可能にする。死亡と関連する属性には次のものがある:
 ・寄与死亡の生涯確率
 ・寄与死亡が起こった場合の損失時間
 ・平均余命の減少(上の二つの属性の組み合わせ)
 ・寄与死亡確率の年分布
     ・ ・ ・ 
     ・ ・ ・

表:作業集団の被ばくによる損害の諸属性(一部抜粋)
年実効線量(mSv)10203050
概算の生涯線量(Sv)0.51.01.42.4
寄与死亡率(%)1.83.65.38.6
総合損害(%)2.57.512
18歳における平均余命の平均損失(年)0.20.50.71.1
           *寄与致死がんの確率あるいはこれに相当する損害の合計

 線量限度の根拠となりうる値として検討のために選ばれた年実効線量の試行値は、10mSv、20mSv、30mSv、50mSvであり、これらは、すべての作業年にこの年線量を受けるとするとおよそ0.5Sv、1.0Sv、1.4Sv、2.4Svの生涯線量に対応する。・ ・ ・ 
 (委員会が出した結論は)生涯実効線量2.4Svに相当する毎年一定の年線量50mSvという値はたぶんあまりに高く、多くの人から明らかに高すぎるとみなされるであろう、ということである。とくに、このレベルでの平均余命の短縮(1.1年)、および、晩年になってからのこととはいえ、業務上の放射線の危険性がその作業者の死亡の原因となる確率が8%を超えるという事実は、その多くが最近出現した職種であるために範とすべき職種群としては、過大であると広くみられるであろう。
 上のデータに基づいて、委員会は、毎年ほぼ均等に被ばくしたとして全就労期間中に受ける総実効線量が1Svを超えないように、そしてそのようなレベルに線量限度を定めるべきであり、また放射線防護体系の適用によってこの値に近づくことはまれにしかないようにすべきであるという判断に達した。・ ・ ・
委員会は、いかなる1年間にも実効線量は50mSvを超えるべきではないという付加条件つきで、5年間の平均値が年あたり20mSv(5年間で100mSv)という実効線量限度を勧告する。  〔1990年勧告〕

【㋓】委員会は、被ばく(あるいは、リスク)の耐容性の程度を示すため3つの言葉を用いることが有用であると考えた。それらは必然的に主観的な性格のものであり、考えている被ばくの形式と線源との関連において解釈されなければならない。第一の言葉は、“容認不可”であり、この言葉は、委員会の見解では、その使用が選択の対象であった任意の行為の通常の操業において、いかなる合理的な根拠に基づいても被ばくは受け入れることはできないであろうことを示すために用いられる。そのような被ばくは、事故時のような異常な状況では受け入れられなければならないかもしれない。さらに容認不可ではない被ばくは、歓迎されないが合理的に耐えられることを意味する“耐容可”の被ばくと、いっそうの改善なしに、すなわち防護が最適化されていたときに、受け入れられることを意味する“容認可”の被ばくに区分される。この枠組みにおいて、線量限度は、それを適用しようとする状況、すなわち行為の管理に対する“容認不可”と“耐容可”との間の領域における一つの選ばれた境界値を表している。    〔1990年勧告〕  
【㋔】リスクのない社会は理想郷である。・ ・ ・
 われわれは、現代社会の便益を享受するためには、もしそのリスクが不必要なものではないか簡単に回避できないならば、あるレベルのリスクを容認しようとする、言葉では語れないような慣習があるようにみえる。明らかな疑問は、そのレベルはどの程度かということである。
 英国学士院の研究グループの報告書(1983)は、百分の一という連続的な職業上の年死亡確率を課すことは容認できないと結論づけたが、しかし、千分の一の年死亡確率の場合には状況はそれほどはっきりしないことを見出した。・ ・ ・
 委員会のPublication26(1977a)の中で勧告した線量限度は、容認できない範囲の境界は、最大に被ばくした個人に対して約10-3という職業上の年死亡確率であるとする、暗黙の仮定のもとに提案されたものである。     
  
 〔1990年勧告・付属文書〕

 


 死を織り込んだ線量限度



 以上が、現行の線量限度をどのように設定したかの根拠にかかわる説明部分の抜粋である。
 一読して、「社会的な判断」(㋐)、「価値判断」(㋑)、「主観的な性格」(㋓)といった文言に引っ掛かりを覚えないだろうか。つまり、被ばくと健康被害に関する明確なデータから基準を求めて行くのではなく、「線量限度の選定は一部が科学的判断であるにすぎない」と言うのだ。では何によって判断するのかというと、「社会的な判断」、「価値判断」、「主観」だというのである。そしてそこで言う「価値」とは功利主義という考え方、それに基づくリスク・ベネフィット論である。命と健康に関わる問題が功利主義という損得勘定によって扱われているのだ。
 この点を少し詳しく見て行こう。


 ◇「逃れることのできない困難」

 まず、「これらの判断は…難しい」「この困難を逃れられず…」(㋐)と「難しい」「困難」という言葉が出てくる。何が「困難」なのか。
 線量限度という以上、それは<この数値以上の被ばくは危険、それ以下なら安全>という具体的な数値で切って示されるものだと考えるだろう。
 ところが、被ばく線量と健康被害の関係は連続的で相関しており、どんなに低線量でも一定の確率で健康被害がある。これは1990年勧告も認めているところだ。つまり、健康被害を防止するという指標からすれば、被ばくは極力低く抑えられるべきであり、線量限度は限りなく低くならざるを得ない。よって<これ以下なら安全>という数値的な基準は示せない。
 これは、単に基準が示せないという問題にとどまらず、そもそも被ばくと健康被害を不可避とする原子力という技術が社会的には成立しないということを意味する。それは原子力を推進する立場からすれば受け入れ難い結論だろう。
 「困難」とは、まずは本質的な問題としていえばこういうことだ。


 ◇「健康の考察」の相対化

 さて、健康被害を防止するということを目標にして線量限度を検討して行くと限りなく低くという結論にならざるを得ないわけだが、その「困難」を超えるために、1990年勧告は、健康被害を防止するという目標そのものを相対化するというやり方を考え出した。「(線量)限度は健康の考察だけに基づいて選択することはできない」(㋐)。「健康の考察」とは健康被害を防止するという目標ということだ。そして「…だけ」というところに相対化の意図が込められている。
 「健康の考察だけ」ではないとすると何があるのか。そこに「社会的な判断」、もう少し具体的に言えば「容認不可と通常考えられるようなリスクレベルに関する知見」(㋑)という目標が導入される。
 しかし「社会的な判断」「容認のリスクレベル」というのはどう見ても客観的ではなく曖昧だ。だからそれを科学的な体裁をとって提示するのは「難しい」という。これが冒頭の「難しい」「困難」という言葉のもうひとつの直接的な意味だ。
 まず、ここまでの検討で分かることは、われわれが一般的に知るところの線量限度というのは、実は「健康の考察」から導き出されたものではないということだ。


 ◇「社会的な判断」

 「線量限度の選定は一部が科学的判断であるにすぎない。線量限度の選定は主として、科学的な情報にだけでなく正常状態において容認不可と通常考えられるようなリスクレベルに関する知見にも基づくことが必要と思われる、一つの価値判断である」(㋑)
 「容認不可と通常考えられるようなリスクレベルに関する知見」として示されているのが、「寄与死亡の生涯確率」や「平均余命の減少」(㋒)などの統計的な解析データである。そのひとつである「寄与死亡の生涯確率」に関して見てみよう。
 「寄与死亡の確率」とは、作業員の死亡と、その死亡原因が被ばくである確率。例えば、毎年50ミリシーベルト、全就労期間(ここでは47年間という設定)で累積約2.4シーベルトを被ばくした作業員が、被ばくが死亡原因となる確率は8.6%という数字が示されている。言い換えれば、同じ条件の作業員が100人いれば、そのうちの8人強は被ばくが原因とする健康被害で死亡するということだ。
 同じように、毎年30ミリシーベルトの場合、20ミリシーベルトの場合の寄与死亡の確率を計算し、それぞれ5.3%、3.6%だとしている。[6]
 そして、寄与死亡率8.6%では「過大であると広くみられるだろう」と。つまり<被ばくが原因で死に過ぎている>という評価を受けてしまうという判断だ。そこでもう少し下げてみて、5.3%ならどうか、3.6%ならどうかという風に検討をしている。
 そして、結論だけを先に言えば、<5年間で100ミリシーベルト。かつ1年間で最大50ミリシーベルト>という現行の線量限度は、寄与死亡率3.6%を選択したものなのだ。つまり<100人中3人から4人は被ばく原因で死亡する>被ばく線量ということだ。
 つまりここで検討されているのは、<被ばくを原因とする死がどのぐらいの確率ないし割合ならいいか>ということであり、<被ばくによる健康被害や死亡から労働者を守る>ということではないということだ。つまり、線量限度とは<ある確率である人数が被ばくを原因とする健康被害によって死亡する>ことを完全に織り込んでいるということだ。


 ◇「科学ではなく主観」

 では、上で見たように<この数字では高い>が<この数字なら妥当だ>とする選択の基準は何なのかということが問題になる。
 そこで1990年勧告は次のような議論を展開する。
 まず、被ばく問題は「科学的判断」の問題ではなく、被ばくを<受け入るかどうか>という「主観的な性格」(㋓)の問題だとする。そして、その被ばくに対する主観を<受け入れられない>、<歓迎されないが合理的に耐えられる>、<受け入れられる>の3つに分類し、<受け入れられない>と<歓迎されないが合理的に耐えられる>との間が線量限度になるという風に議論を運んでいる(㋓)。
 <受け入れられない>と<耐えられる>の間が線量限度?そう言われればそうかも知れないが、そんな曖昧なもので線量限度が決まっていいのか。全く釈然としない。


 ◇緩慢な死に「耐える」


 まず、<受け入れられない>、<耐えられる>、<受け入れられる>という言葉自体に問題がある。

 被ばくの問題は、繰り返すが、<一定の割合で必ず起こる被ばくを原因とする死を受け入れる>という問題なのだ。しかし、<耐えられる><受け入れられない>という言葉から受けるニュアンスは、作業の長さや強度とか、熱さとか痛みといった問題だ。
 しかし、ここで扱っている低線量被ばくの場合、被ばくそれ自体には熱さや痛みなどの自覚症状はない。急性被ばくのように直ちに影響が出るわけではない。その限りでは<耐える>ような性質の問題ではない。しかし、将来における健康被害と死が確率的に訪れるのだ。そういう問題であるということが正面から提示された上で、<耐えられる>とか<受け入れられる>と言っているのか。あるいはそういう問題であると提示したらそういう選択を問うことが倫理的に許されるのかという問題なのだ。
 つまり<受け入れられない>か<耐えられる>かという形で進める議論の進め方は、職業被ばくということが、死を含み込んだ問題であるということを隠しているのだ。


 ◇命を天秤にかける功利主義

 さらに、㋓の<受け入れられない><耐えられる>という議論を支えているのが、人間の命や健康の問題をも損得勘定に還元する功利主義の考え方があり、それに基づくリスク・ベネフィット論である(㋔)。
 「リスクのない社会は理想郷である」(㋔)
 「われわれは、現代社会の便益を享受するためには…リスクを容認しようとする…慣習がある」(㋔)
 これをもう少し敷衍すると、<われわれは、行動や政策の選択において、つねに、リスク(確率的な危険性)とベネフィット(便益)を念頭に置き、両者を天秤にかけて、リスクに比べてベネフィットが大きい場合にその行動や政策を選択している>という考え方だ。この考え方にもとづいて被ばくによる健康被害と死を受け入れさせようとしている。
 功利主義自体は古くからある考え方であり、リスク・ベネフィット論(分析)やコスト・ベネフィット論(分析)は経営判断や政策決定などのマネジメントでしばしば用いられている手法だが、少なくとも原子力に引き付けて考えてみたとき、次のような欺瞞とすり替えがある。
 第一に、リスクとベネフィットを比較するというが、それは単純に比較できるものなのかという問題である。リスクとベネフィットが質的に違って、比較できるとは限らない。例えば、健康や命にかかわる問題の場合だ。健康や命の問題を、他の便益と比較してどちらが得かという話にはならない。
 第二に、比較できないものを比較しようとすることは、リスクもベネフィットもすべてを金銭価値に換算するというになる。リスクはマイナス、ベネフィットはプラスの価値として数値化され、差し引きプラスになれば有効な選択と評価される。
 しかし、健康や命の問題は単に比較できないだけでなく、金銭価値に換算すること自体が飲み込めない話だ。ところが、実際にICRPの1977年勧告では、作業員の被ばくによる健康被害を金銭価値に換算する計算式を打ち出している。[7]
 第三に、そもそも、なぜ物事を天秤にかけて比較しなければならないのか。あるいは、その天秤、つまり価値尺度があたかも社会共通の了解事項のように言われているがそうなのかということだ。
 あたかも天秤にかけなければ行動も政策も前に進まないかのように言われ、あるいは、無自覚のうちにそういう選択をしているのだと決めつけられる。そういう狭い損得には還元できない価値や多様な世界が存在しているのに、それらは排除されてしまう。そうやってすべてを損得による選択という方向に追い込み、仕向けているのだ。
 生命の歴史や人類の歴史、人間と自然との関係という視座からすれば、原子力=核エネルギーなどはおよそ負の産物でしかないのに、それを<受け入れさせる>論議が、このようなやり方で行われてきたのである。
 第四に、「われわれは…慣習がある」として「われわれ」一般を代表するように言っている点である。
 実際のところは、「われわれ」が等しくリスクを取り、ベネフィットを受け取るわけではない。リスクが一定の階層や地域に集中され、またベネフィットも一定の階層や地域に偏在するということが往々にしてある。しかも、ベネフィットを受け取る人びとの声が大きく、リスクの集中を受ける人びとの声はかき消される。
 原発を考えた場合、この偏りは顕著だ。作業員の被ばくにしても、事故の被害を見ても、「われわれ」全体が被害を受けるわけではない。被ばくを集中される人びとと「われわれ」全体との間には分断があり、犠牲の構造がある。そして、「われわれ」全体の無関心によってこの構造が支えられている。
 しかも、ICRPがあたかも一般を代表するかのように、「われわれ」を自称しているのは欺瞞にも程がある。
 1990年勧告において<被ばくを受け入れる>かどうかと検討をしている者は被ばくはしない。被ばくするのは作業員。その作業員は<受け入れる>かどうかの検討に全く関与していない。そうやって排除された人びとに犠牲が集中している。
 つまり、<耐えられる>とか<受け入れられる>と言っているが、実はこの話は、ICRPであり各国の原子力機関や原子力事業者が、非対称的な力関係の中で、作業員に対して、<死を受け入れさせる>ということを言っているのだ。


 ◇労働災害と被ばく

 被ばくに関する功利主義的な考え方への批判に加えて、㋔で「職業上の年死亡確率」との比較を挙げている点も問題にしておきたい。「職業上の」とは建設現場や工場などで発生する労働災害一般ということを指している。
 ㋔では、労働災害一般における労災死の確率と、被ばくを原因とする死の確率とを比較し、労災死と同程度にすれば、<受け入れられる>ではないかという議論を展開している。
 しかし、そもそも労働災害一般と被ばくとを同列に扱うことができるだろうか。
 まず、建設現場や工場作業などで発生する労働災害である。その発生の直接的原因は、現場の不安全状態や不安全行為であり、その背後にはその事業者の安全管理の欠陥や効率優先の経営姿勢といった問題がある。このようなリスクは取り除かれなければならないし、取り除くことができる性質の問題だ。
 ところが、被ばくはどうか。「計画被ばく」というICRPの用語がある通り、原子力施設の操業が計画どおり行われ、不安全状態や不安全行為もなく、安全管理が徹底していても、作業に伴って計画どおり被ばくがあるのだ。それは計画通りであり、被ばくを取り除くことはできない。それは原子力という産業の宿命なのだ。
 つまり、労働災害一般における労災死の確率がこの程度だから、被ばくを原因とする死の確率も同程度にすればいいというのは、同列に扱えないものを比較する暴論なのだ。



 
<命を使い捨て>にする思想



 以上の展開を簡単にまとめてみよう。

 ICRPの1990年勧告は、被ばくは健康被害を確率的に不可避とし、原子力産業が一定の確率での健康被害と死を避けられないこと、つまり、健康被害を極力避けようとすれば、原子力が産業として成立しえないという根本問題を抱えているということを完全に認識している。にもかかわらず、成り立たないものを成り立たせるために、功利主義的な考え方を導入して、<この程度の人数は被ばくで死んだり病気になったりするけど、いいんじゃないかそれくらいは>と言っているのだ。それは、科学的な装いをとっているが、<命を使い捨てにしても構わない>という反倫理的なイデオロギーなのだ。そういうイデオロギーに依拠しないと成り立たないのが原子力というものだということだ。
 こうして見ると、冒頭で見た「防護基準を守っていても労災は起こる」という厚生労働省の発言は、法定の被ばく限度およびICRPの線量限度に孕まれる欺瞞性と非人間性を正直に吐露したものに他ならない。
 


【第3回に続く】



[1] 朝日新聞2015年10月21日
[2] 東京新聞2015年10月21日
[3]  朝日新聞2015年10月21日
[4] 厚生労働省「事故由来廃棄物等処分業務 特別教育テキスト」 2013年4月
[5] 日本アイソトープ協会HP http://www.icrp.org/docs/P60_Japanese.pdf
[6] 前回【Ⅰ】で見たように、ICRPが元にしているデータは、高線量率急性被ばくをした原爆生存者のデータであり、その低線量への外挿があり、その際に2分の1にするという補正が行われている。最新の知見であるBML論文の解析結果を使えばはるかに厳しい結果になる点に留意が必要だ。
[7] 日本アイソトープ協会HP ICRP Publication 26  http://www.icrp.org/docs/P26_Japanese.pdf
     ATOMICAICRPによる放射線防護の最適化の考え」 http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=09-04-01-07











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テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2016/02/08(月) 17:00:00|
  2. 収束作業/原発労働者
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