福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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原発が大熊・双葉に来たとき  ~証言・半世紀前の真実


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 中間貯蔵施設予定地の地権者である双葉町の池田耕一さん(84)。前回(3/14掲載)のインタビューでは、国の中間貯蔵施設の進め方に対して、「納得がいかない」という池田さんの気持ちを語っていただいた。今回は、時を大きく遡って、原発の立地が大熊町、双葉町に決まっていった当時、池田さんが実際に見聞きしたことをお話していただいた。

 事故を起こした福島第一原発の立地が大熊町、双葉町に決まっていく経緯は今日でも不透明な部分が多い。記録に残る限りで最初に立地に関して言及したのは1957年1月、木村守江参議院議員(当時)が双葉町の後援会で行った「この土地を全部利用するには原子力発電所きりない」(*1)という演説だろう。その後、佐藤善一郎知事(当時)が「三十三年(1958)当初から、ひそかに企画開発部に命じて、立地の適否について検討をさせ」(*2)、福島県庁を中心に極秘裡に進められた。その後、公式の動きとなるのは1960年5月、福島県が「大熊・双葉地点が最適である」と確認するところからであり、1961年6月、東京電力が同地点の土地取得を決定し、1964年7月には、福島県開発公社が地権者から用地取得の承諾を取り付けるという流れで運んでいる。「設置は比較的円滑に行われた」(*3)というのが公式の認識になっている。
 しかしその進め方は実際のところどうだったのだろうか。
 代々農業を営んでいた池田さんの家は原発予定地ではなかったが、その予定地の隣の行政区に位置し、池田さんは当時、行政区で開かれた「部落説明会」(*4)に参加している。
池田さんは、約50年前のことだが、東京電力などが行なった説明の中身を今も覚えている。福島県と東京電力は、住民の知識や情報の不足、出稼ぎなどの労苦に付け込み、原子力という問題についての説明を極力あいまいにした上で、「発電所の寿命は20年。その後は一大観光地にする」という話をしたというのだ。
 それから半世紀。大熊町、双葉町は「一大観光地」どころか、一帯が放射能で汚染され、すべての住民が先の見えない避難生活を余儀なくされている。半世紀後のこの苛酷な現実と、半世紀前、バラ色の未来を描いて見せた説明会。未来を考えるためにも、半世紀前の事実を検証し教訓にする必要があるだろう。

*1 木村守江 『続・突進半生記』 1984年 
*2 佐藤善一郎伝記刊行会 『水は流れる 佐藤善一郎』 1983年 下線は引用者
*3 日本原子力産業会議 『原子力発電所と地域社会』 1971年
*4 『双葉町史』(双葉町1995年)、『原子力行政のあらまし』(福島県2010年)には地権者に対する説明会の記録はあるが、地権者以外の説明会の記録はない。お話しから1964年の用地買収と前後する時期に、双葉町郡山行政区の住民を対象に、福島県や東京電力が出席して行われた説明会と思われる。




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(原発はこのような断崖を削ってつくられた。大熊町夫沢付近)


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◇「出稼ぎがなくなる。町が潤う」


――原子力発電所の立地が決まっていった当時のお話を伺います。

池田:もう、50年も前のことだけどね。部落説明会があったんだ。こういうのは親父が出るはずなんだけど、ちょうど親戚のご法事があってね、親父はそっちに行くってことで、説明会の方は私が代わりに行くってことになった。「どんな会社が来るのか、池田家を代表して、よーく話を聞いてきてくれ」と親父に言われて。
 当時、「どんな会社が来るのか」という感じで、原子力発電所なんてことは誰もわかってなかったね。
 説明会に出ているのはだいだい父親らの世代で、私なんか一番若いんで、後ろの方の席で黙って聞いていた。県会議員の人とか、会社の人たちが前の方に座ってたね。
 とにかく「大きな会社が来る」という話になっていた。原子力発電所とかいう話とは大分違うよ。で、「会社が来て、周辺の町村が潤って、生活も豊かになる」と。
 その頃は、みんな出稼ぎをしてたからね、どこの家でも。大事な息子が静岡まで行ったとか、トンネル工事の落盤で死んだとか、いろいろあったね。
 だから、「出稼ぎをしなくて済むし、町が潤うんだから、協力して下さい」って説明されれば、それりゃ、みんな協力するよね。そんなにいい話ならね。


◇「発電所の寿命は20年。その後は一大観光地に」


――説明会の場では、原子力発電所についての説明はなかったのですか?

池田:全然出ていないね。「発電所」とは言ってたと思うけど。まあ、もっとも、あのとき原子力発電所と言われたとしても、どういう危険があるかなんてことは分からなかったと思うんだけどね。原子力そのものが分かんないから。
 だから水力とか、火力とか、そういう発電所なのかなあと思ってたね。
でも、会社側がこういうことは言ってたよ。「もし何か失敗した場合には、避難道を放射状に、扇の骨のように作るから、安心して下さい」と。それで私はね、あら、会社の方で、「事故が起きたときは逃げて下さい」と言ってるんだから、これは危険なものなのかなってことは考えたよ。だって、危険でないものに避難路はいらないわけだから。
 だけど説明の中で、原子力の原子という言葉はあまりはっきりしてなかったね。そこをはっきり言っていたら反対という人が出て来るもの。広島・長崎に原子爆弾が投下されて、何十万人もの人が死んでいるんだから、それはだめだってことなるよ。だから、あのときはなんかこうオブラートに包んだような感じで、原子という言葉は表現しなかったと思うんだな。
 それから、会社はこういうことも言ってたんだ。「発電所は寿命が20年間」だと。そう、20年って言ったね。それで20年したら、「全部取っ払って更地に戻して、今度は遊園地にする」と。「大きな池をつくって、金魚を泳がしたり、お花畑にしたり、一大観光地にするんだ」と。こういうことを言ったんだよ。これはこの耳で聞いているからね。

――原子力発電だということが分かってくるのはいつ頃になるんですか?

池田:それはかなり後だね。工事に着工(1967年)してからだね。
 情報の早い人と遅い人がいるからね。当時、私は、黙々と農業をやっていて、あんまり出歩かないから情報は遅いんだよ。だから、私の記憶では、原子力発電所らしいということは、地層調査が終わって、工事が始まって大型重機などが入ってきてからだね。
 だから、もう反対とかという話にもならなかったわけよ。もう、どんどん工事が進んでいるんだから。


◇原発で働いて


――すると原発が危険なものだと思うようになったのは?

池田:原発で働くようになってからだね。
 第一原発ができてから、来てくれって言われて、原発の警備の仕事をすることになったんだな。正門で一人ひとりIDカードを提示させて、ヨシってやるやつだ。それから、テレビモニターが6、7台並んでいる部屋でずっとにらんでいるとか。イギリスの船で核燃料が搬入されたときの警備もあったな。夜中に男がフェンスをよじ登ってきたということもあった。これは魚釣りをしたかっただけだったんだけど。それから、「ダイナマイトをしかけた」という電話が入ったっていう騒動もあったな。
 そういう中でも、危険区域から出てくる作業員の管理だね、神経を尖らせるのは。責任があるから、もう一所懸命やったよ。
 建屋の中に入った作業員が出て来たら計量器に乗ってもらう。足の形が書いてあるところに乗ってもらって、足に放射能がついていたら、ランプがピカピカ、ブザーもビービー。手の方も同じ。何もないときは、ランプつかないからハイ、ヨシって感じだけれど。建屋の中に入った作業員は、一発で出た人はほとんどいないね。どっかに放射能をつけて出て来る。で、ランプがついたら、そこに大きな流し台があって、工業用石鹸みたいなので、ガーって洗うわけ。早く帰りたいから、もう夢中になって。で、放射能がついていればまたビー、ハイもう一度って。ブザーがなるときは5回でも6回でも。上からの命令だからね。
 こういう感じで12、13年やってたよ。なかなか農業だけでは食べられないからね。

――そうすると、当初、原子力についてしっかり説明をされないまま建設されて、その後、実際に原発の現場を経験してどう感じましたか?

池田:工業用石鹸みたいなので、作業員に手足を洗らわせて、厳重にチェックするということをやっているうちに、これは恐ろしいもんだなと。
 というのはね、そういう作業に入った人が、病気になったりして亡くなっているんだよ。うちの親戚でも、末家(ばっけ)の旦那が死んでるからね。原発で稼ごうってことでいろいろ資格を取って、危険区域に入って作業をやって、いい金取って他所さんの田圃も買って、地盛りして家を新築したんだ。10年以上勤めたかな。でもある時もう見る見る弱っちゃって、私よりはるかに若いのに、コロッと死んじゃった。病気は白血病。
 もちろん、東電側では放射能で死んだなんてことは言わないよ。そんなの一人もいないということだから。絶対安全という安全神話がもう頭の中に叩き込まれているからね。われわれもそういう教育を受けているから。だから、作業員が死んでも、「放射能とは全然違うんですよ」とか、「持病ですよ」って、「放射能とは全然関係ないから」ということになるんだけど。
 でも、白血病で死んでいる方は他にもいるよ。細谷のHさんというのがいて、この家の大事な旦那さんもやっぱり白血病で。普通、回りにそうそう白血病なんてないよね。
 もちろん、私らもね、「放射能で死んだんだ」なんてことは一言も言ってないよ。医者じゃないし、東電がやっぱり怖いし。ただ聞かれれば「あの人は原発で働いていた」と。それから、「白血病で死んだ」と。これは言えるよね、事実だから。
 親戚とか回りで、原発に行って稼いで、だけど白血病になって死んでしまうというのを見ていると、これは怖いなとようやく分かってきたんだ。安全というのも神話なんだなって。
 でもそういうことが分かってきたときは、もうどうしようもなかったんだよね。だって町全体が原発に組み込まれてしまったようなもんだから。

――改めて、原発の立地が決まったころのことを振り返るとどんなお気持ちですか?
 
池田:あのときね、「20年で寿命だ。その後は遊園地だ」って言ってたけど、その後40年まで延ばして、挙句の果てにこの様でしょ。遊園地どころの話じゃないでしょ。そういう説明をした人たちはどういうつもりだったんだい。みんなもう生きてないだろうけど。
 だから、今の「中間貯蔵施設」の問題だって同じだよ。「30年以内」なんて話は全く信用できないよ。
 たまたまね、父親の代りに部落説明会に出ることになったけど、そこに参加していた親父の世代の人たちはみんな亡くなっている。50年前だからね。この話はもう誰も語れないわな。だから、言っておかないと思ってね。


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(事故後、最初の一時帰宅。2011年7月)


◇原子力を受け入れたのか


 池田さんのお話を受けて、原発の立地が大熊町、双葉町に決まった当時の状況について、少し振り返ってみたい。
 というのは、福島原発事故の被害について東京などで話題になると、「そうは言っても福島の人は原発を受け入れたんでしょう」という反応によく出会うからだ。また福島県内でも、「大熊町、双葉町の人らはお金をもらって原発を受け入れたから」という声も少なくない。
 たしかに、反対を押し切って土地が取り上げられたというわけではない。反対運動もなく、土地の買収も円滑に進んだとされている。
 しかし、少なくとも、池田さんのお話しからわかることは大熊町、双葉町の住民が、福島県や東京電力から、原子力発電ということについて正面から提起され、それに納得して賛同したというわけでは全くなかったということだ。
 原子力発電がどういうものかという知識を住民はほとんど持っていなかった。当時は茨城県東海原発が1960年1月に着工したところで、全国民の大半が、原子力発電に関する知識を持ちようがなかった。
 そういう住民に対して福島県と東京電力が行った説明は、「オブラートに包んだような感じ」「原子という言葉は表現しなかった」「私の記憶では、原子力発電所らしいということは、地層調査が終わって、工事が始まって大型重機などが入ってきてから」というのだ。
 もちろん、福島県や東京電力がその説明の中で、原子力発電について触れなかったということはないだろう。しかし用地交渉に当たった県職員の報告(*1)によれば、広島・長崎の原爆の記憶と原子力発電とが結びつくことに神経をとがらせつつ、「石炭、石油を燃やすと同じように、核分裂によって発生するエネルギーを水に加えて、あとは、火力発電所と同じであるという説明を行った」とある。
 原子力ということが、参加した住民の印象に極力残らないようにして、まさに「オブラートに包んだような感じ」で飲ませてしまうというやり方したということだ。
 そして、そのオブラートというのが、「出稼ぎをしなくて済む」「町が潤う」「遊園地」「一大観光地」という甘言だった。

*1 横須賀正雄 「東電・福島原子力発電所の用地交渉報告」(『用地補償実務例(Ⅰ)』1967年)


<死者720人超、放射線障害5000人>の試算


 では、原子力発電の危険性について、国、福島県、東京電力は、当時、どういう認識だったのだろうか。少なくとも、国、福島県、東京電力などの中枢レベルでは、原子力発電の危険性について相当厳しい認識を持っていた。
 原子力発電を日本に導入するに当たって、原発事故が起こった場合の損害賠償に関する法律を制定する必要があった。その前提として、原発事故の被害がどれくらいなるのかという試算を行っていた。科学技術庁が日本原子力産業会議に委託して行った「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆被害に関する試算」(1960年4月、以下「試算」)(*2)。その試算は、いつかの条件や仮定によって幅はあるが、最悪の場合、<死者720人超、放射線障害5000人、永久立ち退き10万人、被害総額は最高で3兆7千億円>に至るという衝撃的なものだった。
 国は、原発推進のためにこの試算を機密扱いにし、40年後の1999年に公表されるまで、国は試算を行ったことすら否定し続けた。と同時に、原子力損害賠償の仕組みの構築や立地地域の選定などの前提にこの試算があった。
 1964年4月に原子力委員会が策定した「原子炉立地審査指針」(*3)はそのことをはっきりと示している。「原子炉は、どこに設置されるにしても、事故を起さないように設計、建設、運転及び保守を行わなければならないことは当然のことであるが、なお万一の事故に備え、公衆の安全を確保するためには、原則的に次のような立地条件が必要である」と述べた上で、「原子炉は、その安全防護施設との関連において十分に公衆から離れていること」「原子炉の周辺は、原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること」「原子炉からある距離の範囲内であって、非居住区域の外側の地帯は、低人口地帯であること」としている。
 つまり、試算のような重大事故を前提とし、それが最大の懸案だという認識なのだ。そして、そういう事故が東京のような大都市部で起こったら大変だから、僻地・過疎地に持っていけという考え方を提示した。そういう基準で、大熊町、双葉町が選定された。京浜工業地帯を中心とした高度経済成長を支えるための電力だが、重大事故による犠牲は、大熊町、双葉町の住民に押しつけるという判断がなされたということだ。
 しかしこういう判断だということを国、福島県、東京電力も言えるはずもない。そこで当該の住民に対して行われた説明は、「出稼ぎをしなくて済むし、町が潤うんだから、協力して下さい」。「発電所は寿命が20年間」「その後は撤去して遊園地に」「一大観光地にする」。こういう詐欺にも等しい行為が、立地の出発点において行われていたということをわれわれは確認しておく必要があるだろう。

*2 今中哲二 「原発事故による放射能災害」参照
    http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/genpatu/gunshuku9905.html
*3 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19640527001/t19640527001.html


◇「出稼ぎをしなくて済む」


 さて、いまひとつ見ておきたいのは、「出稼ぎをしなくて済む」という言葉の持っている意味だ。
 出稼ぎの問題は、原発立地当時の問題に触れたとき住民から異口同音に語られる。実際、それは当時の大きな社会問題であり、切実な問題だったからだ。
出稼ぎとは、主に東北や九州の農村から、農閑期に数カ月にわたって東京などに出て、土木建設現場で働くこと。戦前からかなりあったが、戦後は高度経済成長の中で激増している。1964年の東京オリンピックを契機とした地下鉄、高速道路、下水道工事などの非熟練労働に従事した。重層下請制度の下、低賃金・長時間・無権利で労働災害が多かった。出稼ぎ出る者にとっても、残される家族にとっても辛い問題であった。(*4)
 しかし、そういう思いまでしてなぜ出稼ぎに出る必要があったのか。「農業だけでは生活が苦しい」(1972年農林省の面接調査)。これが大きな理由だった。
 では、どうして農業で生活できないのか。それは、高度経済成長という国策のために、政策的に仕向けられたというべきだろう。
 ひとつは、高度経済成長を推し進めるためには鉱工業の輸出の促進が至上命題であり、そのために貿易自由化が進められた。その結果、農産物輸入が激増し農業に打撃を与えた。そのために農家は農業外に収入を求めざるを得なくなった。二つには、農業の生産性の向上を掲げて稲作を中心に機械化が促進された。機械化は労働時間の短縮には貢献したが、同時に機械の購入のためにまた農業外の収入に走らざるを得なくなった。
 ここまでなら農政の失敗という話になるかもしれないが、そうではなかった。自由化や機械化を進めることで農業と農村を縮小合理化し、農業人口を都市部に引き出し、京浜工業地帯を中心とする労働力として投入する。そういう政策的な意図があった。だから農政でありながら農業と農村を破壊するということを意図的に進めた。その政策によって、都市近郊では兼業化が進むが、近郊に雇用がない地方では、出稼ぎや就職という形で、労働人口の流出となっていたのだ。(*5)(*6)

*4 林信彰 「農業政策の破綻と出稼ぎ」(1947年9月 横浜市「調査季報」43号 特集 出稼ぎ労働の問題点)
        http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/seisaku/chousa/kihou/43/kihou043-012-019.pdf
*5 飯島充男 「福島県農業の現状と展望」(1980年8月『福島県の産業と経済』山田舜編)
*6 物質文明を拒否する立場から出稼ぎ拒否と論じた当時の論考に草野比佐男『わが攘夷』(1976年)がある。


◇未来のための教訓


 こうして見ると、「出稼ぎをしなくて済む」という言葉を、住民らがどういう思いで訊いたかがわかってくるのではないだろうか。と同時に、出稼ぎをせざるを得ない窮状が、国策によってつくりだされたものだということに強い矛盾を感じる。さらに、そういう窮状に付け込む形で、原発の立地が進められたのだった。しかも、推進する側はその危険性を知りながら、そのことをひた隠しにして進められた。危険性を知っているが故に、窮状にあえぐ地域に押しつけたのである。(*7)
 原発の建設が始まると、一時的に雇用が急増した。しかし、建設ブームは一時的なものだった。原発は、関連産業を生み出すような性格ではなく、浜通りに産業の集積が進み、一大工業地帯になるというのは全くの幻想であった。
 出稼ぎは形の上ではなくなったが、それは形を変えて、定期検査時の作業に、重層下請制度の末端に動員されるものであった。福島の原発が稼働時は定期検査作業を求めて全国の原発を回った。それは形を変えた出稼ぎでもあった。そして、定期検査時の作業は被ばく労働であり、健康被害を不可避とするものであった。原発の危険性の説明もなく、原発が立地され、その原発に働きに行っていた住民が、被ばくによる健康被害で苦しみ、そのことを訴えることもできないまま亡くなっていった。
それを目の当たりにすることを通して、「これは怖いなとようやく分かってきたんだ。安全というのも神話なんだなって」と気づいていく。しかし、同時に、「そういうことが分かってきたときは、もうどうしようもなかったんだよね。だって町全体が原発に組み込まれてしまったようなもんだから」。
 池田さんのお話から、原発という国策がどのように進められたのか、そして立地地域の住民がどういう思いをしてきたのか、ということを窺い知ることできる。と同時に、池田さんの証言から、本当に脱原発を進めるためには何が必要なのか、脱原発を訴える側がどういう人びとのどういう思いと結びつく必要があるのかという教訓を示してくれているように感じた。

*7 ここでは言及していないが、いまひとつの窮状として、1958年に大野村と熊町村が合併してできた大熊町の町財政の悪化という問題があった。


      ・        ・         ・

 なお、上で「反対運動もなく、土地の買収も円滑に進んだとされている」と述べた。たしかに運動といえるような動きはなかったが、しかし実は反対の声や抵抗の動きが存在していた。これについては回を改めて報告したい。(了)


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  1. 2015/07/01(水) 16:00:00|
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