福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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浪江町・帰還困難区域の桜



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 津島の桜がちょうど見ごろを迎えていた。〔写真上〕
 4月28日、「放射能測定センター・南相馬」が行っている空間線量測定に参加、浪江町の帰還困難区域に入った。
 2011年の事故以来、南相馬市の原町区、鹿島区、区域再編後の小高区などにおいて年2回の測定が行われ、その都度、住民らがボランティアで参加してきた。
 今回は、帰還困難区域に指定されている浪江町の西部の測定も行われた。帰還困難区域とは、「5年間を経過してもなお、年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある、現時点で年間積算線量が50ミリシーベルト超の地域」。浪江町の場合、面積で8割が帰還困難区域に該当する。
 測定の方法は、地域全体を500メートルのメッシュに区分して網羅し、その一区分ごとに一地点を選んで、地上1センチと1メートルのデータをとり、それを集計して地図上に反映するというもの。作成された汚染地図は、住民に広く配布され、地域全体の汚染状況や線量の変化を対象化することに貢献してきた。




 赤い舌



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 原町を出発して6号線を南下、浪江町に入り114号(富岡街道)を西へ。帰還困難区域の室原に入る手前に検問所があり、通行証を提示。



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 私の班が担当したのは、請戸川に沿って国道114号線を、室原~川房~昼曽根~赤宇木~津島と西に向かうコース上の測定点。
 下図は、文科省が航空機モニタリングで作成した放射性物質の分布状況。第一原発から「赤い舌」が伸びている。2011年3月15日、福島第一原発から大量に漏出した放射性物質が、北西方向に吹く風に乗って、請戸川の谷筋に沿って流れ、この一帯を舐めつくし、山にぶつかる辺りで雪とともに降り注いだ。さらに山を越えて飯舘村から伊達市、福島市まで流れていった。こうしてこの一帯を高濃度の汚染地帯にした。
 私の班が担当した測定地点は、3年後の赤い舌を辿るものだった。

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 昼曽根22マイクロシーベルト



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 何地点か測定をしながら、大柿ダムの北西端の川房にある大柿簡易郵便局のモニタリングポスト〔写真上〕に着いた。
 ここは、114号から南に葛尾村方面に行く道との分岐になっている。簡易郵便局の他、中山商店などがあって、人びとが休憩に立ち寄るところだったという。
 モニタリングポストの表示は毎時9.649マイクログレイ、手持ちの線量計は毎時12.46マイクロシーベルト。グレイとシーベルトと単位が違うが、1グレイ=1シーベルトとみなすというのが国の指針なので、やはり低く表示されている。



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 ここまでの集計でも〔写真上〕、西に進むほど測定値が高くなっていく。室原に入ったところでは3マイクロシーベルト台だったが、大柿簡易郵便局では12マイクロシーベルトに上がっている。


 
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 東北電力の昼曽根(ひるそね)発電所〔写真上〕。100年前につくられた出力500キロワットの水力発電所。しかし、原発事故に伴って、現在は稼働を停止している。
 戦前、国家統制で統合される以前、福島県には数多くの発電事業会社があった。そのひとつである磐城水電株式会社(小高町)が、大正時代につくったのが昼曽根発電所。磐城水電は、小高町など周辺5カ町村に給電していた。
 発電所前の橋のたもとで測ると、地上1メートルで22.26マイクロシーベルト〔写真下〕。 測る位置を少し変えると下がったが、やはり極めて高い。

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 発電所から少し進むと、倒れたままの看板があり、「田中建設」の名前が。〔写真下〕
 田中建設といえば、原発と密接な関わり持つ双葉町の建設会社。同社の創業者で社長だった故・田中清太郎は、1963年から約20年にわたって双葉町の町長を勤めている。その間、福島第一原発の誘致などに大きな役割を果たしたと、東京電力から評価を受け、同社には、東電関連会社から、毎年多額の工事が発注されてきた。

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 この日の最高値26マイクロシーベルト



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 昼曽根にある落差5メートルの滝「一反渕(いったんぶち)」。〔写真上〕
 原発事故以前、請戸川には、ヤマメやイワナの放流が行われていた。本当なら解禁の時期だ。



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 道路脇にフレコンバックの山が。〔写真上〕
 広大な山林の中、線量も高い地域で、除染が点々と行われていた。



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 幾重にも連なる大きなベルトコンベヤーが目に入る。 〔写真上〕
 2011年4月上旬、放射性物質で汚染された砕石がここから搬出され、二本松市のマンション建設などに使われた。そのことが2012年1月になって公になり、大きな問題となった。まだ記憶に新しいが、これがその採石場だ。
 この場所は、福島第一原発から北西に約26キロ。20キロ圏外なので、2011年4月上旬の時点では避難区域ではなかった。計画的避難区域に指定されたのは4月22日。
 もっとも、政府は、事故直後から、20キロ圏の外にあるこの辺りで、高い線量が観測されていることを把握していた。が、そのことを住民にも、業者にも知らせなかった。また、同じ時期、隣接する飯舘村では、山下俊一長崎大教授らが入り、住民に「放射能の心配はいらない。国の言うことに従って下さい」と説いていた。
 汚染砕石問題もそういう中で起こったことだった。



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 114号を一旦南に逸れて林道を進んだところにある民家。〔写真上〕
 桜や水仙の花が健気に咲いていた。3年以上の月日で荒れているが、住んでいた人が、花を大切にしていたことを偲ばせる庭だった。
 ここで、この日の測定の最高値を記録した。地上1センチで26.27マイクロシーベルト。〔写真下〕
 この場所に1年間いると、単純計算で200ミリシーベルトを超える被ばくになる。
 これが3年後の実態。線量が十分に下がるまでには100年単位の時間が必要だ。

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 伏せられた地名



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 再び114号に戻って西へ。ここは、大字赤宇木(あこうぎ)字塩浸(しおびて)。難読の地名で知られる。
 写真上の石井商店のところを右折して山に入れば、手七郎(てしちろう、てっちろう)を経て飯舘村長泥(ながどろ)に下る。また、そのまま富岡街道を進めば津島の町を経て、川俣町、福島市に至る。
 塩浸という地名は、九州に3か所ほどあるが、いずれも「しおひたし」と読み、関連はないようだ。浪江の塩浸は塩の道だったことに由来しているという。かつて浪江の浜では製塩が行われ、その塩がこの街道を通って中通り方面に運ばれていた。そして、この塩浸で、塩と食料品の交換が行われていたという。 ここが浜通りと中通りをつなぐ交通・交易の要衝だったことが窺える。
 しかし、原発事故以降、この地名は別の意味を持たされた。
 原発事故直後、文科省は、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の試算で、浪江町の赤宇木や津島の方向に大量の放射性物質が飛散することを予測していた。そして、その予測に基づいて、15日には現場に入って測定を行い、赤宇木の手七郎や塩浸などで毎時255~330マイクロシーベルトという数値を観測していた。その後も継続的に極めて高い線量を観測、大量の放射性物質が流れてきていることを把握していた。にもかかわらず、文科省は、それがどこなのか、その後1カ月の間、伏せていた。



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 津島に入る手前に、南津島の方に南下する道があり、この先に日本テレビの人気番組「ザ!鉄腕!DASH!!」のDASH村があった。里山の豊かさと美しさ、住民との交流などの映像が思い出される。DASH村は、福島第一原発から25キロの地点で、現在は帰還困難区域となり、無残な姿になっているという。



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 津島の町の中に入る。街道筋らしく、道が適度に曲がっている。それに沿って、津島中学校、津島小学校、松本屋旅館、コクブン商店などが並ぶ。小さな町だが、人びとが行き交い、賑わいがあったことを感じさせる街並みだ。そして、満開の桜・・・。
 下の写真は津島中学校。震災の翌日から、浪江町の浜の方の住民がぞくぞくと避難、人口約1400人の津島に、約8千人が避難してきたという。そして、小学校や中学校の体育館、公民館などに逗留した。
 そこに、高濃度の放射性物質が降り注いだ。そのことを上述のように文科省は早い段階で把握していたが、町役場にも、住民にも知らせなかった。そのために、わざわざ津島方面に避難してきてきた住民が、ここで無用な被ばくを強いられることになった。

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 二度の棄民


 
 「国策によって二度も棄民された」。浪江町の女性がそう語っていたことが思い出される。
 一度目は、敗戦で国に捨てられ、中国から命からがら引き揚げてきたこと。そして二度目は、戦後の労苦を経て余生を楽しもうとしていたとき、原発事故によって放射能に追われ、再び逃げ惑ったこと。
 「国策によって捨てられる」。その言葉が重い。

 ところで、浪江町は、今年3月、「復興まちづくり計画」を策定した。2017年3月を目途に、比較的線量の低い国道6号線と役場の周辺を中心に、5千人の帰還と移住を見込んで、「復興」を進めるとしている。
 しかし、収束作業は、依然として汚染水問題に振り回されている。さらに浜通りや双葉郡の今後はどうしていくのか。上で見てきたように高線量が長期にわたって続く地域はいったいどうなるのか。こういう問題に対して、国も、町も、真剣に向き合っているとはいえない。見通しもビジョンもないのが実情だ。そういう中で、「戻れ、戻れ」という掛け声だけが聞こえる。
 三度目の棄民になりはしないだろうか。 (了)








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テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2014/05/23(金) 14:40:00|
  2. 浪江町
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