福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

福島の思いを全国に発信したい    福島県教組委員長 竹中柳一さんに聞く

 震災・津波と原発事故から1年を迎えようとしている中、「原発いらない!3・11福島県民大集会 ~安心して暮らせる福島をとりもどそう~ 」という大きな行動が、郡山市・開成山野球場を会場に開催されようとしている。
 集会の実行委員長として、その準備に奮闘されている福島県教職員組合・中央執行委員長の竹中柳一さんにお話をうかがった。

〔インタビューは1月下旬、県教育会館〕


CIMG3860-600.jpg


―― 大きく4点ぐらいでお話をうかがいます。
 一つは、昨年4月に、文科省が出した「子ども20ミリシーベルト基準」にたいして、福島県教組として声明を出されました。これをめぐる当時の状況についてです。
 二つ目は、県教育委員会が、昨年11月に作成した「放射線に関する指導資料」についてです。これにたいして、県教組として「見解」を出されていますね。
 三つ目は、竹中委員長ご自身が、南相馬にお住まいで、被災されました。そのご苦労と思いについてです。
 最後に、今年3月11日に開催される「原発いらない!3・11福島県民大集会」に向かっての訴えをお願いしたいと思います。よろしくお願いします。



【Ⅰ】 県教組声明で20ミリ基準に反対



委員長: まず、昨年4月の県教組の声明についてですね。
 原発事故から1か月以上経過してから、文科省が、ようやく「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」(昨年4月19日)という文書を出しました。いわゆる20ミリシーベルト基準ですね。
 これは、「リスク&ベネフィット論」〔※〕にもとづいて、ぎりぎりのところの上限を取ったというきわめて行政的な発想なのですね。
 本来、「年間20ミリシーベルトなら大丈夫」という話は、科学的な根拠などないわけです。さらに内部被ばくの問題もあります。
 だから、私たちは、教組も「これでは、子どもの命と健康を守れない」と声明を出しました。


〔※ リスク&ベネフィット論: 被ばくによるリスクを問題にする場合、同時に、核兵器や原発から得られる利益(ベネフィット)について勘案し、両者のバランスをとる必要があるという考え方。ICRP(国際放射線防護委員会)の基本的な考え方〕


―― 4月に学校を始めるかどうかが大きな問題だったわけですね。


委員長: そうです。これだけの線量で学校をやれるのか、窓を開けていいのかといったことが問題になりました。
 そういう中で、文科省の20ミリ基準に、一番激しく反応したのはお母さんたちですね。
親御さんは、要請というより、学校に怒鳴り込んでこられるという感じでした。
 20ミリ基準によって、学校現場も親御さんも巻き込んで、振り回されわけです。校長だって、辛かっただろうなと思います。
 4月は、まだいいんだけど、だんだん暑くなるでしょう。だけど、窓を開けたら、「なんで開けるんだ」って苦情がくるし、逆に、開けないと、「こんな暑いときに何をやっているんだ」となる。担任や学校は板ばさみですよね。
 一番の問題は、今回の事故の経過の中で、国がますます信用できなくなったということです。だけど、そういう中で、学校が信用されるのかといったらそうではない。学校だってどうしていいかわからない。そういうところに追い込まれているわけです。
 だから、私は、教職員も、保護者も、そしてなによりも子どもたちが、等しく被害者だという立場です。


CIMG1633-400.jpg 
(文科省の20ミリ基準にたいして、福島の親たちが要請行動に立ち上がった。昨年5月23日)


―― 教職員や保護者らの抗議の中で、文科省は、5月末に「1ミリシーベルト以下を目指す」という文書を出しましたが。


委員長: それは、あくまでも目標なんです。いつまでにということが入っていないですし。「1ミリシーベルトを目指す」という将来の目標であって、「20ミリシーベルト以下であれば大丈夫」というスタンスは変化していません。
 避難区域の区別だって、「20ミリシーベルト以下だったら住めるよ」と言っているわけだから、基本的な考えはまったく同じです。
 さらに「学校生活において1ミリシーベルト以下を目指す」というのも、官僚が、いろいろ計算とか基準をひねくり回して、言ってきたわけです。
 あくまでも学校の中に限ったことだから。「学校内では大丈夫だけど、学校以外のことは知りませんよ」という立場です。
 しかも、学年を累計するということだから。学年というと、4月1日から3月31日までです。だから、一番、線量の高かった時期、3月12日から3月31日までは除外しているのです。


―― 県教組の声明と要請にたいして、県教委の側の態度は?


委員長: 県教委から、何もないですね。
 具体的な動きは、それぞれの地域、とくに線量が高い郡山、福島といったところの保護者がまっさきに声をあげました。その声に動かされる形で、一番はじめに郡山市が、学校の除染を始めたわけです。
 あれは、もうやっぱり保護者の力ですね。
 それから、幼稚園から高校まで1万人以上が、見切りをつけて出て行ったわけです。「子どもを育てる環境じゃない」と、県外に転校して行きました。


―― 保護者との関係で見たとき、教職員は?


委員長: 教職員は、被害者であると同時に加害者です。私は、そういう自覚を持ってもらいたいと思っています。
 というのは、原発ある市町村では、原発推進派の力は大きいので、「安全だ。安心だ」という神話の片棒を、知らず知らずのうちに担がざるを得なかったというのがあります。
 原発の体験学習とか遠足といったものを、結構やっているんです。おみやげも持たしてくれるし、無料でバスも出してくれるし。これは安上がりですよね。だから、「いいな」っていうふうになるんです。それは、結局、電力料金をそのような経費も含めて決定できるという仕組みそのものが巨大な力を原子力関連事業に与えている一例だと思います。


―― それに反対するのはなかなか厳しいものがあったということでしょうか?


委員長: 私自身は、原発関連の体験学習や遠足などは計画したことも、行ったこともありません。ただ、やっぱり行く人は行きますよね。
 「行くこと自体が悪いのか」と言われたら、現場では反対することはむずかしいですが、結果としては、原子力行政と電力会社の網の中に入っちゃうわけです。全体で声をあげて行こうという話にはなかなかならなかったですね。


―― いま原発周辺から避難してきている50~60代の方から、「子どもの頃、学校で、先生から、『原発は危険だ。広島・長崎を体験した日本が、なぜ原発を作るのか』と言われた。だから、ずっとそう思ってきた」とお話を聞きました。


委員長: その頃はね。しかし、だんだんと薄れてきました。労働界全体で、労働組合が、追い込まれていったということがあると思います。   
 だから、教職員も、原発推進に一役買っていたというのは間違いないことです。その反省から始めなければいけないと思います。



【Ⅱ】 原発事故に触れない「放射線教育資料」 



CIMG3855-400.jpg



―― 県教育委員会が、昨年11月、「平成23年度放射線等に関する指導資料」を作成しました。それは、どういう内容ですか?


委員長: 文科省が、昨年10月に、小学校から高校の児童・生徒を対象にした「放射線副読本」を作りました。福島県の教育委員会が作った「指導資料」は、「文科省副読本」のままです。
 「指導資料」は、原発事故で苦しむ福島の人びとの現状や思いについて、全くといっていいほど、触れていません。そもそも、原発事故について、全然、触れていないですから。これには、腹が立ちましたね。
 教職員にたいする研修会でも、「原発には触れない」「原発については中立の立場を取る」との教育委員会側の発言があると報告されています。
 原発事故について、唯一、触れているのは、避難や退避の考え方のところ。だけど、これがひどいんですよ。読みあげると・・・
 「今回の原子力発電所の事故のように、放射性物質を扱う施設で事故が起り、周辺の影響が心配される時には、市役所、町や村の役場、あるいは県や国から避難などの指示が出される。周辺のデマなどに惑わされず、混乱しないようにすることが大切である。児童・生徒に対しては、家族や看護士や教師の話、テレビやラジオなど、正確な情報を得ることや、家族や教師などの指示をよく聞き落ち着いて行動することが大切であることを指導する」
 飯舘村などでもそうなんだけど、混乱も何も、そもそも避難の指示がでなかったたわけでしょう。国や学者に騙されたということが大きいわけです。国とか県の言うことがいかにだめだったかということを、身にしみてわかっているのに、よくぞこういうことをシラッと書けますよね。
 これは、怒っちゃいますよね。
 だから、市町村によっては、「とてもじゃないけど、こんなものは使えない」「子どもたちに言えない」ってなっています。
 市町村で独自に作ろうという動きもあります。


IMGP2054-400.jpg
(県教委の「放射線教育」にたいして、県教組として見解を出した)


―― 県教組でも、独自の資料を作っていると聞きました。


委員長: はい。県平和フォーラムの向けと、教員向けに、二つ作ります。
 私たちとしては、教員向けが大事なんで、4月から、どういうスタンスでやればいいかということについて、詳細なものを、Q&A形式にして作ります。


―― 「指導資料」は、4月から扱うわけですね。


委員長: そうですね。学級活動や理科の中でやるということになっています。


―― そうすると、これを教えなければいけないということになるわけですか?


委員長: そうですね。内容どおりにね。


―― そうすると、「これは教えられない」という現場の気持ちとぶつかるわけですね。


委員長: そうです。結局、学校現場で、国策と対峙することになるんですね。
 例をあげれば、双葉郡(原発立地地域)の教員の場合、クラスにいる子どもの親御さんが、東京電力や原発関連に勤めているということがいくらでもあるわけです。
 その子どもを前にしては、「原発は危険だ」ということを言えるか。教員が子どもを通じて対峙しているのは、親も含めたその地域のあり方。原発によって成り立っている社会に相対していかなければならないわけです。それは厳しいことですよ。
 だから、「何が教えられて、何が教えられないのか」ということを明確にして、子どもに対応する必要があると思っています。私たちは、そのことを教員に知ってもらいたいという立場で、私たちの独自の資料を作っています。
 例えば、低線量の被ばくの影響についてどう見るかです。「閾値はない」、少なくとも、「『安全です』とは言いきれない」といったところです。
 実は、振津かつみさん〔※〕に監修してもらっています。相談しながら、いい資料にしたいと一生懸命やっています。
 良いものができれば、全国でも使ってもらいたいですね。


〔※振津かつみ: 医師。放射線基礎医学が専門で、チェルノブイリ事故被災者の支援に長年携わっている。〕



地域との結合を目指して


―― 原発立地周辺での地域との関係の厳しさを言われましたが、逆に、地域住民と教育労働者とが結びついたときの強さというのもありますね。20ミリシーベルト問題や放射線教育での教組の頑張りもそういう意義があるのでは?


委員長: 時代が難しいし、地評といったところがセンターになっていた頃とは、全然、違います。
 ただ、やっぱり、これから目指していく方向は、地域住民との結びつきというところだろうと思うんですよ。
 そういう点で、保護者と教職員を敵対関係にするような動きが、ずっとありますね。「ダメ教員」とか、「教育の再生」とかいう宣伝です。政府、財界、テレビ、新聞が、キャンペーンを張ってきましたからね。教育基本法改悪、教育再生会議などの辺りから、そういう流れがすごかったですね。
 教育基本法改悪のときは、教職員組合としては一生懸命に取り組んだし、全国的な盛り上がりもありましたが、マスコミは、教育基本法改悪の問題性を、まず取り上げてくれなかったですね。
 私が、ちょうど、教組の副委員長になったとき、最初に取り組んだのが教育基本法改悪でした。新聞広告を出したり、街頭宣伝カーを回したり。
 教育基本法の教育の独立というのは、行政の不当介入にたいする独立ということだったんです。ところが、それが、議員の方々などは、不当な介入というのは労働組合のことだと思っている人がいるんです。
 どうして戦争を起こしたのかということです。教育勅語や御真影で、国民が批判的な精神や自立的なものの見方をできなくなったときに、そういうことになるんだというのが身にしみてわかったからです。
 だけど、いまそれがまったく逆の意味になってしまっています。
 よその国を「独裁だ」「恐ろしい国だ」と言っているけど、「日本は大丈夫なのかよ」と言いたくなりますね。大本営発表みたいなのが、今、原発事故の発表でも、行われているわけでしょう。  



【Ⅲ】 南相馬での被災と屋内退避



―― 委員長は、南相馬市にお住まいで、被災されています。

委員長: 3月11日に地震がありましたが、なんとか家までは戻れました。妻と子どもたちは幸いなことに無事でした。
 ただ、妻の母親の家が、海から50メートルも離れていないところでした。その日の夜に、捜しに行ったんですけど、夜だったからよくわかりませんでした。避難所も回りました。
 翌朝は晴れで、また、捜しに行ったら、家がまるっきりもうなくて、海の中なんですよ。土台だけが残っていました。
 そして、その日のうちに、遺体が発見されました。
 そうこうしていると、12日に原発事故が起きて、あれあれって言っているうちに、屋内退避ですから。このころはずっともう家の中にいました。
 屋内退避に関して、今でも忘れられないのが、西山という審議官ですね。屋内退避って言ったのはいいんだけど、ただ屋内退避だけ言って、ずっと中にいろというのが無理に決まっているじゃないですか。外に出なければならないときもあるわけです。それで、「外から戻ったら、着ているものは脱いで、ビニール袋に捨てて下さい」と言うんですよ。
 脱いだものをどうすんだということです。何回も外に出でたらどうするのか。原発の作業員は、防護服を一回着たら捨てているわけだ。だけど、われわれには防護服も何もないべって。
 ほんとにあれはひどかった。何に言ってんだって腹が立ちました。
屋内退避になって、どんどん食料がなくなっていくでしょう。
 そのうち、17日になって、桜井市長から避難について重要な説明があるから、最寄りの学校に集まってくれということになりました。
 医療品や食料がもうない。ガソリンも危ない。放射線より、むしろ、ライフラインの方が問題で、「市としては責任を持てないから、逃げるのであれば、市がバスを用意します。行き先は群馬県と新潟県です。どれだけ希望者がありますか」という説明でした。 
私のところは、電気・水道は大丈夫で、食料もある程度あったので、籠城を決めたんですよ。家は締めきって、換気扇も回さないで、核シェルターみたいなものですね。
 ようやく3月22日に、私だけ、福島市の方に来たんですよ。こっちに来たら食料があったんです。20日辺りから、米がなくなってきて、1日2食になっていたから、いよいよだめかなっていうときに、川俣町で店がやっていたんですね。


――福島市に行くには飯舘村を通って行くのですね。


委員長: そうです。線量計を導入してから、飯舘村を通ると、車の中で、ピピッて警告音が鳴るんですよ。車の中で毎時5マイクロを超える箇所が何カ所かありました。
だけど、南相馬市の線量は、だいたい福島市の半分、飯舘村の4分の1ぐらいでした。
 だから、「これは下手に動かない方がいいな」と判断しました。
 
 

――小高区や双葉郡の教職員の方の状況は?


委員長: 私なんかより、ずっと大変なんです。
 家がなくて、福島市の友人の家に泊まりながら出勤していたりね。
 しかも学校は避難所になっていますからね。だから、校長や教頭で家が警戒区域になった人は、当時、ほとんどが学校に泊りこんでいましたよ。自分の家がない人は泊るしかないですしね。



【Ⅳ】 「福島をとりもどしたい」という思い



―― 津波震災と原発事故から1年を迎える3月11日、「原発いらない!3・11福島県民大集会 ~安心して暮らせる福島をとりもどそう~」という大きな催しが、郡山で開催されます。委員長も、福島県平和フォーラム代表として、準備に奮闘されています。
 昨年12月10日の日比谷野音の集会で、委員長が登壇し、厳しさと力強さを込めた訴えをされました。
「3月11日以来、何が変わったか。何も変わっていない。日本のあり方が変わらない限り、子どもたちに未来はない。日本を変えていこう」と。そして、「福島の思いを全国に発信し、福島の思いを日本全体で共有する。そういうものとして3月11日をやるんだ」という趣旨でした。


委員長: 思いとしては、今、言われたように、「変わってない」という気持ちが強いですね。変わってないばかりか、福島以外の全国では、原発事故ということが、もう終わったと思っている方が多いのかなという気がします。
 ところが、私たちにとってみたら、事故は現在も進行中だし、ますます広がっているというのが現実なんです。それなのに事故が収束したなんて、とんでもない話です。
 変わっていないという点では、原子力安全委員会の班目委員長だって変わってないですね。誰も責任を取っていないし、謝ってもいないのです。
 賠償の問題もあるけど、私は、「変わってない」というところに、一番、腹が立つんです。つまり、この国は、イラク戦争(2003年)のときに、「大量破壊兵器がある」と言って、武器を運んでいたわけです。だけど、その後、戦争を始めたアメリカ自体が「大量破壊兵器はありませんでした」と言っているのに、それを大義として参加した日本の政治の責任について、この国は、ほとんど忘れてしまっている。
 それと同じことが、福島原発事故でも起こりつつあると思うのです。
 津波ではなく、原発が原因で、直接ではないにしても、亡くなった方もいっぱいいると思うんです。避難所や避難の過程で亡くなったり、故郷を追われて亡くなったり。家族もばらばらにされているし。子どももストレスを受けている。食品の問題もありますね。農産物もとんでもない被害を受けている。いろんなところでいろんな目にあっているわけです。
 ところが、東京に行くと、普通に歩けば、何もなかったような感じですよね。AKB48とかが話題になっているわけでしょう。
 片や、同じ日本なのに、福島では、いろんな目にあって苦しんでいる。これは、割り切れない思いがしますよね。


―― 「日本を変える」というメッセージも発信されました。


委員長: この原発事故という事態を梃子にして、日本を変えてかないといけないと思います。というか、このままでは、とんでもないことになるという気がしていますね。
 私たちの世代の場合、ちょうど鉄腕アトムから始まって、高度経済成長を享受してきたわけだから、自分自身がとんでもない目に遭うのは、ある意味では、自業自得だって思うんです。だけど、その後の世代の人は、そういう恩恵も受けていない。
 だから、これは、やり続けるしかないし、言い続けるしかないと思っています。
 それは、たまたま原発から23キロのところで、避難しなくてすんだという、そういう自分に与えられた運命なのかなと思って、自分自身の思いとしては、もうやらざるをえないし、やるのが当たり前だろうって思っています。


――集会名称に「福島をとりもどそう」とあります。


委員長: 「福島をとりもどそう」には、いろんな意見もあるんですがね。
むしろ「もうとりもどせない」と考える方が、本当なんだという人もいます。「子どもたちが福島には住めないから、避難させる運動を作るべき」「除染というのは間違っている」と。
 ただ、やっぱり思いは、「福島をとりもどそう」なんですよ。福島県の大地から放射能物質を取り去りたいという思いとしてあるんですよ。


―― 「福島県では原発は将来にわたり行わない」という文言もあります。


委員長: 電力労連は、未だに、原発の再稼働というスタンスに立っています。それは、「もう原子力はたくさんだ」という思いとは違うわけだから、難しいわけです。
そこで、ちょっと限定をして、「福島県では」となっているのはそういう意味なんですね。「福島県ではもうやめよう」と。
 もっとも、ここには、全国に向って言っているという意味もあります。そこが、ひとつ大きなポイントなのです。
 福島と同じ様なリスクや運命が、原発を持っているところには、等しくあると思うんです。福島だけの問題だなんて言われたら困ります。そこら辺も発信したいと思います。
「福島県では原発はもうやらない。あなたたちの県ではどうするのですか」という思いを、突きつけたいという気持ちがありますね。
 私の個人的な思いとしては、原発のある道府県は、全て最終処分場を引き受けるしかないと思っています。モンゴルに持っていくなんてひどいことを言っているでしょう。
 そこに住んでいる人間の覚悟として、最終処分場まで引き受ける覚悟がなければ、原発をやってはいけないんですよ。福島県は10基も原発を作ってしまったけど、福島県民として、最終処分場までやるという覚悟までしての決断だったのか。もしそこまで考えたら、誰も原発はやらないでしょう。
 30年・40年ではなくて、何十世代にもわたることです。これは、どう考えても、ご先祖様にたいして申し訳ないし、将来の人にたいしても申し訳ないことでしょう。


―― 3・11集会はどういう陣形になりそうですか。


委員長: 私たちは、ずっと準備会をやってきて、農協とかいろんな団体に入ってもらいたいと努力中です。
 労働組合も、生産者の団体もというのが理想なんですけどね。
 私の考えだと、一番ダメージ受けたのは、この土地を使って生産をしている方々、農業・畜産ですよね。その方たちの声を聞きたいですね。



資本の論理に抗して



委員長: 私は、集会などでよく言うんだけど、農業は、土を作るのに、10年はかかるでしょう。それは、結局、経済の論理から外れているんですよね。「儲ける、儲けない」の話だと、1年とか半年でしょう。10年をかけないとできないものが大事なんだけど、そういうものを原発は潰してしまったんですね。
 おかしいのは、10年もかかるものが安くて、1年でできるようなものが高かったり。価値基準がまったくおかしいですね。ひっくり返っていると思いますよね。
 きれいなで安全な水とかが、ほんとは非常に価値が高いはずですよね。それに比べて、ICチップなんかは価値が低いと思います。価値の新しい基準が必要だと思うんです。


―― 資本主義の限界が、こういう形で見えているということに、もういい加減、気づかないといけない。そういう非常に大事な警告ですね。脱原発のスローガンの基底に流れる思想にかかわることだと感じました。



【Ⅴ】 権威を疑い、自分で考える



―― ところで、学校では、何を教えられているのですか?


委員長: 私は英語なんですよ。
 もっとも、私も、変わってますから。大学にも6年もいたし、学生運動みたいなこともやりました。
 大学は、千葉大学です。しかし、入ったのは、理学部物理学科、出たのが人文学部の哲学科。それで、公務員をやってから、教員の免許を取り直しました。
 もともと、東京・葛飾の生まれなんです。「三丁目の夕日」みたいな生活をしていました。


―― 福島に赴任されたのは?


委員長: 大きな理由の一つは、東京のごみごみした生活に疲れたというのがあるんですよ。できれば、福島のように、空間がうんといっぱいあるところに来たかったというのがあります。


―― どういう思いで教員に?


委員長: 教員なんて、なる気はなかったんですよ。
 中学校のときは、教員なんて、「権力の手先だ」と思っていました。「先公」と「ポリ公」と同じ言い方をしていました。私が中学生の頃は、それが普通でした。
 ただあることをきっかけに、30歳近くになってから、自分の根本的な考えやものの見方が、中学生の時代のある教員との出会いに大きく影響されていたことに気づきました。それから、教員をめざしました。
 極端ないい方かもしないけど、「結局、教員は、国や文部科学省の枠の中にいる」と判断できる子どもが育てばいいと思っています。
 「教員だって間違えたことを教えるし、国もとんでもないことをするんだ。だから簡単に信じてはだめだ」という気持ちを持って卒業してもらう。これがすごく大事だと思っています。何かものを考えるときの基本なんですね。一回は疑ってかかるという姿勢をどこかで持ってないと、こわいんですよ。このことを中学生時代のその教員に教わりました。
 教員として、「本当のことは、自分で調べ、納得のいくまで考えて、自分自身で責任を持って判断しないとだめだ」ということを教えられればいいと思っていました。


―― それは、今の福島の状況や国の問題にたいする委員長の姿勢にも、貫かれていますね。


委員長: そうですね。基本的なスタンス変わらないですね。


―― 今日は、長い時間、ありがとうございました。







関連記事
スポンサーサイト

テーマ:東北関東大震災 - ジャンル:ブログ

  1. 2012/02/18(土) 16:01:21|
  2. パレード・座り込み
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。