福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

酪農家の慟哭   飯舘村

IMGP1890_convert_20111213085515.jpg
(壁にチョークで「原発さえなければ」と・・・/詳細は本文へ/長谷川健一さんが講演で使用した画像より)





 高濃度の放射能に襲われた飯舘村。その飯舘村の前田地区で、酪農を営み、区長を努めてきた長谷川健一さん(58)。現在は、地区の人びとともに、伊達市内の仮設住宅に避難している。長谷川さんは、いま、全国を行脚して、フクシマを伝えている。12月9日、福島市内で、長谷川さんの講演が行われた。

IMGP1896_convert_20111212171222.jpg

 長谷川さんは、スーツで決めているが、話し出すと、声は低く野太く、抑揚があり、訛りも強い。そして、そのお話からは、誰よりも飯舘村を愛し、酪農に打ち込んでいたことがよく分かる。あの日以来の極限状況下の出来事、村民を守るために必死に行動する姿が、眼前に浮かびあがり、そのときの苦しみと悲しみと憤りの気持ちが、心に染みた。
〔主催は、「国際環境NGO FoE japan」。集会では、FoE japanの「避難の権利」確立のための活動報告、長谷川さんのドイツ講演旅行の様子なども報告された。〕



飯舘・前田地区
(飯舘村は、そのほとんどが原発から30キロ圏の外にある。前田地区は約45キロ。なお緊急時避難区域は9月末で解除された。)


あの日、美しい村に放射能が

 私の地区は、飯舘村・前田地区。原発から45キロ。
 飯舘村は、「みんなで頑張ろう」ということでやってきて、「日本一美しい村」の認定も受けた。その第一番目の企画となったのが、私の地区。
 そんな美しい村に、放射能が降った。
 地震・津波の後、飯舘村に1200人ぐらいの南相馬市の人たちが避難してきた。
 私たちは、その人たちを、本気になってケアをしていた。
 ところが、だんだん、「どうも、原発がおかしい」となった。
 3キロ、5キロ、20キロ、30キロと避難が拡大。
 1号機が3月12日に爆発。そして3号機が3月14日に爆発した。


放射能がとんでもないことに

 14日の夜、私は、「このままではだめだ。一体、どうなっているんだ?!」ということで、役場の対策本部に行ってみた。
 「どうなっているんだ?」。
  担当者に聞いた。そしたら―
 「いや~、長谷川さん、大変なことになっているんだ」。
 「なんぼなんだ?」
 と聞いたら―
 「40を越している」。
 40マイクロシーベルト/時を超えている。
 「なに~?!」
 なにって言ったって、俺も、数字はわがんねえわな。無頓着だもの、放射能なんて、全然。
 でも、高いってことはわかった。


菅野村長が「言うな」って

 その部屋を出ようとしたら、担当者の彼に呼び止められた。
 「長谷川さん、ちょっと、待ってくれ」
 「なんだ?」
 「このことを公表しないで下さい」
 「なんで?」
 「村長に、『言うな』って言われている」
 「なにぃ~!」
 私は思った。
 「そんなこと、構わねえ」
 そして、すぐにその部屋を出た。


CIMG3122_convert_20111213085835.jpg
(飯舘村長泥〔ながどろ〕地区の展望台から、約30キロ先の第一原発方向を望む。放射能を含んだ雲が、高原状の飯舘村にぶつかって、雨・雪となって降り注いだ。写真は10月下旬)


15日、地区で緊急集会

 私の地区には、5つの班がある。その班長さんにすぐに連絡をした。
 「いま、放射能が、とんでもねえことになっている。明日、緊急集会、やっから。みんな集めろ」。
 翌15日、6時半、部落の人たちは、放射能のことだからと、みんな集まってきた。
 後からわかったことなんだけど、部落の人たちには「悪いことをしたな」って、そういう思いもしている。そのことは後で話すけど・・・。
 部落の人たちには、私が知り得た情報をすべてぶちまけた。
「いま、放射能が、とんでもないことになっている。
 とにかく外には出んな。とくに子どもは絶対に出すな。
 どうしても出ないとなんないときは、必ずマスクしろ。
 肌を露出すんな。
 帰ってきたら、すぐに玄関で服、脱いじゃえ。
 すぐフロ、入れ。体、きれいに洗え。
 外にある野菜は絶対に食うな。換気扇、回すなよ」。
 そういう指示を出した。


雨が降り、線量計が振りきれた

 さっき、「悪いことしたな」って言ったのは、当時3月15日、集会を開いたちょっと前から、雨が降ってきた。そのあと雪になった。集会が終わる頃には真っ白だった。5センチぐらい積もった。
 ジャーナリストの人たちがたくさん来た。その人たちの映像を見せてもらったら、私の部落の映像もあった。
 3月15日、その人は、伊達市布川地区で、線量計を出して測ってみたら、50マイクロシーベルト/時。これは、飯舘はとんでもないことになっていると、やってきた。
 そして、飯舘に入って来て、すぐに私のところの部落。まさに私の部落の集会場のところで、その人は、車を停めて、線量を測った。
 その線量計は100マイクロシーベルト/時までしか測れなかった。それが針を振り切ってんだ。その映像を、私は、見せられた。
 だから、部落の人たちは、みんな車を降りて、雨に濡れながら、集会に来てくれた。そのことを、「悪いことしたなあ」って、いま思っている。


「たんこぶ」、つくるべ

speedi画像

 (SPEEDI〔緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム〕の画像を示しながら)どういう神様のいたずらだか、わがんねえけど、飯舘村に、まともに来たわけだ。
 それから、テレビ局、ジャーナリストが次々、来る。俺はどんどん発信した。
 俺は、ただの一村民だ。なんの権限もねえ。俺、これしかできねと思った。
 で、同心円、20キロ、30キロ、おかしいべえって、そんなの。
 私は、「たんこぶ」という表現をした。
「20キロから、たんこぶ、つくるべ。
 なんで、ここはこんなに線量が高いのに、ここを(避難区域に)含めねえんだ」。
 どんどんメディアで発信した。
 ・・・だめだったな。新聞、テレビ、ことごとくカット。
 でも、最終的には、私が言った通りに、この部分が、計画的避難区域になった。


CIMG3121_convert_20111212192834.jpg
(飯舘村飯樋〔いいとい〕地区。写真は10月下旬)


御用学者が続々と来て

 県の方で、バスを用意をしてくれた。栃木県の鹿沼市に、「希望者は避難をして下さい」と。強制できないわけだから。
 私の地区は、地区民が250名、そのうち、バスに乗ったのは35名。あとは、自主避難を選んだ。
 だけどなかなか避難しねえんだ、これが。目には見えない、臭いもしねえ、体だってなんともねえ。
 それにたいして、国も県も村も、「あぶねえよ、危険だよ」ということは、一言も言わなかった。
 それどころか、御用学者を、どんどん入れたわけだ。
 で、「大丈夫ですよ、心配ありませんよ」ということを、言い続ける。
 村長はそのたびに「いやあ、安心しました。ありがとうございました」って言ってるわけだ。


1000マイクロでも子どもが外に

 4月3日。線量の高いところに5軒の酪農家がいる。私も酪農家。そこが心配だった。
 そこで、長泥(ながどろ)地区に行った。ジャーナリストの方が測っていた。
 雨どいの下の線量、1ミリシーベルト、1000マイクロシーベルト。
 これ、とんでもないこどだべ。
 だけど、外見ると、子どもが外で遊んでいる。洗濯物も外に干してある。大人たちも、外で、仕事している。
「なんたるこっちゃ」
 すぐその足で、役場の対策本部に行った。
「村長、いっか?」
 いなかった。議長と副議長がいた。彼らに言った。
「いま長泥に行って来た。とんでもねえことになっている。
 外でも子どもが遊んでんだぞ。なんでおめえら、避難させねんえだ。
 おれらはいい。子どもたちだけでも、何で避難させねえんだ」。
 思いきり言った。


「人をコケにすんな」ってみんな怒った

 そしたら、彼らは、なんて言ったと思う?
「長谷川さん、そんなこと言ったって、大学のエライ先生方が来て、『安心だよ、安全だよ』って言ってんだぞ。
 おれら、これ以上、なにすんだ。
 原子力保安院まで来てんだぞ。
『大丈夫だよ』って言ってんだぞ」。
 俺は言い返した。 
「おめえら、いい加減にしろ。
 原子力保安院が来るってことは、あぶねえから来るんだぞ。
 安心なところには誰も来ねえぞ」。
 だけど、避難ということは叶えられなかった。
 4月10日、また近畿大学の先生が来た。住民の前で「安心です。大丈夫です」。「マスクもいらない」って。
 次の日、4月11日、「(計画的避難区域の指定が発表されて)ほれ、逃げろ。ほれ、避難しろ」と・・・。
「人をコケにすんな」って、みんな怒ったぞ。


村長「放射能の中で生きる術は?」 

 他方で、3月末に、京大の今中助教のグループが入ってきた。
 さーっと飯舘村を調べた。すごい数値が出てきた。
 そこで、村長に提言をするわけだ。
 「飯舘村、危ないですよ。とにかく避難した方がいい」。
 村長、何を言ったと思う?
 「この数値、公表しないでくれ。頼むから」。
 そして、今中さんは、逆に、村長から質問されたそうだ。
 「放射能を浴びながら、ここで生活する術はないか?」
 ・・・そんなこと、あるわけねえべ!


涙を流しながら自分たちで決断 


 3月12日から6月6日まで、牛乳を捨て続けた。
 「計画的避難区域の設定で、牛は飼ってはだめですよ」と言われた。
 「牛は、移動したらだめ。人間は避難しろ」って。
 「どうすんだ!?」。
 それで村の酪農家に集まってもらった。一人じゃだめだ。夫婦で集まれと。
 いろいろ話し合った。
 で、最終的に廃業という決定を下した。
 だけど、そこで俺は、「廃業という言葉は使うなよ」と。廃業とはそこで辞めること。そうすると賠償問題で和解ということが出て来る。だから、「廃業」ではなく、「休止」という言葉を使おう。1回、ここで辞めよう。そして、飯舘村がまた安全になったら、また、みんなで始めよう。そういう決断をした。
 われわれは、国・県・村・JAからは、一切、フォローをされなかった。
 自分たちで、涙を流しながら、決断をした。「牛を辞めよう。だめだ」と。

IMGP1886_convert_20111212175117.jpg
(酪農家の議論/長谷川さんが講演で使った画像)


連れて行かれる牛をみんな追っかけた

 自分たちで決断をしたとはいえ、情けなかった。これは。
 「牛2頭を、屠畜(食肉用に殺すこと)して下さい」と言われた。そこから放射性物質が検出されなければ、全部、殺してもいいよって、屠畜していいと。われわれ酪農家は、そこに進むしかなかった。
 奥さん方、みんな、「ごめんね。ごめんね」って。牛、連れて行かれる場面で、みんな追っかけた。
 私は、酪農家の代表として、みんな立ち会ったけど、「なんたるこった。こんなこと、ほんとに、この世の中にあんのか」って思った。

IMGP1888_convert_20111212175355.jpg
(別れ際、牛に涙を流しながら話しかける女性/同上)


国会まで走った

 約60頭ぐらい処分されてから、私は―
「これ以上だめだ。こんなこと、やってらんねえ。もう殺さない」。
 思い切り走って、国会まで行った。
「俺、牛、殺さないぞ~」。
 そうして、5月25日に、ようやく、移動制限を解除にしてもらった。
 それはみんな喜んだ。もう牛、殺さなくて済むわけだから。
 そうして、飯舘村の外の酪農家に乳牛は引き取られていった。

IMGP1889_convert_20111212175745.jpg
(大事に育てた牛を見送りながら涙する青年/同上)

 これは、長泥地区の田中君。
 彼は、東京生まれの新潟育ち。牛がやりたくて、やりたくて、長泥地区に入植した。今年で10年の節目。
 牛が連れて行かれた。・・・泣いた。


「原発さえなければ」と仲間が自死


 やっと「安心したなあ。牛はいなくなったけど」と思っていたとき、もっとも恐れていたことが起きちゃった。
 飯舘の隣の相馬市の酪農家。私の友人だった。
 彼は、「原発さえなければ」と、こういうメッセージを残して、逝っちゃった。

IMGP1891_convert_20111213090054.jpg
(壁にチョークで走り書きした遺書が/同上)

    ねえちゃんには、たいへんお世話になりました。
    長い間、お世話になりました。
    私の限度を超しました。
    2011年6月10日PM6時30分。

    ごめんなさい。
    原発さえなければと思います。
    残った酪農家は原発に負けないで、頑張って下さい。
    先立つ不幸を・・・
    仕事をする気力をなくしました。

 こういうメッセージを残して、彼は、逝っちゃった。
 彼には、7歳と5歳の息子がいた。
 これは、こういう講演活動ということで、遺族の方々の了解を得て、使わせてもらっている。
 そして、時を同じくして、私の隣の部落の102歳のおじいちゃん。
「お前ら、避難しなくちゃなんねえんだべ。俺がいたんでは、足手まといだべ」。
 自らの命を絶った。
 南相馬市では、93歳のおばあちゃん。
 「私は、お墓に避難します」。
 こういうことが、どんどん起きていった。
 これからも、起きるやも知れない。


執行部は放射能を甘く見ている

 いまの飯舘の田んぼは、村の人たちが、「みっともない。こんなことにしておけない」って、被ばくを覚悟で、みんな、草、刈っちゃった。
 いま、田んぼについては、きれいになっている。 

◇見守り隊

 飯舘村民の有志300名が集まって、24時間体制で、「全村見守り隊」をやっている。
 先日、見守り隊のお手柄があった。空き巣、一件、ご用にしちゃった。
 夜、ずっーと行ったら、避難して、人がいないはずの家の二階に、明かりがチラチラ見える。
 あれって、思って見たら、見慣れない車がいる。
 110通報して、5分もしないでつかまっちゃった。

◇特別養護老人施設

 介護施設には、お年寄りが残っている。
 村長が、「村を守るんだ」、「村で誘致した企業を守るんだ」、「雇用を守るんだ」って言って、「村」にしがみついている。
 その裏で、村民は被ばくを続けている。それが現実だと思う。
 そして、われわれも、特別養護老人施設の人たちを、移動させる方がはるかにリスクが大きいと思って、それで置いた。
 ところが、今になって見ると、介護をするのが若い人たちで、それが通っていくわけ。その辺はどう見るのかなって、すごく私も疑問。
 見守り隊もそう。われわれぐらいの年になれば「いいべ」って、私はいっているけど、中には若い人も行っている。被ばくさ、しにいっているわけだから。
 その辺もこれからキチッとした対応を取って考えていかないと。

◇最大限のリスクを

 はっきりいって、村の執行部は、放射能というものを甘く見ていると思う。
 やっぱり村には、村民を守る義務がある。
 そうした場合に、リスクというのは、最大限のリスクを考えて、決定をしなければならない。そう私は思う。
 それが、今回、ちょっと抜けたのかなという思いがする。


コミュニティを守って

IMGP1892_convert_20111212180844.jpg
(伊達市内の仮設住宅/同上)

 いま私は、仮設住宅にいる。ここに私と女房と私の親二人、4人で住んでいる。
 私は、区長として、前から村に言っていた。
 「仮設に入る人は、行政区単位でまとめろよ。コミュニティを崩したらだめだぞ。必ずまとめろよ」。
 村は、やんなかったな。入居がだんだん始まって、それでもやらないから、これはだめだなと思ったから、自分で動いた。
 自分で5つの条件をつくってみた。
 ひとつは、大きな病院が近いこと。ひとつはスーパーが近いこと。あとは、近くに住宅地があり、コミュニケーションが取れる。あとは、木造のところ。そして、やっぱり自分のふるさと・飯舘に近いこと。
 それでぴったりのところがあった。伊達東(伊達市伏黒)。
 私の前田地区では、21戸の人がここに来て生活している。
 すぐに畑も借りた。みんな喜んで、ニコニコって野菜づくりをやっている。
 

「除染まっしぐら」はおかしい 

 国策として原発を推し進めてきたわけだから、もし事故が起きたらば、その対応ということがきちっと整備されているもんだとばっかり思っていた。
 ところが実際、起きてみたら、「除染は、どういう方法がいいか」とか、今、やっている。
 「なんだ、これは」と思う。
 いま、村では、除染まっしぐらで行っている。「除染するんだ」「村に戻るんだ」って。
 それりゃ、俺だって戻りたいよ。だけど、俺は、村長にたいして、はっきりと申し上げている。
 「除染一本だけではだめだ。村を出る方向、それもいまからシュミレーションして行かないと、だめでしょ」と。私は、ずっと言っている。
 なぜかというと、5年、6年、除染、除染とやっていて、それで、だめだったらどうすんだ。その5年間は、無駄な5年だべって。
 「やっぱり今から、二本レールで、除染がだめだったら、ぽんと乗り換えられるような方法を持たらないとだめじゃないの」。
 いま行政はまっしぐら。村民の声を一切聞かない。
「だめだ、村長。振り返れ。初心に戻れ」。
 こう言っている。
 「村民の声を聞け。みんなでやっぺ」。
 でもいまんとこは、全然聞く耳を持たず。そういう状況だ。


村を出る方向も

 私だって、ふるさとには帰りたい。
 でも、果たしてそれがどうなのか。わかんない。年間被ばくが10ミリシーベルトになったら、帰りたいと言うかも知れない。
 でも、私らは農家。そんな汚染されたところで、農家は何にもできない。
 今、村は、除染について、「家の回りは2年、農地は5年、山林は20年」と言っているけど、それを、除染したとしても、雨風で同じだろうって。私はそう思う。
 例えばコメ。基準値が500ベクレル。じゃあ499ベクレルはいいのって、そういう論法になると思う。
 だけど、われわれ農家は、プライドがある。やっぱり国は「基準値は安全の基準」というけど、われわれは安心という部分があると思う。
 私ら以上の人は帰っても、若い人は帰んない。私も、息子と4人の孫がいる。戻そうとは思わない。そんな若い人が帰って、子育て・子作りなんかできるような環境じゃない。そりゃ、だめだ。
 だとすれば、われわれが飯舘に戻って、われわれが生涯を閉じれば、そこで飯舘村は終わり。そういうことになる。
 だから、やっぱり飯舘村民は、これから何年か後には、そういう決断を迫られるだろうなって、そういう思いがする。


風化と差別に抗して

 そういう中で、一番、子どもたちがかわいそうだ思う。
 広島・長崎の原爆、あのときに差別が起きた。まさにこれから、この福島県、飯舘村、すべてで、そういう差別が起きる。
 いま、私は、全国を歩いて、二つのお願いをしている。
 ひとつは、絶対に風化をさせない。こういうとんでもない事故を。
 もうひとつは、差別が起きない社会づくり、差別ができない社会づくり、そういうものを、これから、みんなで、やっていかないとだめなんだろうなって、私は思う。
(了)





関連記事
スポンサーサイト

テーマ:東北関東大震災 - ジャンル:ブログ

  1. 2011/12/12(月) 16:33:29|
  2. 飯舘村
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3
次のページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。