FC2ブログ

福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

全村避難から約5カ月  飯舘村の現在    

 

CIMG3081_convert_20111017153704.jpg

 10月の飯舘村。小高い山々、その間に広がる田畑。
 たびたび冷害に襲われながら、米と野菜と牛と花の複合経営に取り込み、豊かな村をつくってきた。


CIMG3103_convert_20111017153908.jpg

 しかし、いま一面に広がるのは、耕作の断念を余儀なくされ、荒れ果てた田畑だ。
 いうまでもなく放射能汚染のためだ。



雨どいの下 100ミリ


IMGP1464_convert_20111017154052.jpg

 10月11日、短時間だが、「愛する飯舘村を還せ!! プロジェクト」の佐藤健太さんに、飯舘村を案内してもらう機会があった。
 佐藤さんのご自宅を見せてもらった。

IMGP1459_convert_20111017161451.jpg

 佐藤さんは今、福島市内に避難を余儀なくされている。
 飯舘村の自宅には、3匹の犬たちが。大喜びで出迎えてくれた。イノシシの猟犬だそうだ。福島市内から、お父さんと交代で、餌を与えに通っている。

IMGP1458_convert_20111017154245.jpg

 家の雨どいの下の放射線量を測定した。
 見えにくい写真だが、102マイクロシーベルト/時と表示されている。
 誤作動ではない。これが10月11日現在の数値。
 事故以前だったら、原発の中で、かなり厳しく管理されたところにしか、こんな線量はなかった。それがいま目の間にある。3月には同じところで、300マイクロシーベルト/時を超えていたという。
 ここに8日間いるだけで、被ばく線量は20ミリシーベルトを、40日間で100ミリシーベルトを超える。しかもそれは、外部被ばくだけの話だ。
 
 3月11日、地震で飯舘村も大きく揺れ、電気も携帯電話も止まった。その後、沿岸部からの避難者が、飯舘村にぞくぞくやってきた。避難所が開設され、村民が総出で、救護・支援にあたった。佐藤さんも「助けられる。助けないと」という思いで、消防団の一員として奮闘したという。
 ところが、避難者の多くは、津波被害よりも、原発事故からの避難だった。そして、飯舘村から、さらに西へ避難していった。それを見て、すごく不安になったという。
 14日に3号機、15日に2号機・4号機が爆発。南相馬市から川俣町の方に抜ける県道12号線が、避難の車で大混雑していた。
 このとき、佐藤さんを始め、飯舘村にいた人びとは、大量に放射能を浴びていた。
 ただ、そのときは知識もなく、放射能のことは漠然としか分からない。線量計で村内を測定し数値も出たが、その数値の意味が分からなかった。だから、不安に駆られながらも、「まさか、飯舘村まで避難することにはならないだろう」と思っていたという。
 その後、長崎大の山下教授など、権威といわれる先生たちが次々と村にやってきて話をしていった。「安全です。子どもも問題はない」と。

 ところが、4月に入って、一転、飯舘村を計画的避難区域に指定するという話になった。
 その転換の背後には、日本政府にたいするIAEAの働きかけがあったらしい。IAEAに言われるまで、国は、飯舘村の村民を避難させるつもりはなかったのだ。
 国は、放射能拡散の予測もしていたし、実際に現地に来て放射線量の測定も行っていた。だから、福島第一原発から北西方向に位置する飯舘村に放射能雲が流れて、村民らが被ばくしていることも分かっていたはずだ。
 どころが、そのことを村民には知らせなかった。知らせないどころか、「安全です」という言葉で言いくるめようとしていた。
 佐藤さんは、「あの『安全だ』という話は何だったんだ」という憤りを禁じ得ないという。



山下教授と経産省の官僚


CIMG3108_convert_20111017155243.jpg
(飯舘村役場。現在、役場機能は福島市飯野町に移っている)

 村役場に災害対策本部が設置された。その本部長は菅野村長だったが、山下教授や経産省からきた30代の官僚が、村長を常に取り囲むようにしていたという。
 私たちは、テレビで、苦悩する菅野村長の姿を何度も見てきた。しかし、そのテレビに映らないところで、山下教授や官僚が、村長を取り囲んでいた。
 緊急事態に際して、村長をサポートするという名目だろうが、それだけでないことは想像に難くない。

 山下教授は今はいないが、この官僚は今も役場にいるそうだ。
 この官僚について、比較的最近のエピソードを、佐藤さんが話してくれた。
 「おしどり」という2人組のお笑い芸人がいる。彼らは、原発事故以降、反原発デモに参加するとともに、政府や東電の記者会見に足を運び、それをネタにエッジの利いたしゃべりで注目されている。そのため広告代理店に睨まれ、担当するテレビ番組が打ち切りになったという。そんなおしどりと佐藤さんら飯舘村の青年の間に交流が生まれた。
 ところが、この官僚が、佐藤さんにたいして、「おしどりと付き合うな」という趣旨のことを言ってきたという。

 どれも飯舘村をめぐるほんの一断面に過ぎないが、ここから、国・官僚や山下教授らが、原発事故に際して何を考えたかが垣間見える。
 彼らが、原発事故発生で心配したのは、住民の被ばくではなく、国の秩序が揺らぐこと。そして、国の秩序を守るためなら、住民がいくら被ばくしても仕方がないと判断した。そうとしか思えない。そのためなら、放射能が降り注いでいても「安全です」と言うし、役場に乗り込んで村長をコントロールするし、言論にも介入するということなのか。



村のつながりと村民の健康


IMGP1470_convert_20111017155441.jpg

 上の写真は、村役場前に設置されている線量計。
 菅野村長は、この線量計に表示される数値が高いことを嫌って、あるとき、スイッチを消すように指示したという。
 菅野村長自身は、全村避難に反対していた。もちろん国・官僚や山下教授に、単純に同調したわけではない。菅野村長は、村長なりに考え、避難によって、村のつながりが壊れてしまうことを恐れた。
 たしかに村のつながりは大切だ。しかし、これだけの放射能が降り注いでいる中で、村民の健康よりも村のつながり、という話にはならない。
 佐藤さんらは、山下教授や官僚たちにたいする厳しい見方とは違うが、村長の姿勢にも疑問を呈していた。

 ところで、放射線量に関して言えば、役場前に表示されている数値は、これでも低い方だ。
 上述した佐藤さんの自宅のように、公式の測定に出てこないが、高線量の場所がいたるところに存在している。
 また、文科省の公式の測定でさえも、たとえば、長泥地区のアスファルト上で、10マイクロシーベルト/時前後の数値だ。

CIMG3128_convert_20111017155828.jpg
(長泥地区に設置されている文科省のモニタリングポスト)

CIMG3126_convert_20111017155554.jpg
(地区の掲示板に掲示された空間線量。毎日、10時頃に数値が貼り出される。この写真を撮影したのは16日で、13日から16日の数値が出されていた)



高線量下でも工場が操業

 
 震災前6千人余がいた村民は、いま現在その大半が避難。村内に残っているのは、約200人。特別養護老人ホームなどにもお年寄りがいる。
 しかし、実は、昼間は、8社の企業の工場などが操業している。また見守り隊が350人ぐらいいる。昼間の人口は1000人を超えると思われる。

CIMG3095_convert_20111017160707.jpg

 上の写真は、菊池製作所という東京に本社のある精密加工の工場。カメラの電子部品などの加工をしている。村の中にいくつか工場があり、約250人が勤務。
 村の外に避難している若い人たちが、昼間だけ出勤してくる。
 従業員には、線量計が持たされている。しかし、これには、問題がある。
 ひとつは、線量計をつけているのは、工場にいるときだけということ。
 いうまでもなく、被ばくするのは、工場にいる間に限ったことではない。福島市内に避難している人も、そこで被ばくしているし、通勤の過程も被ばくしている。しかし、会社は、そのことを関知しようとしない。
 もうひとつは、積算の被ばく量が20ミリシーベルトを超えた段階で解雇されるということ。
 放射線管理区域でもないのだから、20ミリシーベルトどころか、年間で1ミリシーベルト以上の被ばくは法律上、許されない。しかも、そういう環境で働かせておいて、20ミリシーベルトを超えたらと解雇というのは、二重に不当だ。ここには、原発の作業員の雇用実態と同じ問題がある。
 福島県の最低賃金が低い(657円 10月現在)上に、原発事故と全村避難という困難の中で、こういうことがまかり通っている。



健康生活手帳のとり組み


 佐藤さんらは、いま、村民にたいする「健康生活手帳」というとり組みを始めている。
 3月の原発事故以降、それぞれの村民が、「いつ、どこで、何をしていたか」を記録しておく作業だ。
 3月、あの放射能が降り注いでいるとき、何も知らされずに、その下にいた。全員が被ばくをさせられた。「あってはならないことだが」と前置きしつつ、健康被害が出る可能性も否定はできない。そのとき、どうやってたたかうか。
 幾多の公害訴訟がそうであったように、その被害と原発事故との因果関係を立証することは容易ではない。それをいいことに、国や東電は、被害者をどんどん切り捨てる。そういうことが容易に予想される。
 だから、佐藤さんらは、もしもそういうことが起こったときのために、たたかうための武器として、「健康生活手帳」をつくり、村民に記録を呼びかけている。
 そして、「健康生活手帳」に記録するという作業を家族や仲間同士で行うことで、全村避難で失われた村民同士のつながりを、回復するきっかけにもなればと期待している。
 
 佐藤さんは29歳、「飯舘生まれ、飯舘育ちの生粋のビレッジボーイ」という好青年。
 その佐藤さんのお話を聞いていて、佐藤さんら飯舘村の村民が、とてつもなく大きな困難の前に悪戦苦闘しているように感じた。
 放射能を浴びさせられるという、想像もしなかった事態。そして、ひとつの村がバラバラにされてしまうという事態。国や東電は、その苦しみや痛みを全く意に介していない。
 そういう国や東電と対峙し、必死に声をあげ、抗議している。
  飯舘村の現状と困難を、私たちはまだほとんど共有できていないと感じた。




関連記事

テーマ:東北関東大震災 - ジャンル:ブログ

  1. 2011/10/17(月) 15:14:15|
  2. 飯舘村
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
前のページ 次のページ