福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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原発は東京へ持っていけ  畳看板を出した新妻完之(さだゆき)さん


震災から約1カ月後の4月7日、福島第一原発から約30キロ圏に近い国道6号線沿いに、「原発どこかえ もってけ」と、大書した畳の看板が出た。
6号線は、もともと江戸と仙台を結ぶ陸前浜街道。福島第一原発の建設工事の際、アクセス道として拡幅・整備された。いまは事故処理作業にむかう東電や自衛隊の車両がひっきりなしに通る。
そこに畳看板を出した新妻完之(さだゆき)さん(68)を訪ねた。


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太平洋に面して、南北にのびる波立海岸。堤防に沿って国道6号線が走る。その道沿いに久之浜町田之網地区の集落がある。
いまは穏やかな海が広がっているが、3月11日、津波に襲われた。国道沿いの家はほとんど全半壊。1階を津波が突き抜け、柱だけが残っている状態。同地区約100戸で5人が亡くなり、3人が行方不明だという。
その上に原発事故だ。
新妻さんも、水素爆発直後から2週間、いわき市南部の娘さん宅に身を寄せた。そして、いまは近くの知人宅から、昼間、壊れた家の修復に来ている。そこでお話を聞いた。
新妻さんは、3歳のとき、東京から、親の実家である田之網に戦争で疎開してきた。そしてここで育ち、地元の製造業で40年働いた。「私はここに愛着がある」という。
単刀直入に、「あの看板をだされた気持ちを聞かせて下さい」と切り出すと、「座って話しましょう」と、作業の手を休めて、材木の上に座るように勧めてくれた。
〔以下、新妻さんの話〕

       ・  ・  ・  ・  ・  ・

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現場にいない記者会見


ニュースで、東電とか大臣の記者会見をやっているけど、東京にいて何でわかるの。地元が放射能でこれだけ逃げ回っているのに、どうして東京で記者会見できるの。ファックスとか電話だけでどうして答弁できるの。
こんな大惨事で、世界のフクシマになってしまっているのに、記者会見が、何で10キロとか20キロのところに、現場事務所をおいてやれないの。
それを見ていて、わたしはもう腹わたが煮えくりかえってね。



石原・天罰発言


もうひとつは、東京都知事・石原慎太郎。あえて呼び捨てにするけど。「津波は天罰」と発言。
津波で何十万人(が被災)でしょ、そして原発でしょ。いまだってみんな逃げ回っているんだから。かわいそうだよ。家を捨て、牛・馬・豚・鶏…みんな殺処分でしょう。かわいそうだよ、あれは。
そういう中で、ああいう言葉は…。もう心が張り裂けそうになってね。
あの言葉は、おれは絶対に許さない。あとで謝罪して撤回したみたいだけど。一回言ったら、消えないからね。腹にあるから出たんだ。撤回したって、絶対に許さない。
地元の人らにとって、あの言葉は一生、頭から離れないし、消えない。



東京へもっていけ


東京電力の電気は、地元では使ってないんだから。1ワットも。みんな東京さ、引っ張っていくわけだから。それが三つ目の腹が立ったことさ。
畳に「原発はどこかえもってけ」と書いた。本当は、「原発は東京さもってけ」と書きたかった。
だけど、東京の人がみんな悪いわけではないんだから、「どこかえもってけ」にした。だけど本当は「東京へもってけ」と言いたかったわけ。



ムシロ旗


通る車に、チラシを配るんでも良かったんだけど。そんな暇もないし。それで、ちょうど家の流れた畳を、そこ(6号線)の下り線・上り線のどっちからも見えるように、2枚ずつ立てた。
江戸時代は、ムシロ旗に書いたよね。それが一番いいんだろうけど、それじゃ雨風で飛ばされちゃうから。それで、畳にすれば、残るんじゃないかと、畳1枚に一文句づつ、「原子力はいらない」「原発はいらない」と書いてね。




原爆投下と原発


原発が来たのが40年ちょっと前(1966年に1号機の設置許可)かな。私が20歳ぐらいのとき。
「原発? 原子力? 広島や長崎があれだけ戦争でやられて、原爆を落とされて、なんでまたそれを福島にもってこなければならないのか」と、そういうふうに私は思っていた。
まだ社会のことはわからなかったけど、そういう危ないものをどうしてここさ、もってこなければならなかったのかなと思っていた。回りもみんなそう。
原子炉というのはどういう設備で、どういう風にやるという説明もなく、「ただ原発ができるようだ」ということを聞かされただけ。
そして結局、いま被害を受けている。しかも、放射能のこともあって、(久之浜は)復興がいちばん遅れている。
そういう諸々の思いがあって、畳に書いた。
近所の人もみな同じ気持ち。「完之君、よくあげたなあ」って。

       ・  ・  ・  ・  ・  ・


胸の内が晴れた


新妻さんの話は、静かで丁寧な調子で始まったが、次第に怒気を含んで、声が大きくなっていった。
その憤りは、政府や東電に向けられているとともに、福島に原発を押しつけておきながら、そのことに無関心できた都市の人びとにたいする糾弾でもあった。そして反原発がお題目に過ぎなかった左翼にも。
しばらくして厳しい語り口から、また穏やかな調子に戻って、「話をして、少し胸の内が晴れました」と言ってくれた。



何者かが撤去


実は、畳看板は今はない。5月7日、朝、新妻さんが、いつものように家の片づけに来たら、番線が切られ、畳がなくなっていた。「だれが持っていったかわからないけど、普通の人じゃない。東電の人か。ひとりではできないから」。
当初、「取られても、何度でも立てるぞ」と思っていたけど、いまは少し考えている。「いま原発の現場で作業している人は頑張っている」。この人たちは、大臣や東電幹部とは違うと思っている。「(畳看板を)外した人がそういう人だったら、わかる気もする」。
いずれにせよ、新妻さんや田之網地区の人びとの原発と政府・東電にたいする憤りは収まるはずもない。やがて、畳看板撤去の真相が見えてくるとともに、より大きな怒りが、より大きな方法で叩きつけられるに違いない。

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テーマ:東北関東大震災 - ジャンル:ブログ

  1. 2011/05/17(火) 16:21:01|
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