福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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原発事故  そのとき病院が直面した現実   ――ある医療従事者の体験


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 東日本大震災と原発事故発生から2年。
 あのとき何が起きたのか。
 原発推進の流れが強まる中、忘れてはならない事実のひとつを記録しておく。 



震災関連死


 東日本大震災の犠牲者数は、死者15,861人、行方不明者2,939人。(昨年6月、警察庁)
 さらに、直接の地震・津波による犠牲ではなく、避難過程や避難生活の中での体調悪化、あるいは自死などによって亡くなった「震災関連死」が、3,004人。(昨年12月、復興庁)そのうち福島県内での震災関連死が、1,184人と全体の約4割。とくに原発事故による避難区域がかかる双葉郡8町村と田村市、南相馬市、飯舘村の11町村での震災関連死が合計で1,051人と、全体の9割近くを占めている。


  
20キロ圏内の病院で


 当時、福島第一原発から20km圏内には7つの病院が存在しており、原発事故によって避難を余儀なくされた。そこで起こった事態について、『国会事故調報告書【本篇】』(東京電力福島原子力発電所事故調査委員会)では、以下のように記述されている。

 「福島第一原発から20km圏内には、大熊町、双葉町、富岡町、南相馬市の5市町に7つの病院が存在する。県立大野病院(大熊町)、双葉病院(同)、双葉厚生病院(双葉町)が5km圏内に、今村病院(富岡町)、西病院(浪江町)が10km圏内に、市立小高病院(南相馬市)、小高赤坂病院(同)が20km圏内にある。事故当時これらの7つの病院には合計約850人の患者が入院していた。そのうち約400人が人口透析や痰の吸引を定期的に必要とするなどの重篤な症状をもつ、又はいわゆる寝たきりの状態にある患者であった」
 「当委員会の調査によると、平成23(2011)年3月末までの死亡者数は7つの病院及び介護老人保健施設の合計で少なくとも60人に上った。『震災後の避難前の時点』から『別の病院への移送完了』までに死亡した入院患者数は、双葉病院38人、双葉厚生病院4人、今村病院3人、西病院3人であった。また、双葉病院の系列の介護老人保健施設の入所者は同病院の患者と一緒に避難したが、そのうち10人が死亡している。なお半数以上が65歳以上の高齢者である」〔下線は引用者〕

 『国会事故調報告書』では、7つの病院及び関連施設において発生した苛酷な事態について、一定の紙幅を割いて、事実と原因の究明を行っている。また、もっとも犠牲の大きかった双葉病院については、『なぜ院長は「逃亡犯」にされたのか 見捨てられた原発直下 「双葉病院」恐怖の7日間』(森功著 講談社 2012年3月11日)において、克明な取材が行われている。


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imr003.jpg〔散乱するベッドや車イス。避難時の修羅場が想起される/写真は双葉病院、上下とも〕


 
ある医療従事者の体験


 本稿では、第一原発から9キロ、第二原発から3キロにある今村病院に当時勤務していた佐藤慎司さん(仮名 30代)の体験を紹介する。
 佐藤さんは、その日も通常通り出勤し、事故に遭遇し、患者の避難に奮闘した。 
 佐藤さんと初めてお会いしたのは8カ月ぐらい前。原発事故下の病院で体験したことを話してくれたのだが、当初の話は記憶が錯綜し感情も起伏して、インタビューとしてはなかなか難しかった。苛酷な体験である上に、自分を責めるような気持ちがあったからなのかも知れない。
 事故から2年、ようやく佐藤さんが事故当時の体験を落ち着いて話せるようになった。
 あくまでも、一人の医療従事者の体験を通してだが、佐藤さんは、次のように訴える。
 「『放射能で死んだ人間はいない』なんて言うけど、実際にはウチの病院をはじめ、たくさんの人が避難やその後の負担で命を落としているわけだから。・・・原発再稼働に賛成とか反対とか、安全基準だとか、いろいろ議論されているけど、『ひとつ、原発事故が起こったら、こんなに犠牲が出るんですよ』ということを考えてくれたら、結論は、やっぱりはっきりしているんじゃないかと思うよ」

 以下は、佐藤さんのお話を整理したもの。なお、事実経過をわかりやすくするため、適宜、数字的な事柄や時系列的な記録、『国会事故調報告書』の引用などを挿入した。


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〔医療法人社団邦諭会 今村病院。福島第一原発から9キロ、第二原発からは3キロの地点にある地域の中核病院。内科、神経内科、消化器科、循環器科、外科、脳神経外科。また、「初期被ばく医療機関」として、「放射性物質による汚染を伴う傷病者の診療に関する覚書」(2006年3月)を東京電力との間で締結している。事故当時、職員総数は90人。入院患者96人でうち重篤患者が67人/写真は今村病院HPより〕



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【Ⅰ】 3月11日14時46分 地震発生





――3月11日はどういう日でしたか?

佐藤:8時半から始まって、いつも通りの1日。強いて言えば、あの日は、学校の卒業式だったでしょう。それで、子どものいる女性スタッフが、卒業式ということで休んでいる人もいて、その分、忙しかったと記憶している。
 地震発生は、午後の診療が始まって、一時間ちょっとたったぐらい。

――富岡町は震度6強でしたが?

佐藤:なんせ初めてだったね、こんなに揺れるのは。よく、立ってられないとか言うけど、ほんとにそうだった。
 で、すごく長かった。普通の地震なら、地鳴りがしてガーとなって、あ、来たなって、ある程度待てば、収まってしまう。それが収まるどころか、徐々に徐々に、強くなっていく一方で止まらない。どうなっちゃうんだ。これは止まんないぞという感じ。尋常じゃない。
 機材なんかが、右に左に動いていた。本当にヤバいという感じ。病棟の詰め所にある棚とかは軒並み全部倒れていた。立っているものはすべて倒れるみたいな。停電にもなったけどそれは数分ぐらい。すぐに非常電源に切り替わったから。
 ただ、これは、ものすごいことになるとすぐに感じたね。

――それは津波ということですか?

佐藤:いや、そのときは、まだ津波のことは頭になかった。
 ただこれだけ揺れたし、たぶん、転んだとか、ガラスで負傷したとか、まず、そういう人がすぐに駆け込んでくるだろうとは思った。
 まず、現状の確保だね。入院の患者さんのこと、あと自分の担当していた患者さんの把握。ある程度、動ける人はいいとして、寝たきりの患者さんの状況。それから外来の患者さんの誘導とか。
 こういうとき、患者さんは、みんな、帰りたいと言うんだね。家が心配だからだろうか、家族のいる人もいない人も帰りたいと。でも俺は、帰らない方がいいって言ったんですよ。たぶん、町の中もパニックっているだろうし、タクシーなんかつかまんない。慌てて帰ったら、かえって危ない。病院にいてもらった方が、安心だからね。
 で、落ち着いて下さいって話しかけて。でも、これは、自分に向かっても言ってるんだよ。われわれまでテンパっちゃうと伝わるからね。


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〔富岡駅。海に接近しており、津波の直撃を受けた/写真冒頭も〕


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津波警報 14:49
津波第一波到達15:27
富岡町の津波の高さ21.1m
富岡町の死者・行方不明者24人
   (死者・行方不明者は2012年11月14日時点/震災関連死122人を除く)

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――すると津波を認識したのは?

佐藤:津波警報が発令されるのはどの時点だったのか、記憶が曖昧。ただ、自分の感覚の中では、津波という情報が入ったのは、地震から30分ぐらいたってからだったような気がする。
 たぶん、病院中が直後の対応に追われていたから、冷静にテレビを見るとか、外部からの情報を正確にとらえられる状況になるには、30~40分あったんじゃないかな。
 なので、「津波がくる」という情報が入って、実際にそのことが起きるまでの時間というのは、15分とか20分だったかもしれない。

――津波の被害は?

佐藤:スタッフの中で犠牲になった人はいない。親戚や知り合いに広げたら、違うけどね。
 病院から海は見えないので、津波を見たか見ないかというと、見てない。ただ、ちょうど病院の南側に富岡川がある。そこの水が逆流していろんなものが遡ってくる。何なんだ、これ?動画の逆再生というのも変だけど、なぜ川が反対に流れているの?どういうことなの?いつもより水かさが3倍ぐらいになって、逆に流れていくんだよね。いろんなものが。車やら建物やらが。
 どうしようもないということがあるんだと思ったな。たまたま、津波の直接的被害が、うちの病院はなかったけど、地震は防ぎようがないし、津波は海と反対側で、高いところに逃げるしかないなと。


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〔流されてきた車両。富岡駅付近〕


◇川に車が

佐藤:で、川を見てたら、流されてる車に人がいる。人間3人と犬1匹。引き波というか、上がってきたものが下がっていくとき、たまたま引っかかったような形になっている。
 みんなは、救急とか、レスキューとかと言うんけど、待ったって来ないと思ったわけ。こういう場合、単純に近くの人が、やるしかないんじゃないかと俺は思った。みんなには止められたけど。何やってんのって怒られた。逆にあんたが持ってかれたらどうすんだ。これから怪我人がどんどん運ばれていくるのに、ということだね。
 でも、俺には「見捨てろ」と聞こえたわけ。
 で、止められたけど、俺は行った。腰ぐらいまで泥に浸かってね。もちろん俺だけじゃなくて、何人も、いろんな形で。例えば水道のホースを投げて手助けしてくれたり。
 その車の一人は、どうもこう動きが鈍かったんで、おかしいなと思ったんだけど、後日、正確な診断で、頚椎損傷だったらしい。自力では脱出できない状態だったんだね。その後、回復したらしいけど。
 ちょうど、津波が起きて、川が増水していたときは雪がちらついていた。風があって。寒かったよ。だから、まともに被害にあった人は、さらに寒かったでしょう。



さながら野戦病院


――怪我人などが担ぎ込まれてくるのは?

佐藤:そうこうしていると、いろんなところから情報が入ってくるわけね。慌てて家に戻ったスタッフとかから連絡が入ってきて、徐々に状況が分かってくる。あそこの道は通れないとか、トンネルが落ちちゃってるとか、どこまで水が入ってきたとか。まあ、いい情報は一つもないけどね。
 と同時に、救急車も入ってきた。続々と。病院はあの辺には他にないからね。
 だから次の作業としては、そこですよ。まずは、スペースの確保。後は、エレベーターとか全部止まっているので、資材から患者さんの運搬から、1階から2階に上げるのも、2階から1階に下すのも、単純にマンパワーですよね。担架なりなんなり。
 津波の人も、地震の人も、いろいろ。ちょっとしたケガの人もいるし、もちろん重症の人もいる。ある種の戦場ですね。一番ひどい状態の人は、最前線にいた人。消防や警察の人で、たぶんぎりぎりまで、海のそばで避難を呼びかけていた人たち。
 最前線の人間だからこそ、そういう目にあってしまった。その人たちに対して、今度はわれわれが最前線じゃないですか。だから、もう逃げるわけにいかない。どうにかできる範囲でできることをやるしかない。お互いが、そういう感じ。
 救急車がついたら、救急隊の方の情報を聞きながら、コミュニケ―ションをとって、「じゃあ、上にあげましょう」とか。救急隊も、われわれスタッフも、若い事務の男の子も、とりあえず手が空いていれば、「担架で運んでやってくれ」「背負っていってくれ」と。もちろん、ドクターやナースは、治療に携わんなくちゃなんないし。

――誰を先に治療するかといった難しい問題は?

佐藤:トリアージね。講義や訓練は受けている。でもトリアージというはフランス語で「選別する」という意味でしょ。「人間を選別する」というのはどうだろうね。
 結局、小さな病院だから、やれることしかやれない。それに、地元の病院だから、患者さんの顔もある程度わかっている。だから、ちょっと切ったとか、そういうケガだったら、「少し待ってね」って。患者さんも、わかるから。みんなそれなりに気をつかったり、考えながらやっていたと思う。
 津波にあった人は、水を飲んだり、泥を飲んだりしている状況で担ぎ込まれてくる。肺の洗浄とかをしてあげられれば、もっと容体を確保できたのかもしれないけど、残念ながらそこまでできなくて、酸素を投入するとか、気道を確保するとか、それしかできていなかったと思う。それが最善とは言わないけれど、あの状況でできうる限りの対応だったと思う。
 さっきもいったけど、その日は、学校の卒業式で、若いスタッフたちの休みが多かった。もちろん、スタッフの数はちゃんと揃えてシフト組んでいるんだけど。やっぱり肉体的な即戦力になる若いスタッフが少なかったね。でも、津波の後、非番のスタッフが応援に来てくれたりもしたからね。


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〔写真上は富岡駅付近/写真下は浪江町請戸付近〕
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【Ⅱ】 11日16時36分 炉心への注水不能





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3月11日
15:42第一原発1、2号機 交流電源喪失
16:36第一原発1、2号機 緊急炉心冷却装置が注水不能
20:03知事、第一原発の半径2キロに避難指示要請
21:23政府、第一原発の半径3キロ内住民に避難指示、
10キロ内住民に屋内退避指示


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そこまでは行かないだろう


――そういう中で、実は原発が危険な状態になっていくわけですが?

佐藤:まず、原発という発想はなかったのね。原発がおかしくなるなんてね。
 とりあえず道路が壊れたと言っても、一日か二日、頑張ればと思っていた。だから、二晩ぐらい泊まって対応すれば落ち着くだろうと思っていたわけ、そのときは。電気が止まっていても、バックアップのボイラーで発電すれば何とかなる。それに二日ぐらい寝なくても死なないしとか。
 だから、その時点で印象に残っているのは、なんせ、ずっと揺れている。止まらない。体に感じる地震がずっと続いている。そして、たまに大きいのが来る。いつ止まるんだって。それに寒い。

――「原発の状態が危ない」という情報はいつ?

佐藤:そのときは、地震と津波で、ある種のパニックのようなものだったから、あまりはっきり覚えていないんだけど、原発のことも、たぶん耳には入っていたんだと思う。いつの時点からとかもはっきりしないし、確定的な話ではなく非常に薄い情報だったと思うけど。
 というか、そういう会話は、あえてお互い口にはしなかった。それに、どっかで希望というか、そうは言ってもそこまで行かないだろうと思っていたのかな。
 たしかに、スリーマイル島とかチェルノブイリとかは知っていたけども、やっぱり対岸の火事と見ていた。それに、ソ連とか、アメリカならまだしも、これだけの技術のある日本でそこまでにはならないだろうというのもあった。安全神話ということかな。

――あえて原発のことを口にしないという気持ちは?

佐藤:それは、やっぱり各々、いろんな気持ちがあったと思うね。でも、患者さんにたいする責任感の方が、上回っていたというか、腹を決めたという感じかな。
 ということと俺の場合なんかは、もう道路が崩落したとか、段差があって通れないとかという情報が入ってきたし、帰ろうにも無理だから、残る外はないなと。



帰るか、残るか


――その時点での対応の指示は?

佐藤:その日の夜の時点で、たしか、小さな子どものいるナースとか、家で介護をしているスタッフは、優先的に帰そう。帰ってもらった方がいい。そんなようなことを言ったような気はする。
 たぶん、院長とか婦長とかというところで話し合って、部署ごとに伝えられたということだったかなと思うけど。
 とにかく自分からも、若いナースには、帰った方がいいという話をしていた。
 自分なんかは家まで遠いけど、ナースたちはだいたい地元で富岡とか川内とかそばで、やっぱり子どもや家族のことが心配だろうし、まず地震であれだけ揺れたんだから、家の中はむちゃくちゃだろうなと、誰でも想像しただろうし。
 だから、まあ、自分は帰らないという腹積もりだったけど、若いナースには帰れってことを言ってたね。それに、帰りたいということを言いだせない人もいたろうし、帰りたいけど立場上、難しい人とかもいる。でも、仕事を取るか、家族を取るかという風にしたらね、家族取るのは、間違いではないでしょう。
 帰る人は、みんな、申し訳ないって言って帰った。そういう気持ちはあったと思う。こっちも感情的な部分は押し殺しているから。そうしないと平常でいられないわけだし。みんな、何とかこらえていたけど、強張っていたと思う。顔そのものは笑ってごまかして、和やかな感じをつくろっているけど、それは見え見えだったね。
 でも、いまでも、よく「誰々は逃げた。逃げなかった」という感情を引きずっている人がいるけど、俺は、そういう気持ちは、いまも、当時もない。

――そうすると残る人と帰る人の数は?

佐藤:その日にいたスタッフは、卒業式でいつもより少なくて50人くらいか。それで、当初のバタバタした状態からひと段落して落ち着いた時点で、半分ぐらいが帰ったと思うな。だから残ったのは25人ぐらいか。

――ご自身の家族は?

佐藤:ある程度、落ち着いた段階で、連絡がだんだん取れてきたんだよね。俺の場合だと、まず、東京の知り合いからかかってきた。
 途切れ途切れの電話の中で、たぶん家族に1回だけ連絡ができたかな。まず無事という確認と、状況が状況だけに、1日で済むのか、2日で済むのか分からないけど、とにかく俺は病院に残るよっていうことは電話したと思う。

――その日の夜は?

佐藤:夜はラジオをつけながら、救急外来にいつでも対応できるようにということで、1階の受付辺りにスタッフは待機していた。
 で、極力、電気を使わないようにということで、みんなロビーに集まっているようにしていた。一階の受付とかフロアーとかに、患者さんを寝かせる状態。ソファとか、患者さんに優先して、使ってもらって。さっき言った「帰らないで」って残ってもらった人もいるし。けど、とにかく揺れていたからね。寝るっていう状況じゃない。





【Ⅲ】 12日15時36分 1号機爆発





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〔双葉病院の正門付近〕




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3月12日
 5:22第二原発1、2、4号機 冷却機能喪失
 5:44政府、第一原発の半径10キロ内住民に避難指示
 7:45政府、第二原発の半径3キロ内住民に避難指示
    10キロ内住民に屋内退避指示
10:17第一原発1号機 ベント操作
15:36第一原発1号機 爆発
17:39第二原発の半径10キロ内住民に避難指示
18:25第一原発の半径20キロ内住民に避難指示


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「何やってんだ」とタイベックが


――原発の深刻な事態を認識するのは?

佐藤:翌日12日の1号機の爆発。そういうことが起きたということを聞いたのは、3時半過ぎぐらいかな。
 「何やってんだ」という感じでタイベックを着た警官が跳びこんで来たのが、たぶん、初めての情報だったと思う。
 テレビなどの情報はなぜかなかった。東電からもなかった。役場からもなかった。
 タイベックを着てたら、異様だわね。いきなり雪崩込んできて、浴びせるように、「爆発したんだから、逃げろ」みたいなことをいきなり言うんだよ。
 「え~?!」という感じ。ほんとに。

――爆発したと聞いて何を考えましたか? 

佐藤:原子炉の機械的なことの知識はなかったけれど、爆発したってことは、イコール放射能が漏れるという考えは浮かぶよね、単純に。
 どれくらいの量で、どういう範囲で、とかわからないからものすごい恐怖。知識がないから、単純な恐怖。知っている人は知っているなりの恐怖感があるんだろうけど、知らない者の恐怖感というもあるんだね。
 ちょっとは覚悟した。「もしかしたら、俺、ヤバいかも」って。
 でも、同時に、ずっと情報が薄い中で、情報らしい情報、具体的な情報が初めて入ってきて、何か救われたような気持ちも半分あった。入ってきた情報は最悪の情報なんだけど。それでも、まだ、「どっかで誰かが対応してくれて何とかなるだろう」と。そのときは、まだそう思ってた。ただ、実際にはそうではなかったということだけど。

――12日の早朝には10キロ圏内にも避難指示が出ていますが?

佐藤:なぜか、知らなかった。教えてくれなかったというか。少なくとも僕のところでは全く。
 まあ、腹は立ったよ。どうしてくれちゃったんだと。国なり、県なり、町の首長なり、東電なり、何で誰も教えてくれないんだ。何やってんのって。
 原発立地地域の病院で、初期被ばく医療機関にも指定されているところなんだから、優先的に情報は来てもいいんじゃないかと思っていた部分がある。
 ところが、真逆だったというか。何も知らなかった。

――やはり、本当に事実はそういうことですか?

佐藤:そう言われると逆に聞き返すんだけど、避難指示とか、みんなはいつ知ったのって。
 国の指示も、マスコミの情報も、俺はやっぱり記憶にない。一番近いところにいるのに。爆発してから言うなよってことだよ。
 もしかしたら、耳に入っていたかも知れないけど。でも、回りのみんなも、避難なんてことで、騒いでいなかった。そこにタイベックが跳びこんできて、いきなり「逃げろ」と。


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富岡町への連絡及び避難指示
事故発生福島第二について10条通報、15条通報を受信
3月11日夜 東電職員2人が状況説明
10キロ避難指示報道や大熊町の防災無線で認知
自治体から住民への避難指示12日朝 富岡町独自に全町民避難指示
避難の詳細12日午前8時頃 バスで川内村へ6千人避難
16日ビックパレットふくしまへ避難
            
(『国会事故調報告書【本篇】』)

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「逃げろ」は飲み込めない


――「逃げろ」と言われたことに対しては?

佐藤:いきなり「逃げろ」と言われてもね。やっぱりみんな、自分だけ逃げたいということはなかったと思うね。ある種の正義感か、責任感か。避難にしても、何にしても、患者さんをどうにかしたいというか、患者を残してその場からという奴はいなかったね。
 「とりあえずに逃げろ」。事態は分かったけど、その言葉は、「患者は構わないから、とりあえず逃げられる人間だけ逃げろ」みたいに聞こえたね。タイベックの警察官の言葉が。その人自身がかなりパニックになっているわな。
 「とにかく逃げろ」と。そうしたら、意思伝達ができて、避難行動がとれる人に限られるわけじゃないですか。「逃げろ」という言葉は、逃げられる人間の言葉であって、それが病院とか、医療従事者の立場からすると、疑問を感じるというか、どうも、飲み込めない言葉なんだな。

――実際の避難の方策は?

佐藤: 警官が来て「爆発した」と言うのと、避難要請的なことは同時進行だったんだと思うのね。大型のバスが2台来て、「それに乗って、逃げて下さい」という言い方だった。
 でも、そもそも、避難なんて無理。国とか県は各病院の自力で、みたいなことを言ってきたわけだけど、どう考ええても不可能。うちの病院の患者さんたちを動かすなら、患者さんの数倍の人と車を投入して、ものすごい時間をかけてやらないと。
 でも実際に来たのは2台。それだけ。およそ、実情に対応していないわけだな。患者さんに対する対応としては、かなり薄いというか、何も考えていない。病院を避難させるということがどういうことなのかについて、国も県も、実際に何も考えていなかったということだ。

――そのバスは誰が手配を?

佐藤:詳しいことはまったくわからない。そんなことをいちいち確認してもどうにもならないからね。


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 富岡町に対するヒアリング=「バスを手配しようとしたが、浜通りのバスはどこも出払っており1台も手配できなかった。12日午後4時に町役場は撤退したが、残された病院は町ではなく『別の対応』がされると聞いた。結果的にそれが自衛隊であり県警だった」
 (『国会事故調報告書【本篇】』)

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座れない人は乗れない 


――バスへの乗車は

佐藤:バスが来るまで何も知らないということは、第一歩からして遅れちゃう。しかも、そもそも、すべて、普通より時間がかかるのに。ウチの病院は、脳卒中の後遺症とか、寝たきりの患者さんが多いわけだから。
 そこに、バスは椅子だよね。で、「椅子に座れない患者さんは、乗せられません」というわけ。そんなことをどこが決めたのか、それが結論なのか。バス会社さんは、「いま、いろんなことでうるさくなってるから、椅子に腰かけてシートベルトつけられない方は乗せられません」ということをはっきり言うわけ。
 じゃあどうする?通路に寝かせていくかとか、いろいろ考えるわけだよ。
 で、次に、「1人の患者さんに対して、看護師さんを1人つけてください」という話が出てくるわけ。理屈はわからないわけじゃないけど、どう考えてもそれは無理でしょう。普段だって、1人のナースが5~6人を相手にやっているわけでしょ。それをこんなときに、椅子に座れない患者さんを乗せないとか、ナースを1人ずつつけろとか。そういうことを言うわけよ。
 さらに、われわれの避難だってある。誰しもその場から離れたいと思うだろうし、「誰が乗るの?私が乗るの?私は乗れないの?」ということになるでしょう。
 単純に「職員が何人いて、患者さんが何人いて」という計算の下にバスを手配しているんだろうけど、それと実際とは全然違う。

―――どういう患者さんが残ることに?

佐藤:結局、言われた通りの範囲の中でやるしかない。
 だから、残念ながら、そのときには乗せていけない方もいた。観光バスが2台来て、座席が余っていても、条件的には乗せられないと。
 自分で歩ける方、介助すれば移動できる方と、全介助で2~3人いないと動かせない方となったときに、一番、状態の良くない方に待っていただくという判断にならざるを得ない状況だった。
 12日の夕方。たぶん、4時とか4時半とかにそういうことをバタバタやっていたんだと思う。

――バスに乗る患者さんとスタッフの数と、乗らずに残った人たちの数は?

佐藤:12日の夕方で患者さんが90人ぐらいで、スタッフが30人ぐらいか。第一陣で避難した患者さんが20人ぐらい。それに同じぐらいの数のスタッフがついて行ったのかな。
なんせ「逃げろ」と言われてバタバタだったから、数字的なことは定かじゃないな。

――その時点で残った患者とスタッフについての方針は?

佐藤:その時点では、1回で運び切れないなら、2回、3回という考えでしたよ。だから最初のバスは第一陣ということだったと思うな。自分は行ってすぐに戻るつもりでしたよ。「まず、患者さんを全員避難させよう」という頭があったから。
 患者で残した人は、みんな全介助で、コミュニケーションも取れない人もいたし、症状としてはかなり重いし、ケアもかなり労力を要するという状態だったね。
 だから、戻るまでの間、何とか頑張ってほしいと。
 あとで、そうならなくなるんだけど・・・。


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 「(入院患者96人のうち)重篤患者67人と病院職員8人を残して、軽症患者にほとんどの病院職員が付き添い、川内村に避難した」
 (『国会事故調報告書【本篇】』)

 「12日:バスが病院に到着し、移動に耐えられると判断された軽症の入院患者が、川内村を経由して郡山市内の高校へ避難した」
 (『国会事故調報告書【参考資料】』)

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【Ⅳ】 バスでとにかく山の方へ





――バスに乗った患者をどこに運ぶか、どこで受け入れてもらうかは?

佐藤:そのときは、たぶん何も決まってないでしょう。何も決まっていないけどとにかく出ると。「どこどこに逃げてください」とか、「どこどこの病院に受け入れてもらえますから」なんて話はないから。ただ「逃げろ」という感じだったと思う。「とりあえず山の方に逃げろ」みたいな。富岡から言うと、山の方というのは、川内とか郡山方面ということになる。
 で、まず、第一目的地としては川内となった。川内村に診療所があるんですよ。そこの施設にお願いする。もちろんナースも何人か残るということだったと思う。
 川内辺りから通っているスタッフもいるし、たまたま、結婚を機にウチの病院を辞めてその診療所に移った人がいたので、患者さんとか家族とか地域の人とつながりがあったから、比較的安心ということもあった。
 軽度の方は川内で降りて、比較的症状の重い方は、それなりの管理された条件がないといけないということで、郡山の病院に連絡を取りながら。で、ある程度、引き取ってくれる病院で何人かをわたして。という作業を、たぶん12日の深夜までやっていたと思う。

――その過程で容態が悪くなることは?

佐藤:そもそも重症の人たちではなかったから、すぐに症状が悪くなるという心配はなかった。逆にそういう心配のある人は、動かさなかった。というか動かせなかった。
 だから、郡山に着くまで、容態の大きな変化はなかったと思う。病院に受け入れてもらってからの状況まで掌握できていないけど、とりあえず受け入れてもらうところまではそういうことだったと思う。

――受け入れが終わったらまた富岡に戻ると?

佐藤:それが、そうならなくなってしまった。どの時点だったかはっきりしないんだけど、郡山辺りで、「自衛隊の部隊が、川内村辺りまで行ってまた撤退した」という話が入ったわけ。
 その時点で、これはほんとにやばいなと思った。
 それで、まずは、川内にいったん降ろした患者さんをもう一度、乗せるために川内に戻ったんだ。
で、自衛隊が撤収するということは、「病院に残してきた人はどうなるのか」ということになる。
 県の災害対策本部というところを中心に、われわれの動き方とか、避難所の情報をもらいながらやってたんですけど、その災対本部から、「放射線量が高いので、近づかない方がいい」と。で、「救出に関しては、自衛隊の方にお任せするしかないでしょう」と・・・。
 自衛隊の方でも、というか災対本部を経由している話だけど、「できる限り、努力はします」と。逆に言うと、「運べないと判断したら、それを了承してください」というニュアンスだったと思う。
 もうわれわれの手ではどうすることもできない。警察とか自衛隊に委ねるしかない。・・・そういう事態だった。
 

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郡山でサーベイ


――郡山に着いてからは?

佐藤:薬とか点滴とか、いろんなものが足りなかったし、カルテも置いてきた。そんな状態で郡山に着いた。で、着いたら、まず、スタッフ全員、患者さん全員、まず機械で放射能汚染の検査。で、「サーベイに引っかかった場合には、患者さんは引き受けません」と言うんだ。これはほんと深刻だなと思った。

――すぐに受け入れ先が決まらない患者さんは?

佐藤:それは郡山高校の避難所に。ドクターとナースがついて。
 僕らスタッフは、郡山高校の患者さんが落ち着くまでついていて、最後は僕らの寝るスペースはないということなんで、郡山北高校に移った。
 で、翌朝からは、とにかく、普段やっているケアをできる限りやるということだね。口から食べれる人だったら、出された食事を与える。胃瘻の患者さんだったら、それをやる。それを持ってきてやっていた。あとは、排泄から、何から、なるべく普段通りに。
 何とか、その人たちを支えることができた。最悪の状態になった人はその時点ではなかったと思う。その後、病院に移ってからのことは、今の時点ではわからない。



3人の方の死亡
  

――国会事故調では、3人の患者さんが亡くなったと報告されていますが?

佐藤:自分が認識している範囲では、12日の段階で残った方が、ベッドの上で亡くなっている。
 パーキンソン病で、嚥下性肺炎を起こして入院されていた70代の方。全く動けない状態。
コミュニケーションも取れない。酸素吸入や排尿の管が付けられている状態。そして最低2時間おきに吸引とかのケアが必要な患者さん。
 だから、もともと大変な容態だったことには違いない。だけど、亡くなった原因としては、すごく難しい事態とか、病気そのものが悪化してということではなくてね・・・。
 もちろん、残った医師とナース、スタッフの態勢でできる限りのことはしただろうけど。ただ、残念ながら・・・。
 なぜその患者さんのことが印象に残っているかというと、この方のご家族が、郡山の避難先に訪ねてこられてね。「うちの人がここに来ているはずなんですけど」と。ところが、その時点では亡くなっていたんだな。
 それで「自衛隊の方々にも、手伝っていただいたんですが・・・、残念ながら」という話を病院の方からしたということがあったと思う。

――つらい話ですね・・・。

佐藤:たしかに、患者さんの状態から言って、かなり厳しい状態であった。ただ、人間の尊厳として、どういう人であれ一緒なんだから、こういう形で亡くなったことは、本当につらいし悔しい。家族の方にたいして、申し訳がないですよ。
 地震と津波ではこういうことは起こらなかった。避難はないわけだから。「原発さえなければ・・・」ということだね。


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 「13日:午後には自衛隊ヘリが到着した。重篤患者を乗せたヘリが、複数回にわたって郡山市内の高校に向かい、翌14日未明にまで及んだ。
 院長及び事務長は、一時避難の終了後、転送先の病院を探した。しかし、県内には多人数の患者の受け入れ先がなく、院長らは県から自力で探してほしいと言われた。最終的に院長が、個人的人脈を使って県内の病院に加えて、群馬、茨城、山形の病院に患者を転院させた。転院の手段も、県から支援はなく、県外の病院に提供を受けた。避難の途中で、重篤な症状があった3人が死亡した」
 (『国会事故調報告書【参考資料】』)

 「今村病院では15日、医療設備のない体育館への一時避難が終了した後、医療環境の確保のため県災対本部に電話したところ、『自力で探してほしい』と指示された。その後、同病院の知り合いに電話を掛けたが、断られるか、先方の人員不足から看護師とヘルパーの同行なら場所を貸すという条件付きの承諾がほとんどであり、転院の終了は17日となった。避難を待つ間、体育館で待機していた重篤患者に、発熱、低酸素血症など、明らかな容態の悪化がみられた」
 (『国会事故調報告書【本篇】』)

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【Ⅴ】 制御できないものをつくった責任





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 「避難区域内の病院は避難の実施において苛酷な環境に置かれたが、福島県及び市町村は病院の重篤患者の避難に関して積極的な支援を行わなかった。病院は、行政からの支援が期待できず、十分な情報もない中、独力で全患者の避難手配を行わなければならず、結果として適切な避難先及び避難手段を確保できなかった病院の患者は過大な負担を強いられた」
 (『国会事故調報告書【本篇】』)

 「7病院中6病院は、県地域防災計画で原子力災害時に病院が独力で患者の避難を行わなければならないと定められていることを知らなかった。唯一、原発事故時の避難マニュアルを用意していた今村病院においても、全患者の避難や複合災害を想定したものとはなっておらず、同病院の関係者は『想定外で全く役に立たなかった』と述べている」
 (『国会事故調報告書【本篇】』)

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――2年がたって改めて感じることは?

佐藤:まず、2年がたってようやく少し話をする気持ちになったかなという感じ。
 当時、いっしょだった人たちとも、会ってない。集まりましょうという話もあったけど、病院を再開するというなら行こうかと思ったけど、再開の見通しもなく、昨年1月にはわれわれスタッフは全員解雇になっている。
 国会事故調の報告書の病院に関わるところは読ませてもらったけど、う~ん、たったこれだけ?書いてあることは、間違ってはいないけど、大まかで、人の動きが見えてこない。

――現場を体験したものとして言いたいことは?

佐藤:誰が責任を取るんだということなんだよ。国なのか、県なのか、首長なのか、東電なのか。そこがまずはっきりしない。遺族にとってみたら、謝られて許すとか、認めるという問題じゃないだろうけど。
 大きな意味で、国の体制みたいものに疑問を感じる。国というのが、最終的には何もしてくれないというか、遺族にとっては、納得するなんてことはあり得ないと思うんだよね。 
 医療に携わってきた人間として悔しい・・・。医療としてベストを尽くしても助けられないことはたくさんあるけど、今回は、医療のベストを尽くせない状況に叩き込まれたわけだから。
 本来、一番弱いものとか、そういう人を優先的に助けようということでしょ。それが、一番の症状の重い人たちの避難が結果的には後になってもっとも大変な状態になった。それは、もう、大きな矛盾だよ。
 だから、制御できないものをつくった人間の責任なんだろうね。
 われわれ医療の仕事というのは、患者さんに関わるとき、最悪の状況を想定した上で、関わるんですよ。でも、東電がやってきたことは、その逆だね。最悪の状況を想定外にしていたわけだから。

――原発の再稼働か否かということが議論になっていますが?

佐藤:どう議論したって、結論は一緒になると思うよ。制御できないものをつくちゃったわけなんだから。
 「放射能で死んだ人間はいない」というけど、実際にはうちの病院をはじめ、たくさんの人が避難やその後の負担で亡くなっているわけだから。
 病院関係だけでも避難で何十人と亡くなっている。避難ということ自体が、避難をせざるを得ないという事態が、このような死を強制するということだったんだ。そういうところに町があり、病院がある。というかそういうところに原発がある。
 では、日本全国で、原発から半径50キロには医療施設はつくらないということにしたら。だって、いざというときは避難できないわけだから。でも、それじゃあ、その範囲では生活できない、生活圏にならない。結局、そういうところは日本中どこにもない。
 原発再稼働に賛成とか反対とか、安全基準だとか、いろいろ議論されているけど、「ひとつ、原発事故が起こったら、こんなに犠牲が出るんですよ」「動かしてはいけない人を『逃げろ』という話にしてしまうんですよ」ということを考えてくれたら、結論は、やっぱりはっきりしているんじゃないかと思うよ。

(了)





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テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2013/03/09(土) 10:00:00|
  2. 警戒区域
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ベコ屋の戦闘宣言      浪江町・吉沢正巳さんを訪ねて 


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 福島第一原発から北西に14キロ、南相馬市小高区と浪江町の境に、(有)エム牧場の経営する浪江農場がある。
 政府が進める避難区域再編によって、警戒区域にされていた浪江農場まで行けるようになった。原発爆発後もこの牧場に留まり続けている農場長の吉沢正巳さん(58)を、5月末に訪ねた。


 車を降りると目に入るのは、なだらかで広々とした緑の斜面、そこで草を食む茶色の牛の群れ。牛の糞の臭いと鳴き声、ハエやアブの羽音、頬を伝う柔らかい風・・・。
 束の間、心地よさに浸るが、それを破るように、携帯していた線量計の警告音が鳴りだす。
 ここは、第一原発の排気塔が見える距離、事故から1年以上経っても空間線量が4~5マイクロシーベルト/毎時という汚染地帯。300頭の牛も、吉沢さん自身も、激しく被ばくしている。


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 この状況の中で、吉沢さんは、牛たちとともに、懸命に生きぬいてきた。吉沢さんは、警戒区域の設定にも、牛の殺処分指示にも従わない。
 避難を余儀なくされている人は10万人に上る。原発事故で家も畑も故郷も失い、政府によって、いま棄民されようとしている。生きる希望を失って、避難民の自殺が相次いでいる。
 吉沢さんは、訴える。「座して棄民を待つのか。待っていても何も起こらない。自ら行動を起こさなければ、何も始まらない」。
 吉沢さんの生き方は、あくまでも一人の人間の選択だが、いまフクシマが直面している厳しい現実の中で、ひとつの説得力のある希望を示していると感じた。

〔以下は、吉沢さんのお話。筆者の責任で整理・編集した〕


           
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12日 1号機の爆発


 3月11日の大津波と大地震、そして夜から原発がおかしくなったよね。
12日の早朝、福島県警の通信部隊が、牧場に入ってきたんだ。深い紺色のワゴン車3台が、赤ランプをつけて。
第一原発の様子をヘリで上空から撮影して、その動画を衛星を介して、県警本部に送るんだと。そのためにここを貸してくれと。「いいよ」ということで、彼らは始めたんだ。
 彼らは、ヘリから、12日午後3時半の1号機の爆発をとらえた。そうしたら、「すぐに引き上げろ、撤退だ」と。彼らは、片づけてすぐに帰るんだけども、そのときに、「とうとう来るべきものが来てしまった。国は情報を隠している。もう逃げた方がいい。われわれは上の命令で撤退するけど、あんたたちもいない方がいい」。そう言って帰っちゃった。
 僕は警察に、「牛が300頭もいるんだ。停電で餌も水も、俺がいなかったらだめなんだ。牛は逃げられないんだ」と、答えた。



放射能の降り注ぐ津島へ


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(浪江町の中心部。一時帰宅の車をたまに見かける以外、ひっそりとしている)


 12日の朝からテレビを見てたけど、国や東電からは何の情報もないまま。浪江には2万人の町民がいた。12日の段階で、町の判断で「逃げろ」と、逃げる場所は浪江町の山間部の津島〔※〕となった。約半数の人たちが、津島に固まって逃げるんだね。いやー、みんな逃げたね、ダアーッと。
 津島は、原発からだいたい25キロあるかな。1万人ぐらいの人が、そこで、夜通し焚き火なんかをしながら避難生活をしていた。
 そこに、14日の3号機の爆発があり、そのあと、南の風が吹いたんだね。それが夜になって、急に冷えて、雨が雪になった。ものすごい放射能が津島に流れてくるわけだ。だけどそんなことは何の連絡もなかった。
 でも、やっぱり警察や自衛隊の動きでわかるんだよ。それで、「もうここにいちゃだめだ」ってことになって、今度は、二本松の東和(とうわ)に、全部、ダアーって逃げるわけ。

〔※津島:浪江町津島地区。原発から北西に約25キロの山間部。この地域の上空を、南東の風に乗って、大量の放射性物質を含んだ雲が通過、この一帯でも、もっとも激しく汚染された。政府は、「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」の試算で津島地区への放射性物質飛散を予測していたが、避難の住民には一切、知らされなかった。因みに、日本テレビの人気番組のDASH村も津島にあった〕



牧場で爆発音も聞いた


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(この日は少し霞んでいたが、写真の中心部に写っているのが第一原発の3号機・4号機の集合排気塔。吉沢さん宅二階から)


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(吉沢さんは、原発が爆発したときも、このようにして自宅二階から双眼鏡で見ていた)


 俺は、牧場の本社がある二本松と浪江農場の間を3~4回、行ったり来たりしていた。
 途中で、検問のお巡りさんが線量計を持っていて、「線量が、通常の千倍ぐらいに上がってる。行っちゃだめだ」と、何遍も止められたけど。でも牛に餌をやりと水を飲ます必要があるからね。
 だから、14日の昼11時の3号機の爆発音も、牧場にいたから直に聞いたよ。
 それから、自衛隊のヘリコプターから、原子炉建屋に向かって放水を始めるということで、それを見たいと思ってね、自宅の二階で双眼鏡を構えていたら、突然、白い噴煙が排気塔の高さまで上がったんだよ。それも、この目で見てしまったね。
 姉と甥が牧場で同居していたんだけど、15日の段階で、千葉の家の方に引き上げてもらった。
 それで、僕は、牧場に一人で残って、300頭ほどの牛に水を飲ませるために発電機を回したり、餌をやったりしていたんだよね。
 でも、もうこの牛は意味がなくなった。商品価値がなくなった。出荷先から断れた。300頭が、全部、経済的な意味はゼロになった。この農場は意味がなくなった・・・。
 300頭の牛が全部、意味なくなったということで、俺は、ガクッと来るわけね。
 それで、どうしようかと考えた。



自衛隊の放水に心を動かされる


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 それで、「もう、これは、東京電力に直に抗議するしかないだろう」と考えたわけ。
軽自動車にスピーカーを乗っけて。東電本社の場所は、だいたいわかってたから。
 だけどあのとき、ガソリンがなかったんだよね。もうどこに行ってもガソリンはないから。仕方なく、牧場にある廃車の燃料タンクをドライバーであけて、何とか1台分のガソリンができた。
 そのとき、ちょうど、自衛隊と消防庁の放水活動が始まって、俺は、それにすごく心を動かされた。「たぶん、この作業で、自衛隊の人らは何人か死ぬだろう。彼らが、原発の食い止めるんだ」と。「だけど、東京電力は逃げようとしている」。撤退ということも出ていたから。「よし、俺が行って、抗議しないといけない」と。
 17日の段階で、「よし、東京に行こう」となった。
 浪江の線量が上がってきているということもわかってきて、もう戻って来れないと思って、あそこに「決死救命」とスプレーで書いたんだよ。赤い方はあとから書き加えたんだけど。 〔上掲写真〕
 まあ遺言みたいな気持ちもあったりしてね。



俺は浪江のベコ屋だ


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 17日の夜に出発して、6号線は通れないことはわかっていたから、4号線の方に行って。自衛隊や警察の車両と何百台とすれ違った。
 たぶん、福島県で最初、一番乗りの抗議活動だろうね。
 東電本社で、「浪江の牧場から来た。停電と放射能で、300頭の牛が死んでしまう。俺はそのことで来たんだ。通してくれ」。
 お巡りに取り囲まれて、突然、俺は大泣きしてしまうわけね。それで、お巡りも困っちゃうわけ。そうしたら応接室まで通されちゃった。でも、私服警官3人が同席だね。何かあったらうまくないと。
 そこで訴えたね。「300頭の弁償を求める。裁判やる。弁償しろ」と。
 それから、もう一点は、「いま大事なことは、逃げるんじゃないんだ。自衛隊と消防庁が一所懸命、戦っているときに、なんでお前らが逃げるんだ。お前らがつくって、お前らが運転している原子炉をどうして止められないんだ。いま大事なことは死んでもいいから水をかけろ。俺だったら死んでもいいからホースを持っていって飛び込んでいくぞ」。
 こいうことを30分ぐらいガンガン攻めたわけ。泣きながら訴えた。そうしたら、応対した東電の総務の人が、泣き出してしまった。



東電から官邸まで


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 東電の次は、丸の内警察署にいった。
 「俺はとにかくしゃべりたいんだ。宣伝カーの許可をくれ」と。
 すると、「出せない」というんだよ。
 後でわかったことだけど、16日に天皇のビデオメッセージがあったんだな。そういうときにさ、皇居の周りで、ベコ屋がガンガンしゃべるなんて許せないということだ。だけど彼らは「おまえはたいしたもんだ。えらい。お前の気持ちはわかる。でも許可は出せない。いま津波で人がいっぱい流されて大変なときだ。ちょっとまだ早いんじゃないか」というわけ。
 仕方がなく、そのあと、農水省にいって、「牛を助けてくれ」と。
 それから、原子力安全保安院に行って、「お前ら、いままで『原発は安全だ』と、何を宣伝してきたんだ。お前らのやっていることは“原子力危険保安院”だ。しかも3号機ではプルトニウムを突っ込んで運転しただろう。それが爆発して燃料がふっ飛んだだろう。プルトニウム汚染じゃないか」。
 それから、首相官邸に行った。警備のお巡りさんに、「俺は、枝野さんに会いたいんだ。原発爆発事故のことを、事象といったけど、どういうことなんだ。俺の受けとめとしては、自らの責任がなく、評論家のみたいに言いうのが事象というんだろうと。国策の原子力発電、原発政策、それを国がやってきて、何を事象というのか。枝野に会わせろ」と。
 お巡りさんは、「いや、いきなりアポなしで官邸に来ても困るから出直してこい」。
 でも、「浪江から避難してきているんだ」っていったら、お巡りさんも意外と親切でね。
 まあ、宣伝カーで1週間ぐらい抗議活動みたいなことをやっていたんだけど、なかなか埒が開かない。さあどうするか。ということで、エム牧場の社長らのいる二本松に帰ってきた。



警戒区域設定に従わない


 牛は、社長が、18日に全部、放していた。牛舎に置いておいたら、やがて餓死するのは目に見えているから。放しておけば、なんとかその辺の水とかで生きながらえるだろうということでね。
 俺は、3月23日に、二本松に帰ってきたんだけど、社長が、「浪江農場の牛を見捨てないようにしよう」と言うんだよね。社長は、「牛飼いとして、牛を見捨てられない」と。
 事故当時の3月は牧草も刈れていて食べる物もほとんどなかった。それで、社長と一緒に、相馬のもやし工場から、袋に入ったもやしの搾りカスを、3日に一度、大型トラックで運んだね。放射能がきつかったから、とにかくここにおいて、サッと帰るということを、3日おきにやった。それからずっと餓死させないということで、餌を運んだんだよね。
 でも、だんだん厳しくなってくるんだよね。4月22日の警戒区域設定で、ばっちりやられちゃう。そこら中、バリケードと警察の検問。許可証のない者は逮捕だということが始まってしまった。 
 われわれには許可証をくれないわけ。
 でも、山の裏の方を通って、バリケードを壊して、バリケードをずらしてどんどん入っていった。


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(餌を運び込む途中の吉沢さんのトラック。今年2月南相馬市内)


 それで、牛はなんとか生きられたんだけど、俺らが牛に餌を与えているということが、新聞報道ででっかくのっちゃうんだ。「河北新報」の記者がこっそり入ってきて書いたんだ。
 それを枝野官房長官が見たんだね。それで国が出した方針は、警戒区域の家畜についての殺処分指示なんだ。農家に、「強制ではないけど、同意の殺処分を求める」と。「警戒区域に立ち入って、餌を与えている農家がいる。非常に危険で許せない」と。
 われわれに許可証はない。でもなんとか入りたい。だから、そういうことを言われると、逆にスイッチが入るわけよ。
 「牛に餌を与えて何が悪いんだ。犯罪でも何でもねえーだろう。おれは牛を生かすんだ。殺処分?絶対に受け入れられねえ」。
 でも、許可証がないから、本当に困っちゃった。結局、お巡りに捕まっちゃうわけ。南相馬警察署で、始末書を書かされることになった。それは書くんだけど、始末書に「二度とこんなことはしません」なんて文句がある。それは受け入れられない。だって牛に餌を与えるわけだから、「二度としません」なんてわけにはいかない。で、「消してしまうかんね」と。そうしたらお巡りが怒ってさ。
 でも、逮捕・勾留なんて、脅かしだってことはわかっているから。
 とはいえ、どうしても許可証がほしかったのよ。南相馬に国会議員が来ていて、相馬野馬追〔※〕の馬とか、ペットの犬猫の救出をやっていた。その先生が南相馬市に掛け合ってくれて、正式に入れるようになった。

〔※相馬野馬追: そうまのまおい。相双地域に伝わる相馬藩ゆかりの伝統行事〕



餓死と殺処分の挫折感


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(スタンチョン〔金属製の枠〕に首を突っ込んだまま、餓死している牛たち。
 写真家から提供を受けて、吉沢さんが街頭で訴える際に使っているパネル)


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(吉沢さんの牧場で、衰弱死した牛の遺骸)


 爆発事故直後、酪農家・畜産農家は、牛を置いて逃げた。もう、周り中の牛舎で、どんどん餓死し始めるわけよ。俺らは、餌運びをしながら、余所の牛舎のそういう姿をずっと見ていたわけ。すごかった。あっちこっちの牛舎でほぼ全滅状態。水がない、餌がない、人もいない。立ち入っちゃなんない。
 「こんなことは、自分ところではいやだ。絶対に生かそう」ということだったんだ。
 それから、国が殺処分指示を出したあと、いろいろ説明会をやるわけよ。「なんとか同意してくれ。強制ではないけど。入れなくて、面倒みられないんだから、国の方針は殺処分だ」と。それで説明会は非常に紛糾するわけ。
和牛の繁殖農家の人は、結構、牛を放したりしている人がいる。「かわいそうだ」って。おっ放した牛が、やがて、野良牛問題になる。野良牛が秋口辺りから、家を荒らしたり、道路を汚したりして、一時帰宅の人の苦情の対象になる。それがみんな役場の方に行く。役場としては、「国は殺処分と言っている」と。だけど、農家は言うことをきかないし、同意書は出さない。
 餓死させてしまった農家の人は、そこでガクッとひどい挫折感だ。「人の命が第一、家畜を構っている暇はなかった」。だけど、苦しむんだよ。「牛を置いてきてしまった」と。
 殺処分に同意した人も、これまた挫折感を抱くわけ。放してご近所に迷惑をかけられないということで、泣く泣く殺処分の同意書にハンコをつくわけよ。
 300軒の畜産農家、60~70軒の酪農家が、もう牛飼いなどできないくらいの精神的な挫折感の中にあるんだ。
 国は、今日も、どっかで牛たちをとっ捕まえて、殺して、埋めて、という殺処分の作業をやっているよ。臭いものにフタをして、見えないようにする。証拠隠滅だよ。その一方で、原発を再稼働しようとしている。



厄介者の棄民


 浪江、双葉、大熊、富岡というのはチェルノブイリと同じような状態。そこに帰る意味もないよね。そこでコメはつくれないだろうし、地震の被害もひどい、津波の破壊も半端でない。
 浪江町は、原発立地ではない。福島でも発電所のないところ。そういうところが、今回、ひどい汚染をうけたわけ。
 しかもスピーディの情報が隠されて、津島でみんな猛烈な被ばくをしている。原発立地町じゃない、直接には、恩恵をうけない浪江町が、今回一番、ひどい目に合っている。
 その人たちが、迷惑な厄介者として、いずれ捨てられようとしている。避難した10万人の人も、捨てられようとしている。邪魔の者、厄介者、迷惑な土地、迷惑な人たち。棄民政策だよ。間違いない。
 それで、浪江町でも、5人も自殺している人が出ているわけだよ。先日の商店主の自殺が5人目だ。商売もできない、コメも作れない、うちにも帰れない、帰る意味もないしね。



逃げてばかりでいいのか


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 いま仮設住宅でも避難所でも、まだ多くの人が、模様眺めをしてる。気持ちが折れて、生きる意味を見出せない。そういう人が大勢いる。自殺する予備軍のような人は、そこここにいるわけよ。町のアンケートを見ると、「死にたい、生きている意味がない」という人がいっぱいいるんだよ。
 それは、模様眺めしているから、そうなっちまうわけね。
 たくさんの農家の人らが、牛をほうり投げて逃げたわけだけれども、それは、正しい選択なんだよ。全くね。あの当時、あの危機的な避難行動の中でさ、誰のとった行動だって非難なんかできないよ。逃げるための精いっぱいの行動だよ。みんな、逃げて、逃げて、逃げまくったんだよね。
 だけど、今後も、逃げてばっかりいていいのか。
 40年間にわたって福島県が、東京・関東の電力供給で協力してきた。水力・火力と全部、東京の方にいっているわけ。日本の経済の繁栄を福島県が支えながら、いま僕らは、絶望的な状況。福島のわれわれは犠牲を被った。これから差別も受けるわけ。「福島県はお断り」と。そこから逃げられないからね。そういう運命と、最終的にはたたかうしかないんだよね。俺はそう思う。
 俺なんかは、余所に行って、畜産業なんてありえないし、自分の生涯の仕事としてやっている畜産業を潰されたわけ。だから、これは、もう残りの人生をかけて、償いを求めて、東電・国とたたかう。それしかないと思っているわけ。こういう原発事故が起きたっていうことでね、これを人生のテーマにして、原発のない日本を目指して考え行動するしかないと思うんだよね。
 そして、もちろん放射能ともたたかう。農業でも、セシウム問題で、県内どころか、それを飛びこした全国の問題に広がっている。魚だって取れない。すべての環境、人生、財産が、みんな潰されたわけよ。汚染について、人間も土地も、よく調査をする必要がある。単に逃げるんじゃなくて、この現場で汚染状態を正確によく調べるということだよ。
 行動なきところに結果などあり得ないし、「少しでもみんなで行動しよう」と言いたい。「東京に行って、みんなの気持ちを東京の人に、どんどん言って伝えようじゃないか」と。「原発事故というのはこういうことなんだよ。他人事ではなくて、子ども・孫の世代のことまで考えて、いま、再稼働をめぐってたたかうときが来ているよ」って。
 東電とたたかう、国とたたかう、放射能とたたかう。そういうことを俺は言いたいのね。
 ずっとこの1年間、大勢の人が生きる意味とか、哲学を考えてきた。行動までできる人はそう多くないし、でもそういう人を少しずつ作りながら進んでいると思うよ。
 僕なんか、学生のとき、学生運動なんかやった方。やっぱりそういう経験をもっている人は、それを生かしながら、先頭に立つべきだと思う。
 かつて70年代に見てきたようなね。俺は、千葉にいたんだけど、成田空港の反対運動だね。それにあのときの学生運動、労働運動。みんなそれこそ実力闘争でストライキでたたかったわけだから。
 そういうものを、いま、このときに再現する。そういう力を背景にしたものが必要だよね。
 「家も故郷も何もかも失った。最後に、みなさん、立ち上がって、いっしょにやろうよ。東京に行こうよ」。そういう力が、福島県に必要なのだと思う。福島県がそういう中心にいかなければと思う。やっぱり誰かがやってくれるだとか、金さえもらええればいいんだとか、そういうのもいるけど、そういうのは、心にも体にもよくないと思うよね。
 浪江の人が、みんな立ちあがって、東電前や首相官邸前に座り込んでということができるようになるところまで、今年は持っていきたいなと。
 そういうことに、残り20年の人生をかける値打ちがあるのだろうと思う。この被ばくした牛たちとともにね。
  


原発事故の生き証人


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〔吉沢正巳さん:千葉県四街道生まれ。58歳。千葉の佐倉高校時代、近隣の三里塚で、成田空港建設のために土地収用法で農地を取り上げるということが行われており、友人らと反対闘争に参加。東京農大では自治会委員長も。40年前に父親が、広い土地で畜産をしようと、千葉から浪江町に移住。大学を出てから父親の跡を継ぎ、生涯の仕事として、畜産に打ち込んできた〕


 線量計は、昨年の6月末か7月の最初に、やっと手に入れることができた。当時、15~16マイクロシーベルト(毎時)。事故直後は、もっと高かったんだろうけどさ。現在は4~6マイクロシーベルト(毎時)ぐらい。
 牛たちに餌を運んでいるんだけど、「この牛は売り物ではないし、経済的には意味はない。俺たちのやっていることは何だろう?」ということで、ずいぶん議論になってね。
 それで、「いや、この牛たちは、原発事故の被ばくを正確に伝える生きた証人だ。この牛たちのことを調べれば、被ばくのデータが出る。そういう調査の対象になる」と。そういうことで、大学の研究関係の人とか、いろいろな人が見に来たね。それで「希望の牧場プロジェクト」ということでまとまっていったんだ。
 国は殺処分といっているけど、まだ、100軒近い農家が同意書を出さないんだ。1年経っても、未だに、20キロ圏内に、約1000頭の牛が生きている。
 経済的な意味はないけど、この牛たちは、元気よく草を食べ、子どもを産みながら、東京電力と国にたいして、生きた証人として、抗議している。殺処分指示にも従わない。
 牛たちと運命をともにして、「絶望の地」でありながら、非常に意味があって、影響力があって、人の気持ちを揺さぶるような、深い意味での「希望の地」。それは、簡単な希望ではない。深い絶望の中から、人間として、そこから抜け出すためにやはりたたかうしかない。絶望的状況に負けないために、抵抗するしかないんだ。それは誰のためって、次の子どもたちのため。次の世代のためだよ。みんなで連帯して、たたかおうよ。いまそういうチャンスがきているんだよ、と言いたいんだ。  (了)







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  1. 2012/06/12(火) 19:15:07|
  2. 警戒区域
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ここは「死の町」か   警戒区域内から搬出作業

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 先日、警戒区域に指定されている大熊町に行ってきた。
 大熊町にある工場から、工作機械を搬出する作業を手伝うためだ。
 大熊町で工場を経営したAさんは、いわき市内で避難生活を送る。大熊町での仕事再開の目処がたたないため、いわき市内で土地を取得、そこで再出発を目指している。
 

  警戒区域

 福島第一原発は、大熊町と双葉町にまたがって立地している。
 大熊町は、依然として高濃度の放射能に汚染されている地域だ。
 文科省の測定(11月8日)では、大熊町の空間線量率は、原発から西南西に3キロの夫沢で64・8マイクロシーベルト/時、原発の西南西3・4キロの小入野で9・3マイクロシーベルト/時、原発の西11キロの野上で3・1マイクロシーベルト/時。



検問所を経て広野町から楢葉町へ


 7時半過ぎにいわき市内で集合。
 作業の参加者は、私も含めて8人。
 簡単な打ち合わせの後、いわき地方振興局のタグのついた線量計が全員に配られた。

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 線量計をつけてトラックに乗ると、まだ、いわき市内にいるのに、3マイクロシーベルト/時を表示。
 「これ、おかしくない?」と、トラックを運転するBさんにきいた。
 Bさんは、「そうか・・・、実は、この車は警戒区域から取り出した車なんだよね。お陰で安かったんだけど・・・」。
 

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 車は、常磐道で広野インターまで行き、そこから国道6号線に入る。
 すぐに、広野町と楢葉町の境界にある検問所が見えてきた。そこから先が警戒区域。
 入るには、許可がいる。
 
 車のフロントガラスのところに、許可証が置いてある。
 許可証には、次のように記載されている。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 公益一時立入車両通行許可証

    有効期間:  平成23年○○月○○日

 許可を受けた者: (株)○○○○ ○○○○
 
  許可車両番号:  いわき ○○○ ○ ○○○○

 公益一時立入用務に従事するため警戒区域内の通行を許可する。
 なお、本許可書を所持しない場合は通行できない。

              許可権者大熊町長 渡辺 利綱
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 検問所では、警察官がこの許可証を簡単に確認、すぐに中へ進んだ。



倒壊した建物がそこここに


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 国道6号線をすすむと、いきなりタイベックを着た作業員が現れた。
 陥没した道路の修復だった。

 国道6号線を進むと、楢葉町から富岡町にかけて、地震で倒壊した建物が、次々と目に飛び込んできた。

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  いわき市内では、津波で大きな被害が出たが、ここでは、地震による被害も大きかったことがわかる。
 今も手つかずの状態だ。

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 国道6号線をさらに進んで、大熊町に入った。



6~9マイクロ


 車が目的地に着いた。

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 住宅街の一画。
 特別な風景ではないようにも見える。
 ただ、静かだ。人の気配がない。
 本来、人通りがあり、子どもの声があり、洗濯物があるはずの風景。
 人間が生活している臭いが全く感じられない。
 それが不自然だった。

 
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 リフトを使って、研磨の機械を運び出す。
 この工場では、顕微鏡を使って、ミクロン単位の精密な研磨を行っていた。
 職人技だ。
 従業員は10人、Aさん1代で、ここまで育ててきた。
 しかし、原発事故で放射能が降り注いだ。Aさんは、3月12日の午前中に、着のみ着のままで大熊町を出たという。

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 線量計は、6~9マイクロシーベルト/時の間を表示していた。
 とりあえずマスクをして、作業にかかった。
 
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 加工された製品が、むなしく放棄されていた。
 3月のカレーダーと予定表が、その日のままに。
 時が止まっている。

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町役場と巡回する警察


 帰路、トラックを運転するBさんが、少し遠回りをして案内してくれた。

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 大熊町の町役場。
 現在、役場機能は会津若松市に移している。
 車が見える。
 この車はおそらく、3月の避難の際、バスなどで脱出した人の車だろう。それ以来、ここに置かれているのだと思われる。

 写真を撮っていると、警察車両が近づいてきた。
 「役場の方ですか。何をしているのですか」。
 許可証を提示すると、それを確認し、すぐに立ち去っていった。 

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修羅場の跡が残る双葉病院


 大きな建物の前に、何かが無造作に放置されている様子が見える。
 近づくとベッドや車椅子だ。

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 双葉病院の入口。
 3月15日、動けない患者をベッドごと外に運び出し、慌ただしく車に乗せた修羅場の跡が、いまもそのまま残っている。

 3月12日から31日の間、避難のためのバス移動の過酷さと避難先の悪条件によって、この病院の入院患者40人、系列の介護老人保健施設・ドーヴィル双葉の入所者10人が、移動中・移動先で亡くなるという痛ましい事件が起こった。
 当初、福島県・災害対策本部やマスコミは、「医者が患者を置き去り」という筋違いの発表・報道を行った。
 いま、「それは事実とは違う」と、現場で必死に対応していた医師が証言、ノンフィクション作家が地道な取材を行い、真相を究明する作業が進められている。
もちろん、たくさんの人が犠牲になったという事実に変わりはない。



第一原発から5キロ


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 ここは第一原発から5キロの地点。
 写真の左から中央に走っている送電線の方向に、第一原発がある。
 もっともここからは見えない。
 第一原発は、海岸の断崖を削ってつくったため、陸側からは見えにくいのだ。
  
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 国道6号線で、第一原発に向かう送迎バスとすれ違った。
 作業関係の車両は、頻繁に行き交っている。



津波の爪痕が残る富岡駅


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 常磐線は、富岡駅の辺りで、ぐっと海の方に近づく。
 富岡駅の向こうにも、たくさんの民家があったはずだ。
 しかし、今は、駅の向こうに海だけが見える。


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再稼働しようとしている第二原発


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 富岡駅を過ぎてさらに南に進むと、高い煙突が。
 これが第二原発だ。

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 国道6号線に面した第二原発の正門。

 第一原発の事故収束作業の話に隠れて、第二原発のことはあまり話題にならない。
 第二原発も、冷却水を取水する施設が津波で被害を受けた。
 その修復作業にも、多くの作業員が携わっている。
 そして、第二原発が再稼働しようとしているという話も聞こえてくる。
 県議会は、先月、「脱原発宣言」を採択した。しかしこれは県議選を前にしたパフォーマンスの要素が強い。
 また、佐藤雄平知事は、この宣言にたいする態度表明を避けている。
 
 再稼働の動きは本当なのか。
 後日、第二原発で働く、知り合いの東電社員に直裁に尋ねてみた。
 「そうね。修復作業は終わっている。技術的にはいつでも再稼働できる状態だな。
 ただ、それを公に言うかどうかは別だけど。
 それに廃炉にするにしても、修復は必要だし」。
 
 

占領されているようだ


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 車窓を流れる風景を見ながら話をした。

 Bさんは、「まるで占領されているようだ」と言う。
 「線量が高くて占領されている。線量と占領は字が違うけど」。
 ある日突然、住み慣れた土地と家を、捨てなければならなくなった。
 いつ帰れるのかの目処も見えない。
 自由に行き来することもままならない。
 それは、誰かに占領されているように感じられるのだ。

 「死の町」発言で辞任した大臣のことも話に出た。
 「地元の人はね、この現実を見て、『死の町』だと思っているよ。
 だって、人がいるはずのところに人がいないのだから。おかしいでしょ」。
 もちろん、この大臣の発言には、家も畑も仕事も奪われた人びとの苦しみに寄り添う姿勢が、微塵も感じられなかった。
 しかし、また、この発言をとらえて「辞任しろ」と騒ぎ立てた政党やマスコミなどにたいしても、同じように、苦しむ人びとに寄り添う姿勢を感じることができない。
 Bさんは、そう言いたかったのだろう。
 
 さらにBさんは、「今、生きている人だけでなく、ご先祖さんにも補償をしてほしいよ」と言う。
 先祖代々受け継いできた土地が、人間の住めない土地にされてしまった。
 墓参りもままならない。
 ご先祖で、原発に反対の気持ちを持っていた人も少なくない。
 そのご先祖たちは、「きっとどこかで、『だから、言っただろう』って嘆いているに違いない」。
 Bさんは、こういうご先祖たちにたいして、「済まない」という気持ちを言っているのだ。

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 そういう話をしているうちに、再びJヴィレッジ近くの検問所を経て、警戒区域の外に戻った。


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 ところで、警戒区域を出る際に、車や荷物や人のスクリーニングや除染は行われなかった。
 驚いた。
 現在は、かなりの数の住民が自家用車などで、警戒区域からの荷物の取り出しなどを行っているが、今回のようなやり方が例外ということではないようだ。
 
 
 

 

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  1. 2011/11/12(土) 13:55:49|
  2. 警戒区域
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4カ月後の一時帰宅

【福島第一原発から南側20キロ圏に入る楢葉町に暮らしていたY・Sさん。突然、住み慣れた土地を追われたY・Sさんが、一時帰宅の日の想いを手記にした。印刷物で配布されたものを転載する。小見出しは転載時につけた。写真は本文とは別】

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原発事故避難から4カ月後の一時帰宅の日

                          楢葉町 Y・S


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(写真は、本文とは別。5月12日川内村の一時帰宅)


恐怖が蘇る

 7月7日、気の重い朝。
 私は、夫と車で、現住所の会津若松から磐越自動車道、常磐自動車道を経由して広野・楢葉インターで降りた。
広野町の小学校の体育館は、一時帰宅のための中継点であり、到着したときは、胸がドキドキして体が緊張しているのが分かった。
 そして同時に、避難のときの恐怖が蘇ってきた。


避難の日、見納めになるかも

――3月11日の翌12日、防災無線が流れた。
「楢葉町は、第一原発の事故により、全町民の避難を決めました。ただちに避難して下さい」という内容だった。
 私と子ども3人は、前日の地震で物が散乱している家の中、とりあえずの着替えと身の回りのものだけをそれぞれバックに詰め込み、毛布を抱えて車に乗り込んだ。
 「きっと2~3日で戻れるから!!」原発事故の怖さを知っていても、そう信じていたかった。
 「早く!早く!」私は急いで車に乗るように子どもたちをせかした。
 原発があっても絶対にこんな日は来ない。私たちにはやって来ないと思っていた。
 私と子ども3人は、誘導されるままに南のいわき市方面に向かった。町道から国道6号線はすぐに渋滞になった。車が進まない。当たり前だ。全町民が一斉に同じ方向に移動すればどうなるか、誰でも予想はつく。
 いつも見慣れたふるさとの風景、そして楢葉町のほととぎす山を、震える手でケータイで写真に納めた。
 これで見納めになるかも知れないと思ったから。
 子どもを乗せているのだからしっかりしなくちゃと思う一方で、ペダルを踏む足も震えていた。
 そのときの言いしれぬ不安…失望…悲しみ…虚しさ…。言葉では言い表せないほどに重く、まだ太陽が出ているというのに、真夜中のような気さえした。――


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(写真は本文とは別。6月9日川内村の一時帰宅)

東電社員見たくない 

 中継点の体育館には、東京電力の社員がたくさんいた。そして町の職員も…。そして4カ月ぶりに会う、ご近所の方とあいさつを交わしたりした。
 しかし、私が感じたのは、この状況すべてが異常なことだということ。
 本来であれば、小学生が体育の授業や学校行事で利用すべき体育館。それが、原発事故の一時帰宅の中継点になっているという光景。隣には、スクリーニング用のテントもあった。
 体育館は、その説明の場となっていた。
 白い防護服、ペットボトルの水、パンなどが配られ、そこから、自宅近くまでのバスに分乗する班に分けられていた。
 班ごとに座ると、東京電力の社員が一同に並び、「この度の福島第一原発の事故に際しましては、多大なご迷惑をおかけして申し訳ございません」というような謝罪を述べ、住民に向かって頭を下げていた。
 私は下を向いた。どの社員の顔も見たくはなかった。
 私は、東京電力という会社は、もともと苦手である。しかし東京電力の社員とひとくくりで人間を見るのはおかしい、という気持ちもあった。
 この地域で生活していく上で、原発がある以上、東電社員と関わることは避けられない。 子どもたちがともに学校で学び、私もPTAなどでいろいろと関わりを持ってきた。その中には東電社員である保護者もたくさんいたし、教育活動に熱心な方が多かった。
だからこそ、今まで築き上げてきた人間関係が何だったのか、むなしく、悲しく、崩れてしまいそうだった。
 私は、どうしても、その日、東電の制服を見るのが耐えられなかった。個々の人間を理解したくてもできないほど、この原発事故で、私たちの当たり前の生活や人間関係までもが、根こそぎ奪われてしまったのだから。


たった2枚のビニール袋 

 体育館では、白い防護服、手袋、足カバー、キャップなどの着用の方法を説明された。
 たとえば、手袋は、まず綿手袋をはめ、バスを降りて自宅までその上にビニール手袋。自宅でビニール手袋を外して綿手袋で作業するように説明があった。
 放射線測定器も首にぶら下げる。頭には、シャワーキャップのようなものをかぶり、マスクをつけた。靴の上にはすっぽりとカバーを履き、バスを降りて自宅へあがる前に、その上から足に別のカバーを履く。帰りのバスに乗る前に、カバーを履き変える。すべて放射性物質の付着を防ぐためとのことである。また、水はバスに乗る前、乗ってから、そして終了後にも配られた。
 一人あたりの防護服やペットボトルなど、通常とは違うゴミもあり、一時帰宅で出るゴミの量もすごいものだと思った。
 そしていよいよ持ち出す荷物を入れる2枚1組のビニール袋。70×70cmのゴミ袋と同じサイズである。
 考えてみてほしい。1人世帯も7人世帯もこの袋1組である。中に入れられるものは限られてくる。
 そしてそれ以上に思うことは、その家族が暮らした思い出、気配、日々の何気ない営みは、この袋に入るのだろうか?こんなビニール袋に何をどう持ち出せというのか?私は、楢葉町へ向かうバスの中で、そんな想いで胸がいっぱいになってしまった。


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(写真は本文とは別。警戒区域内の牛)

花たちが咲いてくれていた 

 噂には聞いていたが、牛がウロウロしている。田んぼも畑も草だらけ。猫の姿もある。ものを言えぬ生き物たちは、何を思っているのだろうか。
 バスは4カ月ぶりの楢葉町に近づいた。
 避難するときに見たほととぎす山は変わらない。しかし海の方に目をやれば、津波の被害が痛々しい。
 子どもたちが通い学んだ楢葉中学校の脇を通り、いよいよ自宅が近づいてきた。夫と私は坂の下でバスを降り、坂を上った。
 見えてきた自宅は、クモの巣などが張っていても外観は変わらなかった。入り口のペンキのはげた赤いポスト、植えっぱなしのハーブは伸び放題に伸びていた。アジサイの花も、夏椿の花も、バラも、ひまわりも、草に負けじと咲いていてくれた。その咲き方は、いつもより力強く感じた。


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(写真は本文とは別。5月10日川内村の一時帰宅)

4カ月間、時を刻んでいた鳩時計 

 4カ月前、慌ただしく出た玄関の鍵を開け、散らかったままの自宅へ入る。
 与えられている時間は2時間。私はまず、子どもたちが書いたメモを見ながら品物を探した。―貯金箱、ガンダムのファイル、ネックレス、買ったばかりの花柄のシャツ、リボンのついた半ズボン、ポーチ、ネックレス、写真など―かさばるものはあまり入らないから、なるべくコンパクトにまどめてビニール袋に入れた。
 懐かしむ暇もなく、荷物をつめた。丸1時間はあっという間に過ぎた。
 ふと、壁の鳩時計に目をやると、それが何としっかり動いていた。地震の少し前に修理して、電池も交換したばかりということもあり、主がいないまま動いて、独りで4カ月の時を刻んでくれていた。
20年前に結婚祝いに友人からいただいた鳩時計だった。
このままここで時を刻んでいてほしいと思った。3月12日にこの家を慌ただしく不自然に出たあのときから止まってしまった時間。でもこの部屋は、時計と祖父母の写真が守ってくれるような気がした。
 少しの間、居間に座り込んで周りを見ると、「なんだ!片づけたら今すぐにもここでまた暮らせるじゃない?」と思えるような、そんな家族の気配がまだ充分にあった。
 制限時間が迫っていた。部屋の片づけなどは何もできないまま、自宅周辺と家の中の様子を写真におさめ、鍵を閉めて、自宅を後にした。


情けなくて、納得できなくて、しかしどうしようもない 

 想像してみてほしい。4カ月前に突然、家を追われ、避難生活を強いられ、それから4カ月後、限られた時間とビニール袋ひとつの荷物持ち出しの一時帰宅。
 それがどれだけ情けなくて、納得できなくて、しかしどうしようもないことか。しかも、この自宅へ戻り、以前のような生活ができる見通しが立たない。
 「メルトダウン」「レベル7」、こんな事故が福島第一原発で起きたということは現実である。もう元に戻ることはできないし、汚染された土地や生き物が元のままの姿に戻ることはない。そしてそれ以上に、日本中に汚染が広がってしまっているという虚しさ。
 さらに失望するのは、同じ日本の各地にある原発をすぐにでも止めなければならないのに、それと福島原発は違うと言っている人たちがいるということだ。チェルノブイリのときも、「日本の原発は安全だから、あんな事故は起きない」と言っていた人たちを、私は覚えている。
 日本中の原発が立地している地域の長の方、議員の方、住民の方、国会議員の方!
 この事故によって住民のいなくなった土地や家屋がどういうものか、一時帰宅とはどういうものなのか、ぜひ今、福島に来て、見て、体験していただきたい。
 水や空気、動物や魚、また野菜、米、果物、そして人間の命の根を奪ってしまうのが原発であること。他国のことではありません。今すぐ見つめ直しましょう。

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  1. 2011/07/27(水) 06:54:38|
  2. 警戒区域
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