福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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国と村長にものを言う議員を    ルポ 飯舘村議選


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 9月22日、飯舘村議会選挙の投票が行われた。定数10人に対して、11人が立候補(現職8人、新人3人)、22日夜、新たな議員が決まった。〔開票結果は下表〕
 原発事故によって全村が避難を余儀なくされている中で、村議選としては今回が初めて。村民が各地に分散しているために投票率の低下も心配されたが、4年前の90.09%に対して、今回は73.03%と、前回より下がったものの、大方の予想を上回った。
 「除染して帰村」という、国の意向に沿った路線を強引に進める菅野典雄村長のやり方を、村民は「村長の暴走」と感じている。さらに、そういう村長にものをいえなくなっている村議会にたいして、「そんな村議会ならいらない」という声もあがっていた。しかしまた、地縁血縁で固められた村社会の中で、政治の変化をつくり出すことも容易ではない。
 そういう中で行われた今回の村議選では、村議会の中で孤軍奮闘してきた佐藤八郎氏(61 共産・現職)が前回より得票を伸ばし、2位という高位当選を果たした。さらに、渡辺計氏(わたなべはかる 55 無所属・新人)が、「村民をこれ以上被ばくさせない」「年間1ミリシーベルトになるまで補償・賠償の継続を」「帰村したい人、できない人、それぞれの選択の尊重を」などと訴えて当選した。

 渡辺さんの選挙運動を取材した。


飯舘村議選開票結果
(定数10 カッコ内の数字は当選回数)
670  高野 孝一 61 無新(1)
447  佐藤 八郎 61 共現(6)
412  飯樋善二郎 69 無現(2)
334  松下 義喜 61 無現(2)
316  伊東  利 66 無現(3)
309  菅野 新一 71 無新(1)
279  佐藤 長平 62 無現(7)
267  大谷 友孝 62 無現(6)
261  渡辺  計 55 無新(1)
248  北原  経 59 無現(2)
243  志賀  毅 66 無現
(当日有権者数は5262人 投票率は73.03%)




【Ⅱ】  仮設住宅で訴える



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(松川第一仮設住宅 福島市内)


 全村避難の中での選挙運動は、困難を極めた。
 飯舘村の村民の総数が約6700人、そのうち県内避難者は約6200人、県外避難者が約500人。県内避難者のうち、仮設住宅が約1200人、借上住宅が約3800人。
 しかも、村民がどこに避難しているかは、村役場しか分からない仕組みになっている。たとえば、富岡町は、各地に避難している町民同士がつながるために、町民の連絡先を本人の了承のもとに掲載した「町民電話帳」を発行している。しかし、飯舘村役場は、個人情報保護を理由にそれをつくっていない。
 そういうわけで、渡辺氏の選挙活動は、仮設住宅を回ることが中心になった。
 ところが、仮設住宅を回ってみると、場所によっては、チラシ配りや演説を禁止したり制限するといった締め付けが行われた。これには、「それはおかしいよ」「異常だね」と疑問の声も上がっていた。

 
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 渡辺さんは、仮設住宅の村民を前に、次のように訴えた。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いまの村政は国の方ばかり向いていて、村民の方を向いていません。そういうところに疑問を感じました。村議会も、村長さんにものを言えない議員が多いのではないでしょうか。国や村長にものが言える議員が必要だという思いで、立候補に至りました。

◇復興住宅の早期建設

 私は、皆様が、今後、安全・安心・安定して生活ができる環境づくりを目指したいと思います。
 そのために、まず第一に、復興住宅の建設です。
 2年以上、この狭い仮設にいるストレス。そして先の見えない生活。そこから脱却していただきたい。そのために、一戸建ての復興住宅、お孫さんと暮らせる二世帯住宅を国に求めてまいります。

◇原子力損害の完全賠償

 二番目は、補償・賠償の完全化です。
 今の皆様がもらっている補償は、避難のための補償です。でも、村に帰った、復興住宅に入った、家を買ったとして、その先の生活の補償は何もないんです。
 今回の事故は、東京電力と国の責任です。私たちには何の責任もないのです。
 村長は「2年後に帰村宣言をする」と言っていますが、そうしたらその1年以内に補償・賠償は止まります。飯舘に帰っても、首を絞められるような生活をするしかありません。
 向こう10年、20年、年間1ミリシーベルトに戻るまで補償・賠償の継続を求めてまいります。

◇一人ひとりの選択の尊重

 三番目は、選択の自由です。
 帰られる方もいるし、帰りたくても帰れない方もいます。若い人たちの中には、もう飯舘に戻れないからと、別に家を求めた人もいます。
 それは、移住の自由であって、人権なんです。それぞれを認めていかなければなりません。先ほどの補償と同じように、それぞれの選択が尊重され、それぞれの選択で生活ができるように、環境をつくらなければならないと思っております。

◇納得のいく除染を

 四つ目は除染です。
 現在、除染は遅々として進んでおりません。環境省の人は、「小宮、大倉の人は同意率が高かった」というので、7割ぐらいでもいったのかと思って訊いたら35%。それで国は高いと言っているんです。(村長の地元の)佐須でも3割しか同意していないんです。
 なぜかといえば、国の除染のやり方にみんな不満を持っているからです。国は仮置場ができないから除染が進まないと言っていますが、そんなことではないんです。
 家の周り20メーターの除染だけでは、われわれは生活できないんです。森林、河川、溜池などの除染について、国は何一つ言っていません。
 国は最終目標1ミリシーベルトと言っていますが、1ミリシーベルトになるまで何十年かかるのか、そしてどういう工程でいくのか、何も発表しておりません。そのために皆様が今後の生活の目途が立たないでいると思います。1ミリシーベルトまでの年数、工程をはっきりさせるように国に求めてまいります。

◇子どもの育成資金

 第五に、子どもたちの育成資金です。
 現在、村では、村の学校に通っている人には1万円、村外の学校に通っている人には5千円。そういう差をつけております。でも、みんな子どもたちは飯舘に住所を置いたままなんです。そんな差別をしちゃいけません。
 今後、何年かかるかわかりませんが、子どもたち、孫たちが、飯舘に戻るまで、育成をきっちりしてまいりたいと思います。ここがじいちゃん、ばあちゃんが生まれたところなんだと思って、帰って来れるような環境づくりをしたいと思います。
 私は、国や村長に対してものを言う議員になります。そして、皆様の声をよく聞き、それを村政に届けたいと思います。よろしくお願いいたします。


        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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 渡辺計さんの演説を聞くために、仮設住宅の住民が集まった。
 その中の一人の女性(60代)が、村民の置かれている状況や心境を次のように語ってくれた。
  「よくマスコミが来て、『今の希望は何ですか』なんて無神経なことを訊いてくるけど。希望なんかあるわけないよ。いろいろモノとかイベントとか、持ってきてくれる人もいるけど、それも違うの。
 せめて仮設住宅では死にたくないんだよ。仮設なんかでは死にたくない。これが今のみんなの気持ち。元の自宅じゃなくていい。飯舘じゃなくてもいい。復興住宅でいい。そこから棺を出してもらいたい。希望はそれだけ」
 「『戻れ、戻れ』ばっかりの村長のやり方もおかしいと思うけど、村議の人は、いままで2年間何をやっていたんだといいたい。今頃になっていろいろ言っているけど。村長に右へ倣えをする議員ならいらないよ」


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 この日、すでに投票は始まっていた。
 村民が各地に分散しているために、期日前投票が、3カ所の仮設住宅、さらに福島市内と南相馬市内などで各一日ずつ設定された。ただ仮設住宅での投票時間が午前10時から午後4時までと不便そうだ。
 また、県外に避難している村民には、避難先での不在者投票が行われた。
 そして、22日の投票は、村役場の飯野出張所と福島市内の2カ所で行われ、午後6時に投票箱が閉められた。
 



【Ⅱ】  選挙事務所は仮設の一室



 22日の夜、伊達東仮設住宅(伊達市内)の一室に、村民が集まっていた。選挙活動をいっしょに担った支持者やご家族など。渡辺さんの一家が避難している部屋が、選挙事務所になっていた。


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 7時半から開票が始まった。開票の現場に立ち会っている人から電話を待つが、なかなかかかって来ない。だんだん言葉数が少なくなる。
 8時15分にようやくツイッターで第一報が入り、11人の候補全員が100票と。さらに8時半の第二報でも全員が200票。横並びの激戦の様相に緊迫した。9時過ぎに「ただ今精査中」と連絡。
 そして、しばらくのちに、「当選した」


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 よかった、やったー、あめでとう、ありがとう・・・。
 張りつめた空気が一気にはじけたようだった。
 ほとんど同時に渡辺さんの携帯電話が次々となり、勝利の報告とお礼に追われた。


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 事務所もなければ本部もない。ほとんどお金をかけていない。選挙のプロは誰一人いない。ただ、いまの村政を何とかしたいと思って行動を起こした人たちが、渡辺さんを押し立てて村政に新しい風を起こした。




【Ⅲ】  地殻変動は始まっている

 

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(飯舘村で行われている農地の除染)


 3・11から2年半、「除染して帰村」という幻想は大きく崩れ始めている。ただ、そういう中でも、村長を中心とした村政のあり方はいまだ崩れていない。そういう中で今回の村議選を迎えた。


「反核の旗手にならない」


 除染の同意率の低さに、村民の不信と批判が込められている。飯舘村の除染の進捗は宅地で3%、農地で1%(2013年7月末時点、環境省)と、当初の計画から大幅に遅れている。遅れの理由は仮置場が決まらないことだけではない。いまの除染のやり方にたいする村民の不信だ。
 この間の除染で明らかになっているように、除染しても、生活できるような空間線量にまで到底下がらない。それなのに、村長は年間5ミリシーベルトで帰ると公言している。そして帰らない人、帰りたくない人にたいして、補償を打ち切ってでも、戻そうとしている。村民はこの村長のやり方を「村長の暴走」と言っている。
 村長は何をそんな焦るのか。その根本にある考えは何か。
 飯舘村が高濃度の放射能に襲われたことがわかり、村民の被ばくを少しでも避けるために直ちに避難を含めた措置を取る必要があった2011年4月、村長は、わざわざ首相官邸まで出向いて「提案書」を届けている。そこにはこう書かれていた。
 「本村はこの事故のみをきっかけとして『反核の旗手』になるつもりはない」「放射能汚染被災地の範となって、復旧・復興を果たすことこそが、・・・日本の最大の利益・・・、もって世界の範となるものと考える」
 被ばくさせられている村民にとって到底飲み込めない言葉だ。さらにその言葉の意図を、後に出版された村長の著書で次のように解説している。
 「とにかく、村民が村を出てしまえば、この飯舘村はなくなってしまうのだから。・・・村を潰さないでできることは何か。・・・提言書を出すことに決めたのである」
 「『食えない理想』ではなく、『政府と折り合いをつける現実的な可能性であり、村民への実利』なのである。その気持ちを誤解せずに、くみ取っていただきたいと願う」
 「政府を悩ませる脱原発問題では煩わせないことを約束する」から、「放射能から蘇らせるモデルケースとして」「他の自治体に先駆けて集中的な投資先にしてもらいたい」と。
     〔『美しい村に放射能が降った』菅野典雄飯舘村長著 2011年8月刊〕
 この村長の判断に対して、村民の間には、「村長は、飯舘村を自分の作品だと勘違いしている」「村長が守ろうとしているのは『自分の作品としての村』であって、村民ではない」という批判がある。
 逆に、村長の判断は、福島原発事故によって窮地に陥っている国や原子力産業にとってまさに救いの神であり、事故の被害を過小に評価し、事故などなかったように原子力政策を推進しようとしている側にとって、泣いて喜ぶような話だ。そして今進められている「除染して帰村」という路線も、こういう村長の考え方の延長にあるものだった。


簡単ではない村の政治


 では村民の不信を買って、村長は孤立しているのかというと、そう単純ではない。
 村長は、村の権力を握っており、それをフルに活用している。
 たとえば村の中でポストがあると、村長の息のかかった人に声がかかる。仮設住宅の自治会長とか、何かの管理人とか。そういう形で、回りを固めている。逆に村長から離反すると、排除という仕打ちを受けることになる。そういう話が村民から聞かれた。
 さらに村議会も、「村長の暴走」に対してものを言えなくなってきた。
 村議は、行政区や村内の団体の役職などをやったあと、そこから推薦を受けて議員になるのが習わし。いわば議員は名誉職。大半の村議は政治活動らしい活動をしていない。今回の選挙でも、名刺配りをはじめたのがようやく2か月前だという。
 そういう具合だから、3・11以前から議員は働いていないという声があったが、被ばくと避難という事態の中で、村議会は本当に何の役にも立っていないと、村民は見ている。
 そのために、「村長の暴走」に対して、村議会がチェック機能を全く果たせなかった。今回の選挙に出馬せず引退した村議の一人が、引退の理由として、「村長の独走を止められなかったから」と反省の弁を述べているという。事態の深刻さを物語っている。

 
国とぶつかり、村長とぶつかり


 「国や村長にものを言えない議員なんていらない」「おかしいと分かっているのにそれに対して行動しない。そこがこの村の良くないところなんだ。俺はそれを変えようと思ったんだ」
 渡辺さんは、賠償を巡って、除染や仮置場を巡って、国や村長のやり方を繰り返し批判し、復興庁や環境省と直接掛け合い、何とか村民の意向を通そうと奔走してきた。本来なら村議がやってしかるべきことだろう。しかし村議たちは動かなった。渡辺さんの行動力は、周囲の人が目を見張るものだった。
 そうやって国とぶつかり、村長とぶつかる中で、自分が議員になる必要があると決意を固めていった。そして、村政を変えたいと思っている人たちが、渡辺さんを押し立てて行こうとなっていった。
 上述のように、村議は、通例、行政区や団体の役職やって、そこからの推薦で出るもの。そういうものが一切ないのに、選挙に出るというのはかなりの冒険だ。またそういう人を応援することは、勝てばいいが、もしも負けたら、その後、どんな仕返しを受けるかもわからないというリスクを伴う。さらに、誰かは誰かの縁戚という形で、村民同士が地縁血縁でつながっている中で、正論を掲げて押し渡ることは少なからぬ軋轢を生むだろう。
 実際、「出馬を決めたら、早速、村長や議長、教育長から圧力がかかったよ」と渡辺さんは教えてくれた。また、一旦は引退を決めていた村議が、渡辺さんも通りそうだということになったら、わざわざ再出馬してきたという。


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(飯舘村の朝ぼらけ。夜明け頃の気温は10度を切る日もある)


同情でなく自分の問題として


 2011年3月以来のこういう経緯の中で、今回の村議選はあった。
 この選挙運動を支えた一人で、渡辺さんと同じ小宮地区の伊藤延由さんが、次のように総括している。
 「たしかに、もっと若い人たちが何人も出ればよかったが、でも、そうならなかった。村社会の枠組みを超えて反対するのは簡単ではない。でも地殻変動は始まってますよ。村の体制を支えてきた人びと、菅野村長とともに村をつくってきた人たちが、村長から離れている。地縁血縁ということの難しさで、思ったより票は伸びなかったけど、風は吹いた。浮動票なんか1票もないような田舎の選挙で、村政にものを申して、新人が通ったわけだから」
 飯舘村で起こっていること、この村議選を巡って動いたことを、どこにでもある田舎の話として片付けてはならないと思った。
 伊藤さんが次のように続けた。
 「もしここで飯舘村の問題がきちんと解決できなかったら、次に原発事故が起こったとき、いやほとんど確実に起こりますよ、そうしたとき、今のような原発推進路線だと、飯舘村に押しつけられたやり方や基準が、日本中のすべてに、あるいは世界のどこにでも押しつけられていくんですよ。20ミリシーベルト以下になったら帰れとか。
 他所に行って、飯舘村のお話をする機会があると、よく『どういう支援をしたらいいですか』って訊かれるんですが、私は、支援だとかという話ではないんですよと言うんです。この飯舘村の状況は、事故が起これば、日本中どこでも起こりうることなんです。そうなったときのことを考えて、飯舘村の実情を自分の問題としてとらえてほしい。20ミリシーベルト以下になったら帰らされる。それで本当にいいのかってことを、自分の問題としてとらえてほしいということをいつも言うんです」
 同情などいらない。明日は我が身なんですよ。そう思ったときあなたは何ができるか考えてほしい。そういう問題提起がされていると思った。
 原発事故の前、飯舘村は、経済成長一辺倒の社会のあり方にたいして、それとは違う価値観を静かに実践してきた。その飯舘村が、いま、放射能と原子力政策、あるいは国とその支配、都市による農村の収奪といった問題に対して、日本全体がどう向き合うべきかを、村民たちが直面している苦闘を通して、われわれに問うているように感じた。 (了)






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テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2013/09/25(水) 17:00:00|
  2. 飯舘村
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「何のための除染か?直ちに中止してほしい」    飯舘村 住民説明会



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 国・環境省が進める除染が、飯舘村で行き詰まっている。

 6月25日、飯舘村飯野出張所で開催された、飯舘村小宮地区を対象にした「除染作業実施のための住民説明会」を取材した。環境省福島環境再生事務所が、小宮地区の除染を開始するに当たって、除染の進め方を地区住民に説明し、同意を取り付けようというもの。小宮地区は130世帯。全世帯が県の内外に避難をしている中、この日は約80人が参加した。


130625kmy002.jpg(飯舘村二枚橋の田圃で行われている除染の現場)


 飯舘村の除染は国の直轄で行うとされている。2011年9月段階での「飯舘村除染計画書」では、住環境の除染について、2011年度中に着手し、2年程度で終了するとしていた。また、2012年5月段階の住民説明会では、2012年度に村の西半分、2013年度に東半分の除染を実施するとしていた。しかし、現在のところ、除染に着手できているのは、全20地区のうち、二枚橋・須萱と臼石の2地区のみ。
 国・環境省および菅野典雄村長が推し進める「除染して帰村」という考え方に、多くの村民が不信を抱き、除染に同意をしていないからだ。そして効果をうたって開始された除染だが、実際にやってみると芳しい成果が挙がっていないのが実情だからだ。

 

疑問噴出


 この日の説明会は、今年度実施予定の地区に対するもの。全体で約2時間半。環境省職員が、約40ページのペーパーを配り、それに沿って除染のスケジュールや工程、住居やその周囲の樹木、農地などについての除染方法、それへの同意取得の手続きの進め方、さらに、小宮に新設される仮設焼却炉の概要などにかんして、1時間ほど説明を行い、その後1時間半の質疑が行われた。
 質疑では、住民から、除染についての疑問が次々と出され、環境省は要領を得ない答弁に終始した。その主要なやり取りは以下のようなものだった。〔一部要旨〕


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【住民】何のための除染なのか?何回やるのか?どこまで線量を下げるのか?1ミリシーベルトというけど、何年かかるのか?そういうことが何一つ書いてないじゃないか。
【環境省】大変むずかしい質問だ。できるだけ下げる。残念ながら除染の効果は場所によって違うので、はっきりした数値は示せない。
何とか今の計画は進めてさせていただきたい。長い取り組みになるが、地道にやらせてもらいたい。
【住民】それじゃあ、「除染のための除染」、「ゼネコンのための除染」じゃないか。きっちりした数値目標を出しなさいよ。
【住民】環境省の考えている「人が生活していい被ばく線量」とはいくつなのか?村長は、年間5ミリシーベルトといった。それもどうかと思うが、環境省が狙っているのは、年間20ミリシーベルトではないのか?


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(環境省職員が要領の得ない答弁に終始、住民は呆れ、苛立ちを募らせた)


【環境省】国の方針としては、最終的には、年間1ミリシーベルトを目指すということに変わりはない。
【住民】「最終的に」ではなくて、今回の除染ではどうなのか?何の目安もなくていいのか?
【環境省】一律にどこまで下げるかの数値の持ち合わせはない。申し訳ない。ただ、年間50ミリシーベルトのところはその下に、年間20ミリシーベルトのところはその下に・・・。
【住民】「やってみないとわからない」ということね。(会場、失笑)
 これだけの資料の中に、目標とか線量とかがひとつも示されていない。それが、村民が一番気にしているところだ。どこで帰村宣言が出されるのか、不安に思っている。
 数値目標を決めるべきだ。NHKも報道(6月14日付 NHK NEWS WEB 掲載)している通り、除染業者との契約で、具体的な数値目標を出させないために、結果も曖昧になっている。
【住民】除染がうまくいかなったとき、どうするのか?前回(5月)の懇談会のとき、責任者の方が、「これから勉強する」といっていたが。
【環境省】リバウンド(除染後に線量が元に戻ること)の原因追究はできていない。申し訳ない。私どもで分かるのは、現場での作業の方法についてだけだ。


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(環境省の答弁が要領を得ないため、菅野村長が助け舟)


【村長】目標についてだが、村としても、最終的には年間1ミリシーベルト。しかし、これは、毎時0.23マイクロシーベルトということ。これを実現するのは大変だ。
 だから村としては、当面年間5ミリシーベルトで、という話をしている。少なくとも5ミリシーベルトを目標にしてもらう。
 小宮の田圃の実験では、毎時5~6マイクロシーベルト前後のところが、毎時1~1.5マイクロシーベルトに下がっている。毎時1マイクロシーベルトでもいいよという人と、それではだめだという人がいる。それでいいよという人には、それで帰村してもらう。それではだめだという人は、すぐには帰れないわけだから対応を考えないといけないということだ。
【住民】環境省の話は、何回、訊いても、「やってみないとわからない」という。
 それから、村長が、田圃の除染で線量が下がったといったけど、それは田圃に水を入れる前だからだ。水を入れたら、濁り水が入ってまた線量は上がる。水を入れて、田圃を始めてから、線量が上がったというんじゃたまらない。
 「とにかくやる」というだけの除染なら、直ちにやめてもらいたい。「私は除染の現場なので他のことは分からない」という答弁では話にならない。
【住民】そもそも、国が示しているのは、「原発事故が起きて、放射能が降りました。しようがないから除染します。で、除染してみたけど下がりませんでした。しようがないけど帰還して下さい」という風にしか聞こえない。
私たち若い者にとっては、これから先の生活のことがあるのに、今のことしか考えていないようなやり方ではどうかと思う。
【住民】村長さん、これは受けとめ方の違いだと思うけど、年間5ミリシーベルトというのは、放射線管理区域だよ。放射線管理区域というのは、放射線による障害を防止するために設けられる区域で、法令で取り決められているんだよ。
【住民】質問に対する環境省の答えは、「わかりません。でもメニューはこれだけです」って。そんな人たちにたいして、除染の同意ができるか?「分からない」という人はやめて下さい。「あとは現場で相談して」と言われても相談にならない。
 同意書を出さないとどうなるのか?もう対象外で補償も対象外になるのか?
【村長】そういうことはないが、7~8割の人の同意でやっていく。全員の同意までは待てない。ある程度のところで始めたい。

〔なお、これ以外に、住居の周りの除染で、針葉樹は切るが落葉樹は切らないことへの疑問、同意取得の手続きを環境省が、建設コンサルタント会社に丸投げていることへの批判、仮設焼却炉で、除染廃棄物を燃やすことはないのかという危惧などが、出された。とくに仮設焼却炉の問題は重要だが、時間切れで終わっている。〕


除染の行きづまり


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(山間の谷筋を道が縫うように走る。小宮地区はこういう風景が続く)


 この日のやり取りの中にいくつかの大きな問題が突き出されていると感じた。

 ひとつは、住民の側の「除染の数値目標を示すべき」という当然の求めに対して、環境省は、何も示すことができなかった。
 「できるだけ下げる。残念ながら除染の効果は場所によって違うので、はっきりした数値は示せない」
 「リバウンド(除染後に線量が元に戻ること)の原因追究はできていない。私どもで分かるのは、現場での作業の方法についてだけだ」
 環境省の現場サイドとして、除染の効果について全く確信を持てなくなっているということが窺える。やってもやっても成果があがらない。とにかく除染という作業をこなしているだけ。それ以上でも以下でもないというのが正直な実情なのだ。
 除染直後にはいったん下がった放射線線量も、1カ月後、半年後には元に戻っているという例は枚挙に暇がない。また、ある場所とある場所を取ればたしかに下がっているが、全体として見れば、結局、セシウムの半減期による物理的な減衰と、セシウムの地中への浸透・沈降による遮蔽効果によって、放射線量がゆっくりとだが下がっているということを大きく超えるものになっていない。そして、はっきりしていることは、事故からこれまでの2年間は、半減期の短いセシウム134が放射線量の低減に寄与してきたが、これから先は半減期の長いセシウム137の影響でどんどん下がり方は緩慢になるということだ。


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(小宮地区の概観図と除染範囲。谷筋の黄色で囲んだ部分が除染範囲 環境省提示)

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(除染範囲の拡大図 環境省提示)


 上の2枚の画像は環境省が示した小宮地区の航空写真だ。飯舘村全体が中山間地だが、その中でも小宮地区は、住居や農地が谷合に点在している様子がわかる。環境省は、この写真の黄色い線で囲んだ範囲を除染するという。山全体を除染することは絶望的だからだ。ということは、放射性物質がそのままになっている山があり、その山に囲まれた住居や農地だけを除染するという。それでは中長期的にはほとんど効果がないことは明らかだ。
 この除染のために、飯舘村だけで総額3千224億円が投入される。人口6000人の村にだ。もちろんのその金は1円も村民には渡らない。また除染作業員もギリギリの賃金しか受け取れない。ほとんどがゼネコンやその関連企業の懐に入る。
 まさに、住民が批判するように、「除染のための除染」、「ゼネコンのための除染」なのだ。そして、「『とにかくやる』というだけの除染なら、直ちにやめてもらいたい」。これが多くの住民の声である。



下がらなくても帰村


 いまひとつは、このように除染の行き詰まりが明らかになっている中で、住民の間に広がっている危惧は、国や村長が、除染の行きづまりを開き直って、放射線量が自然減衰以上には下がらないのに帰村を宣言し、補償を打ち切るのではないかということだ。
 「環境省の考えている『人が生活していい被ばく線量』とはいくつなのか?村長は、年間5ミリシーベルトといった。それもどうかと思うが、環境省が狙っているのは、年間20ミリシーベルトではないのか?」
 「そもそも、国が示しているのは、『原発事故が起きて、放射能が降りました。しようがないから除染します。で、除染してみたけど下がりませんでした。しようがないけど帰還して下さい』という風にしか聞こえない」
 実際、除染を開始する当初は、「年間1ミリシーベルトを目指す」と掲げていたが、この間、村長は年間5ミリシーベルトという数値を公言し、国もそれを渡りに船にしようとしている。
 さらに、村長は、「毎時1マイクロシーベルトでもいいよという人と、それではだめだという人がいる。それでいいよという人には、それで帰村してもらう」と、この日も発言している。毎時1マイクロシーベルトの放射線量の下で生活するということは、低く見積もっても年間5ミリシーベルト以上、単純計算をすれば年間8ミリシーベルト以上の被ばくをするということだ。
 住民の危惧が、現実味を帯びてきている。もちろん、健康被害のリスクを理解した上で、自らの判断で戻るという選択もあるだろう。また、村長も言葉の上では、「毎時1マイクロシーベルトではだめだという人は、すぐには帰れないわけだから対応を考えないといけない」と言って、戻らない選択も示してはいる。が、それを額面通り受け取っている住民は少ない。
 そもそも、なぜ、飯舘村の住民だけ、あるいは福島県の住民だけが、他とは違う基準で被ばくを強制され、健康被害の危険にさらされなければならないのか。法治国家を標榜する日本において、権利や義務が、明らかに平等に扱われていない。住民の様々な要求や訴えの中には、この強い不信と憤りが貫かれている。 (了)



 

テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2013/06/30(日) 10:00:00|
  2. 飯舘村
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除染の現場から  ある親方の証言


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 地元の建設会社社長の鈴木さん(仮名)に飯舘村の除染の実態を聞いた。鈴木さんは、地元の職人の親方として、仲間を率いて、一所懸命に除染作業に取り組んでいる。
 「手抜き除染」という問題が大きく報道されている。が、これとは対照的に、鈴木さんらの仕事ぶりは、職人の誇りにかけていっさい手を抜かないものだ。むしろ、そうであるがゆえに、除染にたいする見方は厳しく、その矛盾を指摘している。
 鈴木さんが、事故前に携わった原発内作業の実態も含めてお話を伺った。
〔取材は12月から今年1月にかけて〕


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〔飯舘村二枚橋にある寺の除染。この日の気温は日中でも氷点下2~氷点下1度。空間線量率は毎時0.8マイクロシーベルト前後で飯舘村の中では比較的低い地域。2012年12月〕




【Ⅰ】  原発での仕事




――原発の仕事は長かったのですか?

鈴木:地元の職人は、どっちかに分かれるんだね。原発に行くか、火力に行くか。
 自分は、なるべく区域(原発内の放射線管理区域)には入りたくないと思ってたから、火力に行ったり、一般の道路工事をしたり、原発でも外の仕事をしたり。で、たまたま震災の3、4カ月前に1F4号機(東電福島第一原発4号機、当時定期点検中)に入ったわけ。

――原発の中の仕事には関わらないようにしてきた?

鈴木:そうね、やっぱり。
 作業は、一般の現場より楽よ。線量を浴びる分、作業時間が短いとか。一般の現場なら1人で持ち上げるところを、原発だったら3人でやるとか。やっぱり安全面でそうするわけ。
 でも、やっぱり線量を浴びる。だから、絶対にいやだっていう者は行かない。進んで行くのは自分の周りにはいないね。
 自分が原発に行ったのは、先輩の会社に頼まれたから。「人が足りないから、ちょっと応援してくれ」みたいな話で。お金がいいとかの話じゃなくて、それをやらないと仕事がない時期だったんでね。
 この辺の職人は、火力の定検(定期点検)が終わったら、次はこっちの定検という具合に、原発や火力をグルグル回っているわけ。仕事がないときは柏崎(東電柏崎刈羽原発)に出張に行ったり。

――4号機での仕事は?

鈴木:シュラウド(原子炉の圧力容器の中にある、炉心を囲む構造物)の交換がらみの仕事。
 ものすごく分厚いタンクみたいなものの中に入っていくんだけど、「あ~ここが心臓部なんだな」と。自分の作業は、原子炉の水を全部抜いて、そこを拭く仕事だったけどね。
 それから、シュラウドの蓋を開けるためにボルトを抜くんだけど、そのボルトをプールの中から挙げて切断する仕事とか。

――かなり被ばく線量の高い作業ですね。

鈴木:そう。身体汚染しないように管理されて、フードマスクを被ったりしながら、作業したね。その場には5分ぐらいしかいられなかった気がする。
 蓋を開ける係とか、それからそこを拭いてくる係とか、そういう工程表があって、役割分担がしてあるんだよ。で蓋を開ける人は、開けたらサッと帰ってくる。
 だから普通なら1人2人でできるような作業でも、安全面を考えて、10人ぐらいでやる感じ。

――危ないと感じた経験は?

鈴木:ひどく怒られたことはあるね。
 4号機の中で、他の業者が切った高線量の配管をさらに細かく切って、ドラム缶に入れる仕事で。
 一番、線量を食う仕事で、アノラックを着てやるんだけど、直接触ったりすると、どっかの隙間から(放射性物質が)入る。それでサーベイを受けると、ものすごい数字が出ちゃう。決められたルールを守っても、身体汚染をしちゃうということが2回ぐらい続いた。それでものすごく怒られた。まあ、そのくらいシビアだっただろうなと。
 親会社の方から言われる。「どういう管理をしてんだ」って。
 基本的に、電力の人は、自分らには柔らかい口調で言ってくるんだけど、やっぱり親会社の監督さんなんかは、プレッシャーがあるんじゃないかな。

――親会社というと鈴木さんは何次請け?

鈴木:たぶん6次か7次ぐらい。
 俺らは、仕事がどっからどう来ているとかは、正直、わかんない。
「今度、ちょっと人足りないから」と言われたら行くという関係。契約関係とかはほとんどない。ある程度のラインまでしかない。実際、そうじゃないと人は集まんないでね。

――危険な作業で、当然、特別な手当てが出ると思いますが。

鈴木:出ているのかどうかわかんないけど、俺らはもらえない。
 当時、もらっていたのが一人1日1万3千円ぐらい。この辺だと、道路工事などの日当が大体1万円ぐらいだから、それより2、3千円高いというぐらい。
たぶん、電力なり元請なりが出している金額とは全然違うと思うけど、もうそれで我慢するしかない。お金を頂けるだけ、仕事があるだけありがたいという感じだよ。


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〔門前の道に沿う植込みの表土を削って、上から砂をかけていた〕

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〔屋根の除染の準備で、雨樋のサーベイ。「いちまーん」と読み上げる声が。
 1万cpmということだろう。激しい汚染だ〕




【Ⅱ】  原発建屋の中で3・11




――3月11日の地震のときは?

鈴木:あのときは、4号機の建屋の中で足場を組んでいたね。最初に組んだところがダメで、作業を中断してちょうどみんな足場から降りてきたときに地震になっちゃったんだ。足場に乗っていたら大変なことになっていたね。
 ものすごい揺れで、自分なんか、変な話だけど、「隕石でも落ちたんじゃねえか」ぐらいに、もう何がどうなっているんだか、わかんなかった。船に乗っているぐらい揺れてた。全員立ってらんなかったね。あせちゃったよ。
 で、照明が落ちちゃった。非常口の表示だけが点いていて、あと警報が鳴りっぱなし。
 もうトラウマになってるね。ヤバかったよ。

――まず、考えたことは?

鈴木:とりあえず外に出ようと。ヘルメットにライトつけている人もいたんで、それを頼りに外に出てきた。
 自分らは入り口に近い方だったんで、着替えとかもキチッとやってきたけど。サーベイは足だけしてもらって。
 別の建屋なんかでは、配管か何かの水を浴びちゃって、でもそのままでてきてしまったり。みんなもうパニック。俺らのところは割と冷静だったけど、他所の建屋では、「早く出せー」って感じで、着替えもサーベイもなしで、一斉に出てきてしまったらしい。

――津波のことは考えましたか?

鈴木:いや、建屋から出てきたものの、何がどうなっているかが理解できない。道路もこんなにグチャグチャになっているし、1号機なんか角の方が落っこちてたりしたんで。
 とにかく避難場所(原発サイトの南端にある見学用の高台)があるんで、そこにみんなで行って、安否確認をした。
 そのうち吹雪いてきたんで、しばらくみんなを落ち着かせて、それから、「じゃあ、各自帰れ」となった。津波は、たぶん高台で安否確認しているときに来ていたんだと思う。あそこから海は見えないから。大変なことになっていたんだけど、誰もわからなかった。もし、安否確認してすぐに帰っていたら、たぶん津波にあって死んでたのかなと思う。浜街道を通っていくから。
 みんなで車で浜街道を走ってたら、道がないんだよ。俺は、「パイプラインかなんかが破断して水が溢れてんだな」ぐらいにしか考えなかった。でもそのうちに津波だということがわかって。ちょうど家族とかと電話がつながり始めて、「家が流された」とか、そんな感じだったね。

――原発が危険になるとは?

鈴木:3月11日の2日前に岩手で地震があったけど、あのときにいつものメンバーで飲みながら、「そろそろ地震が来るんじゃないか」といった話を冗談半分でしてた。で、もし地震がきたら、「原発が危ないから、福島市に逃げよう」と、みんなで打ち合わせしてたんだ。そしたら、本当にあの地震が来ちゃった。
 だから、原発が危ないという情報が入る前に、そのまま福島市とか新潟にばんばんいちゃった。もうどうせみんな家も流されているし。
 俺の家は、津波では大丈夫だったんで、避難所にいる仲間に「とりあえず逃げなさい」って言って、ガソリンとか、子どものおむつを届けて、自分も翌日に避難した。

――原発の爆発を知ったときの気持ちは?

鈴木:「ああ、基本、帰れないんだべな」と。
 あの後、何日後かに、みんなのところに、(上の方の会社から)ガンガン電話がきて、「1Fに戻れないか」とか「決死で来てくれないか」とか言われた。普段は電話なんか来ないような何とか部長とかから。でも、みんな「それどころじゃねえ」って。
 自分は、事故以降、原発に戻ることはなかったね。
 でも、3月20日ごろにはこっちに戻ってきて、「ああこの先どうしようかな」とか考えてたよ。


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〔落下、転倒、被ばくなどの危険を周知する打ち合わせが毎朝行われる。現場では省略してKYという〕




【Ⅲ】  飯舘村の除染




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〔夏に表土剥ぐ除染が行われた小宮地区の田圃。線量はある程度下がったものの、豊饒な土壌を取ってしまったので、農業の再生は遠い。また周りの山林は手付かずなので、放射性物質はやがて戻ってくる〕


――除染はいつから?

鈴木:一発めの国のモデル事業から。去年(2011年)の10月ぐらい。いまは飯舘村をやってる。

――実際にやってみてどうですか?

鈴木:やれば下がるのは下がるんだけど、まあ場所にもよる。ホットスポットというのはある程度決まってて、そこだけ集中的にやってけば、とりあえずは下がる。
 コンクリートは、水で洗っても、落ちない。土は、表土を取れば全然違う。あと、木がダメ。切り倒すか、木の皮を剥くか。皮を剥くと違う。
 屋根は、瓦をキムタオル(拭き取り作業用、パルプ製)で一枚一枚拭き取ってる。一回拭いたら、もう汚れてるからダメなんで、折り返して折り返して、みたいな感じ。「ああ、これはどうなのかなあ」と思うけどね。
 それから、雨樋に放射性物質が溜まっているから、俺なんかは、「雨樋を新しいのに交換したらいいんじゃないか」と思うけど、それはお客さんのものだから勝手に交換ももちろんできないし。
 一番、激しいのは、雨どいの下の土。桁違いの数字が出る。そこは、1メーター×1メーター×1メーターで土を取ってしまう。で、測って、まだ高ければ、もっと掘ってという感じ。で、そこを取ると低くなる。まあ低いと言っても、震災前よりはずっと高いんだけどね。

――作業の雰囲気はどうですか?

鈴木:うちは、大成・熊谷・東急のJV(Joint Venture 共同企業体)の下にいる。
 監督さんらも一所懸命なんだけど、みんな初めてのことだから、一所懸命すぎて空回りしてしまうような雰囲気はあるよね。
 俺らとしては、言われたことさえやればいいわけだけど、監督としては、「下げたぞ」という結果が、技術者としても欲しいんだろう。
 だから、会議なんかで言い合いになる。「そんなやり方じゃ効率悪い」とか。「風が向こうから吹いてきてるから、向こうから攻めて、こういう風にやりたい」とか。「それはできません」とか。もうできないことはできないと言う。監督も、できないと分かってて言って来るから。
 それに工程的にきついよ。プレッシャーもある。除染をして数値が下がらなければ、やり直し。でも工期も決められているから、詰まってくるわけ。
 俺らが手を抜くわけにもいかないし、精神面で疲れるなあと思う。
 それでも、監督さんに、「無理を行って悪いなあ」とか「ありがとうなあ」と言われれば、職人としてはうれしい。


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〔民家の玄関前のコンクリートの洗浄。屋根の洗浄で出た汚染水は回収するが、玄関前の洗浄で出た汚染水は、この現場では回りに流していた〕

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〔ビニールハウスの中の土壌を剥離〕


ここは住む町ではない


――実際のところの除染の成果は?

鈴木:直後は下がる。でも1週間後、1カ月後、どうかね。雨どいの下の強烈なところは取り除いた。でも家一軒まるまるだからね。一戸ずつやっていくしない。そうすると地域全体としては、変わんないと思う。とくに飯舘村なんかは田圃があり、畑があり、山があり、森がありだから。
 ある意味、辛いよね。心の中で、「何やらされているんだ」みたいな。そういう気持ちもある。

――原発内の作業を経験した立場から今の除染はどうですか?

鈴木:原発内の除染と今の除染は、言葉は同じでも全く違う。原発の方は、建屋の中が汚染されていても、建屋の外に出れば、きれいな空間。それなりの理屈がある。原発では、汚染を封じ込め込めて、ここから持ち出さないという風にしている。中の方の気圧も低くしてあって、外には出ない。
 でも、今の除染の場合、ここを除染しても、まだこっちが汚れているから、難しいというか、今やっている除染は矛盾しているところがある。ここを除染しても、風で飛んでくれば、元に戻ってしまう。辛えよねえ。
 国が細かく基準とかマニュアルを作っているけど、その通りにやれば成果が上がるとは限らない。きつい思いをして、一所懸命やってる気持ちと、でも実際には「これは無駄だな」ということがある。みんな職人だから、そういう思いはあると思う。

――一番の無駄や矛盾は?

鈴木:家でも倉庫でも、拭き取ったり、洗浄したりするのにお金をかけるんだったら、それは壊して、新しいのを建ててあげた方がいいなと思う。で、出たものは汚れているから、集めて散らさない方がいいんじゃないかって思うんだけどね。
 自分の感覚なんかじゃ、正直な話、正常なときの建屋の中でさえ除染しきれなかったのに、これだけぶちまけて、できるがわけない。

――つまり除染しても元には戻らないと。

鈴木:ここはもう住む町ではないと思うね。とくに子どもたちが。
 実際、みんな単身こっちにいて、家族は避難という感じだね。

――ではどうしたらいいか、現場で見えてくるものは?

鈴木:たまに地図を見たりすると、福島県大きいし、飯舘も大きい。面積があって、高濃度で汚染されてて、ほとんど山。広すぎて、除染なんて意味がない。
 だから何十年かは、人が入れないというところを作るしかないと思う。子どもたちはできるだけ、近づけないで。


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〔一軒の民家の除染でも大量の廃棄物が。これは一旦、小宮地区にある仮仮置き場に集められる。最終的には、双葉町・大熊町などに作ろうとしている中間貯蔵施設へ持ち込もうとしている。しかし無駄な除染のために双葉・大熊にまた犠牲を強いるのかという声も少なくない〕


危険手当


――除染作業は当然、危険手当がついているわけですが、その辺は?

鈴木:危険手当は一日1万円、普通の賃金プラス1万円。
 福島県の最低賃金が5300円ぐらいだから、「最低1万6千円ぐらい払いなさい」という話だよね。
 ただ、危険手当を除いたら6千円。6千円で働く職人なんていないよ。だから、最低で2万円は出してる。
 でも、自分のところでも、上の段階で相当抜かれている。やっぱり、暗黙の了解みたいな。
 それから、除染だからといって必ず危険手当が着くかというと、川俣町はつかない。
 飯舘村は環境省だけど、川俣町は町でやっているから。被ばくするのは同じなのに。だから、その辺の矛盾もあるよね。ものすごい安いし、人、集まんないって言ってたよ。
 

手抜き除染


――「手抜き除染」という報道が大きくされていますが?

鈴木:自分らは、地元の人間だからね。自分たちが住んでいるところだよ。そこで、ああいうことはやれない。気持ちとしてね。地元の人間だったら、川に捨てたらどうなるかとか、分かるし。
 手抜きで問題になっている作業員というのは、たぶん大半が、地元の人間ではないだろ。建設業もやったことがないような。
 俺らは、例えば、水で洗うときも、「一滴も漏らすな」って、回収を厳しくやってるくらい。その辺、監督もシビアだから。

――一所懸命やってきた現場としては?

鈴木:この話を聞いて、正直、俺もびっくりした。
 現場では、今はなんか雰囲気が重いよ。真面目にやっているのに、いっしょに見られて。そういうことを聞かれるし。なんか、やるせないね。

――どこに問題があると思いますか?

鈴木:国の人は、2~3年で除染してとか考えているみたいだけど、現実には無理。やっぱり除染なんて、できないことを無理にやろうとしているところに原因があるんじゃないか。さっきも言ったように、原発の建屋の中でさえ除染しきれなかったのに、放射能をこれだけぶちまけて、除染なんてできるわけがない。そういう矛盾したことをやっているところに問題があると思うけどね。
 

「本来の生活」を取り戻す


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〔野菜を置けなくなった二枚橋新鮮野菜直売所につるし雛が(写真上)。住民の思いがつづられている(写真下)。「帰れるものなら帰りたい」という思いも事実。しかし除染すれば元に戻れるわけではない。それも重い事実〕


――原発が事故を起こして、汚染した状態になって、しかもその処理作業に携わっている人間として、どんな気持ちですか?

鈴木:そうねえ、出口が見えないトンネルに入ってしまったという感じかな。ただ、いまさら後戻りもできないし、何とか抜けるまでは行くしかないなあ。自分が生きている間は無理かもしれないけど。

――原発という政策からの転換については?

鈴木:やっぱりもう「本来の生活」に戻るべきなんじゃないかな。例えば、太陽光にしたとして、その発電量が少ないと言うなら、それで暮らせる生活にするべきなんだよ。たとえ貧しくても。その方がいいと思う。これまでがおかしかったんだよ。

(了)




テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2013/01/11(金) 20:04:38|
  2. 飯舘村
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帰りたい 帰れない 帰らない ―― 飯舘村民の苦悩


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〔「帰還困難区域」とされた飯舘村長泥地区は、7月17日、バリケードで封鎖された。長泥地区で除染作業を行う奥村組の作業員が、ゲート開閉のために配置されていた。線量計は、毎時6.21マイクロシーベルトを示していた〕





 原発事故から1年半を迎える飯舘村の現状をレポートする。
 飯舘村小宮地区から伊達市内の仮設住宅に避難している安齋徹さん(65)に、村を案内していただきながら、お話をうかがった。

 飯舘村を扱った映像やレポートは多々ある。が、安齋さんは言う。「取材はたくさん来るけど、表面しか捉えていない。『飯舘村はきれいで、だけどそこに住めなくなって、涙を流していました』――こういう話はもういいの。住民の心の中を、先の見えない不安感を取材して下さい」
 国と村は、避難区域の再編を進めている。そして、菅野村長は、「除染して、2年で帰村する」という方針を推し進めている。しかし、少なからぬ住民は、「戻れるものなら戻りたい。だけど戻れるような状態じゃない。それなのに、いやでも戻されるのではないか。仮設住宅も追い出され、賠償も打ち切られるのではないか」。そういう不安に苛まれている。
 安齋さんは、歯に衣着せぬ言葉で国や東電に怒りをぶつけ、また、返す刀で村長を批判する。もちろん安齋さんの意見・見方がすべてではない。住民の意見は様々に分かれている。しかし、安齋さんの言葉を通して、闘いたいのになかなか闘いにならないもどかしい思いが伝わってくる。そうした中でも、新しい方向をなんとか切り開こうと格闘する村民たちの姿を感じ取ることができる。



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出稼ぎの村で



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〔写真上は、小宮地区にある安齋さんの自宅。写真下は、伊達市内の仮設住宅で話をする安齋さん〕

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 若く見られるけど、22年(1947)生まれですよ。親が飯舘生まれで、東京で養子に入って、戦後、飯舘に戻ってきました。開拓者ですね。 自分はこっちで生まれたの。兄さんは東京で。あの頃は貧しかった。食べ物も満足に確保できないような状態でした。
 親は林業、山仕事、炭焼き。炭があまり売れなくなって、それから出稼ぎ。親が出稼ぎに行き出したのは、自分が中学校を終わってからかな。山仕事があんまり芳しくなくなって、出稼ぎの方がお金取れるからって。そして、おやじが出稼ぎをやめて、今度は自分が出た。自分も出稼ぎで、だいぶ家を開けていましたよ。
 飯舘とかでは、みんなそうですよ。飯舘でも一時期、出稼ぎに出る人がかなり多かったです。

◇独り身

 でも出稼ぎに行ってたら、家も自分も駄目になるということで、それで、葉タバコの生産をやったんですよ。
 ところが、ちょうどその頃、葉タバコをやる農家が増えて、専売公社が減らそうとした時期。時期が悪かった。専売公社から、「金を払うからやめて下さい」って言われてやめたの。
 それから、また出稼ぎしたり、重機に乗ったり。東京や伊豆、伊豆の方が多かったかな。宅地造成とか道路工事とか。それが終わって、原町の建設会社に行ったり。
 出稼ぎしているときは、いやもう出っ放しですよ。盆正月に帰るぐらい。そうやって出ていたんで、それが祟っていまも独り身。そういう人、多いじゃないかな。自分だけじゃないですよ。

◇トマトで金賞

 で、タバコやめてから、野菜作りをやったんですよ。飯舘で、野菜専門で食べるって言ったら、かなり厳しいですよ。
 東京の方に出してみるけど、規格が厳しくて。トマトとか大根とか作ったんですけど、他所からドンとくると、もう飯舘村のは買い叩かれました。
 大阪の花博の頃はトマトを作っていたの。低農薬・無農薬で。花博に出して、何か知らないけど、協会から金賞をもらって。でも2~3年作ってやめました。
 評価されても、商品としては行かないんです。病気にもなるし、気候変動もあるし。トマトは作業は一番楽でしたよ。でも病気に弱くてね。


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〔トマトを栽培していたハウス。奥行きが74メートルあるという。台風でビニールが飛んだら一気に雑草が生い茂ってしまった。手前の稲刈り用コンバインも汚染で使えないし売ることもできない。安齋さんは、「悲しいねえ」という言葉を何度も繰り返した〕


◇全部、ぱあ

 それもやめて、また、外の仕事に出ていたんだけど、8年ぐらい前かな、国の助成でグリーンツーリズムということで、その講習を受けて、7年半か8年近くやっていました。
 それから、一昨年、水田も始めました。3町歩ぐらいつくると、自分ひとりで生活するには間に合うから。水田やって、キノコ採ったり、山菜とったりして。お金なくても、そうやって暮らしていけるから。
 そうやっていたところに、原発。それで全部、ぱあ。




赤錆色の大気



 去年の3月11日は、山の高いところにいたんですけど、これだけの地震が来たら、もうこれは完全に原発が事故をおこすと思いました。そう。すぐに原発事故に結びつきました。
 だって、東電というのは、佐藤栄佐久さん(1988年-2006年福島県知事)の頃から、≪嘘をつく、隠す、脅す≫というのを繰り返していましたから。自分たちは、前から言ってましたよ、「東電は、いずれ大きな事故を起こすよ」って。
 家に帰って、すぐに水を確保しました。妹と猫と自分のと。
そして次の日、ドン。水素爆発。このときに一時的でもいいから、緊急避難させてくれていたら、これほど被ばくをしなくて済んだのに。

◇避難者に炊き出し

 経済産業省が、ずっと、「飯舘は安全だから避難しなくていい」と言ってました。しかし、それに輪をかけて、村長が、住民を飯舘に止めておいた。そこでまた被ばくをしているわけです。村長の悪口を言うんじゃないけど。
 小高や原町の人も、飯舘に避難してきました。それで自分らが炊き出しをしていたんです。放射能を浴びながら。
 だけど、村長は、線量が高いのを分かっていたはずですよ。村長は、飯舘に入ってきたジャーナリストや今中先生(京大助教)から、数字を聞いてたわけだから。今中先生は、村長に「避難した方がいい」という話をしたけど、村長は「マスコミには言わないでくれ」って、押さえようとしたんですよ。
 本来なら、避難してきた人に、「飯舘は線量が高いから、別のところに行って下さい」と言うでしょう。
 避難の人たちも、事態がだんだんわかってきたらびっくりして、違うところに避難していきました。2回、3回、4回と避難場所を転々とするようになってしまったのもこういう事情なのです。

◇焼けた金属臭・黒い雪

 自分の家は、飯舘村でもちょっと標高の高いところなんですよ。あのときは風がなくて、家から見ると、もう雲海みたいになって、大気が赤錆みたいな色をしていましたよ。そして、金属の焼けた臭いがして。
 14日は家にいて3号機が爆発したのをテレビで見ていたんですけど、直に音が聞こえましたよ。ドーンと2回。かなり大きい音でしたよ。
 それが、15日の朝には、飯舘に黒い雪となって落ち着てきました。薄っすら黒い色。自分だけじゃない、飯舘で気がついている人は見ていますよ。
 だから、あのとき避難させていただければ、何も3号機の爆発の影響を体に受けなくても済んだわけです。


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〔安齋さんの家の前は緩やかな谷が広がっている。あの日、この谷が錆色の雲海で埋まった。この1年半の流れを知らないと、「美しい里山の風景」に見えてしまうだろう〕


◇体調にも異変が

 自分は、3月29日から、相馬の方で、遺体捜索に行きました。2カ月間。
 それで、朝6時から夕方6時まで家にいなかったから、ずっと飯舘にいた人よりは被ばくしていないかもしれない。24時間のうち、12時間は家にいなかったから。
 実際、仕事にいって、帰ってくると腹の調子がいいの。で、一晩、家に泊まると、朝はもう腹が下る。また、向こうで仕事していると落ち着くの。その繰り返し。家の中で、4~6マイクロシーベルト(毎時)、家の周りでは7マイクロシーベルト(毎時)ありましたから。
 5月末で遺体捜索の仕事が終わって、6月26日にようやく自治研修センター(福島市内)に避難しました。

◇山下教授の罪

 飯舘村は、まとまって避難ということはしなかったですね。その頃、まだまだ飯舘に残っている人はいましたよ。
 それには、山下さん(現・福島医大副学長)の影響もありますよ。「100ミリシーベルトまで大丈夫ですよ」と宣伝していったわけですから。あのとき、そういう先生が、「飯舘は危険だから避難しなさい」といってくれていたら、飯舘住民は、ほとんど避難しましたよ。
 「100ミリシーベルトまで大丈夫。戸を開けていいし、洗濯物も外に干していい。子どもを外で遊ばしてもいい」って。そのころ、本当に、子どもは外で遊んでいたんですよ。
 だから、自分の口から言わせると、「自分たちを殺すのか」って。傷害罪ですよ。
 山下さんの影響が大きかったですよ。
 国の方針として、「飯舘村は避難させない」というのがあったということでしょう。最終的には、IAEAから「ダメだ」と言われて、計画的避難区域になったけど、遅いです。
 だから、自分たちがいま話しているのは、「飯舘住民は、あの高放射線のところで、研究材料にされたんだ」って。そう言ってますよ。



 
頭から塩かぶせてやっから



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〔伊達市伏黒のグラウンドに建てられた仮設住宅。以前に本サイトで紹介した長谷川健一さんもここで避難生活を送る〕


 仮設に入ったのは、昨年の8月1日から。ここは、飯舘の13行政区(全部で20行政区)の人が、最後にバラバラと集まってきたところ。
 家賃はありません。電気・ガス・水道は自分持ちです。
 ただ、寝れない。寝れないのは、夜、パトロールやっていて、日中に寝ようとして、寝られなかった。それがずっと続いて。ちょっと寝て、目が覚めて、という感じ。それで、肝臓が要注意。酒も飲まないのに。たぶんストレスですよ。それに心臓がちょっと肥大。
 パトロールは、車で自分の地区を回ります。1晩で2回、2人組で。1回まわるのに2時間半。それに、往復で各1時間。結局、7時間運転することになる。だから結構、へとへとになる。それを一日おき。30日あれば15日。
 パトロールに1晩出て7千円。あと通勤費、あと自分は車をだしてますから、それが2千円。それが主な収入です。

◇飯舘住民は人間ですか?

 自分は、東電の慰謝料(月10万円)の同意書に、ハンコ押してないです。東電からは仮払金(105万円)だけ。後は皆さんからもらった義捐金。
 それで役場から電話きたの。「安齋さん、(慰謝料の)同意書にハンコつきましたか?」。「何、語ってんの」って。「『賠償は個人でやれ』っていう役場の話だったのに、なんで役場が電話よこすの」。30分ぐらい話をしたかな。「貴重な話、ありがとうございます」だって。
 東電の本店からも3回ぐらい電話きたよ。「同意書にハンコ押して下さい」。コテンコテンにやってやった。「東電は、頭からウソをついているんだから、ハンコつかない」と。「では、伺っていいですか」って、「来んなら来たらいいよ。頭から塩かぶせてやっから」って。村民の怒りを代弁しているから。
 で、東電の人が3人きたの。「ハンコをついてほしい」と。「あんたら、全然、反省してないだろ」って。「すいません。すいません」て言うけど、「すいません」って言うだけでいいわけだから、あの人たちは。「今、ミサイル持ってたら、東電に全部、ぶち込んでやる」って。暴力はいけないけど、住民は、それくらい怒っているんだって。
 この間は、経産省の人にも、自分から訊いてみたの。
 「飯舘の人間は日本人ですか?違いますよね。人間でもないですよね。自分たちは、経産省が、『飯舘は安全だから避難しなくていい』って、それでずっといて。自分たちは、もう研究材料に売り飛ばされた人間だから、モルモットでしょ。人間じゃないでしょ」って。
 経産省の人、黙ってた、下向いて。「そう言われてもしょうがない」という自覚があるんでしょう。




住民の側にいない



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〔頭を下げているのは福山官房副長官(当時)。左端が菅野村長。飯舘村内 2011年4月〕


 村長の悪口を言うんじゃないんですよ。ただ、原発事故の中で、住民の側を全然向いていないし、住民の意見も聞いてくれない。住民の意見は国には伝えないし、国の考えも自分らには届いていない。
 菅野村長は、今年で16年目ですけど、「14年間で、自分は村をこれだけにしてきた」ということが頭にあるわけ。それは自分たちも評価しているの。いままであれだけの村にしてきたことは。出稼ぎはたしかに減りました。それは評価しているんです。
 ただ、3月12日以降の村長は、もう住民の側にはいないと。

◇村長、こっちに来なさい

 事故の後、村長の周りに、経産省とかの役人が張り付いています。
 経産省の人は、村長に「放射線が大変だ」とか余計なことを言わせないためにいるわけでしょう。自分たちはそうとっていますよ。いまも経産省の人間が張り付いていますよ。前の人と変わったけど。仮置き場の説明会のときも、ピタッと村長についていますから。
 だから、説明会の場で、そのことを問題にした人がいます。「村長、こっち(住民の側の席に)に来なさい。何でそっちに(官僚といっしょに並んで)いるの?こっちに来なさい」って。でも、来ない。
 村長は、飯舘の村長だけど、住民の村長じゃないんです。
 清水社長が、飯舘に来たとき、ニコニコして迎えていた。「あの時点から変わりましたね」って言う人がいる。なんで加害者にニコニコするのか。そこが理解できない。普通ならこれだけの苦痛を住民に与えているわけだから、ノコノコやってきたら、突っぱねるのが村長と言うもんでしょ。逆に迎えに行っているんだから。理解できない。

◇何を守りたいのか

 村長とその取り巻きの人びとの意見だけが通っている。住民の声は、村長が押さえられてしまう。村の情報を出したくないの、村長は。それで、自分がそっちこっち行って発信していることがすべてにしたい。国にたいしていい子にしている。
 だから、その分、住民にはひどいの。自分みたいに、外にしゃべる者は、村長にしてみれば許せないわけ。
 村長は何を守りたいのかって。うーん、自分が仕切っている村を守りたいのであって、住民を守るのとは違いますね。村長は、自分がつくってきた村だという自負があります。自分がつくってきた村、その村のステータスを守りたい。そういうことでしょう。




「2年で帰村」方針の是非



 村長は、「除染して、2年で戻る」といっています。実際はうまくいっていないんですけど。でも、この前の議会でも、「2年で戻す」と言っています。「国が帰村宣言を出さなくても、私は出します」とまで言ってます。そして、「復興住宅は福島市内には作りません」とも。
 去年は、もう「戻らない者は面倒を見ない」とまで言っていたんですよ。今は、一応、「戻りたくても戻れない人にも手は差し伸べます」と言ってますけど、またどう変わるかわからないですよ。

◇住民の不安

 だから、住民が、いま一番心配しているのは、2年後に、「除染をしました」と、それで帰れる状況になっていなくても、仮設とか借り上げが打ち切りにされるのではないかということなんです。
 そうすると、子どもさんがいる人など、5万、6万といったお金は払えないから、泣く泣く帰るしかない。で、子どもを連れて帰れば、また、被ばくする。だから、とくに若い人は、帰る気になんない。
 でも、こういうことをやられるんじゃないかって、それが頭にあるから、それがまたストレスになってしまうわけです。
 この前、国の人が来ていたので言いました。「飯舘村は、5年10年では帰れません――国からそう話してもらえれば、住民はかなり楽になりますよ」って。自分たちとしては、30年なら30年、国に借り上げてもらうとして、飯舘をあれ以上かき回してほしくない。そのままそっとしておいてほしい。
 でも、村長は、もう「帰す、帰す」の一辺倒。
 無理に帰せば、自分で命を絶つ人が出ますよ。そのとき、誰が、責任取るんですか。

◇住民アンケートが示すもの

 村(当局)のアンケートでは「帰村しない」が33%。この結果をもって、村は、「60%は帰村を求めている」という話にしている。このやり方は汚いな。
 (住民有志の)「新天地を求める会」でやったアンケートでは、「帰村しない」が49%。それに「除染の結果を見て1ミリシーベルト以下になれば」を選択した人もいある。1ミリシーベルトには50年経ってもなんないから。だから、結局、70%は「帰村しない」ということ。
  〔2つのアンケート結果の詳細は以下に掲載〕
 


「新天地を求める会」アンケートおよび飯舘村アンケートの結果

★「新天地を求める会」アンケート結果(一部抜粋)
  〔4月下旬に全世帯を対象に実施、576通の回答〕

 〇帰村の意思について
 ・今すぐにも帰還したい・・・・・・・・・・・・・・・・38人( 6.6%)
 ・帰還するつもりはない・・・・・・・・・・・・・・・283人(49.1%)
 ・国(村)が安全宣言すれば帰還したい・・・・78人(13.5%)
 ・宅地が年1mSv以下になれば・・・・・・・・・・36人( 6.3%)
 ・宅地と農地が年1mSv以下になれば・・・・37人( 6.4%)
 ・村全体が年1mSv以下になれば・・・・・・・・51人( 8.9%)
  (以下省略)

 〇「帰還するつもりはない」と答えた人の理由について
 

 ・除染が困難・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・234人
 ・原発事故の収束に期待できない・・・・・・・・・173人
 ・健康問題が不安・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・160人
 ・子どもや孫は帰せない・・・・・・・・・・・・・・・・・178人
 ・帰還しても仕事がない・・・・・・・・・・・・・・・・・142人
 ・帰還しても農業ができない・・・・・・・・・・・・・・191人
 ・国(村)が安全と言っても信用できない・・・・210人
 ・帰還しても生活インフラが整っていない・・・・142人

  (複数回答)

 〇「除染によって住めるようになると思うか」について
  ・住めるようになる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32人( 5.6%)
 ・住めるようにならない・・・・・・・・・・・・・・・・362人(62.8%)
 ・分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・155人(26.9%)
 ・無回答・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27人( 4.7%)

                

 ★飯舘村アンケート結果(一部抜粋)
   〔5月下旬に実施 1788通の回答〕
 
 〇帰村の意思について
 ・避難解除されれば帰りたい・・・・・・・・・・・・・・12.0%
 ・解除されてもすぐには帰れないが
                  いずれは帰る・・・・・45.5%
   ・帰るつもりはない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33.1%


 〇除染の効果について
  ・大いに期待している ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5.2%
 ・一定程度期待している ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5.5%
 ・実施してみないとわからない・・・・・・・・・・・・・・・19.7%
 ・あまり期待できないがやってほしい・・・・・・・・・・20.6%
 ・あまり期待できない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22.0%
 ・全く期待できない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22.1%




◇帰っても
 

 自分は、「除染して帰る」という人には、「どんどん帰ったらいいよ」と言っている。ただ、「帰って半年で、賠償金も打ち切られて、家族を抱えて、あーって言っても、遅いよ」って。「自分で首つって、命絶つ人、どんどん増えていくよ」って。
 いまはお金(慰謝料)もらっているからいいけど。帰ったら、それがなくなるの。家もダメだし。500万、600万もらっても、家は直せない。

◇3,224億円

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〔小宮地区で行わている除染の実証実験。建設会社のフジタが受注している。実証実験というが10ヘクタールと大規模〕


 それから、除染に3,224億円ですよ。飯舘だけで。
 それだけお金を使って除染しても、効果はないし、ほとんどゼネコンに行ってしまう。ゼネコンも、適当にやってますよ。
 なら、飯舘は1700戸だから、1戸当たり5千万円になるけど、たとえば「国で代替地を見つけるから、その『新天地』で30年なら30年くらいやって下さい」という方がよっぽど現実的。
 自分たちは、お金ほしいんでもなんでもない。除染だなんだとお金を垂れ流すくらいなら、その金で代替地をピチッとやってもらった方がいいと言っているのですよ。
 飯舘には、1週間に1回、2回帰って、家の片づけするとか、それぐらいはできるわけだから。
 そう、こういう意見はたくさんあるんだけれども、取り上げてくれない。村長は。ただただ「村に帰す」というだけ。

◇新天地の青写真

 その「新天地」については、糸長先生らの提案(※)で、青写真もできていますよ。
 例えば、100軒がまとまらなくてもいい。10軒でも、20軒でもまとまってそこに行きましょうという話になれば、ここに家を建てて、緑のある住宅にして、その辺に農地をつくってもらって。お年寄りには、そこで野菜を作ったり、田圃を作ったりしてもらって、そこで住民のつながりもできる。
 それで、少しでもお金になったら、喜ぶよ。そういう風にやりたいの、本当は。新天地を求めて。
 お金じゃなくて、農家の人は、土を触りたいの。小さい子どもが、外に出たときに、走り回って、転んでってするように、それと同じですよ。
 だから、3200億円を除染にかけるんじゃなくて、「30年なら30年帰れないけど、飯館の住民の皆さん、 これで『新天地』を作って下さい」ってやれば、それでかなり精神的苦痛は取れますよ。



※ 糸長浩司さんは日大教授で、自然と調和した暮らしを提言する環境建築家。この20年来、飯舘村でエコロジカルな村づくりを支援してきた。事故後、飯舘村の後方支援チームを組織し汚染対策に取り組むとともに、「分村建設」を提案している。以下、新聞紙上に掲載された糸長さんの「分村建設」の提案。
・「避難者が30年、50年安心して暮らせる場所を作って、そこで一世代二世代暮らす。そのうちに放射能が減ってくれば、戻ることを考える。2つの場所に村があったっておかしくない」
・「暮らしと生業の両立した、小さくてもよい、もう一つの飯舘分村(新村)を建設し長期的な避難生活を支えたい。集落単位での分村を数か所建設してもよい。共同の農場や工場、市場に、祭りの場や交流市場などがあると良い。
除染しながらの居住は厳しい。村人は子どもたちの将来を考えて分村建設の法的整備を含めた『原発災害復興二拠点居住権』(仮)を獲得したい」







区域再編・賠償・仮置き場



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〔飯舘村は、昨年4月に計画的避難区域とされたが、この7月に、「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の3区分に再編された〕



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〔作業員の方は、福島市内から通いで、朝7時から18時まで、交代でゲートの開閉に従事しているとのこと。線量は、アスファルト上で6~9マイクロシーベルト、側溝では30~100マイクロシーベルトという作業環境だ〕


◇住民分断と棄民

 国は、区域再編でも、いかに賠償金を少なくするか、払う期間を短くするかということばかり。国は、この事故から早く手を引こう、手を引こうとしている。
 東電だって、「これくらいの金やるから、もう何も言いうな」と。そういう風にしか見えないんです。新聞によれば、東電は、「帰宅困難区域をどんどんどんどん小さくしたんで、4千500億円ものお金が浮きました」って言っているそうですよ。
 それで、「ちょっとくらいの被ばくは、我慢しろ」と。捨てられたのと同じですね。国のやっていることは棄民という言葉そのもの。

◇同じ被害で賠償に差

 賠償の話になると、帰還困難区域の長泥地区の場合は1千万円、自分たちの小宮地区は、居住制限区域で半分の5百万円、避難指示解除準備区域はその半分。
 これは必ずもめ事起こりますよ。同じ被害なのに、3分割して賠償額で差をつけるというんだもの。居住制限区域の人も、帰還困難区域の人も、同じように1年以上避難しているんですよ。家が痛むのは同じですから。なんで飯舘、全部一律にしないの。
 蕨平(わらびだいら)地区は、「帰還困難区域にして下さい」っていっていたのに、そうならなかった。結局、受け付けなかったのは誰かといえば、村長でしょ。
 帰還困難区域を大きくすれば、それだけ帰る人が少なくなるという考え方。村長は、「帰還困難区域をできるだけ小さくしてほしい」と。そういう話です。
 これは、もめ事起きるよ、「こういう風にしたのは誰だ?」って。

◇小宮地区・仮置き場
 
 飯舘村は、もともと行政区ごとのまとまりがあって、区長さんが頑張ってるところもあるけど、小宮地区の場合は、総会のときぐらいしか人が集まんない。隣の北前田地区は、どんどん話をやったりしているけど。
 これから区域再編のこととか、除染の説明とかをしなければいけないよ。
 仮置き場の設置については、小宮地区の人は、ほとんど賛成していないです。いえば5~6人が同意しているぐらいです。
 そもそも地区住民の声は全然聞いていないです。3回目の説明会のとき、「あとは議会で決めますから」って。住民への説明はアリバイ。それをいつの間にか「住民の同意を得ました。誰一人反対している人はいません」って。とんでもない話です。


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〔除染の実証実験で出た放射性廃棄物がどんどん運び込まれ、うずたかく積まれている。ここは小宮地区にある飯舘村の一般ごみの処理施設。ただしここは仮置き場ではない。看板にあるように「仮仮置き場」〕




住民の気持ちは重い



 自分たちは被ばくさせられたと。で、賠償金も精神的慰謝料の10万円。でも、「もういいよ」という人がいるの。納得しているのか、あきらめなのか。
 本当は、集団で訴訟を起こせばいいですけど。
 自分たちは、いま裁判を起こしている。東電に慰謝料を請求する裁判。〔※〕
 現在の慰謝料は1人月額10万円の低さ。それに、加害者の東電が全然反省していない。東電は全然、反省していないですよ。だから「懲罰的慰謝料」も請求します。
 でも、この裁判のことがテレビに流れたら、「金儲けだろう」って、飯舘住民に言われて。そんなんじゃない。自分たちが裁判に訴えたのは、飯舘住民の人が、1人でも2人でも、加わってくれればいいと。いま26人ぐらい。最初は14人ぐらい。これは100人、500人になったら、力になるんだけど。



※ 当初、今年3月30日に、飯舘村の5世帯14人が東京電力に総額2億6488万円の慰謝料を求める訴えを東京地裁に起こした。その後、数世帯が加わっている。原告代表は岡本易さん(77)。岡本さんは次のように訴える。
「原発事故から1年以上経ち、収束作業や賠償が何となく進んでいますが、私は過ちを犯した人の責任が見過ごされていると思うんです。このまま推移したら、責任の所在が曖昧なまま収束作業も賠償も終え、誰が悪かったのかが見えなくなってしまう。本来対峙すべきは『原子力ムラ』の住人すべてでしょうが、全部を相手にすると決着がいつになるか分からない。ならば相手を絞ろうと被告は東電のみとし、請求も慰謝料一本にしたのです。巨大な壁と闘うことになるが、針の大きさでいいから風穴を開けて、東電に『自分たちが悪かった』と思い知らせたい」




◇東北人の気質か

 住民の気持ちが重いのはなぜか。うーん。
 東北の人は、おとなし過ぎると言われけど、たぶん日本人は徳川時代にお上にはもう何も言えなかった。そしてずっと馴らされてきた民族で、政府にモノを言ってもしようがない。そのあきらめムードがたぶん強い。
 福島県から出ると、「もっと声をあげなきゃだめでしょう。飯舘の人はおとなし過ぎる」って言われるけど、「もう怒ったら大変なことになりますよ」って言ってるんだけど。

◇東京の人の気持ちとは

 東京では、何万人が官邸前に集まったと言っているけど。ちょっと気持ちが違う気がします。
 この間、東京に行ったとき、この福島原発の電気を東京で使っていることを分かんない人がいました。「福島原発の電気を、福島県でひとつも使っていませんよ」っていったら、「えっ?!」って。「東京都民が使っている電気なんですよ」って。「だから、東京都民にも責任はありますよ。だから、都民の人はもっともっと声をあげて下さい」って。
 でも、原発事故をもろに受けた私たちにとっては、10万、20万のデモはやはり力強いですよ。それがもっともっと大きくなって行けば、政府も動かざるをえなくなるし、東電もウソはつけないし、だから、もっともっと大きくして行かないと。


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〔小宮地区の住民が、「放射性廃棄物の仮置き場はいらない」と自宅前に貼り出した〕


◇水俣に学ぶ

 この前、水俣に行ってきたんですよ。いやー、これは、学ぶべきものがありますね。原発事故と同じ。
 水俣で感じたことは、まず、国・県・行政が、最初に患者さんが出たときに、手を打っておけば、200万人以上も被害を受けることはなかった。
 そして、患者さんが出て、病院に入院させたら、漁業組合長が病院から連れ出したって。なんでって、魚が売れなくなるから。それで、どんどん増えて行ってしまった。だから、いま「風評被害」だとかいってごまかしてしまうのといっしょ。
 それに、飯舘で除染をやっているのもいっしょ。海に杭を打って、そこに汚染土を入れて、上に土をかぶせて、建物を建てて。だけど、中の物が漏れているんですよ。
 資料館にも案内してもらったけど、水俣は、55年、60年近くなりますけど、「ああ、これが原発事故の将来、こうなるのかな」と。
 水俣の人は、何十年も苦しんでたたかっているので、福島・飯舘の人より、こっちのことを本当に心配しています。
 だから、福島・飯舘の人も、もっともっと立ち上がんなきゃだめなんですけど。まあ、水俣の人達も、1年や2年の話ではないからね。5年10年かかってようやく、という感じだから。だから、福島もこれから。これから声をあげなくちゃ、完全に潰されますよ、自分たちも。




だんだん牙をむく



 自分は、3・11以前は、何かするなんて、なかったですよ。ごく普通の村民ですよ。
 最初は、えーと、昨年4月の「負げねど飯舘 !!」の村民決起集会、あれからです。
 そして、避難で福島市に行ってちょっと活動して。
「これだけ大きな事故が起きたから、何かグループを作って、住民と、行政・東電・国の間に立たないとだめですよ」って話していたんですよ。それが、「愛する飯舘を還せプロジェクト 負げねど飯舘 !!」の始まり。
「負げねど飯舘!!」は、いまは村長にちょっと頭を押さえられたような感じなっているけど、「負げねど飯舘!!」が、あのままの状態で来れば、また、変わっていましたよ。
 
◇気付き始めた

 村の職員も、最近、ちょっとこっちにきているかな。少し住民寄りになってきたかな。村長も、だんだん、裸の大様になりつつある。
 いままで村長がやりたい放題をやってきたけど、今回、区域再編でも、除染でも、もう、住民からコテンコテンにやられているから。とにかく国のいうことを聞いていれば、なんとかなるということがこの1年で、ガタガタになっているからね。それで住民も牙をむき始めているから。自分は、剥きっぱなしだけど。
飯舘の人はなかなか立ち上がらないと言ったけど、だんだん変わってきている。だんだん気づき始めている。住民が気付き始めたというのが大事ですよ。これが、どんどん大きくなって、牙をむいていけば、いかに村長でも、国の言いなりではいかなくなるからね。
 今は、まだクスぶっている段階だけど、そのうち火がつきますよ。

◇10月に村長選

「帰る」「帰らない」で、村は二分される。そう見ているよ。3区分と賠償問題になったとき、やっぱりもめる。今度は、「村長、何、勝手なことした」となる。椅子でもなんでも飛んでくるような話になるよ。
 村長は、「村では、一律にするようにしてますけど・・・」と言って逃げようとするけど、そうはなんない。
 ただ、10月に村長選があるけど、これは、菅野村長の再選だな。
 菅野村長が再選されても、これからどんどん問題出てくるわけで、それをどんどん突っ込んでいけばいいと思っている。
 あと、来年、議員を変える。いまの悪い議員は全員取り換える。
 

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〔猫がニャーニャーと人恋しそうに近づいてきた。飼い主が避難しているために腹を空かしている。安齋さんを待っていたようだ。安齋さんは、そういう猫たちに餌を運ぶということもやっている〕


◇住民の心の中を見て

 テレビも新聞も取材に来るけど、表面しか捉えていない。NHKにも抗議したんです。
 「表面の話はもういいから。裏で苦しんでいる人がたくさんいるんですよ」って。そしたら、「貴重なご意見、ありがとうございました」で終わり。
 裏を取材して下さい。住民の心の中を。「飯舘村はきれいで、だけどそこに住めなくなって、涙を流していました・・・」。こういう話はもういいの。
 「2年後にはいやでも戻されるんじゃないか」とか、「仮設にもいられなくなるかも知れない」とか、先の見えない不安感。
 津波の被害と違う。津波の被害は、全部なくなってしまったけど、これから前に向かって進もうというものが見える。けれど、飯舘は見えない。
 この苦痛を、全国の人にわかってほしいですね。「金くれ」って言っているんじゃなくて、「この苦痛を取り除いてくれ」って言っているのですね。 (了)







◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



◆追記◆

 
 上のレポートをアップした後、飯舘村が、5日の行政区長会議で、住民帰還の見込み時期の案を示したという報道があった。『福島民報』(9月6日付)1面の報道を以下に転載する。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


飯舘、27年から段階帰還 
          村見通し 「除染踏まえ最終判断」


                  帰還困難・長泥 29年3月以降



 東京電力福島第一原発事故で全村避難が続く飯舘村は5日、住民帰還の見通しを示した。全住民が避難する自治体で帰還見通しを示すのは初めて。避難指示解除準備区域と居住制限区域の一部の合わせて16行政区は、原発事故から4年を経過した平成27年3月以降とした。ただ、村は国直轄で行われる除染の結果などを踏まえ、最終判断するとしており、帰還が計画通りに進むかは流動的だ。

 村は福島市の村飯野出張所で開かれた行政区長会議で、住民帰還の見込み時期の案として説明した。
 避難指示解除準備区域の4行政区と居住制限区域の12行政区が同じ時期の帰還を目指す一方、居住制限区域であっても比較的放射線量の高い村南部の比曽、前田八和木、蕨平の3行政区は事故から5年後の28年3月以降の帰還とした。帰還困難区域の長泥行政区は平成29年3月以降。
 帰還を実現するためには迅速で効果的な除染が求められる。しかし、村内の除染の開始時期が当初の8月下旬から今月上旬にずれ込んでいるのをはじめ、汚染廃棄物の仮置き場が一部決まらないなど課題は山積している。
 村は「村民の生活再建を急ぐ上で、(帰還時期によって異なる)財物賠償額を確定させるのが重要」と判断し、帰還時期の見通しを示した。ただ、居住制限区域の中で帰還時期に差が生じることで、住民理解を得られるかは不透明だ。
 村は今後、住民との懇談会で意見を聞き、国に最終案を報告する。国は村の報告を踏まえて避難区域の解除時期を決定するが、除染の進捗(しんちょく)状況によっては村の案より遅くなることもあるという。
 国は帰還困難区域について設定から5年後、避難指示解除準備と居住制限の両区域については数年後の解除を想定している。











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  1. 2012/09/05(水) 19:24:10|
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厳冬の飯舘村



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 牛のいない牛舎が、雪の中に、ひっそりと立っていた。
 

 1月末の飯舘村。
 この日の最高気温-2度、最低気温-7度。
          


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 スズメの群れが、寒さに耐えていた。



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 大きなビニールハウスも、無残な姿で、吹雪にさらされていた。
 



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 村内の道路は、除雪されていた。
 見守り隊が巡回したり、避難先から戻ってくる村民が使うからだ。

 落選中の元議員の看板があった。
 「さあやるぞ。国家・国民のための政治」と標語が。
 現実を前にすると、空々しく、虚しい言葉だ。



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 シャムだろうか、ネコが横切った。



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 飯舘村は、阿武隈山地の北部に位置し、 標高400~600メートルぐらいの高原になっている。
 地域としては浜通りに入るが、海はない。
 海に面している隣の南相馬市に比べると、かなり積雪の多いところだ。

 雪が多いだけではない。
 夏には、しばしば、やませが吹いて冷害に襲われてきた。稲作などが大きな打撃を受けてきた歴史がある。
 そこから、複合型の農業に取り組んできた。タバコ、山菜、シイタケの原木、さらに、40年ほど前から和牛の生産に力を入れてきた。和牛は、飯舘牛というブランドにまで育ってきた。

 だが、飯舘牛の成功だけではない。
 飯館村は、もともと、福島県内でも所得の低い地域だった。そして、都会への人口流出も進んだ。
 それにたいして何とかしようという取り組みが、この20年来、進んできた。それは、都会的な豊かさを後追いすることではなかった。「田舎」で受け継がれてきた生産や生活の価値を、再発見し再評価しようというものだった。大量消費文明の豊かさにたいして、人間らしい豊かさを追求する価値観の転換だった。
 そういう取り組みの成果も上がってきた。

 そういったもののすべてを一瞬にして根こそぎにしたのが、皮肉にも、大量消費文明が行き着いた末の原発事故であった。
 
 
 

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 飯舘村の中に、まだ、牛と馬がいた。
 
 警戒区域に取り残された牛馬を保護する活動などで知られる細川牧場。
 白い息を吐きながら、干し草を食んでいた。
 


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 細川牧場を過ぎて、しばらく走ると、伊達市に入った。
 この季節になっても、柿の実が、枝に残っていた。
 豊作だったが、収穫されなかったためだ。

 不思議なのは、カラスやヒヨドリたちも、口を付けないことだ。
 放射性物質にたいするセンサーでもあるのだろうか。
 


 その後、伊達市をしばらく走り、福島市に入る少し手前で飯舘村・前田地区の村民が避難をしている仮設住宅を訪ねた。
 ここは、このブログでも紹介した長谷川健一さんが区長を務めるところでもある。

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 「飯舘村の雪はどれくらいだった?」
 仮設で出会った村民にきかれた。
 村の様子を気にかけているようだった。

 左から、庄司さんと、佐藤さん夫妻。
 庄司さんも、佐藤さんも、農民だ。
 近くに畑を借りて、野菜を作っているという。
 土をいじるのが、根っから好きなのだ。 


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 飯舘村の今後について、庄司さん(76)に聞いてみた。

 「村長は、『5年で帰る』とか言っているけどね。
  無理だろう。
  除染? 
 そんなもん、ゼネコンのためだ。利権だよ」

 「私らが議論しているのはね、一旦、『新天地』に移って、そこで30年ぐらい暮らそうということ。
 そして、そのうち放射能が減ってきたら、若い人たちが、また、飯舘村に戻るということだよ」

 
 世代を超えた計画を語ってくれた。
 とてつもない苦難の中にいる。にもかかわらず、途方に暮れるでもなく、愚痴をいうでもない。目先のことを追求するのではなく、射程の長い議論を、村民同士で冷静に行っている。
 このことに驚かされるとともに、こういう形で、飯舘村の村民が取り組んできた運動の精神が、未曽有の苦難にも立ち向かう中で、発揮されているのだと思った。
 




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  1. 2012/02/03(金) 14:03:43|
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酪農家の慟哭   飯舘村

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(壁にチョークで「原発さえなければ」と・・・/詳細は本文へ/長谷川健一さんが講演で使用した画像より)





 高濃度の放射能に襲われた飯舘村。その飯舘村の前田地区で、酪農を営み、区長を努めてきた長谷川健一さん(58)。現在は、地区の人びとともに、伊達市内の仮設住宅に避難している。長谷川さんは、いま、全国を行脚して、フクシマを伝えている。12月9日、福島市内で、長谷川さんの講演が行われた。

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 長谷川さんは、スーツで決めているが、話し出すと、声は低く野太く、抑揚があり、訛りも強い。そして、そのお話からは、誰よりも飯舘村を愛し、酪農に打ち込んでいたことがよく分かる。あの日以来の極限状況下の出来事、村民を守るために必死に行動する姿が、眼前に浮かびあがり、そのときの苦しみと悲しみと憤りの気持ちが、心に染みた。
〔主催は、「国際環境NGO FoE japan」。集会では、FoE japanの「避難の権利」確立のための活動報告、長谷川さんのドイツ講演旅行の様子なども報告された。〕



飯舘・前田地区
(飯舘村は、そのほとんどが原発から30キロ圏の外にある。前田地区は約45キロ。なお緊急時避難区域は9月末で解除された。)


あの日、美しい村に放射能が

 私の地区は、飯舘村・前田地区。原発から45キロ。
 飯舘村は、「みんなで頑張ろう」ということでやってきて、「日本一美しい村」の認定も受けた。その第一番目の企画となったのが、私の地区。
 そんな美しい村に、放射能が降った。
 地震・津波の後、飯舘村に1200人ぐらいの南相馬市の人たちが避難してきた。
 私たちは、その人たちを、本気になってケアをしていた。
 ところが、だんだん、「どうも、原発がおかしい」となった。
 3キロ、5キロ、20キロ、30キロと避難が拡大。
 1号機が3月12日に爆発。そして3号機が3月14日に爆発した。


放射能がとんでもないことに

 14日の夜、私は、「このままではだめだ。一体、どうなっているんだ?!」ということで、役場の対策本部に行ってみた。
 「どうなっているんだ?」。
  担当者に聞いた。そしたら―
 「いや~、長谷川さん、大変なことになっているんだ」。
 「なんぼなんだ?」
 と聞いたら―
 「40を越している」。
 40マイクロシーベルト/時を超えている。
 「なに~?!」
 なにって言ったって、俺も、数字はわがんねえわな。無頓着だもの、放射能なんて、全然。
 でも、高いってことはわかった。


菅野村長が「言うな」って

 その部屋を出ようとしたら、担当者の彼に呼び止められた。
 「長谷川さん、ちょっと、待ってくれ」
 「なんだ?」
 「このことを公表しないで下さい」
 「なんで?」
 「村長に、『言うな』って言われている」
 「なにぃ~!」
 私は思った。
 「そんなこと、構わねえ」
 そして、すぐにその部屋を出た。


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(飯舘村長泥〔ながどろ〕地区の展望台から、約30キロ先の第一原発方向を望む。放射能を含んだ雲が、高原状の飯舘村にぶつかって、雨・雪となって降り注いだ。写真は10月下旬)


15日、地区で緊急集会

 私の地区には、5つの班がある。その班長さんにすぐに連絡をした。
 「いま、放射能が、とんでもねえことになっている。明日、緊急集会、やっから。みんな集めろ」。
 翌15日、6時半、部落の人たちは、放射能のことだからと、みんな集まってきた。
 後からわかったことなんだけど、部落の人たちには「悪いことをしたな」って、そういう思いもしている。そのことは後で話すけど・・・。
 部落の人たちには、私が知り得た情報をすべてぶちまけた。
「いま、放射能が、とんでもないことになっている。
 とにかく外には出んな。とくに子どもは絶対に出すな。
 どうしても出ないとなんないときは、必ずマスクしろ。
 肌を露出すんな。
 帰ってきたら、すぐに玄関で服、脱いじゃえ。
 すぐフロ、入れ。体、きれいに洗え。
 外にある野菜は絶対に食うな。換気扇、回すなよ」。
 そういう指示を出した。


雨が降り、線量計が振りきれた

 さっき、「悪いことしたな」って言ったのは、当時3月15日、集会を開いたちょっと前から、雨が降ってきた。そのあと雪になった。集会が終わる頃には真っ白だった。5センチぐらい積もった。
 ジャーナリストの人たちがたくさん来た。その人たちの映像を見せてもらったら、私の部落の映像もあった。
 3月15日、その人は、伊達市布川地区で、線量計を出して測ってみたら、50マイクロシーベルト/時。これは、飯舘はとんでもないことになっていると、やってきた。
 そして、飯舘に入って来て、すぐに私のところの部落。まさに私の部落の集会場のところで、その人は、車を停めて、線量を測った。
 その線量計は100マイクロシーベルト/時までしか測れなかった。それが針を振り切ってんだ。その映像を、私は、見せられた。
 だから、部落の人たちは、みんな車を降りて、雨に濡れながら、集会に来てくれた。そのことを、「悪いことしたなあ」って、いま思っている。


「たんこぶ」、つくるべ

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 (SPEEDI〔緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム〕の画像を示しながら)どういう神様のいたずらだか、わがんねえけど、飯舘村に、まともに来たわけだ。
 それから、テレビ局、ジャーナリストが次々、来る。俺はどんどん発信した。
 俺は、ただの一村民だ。なんの権限もねえ。俺、これしかできねと思った。
 で、同心円、20キロ、30キロ、おかしいべえって、そんなの。
 私は、「たんこぶ」という表現をした。
「20キロから、たんこぶ、つくるべ。
 なんで、ここはこんなに線量が高いのに、ここを(避難区域に)含めねえんだ」。
 どんどんメディアで発信した。
 ・・・だめだったな。新聞、テレビ、ことごとくカット。
 でも、最終的には、私が言った通りに、この部分が、計画的避難区域になった。


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(飯舘村飯樋〔いいとい〕地区。写真は10月下旬)


御用学者が続々と来て

 県の方で、バスを用意をしてくれた。栃木県の鹿沼市に、「希望者は避難をして下さい」と。強制できないわけだから。
 私の地区は、地区民が250名、そのうち、バスに乗ったのは35名。あとは、自主避難を選んだ。
 だけどなかなか避難しねえんだ、これが。目には見えない、臭いもしねえ、体だってなんともねえ。
 それにたいして、国も県も村も、「あぶねえよ、危険だよ」ということは、一言も言わなかった。
 それどころか、御用学者を、どんどん入れたわけだ。
 で、「大丈夫ですよ、心配ありませんよ」ということを、言い続ける。
 村長はそのたびに「いやあ、安心しました。ありがとうございました」って言ってるわけだ。


1000マイクロでも子どもが外に

 4月3日。線量の高いところに5軒の酪農家がいる。私も酪農家。そこが心配だった。
 そこで、長泥(ながどろ)地区に行った。ジャーナリストの方が測っていた。
 雨どいの下の線量、1ミリシーベルト、1000マイクロシーベルト。
 これ、とんでもないこどだべ。
 だけど、外見ると、子どもが外で遊んでいる。洗濯物も外に干してある。大人たちも、外で、仕事している。
「なんたるこっちゃ」
 すぐその足で、役場の対策本部に行った。
「村長、いっか?」
 いなかった。議長と副議長がいた。彼らに言った。
「いま長泥に行って来た。とんでもねえことになっている。
 外でも子どもが遊んでんだぞ。なんでおめえら、避難させねんえだ。
 おれらはいい。子どもたちだけでも、何で避難させねえんだ」。
 思いきり言った。


「人をコケにすんな」ってみんな怒った

 そしたら、彼らは、なんて言ったと思う?
「長谷川さん、そんなこと言ったって、大学のエライ先生方が来て、『安心だよ、安全だよ』って言ってんだぞ。
 おれら、これ以上、なにすんだ。
 原子力保安院まで来てんだぞ。
『大丈夫だよ』って言ってんだぞ」。
 俺は言い返した。 
「おめえら、いい加減にしろ。
 原子力保安院が来るってことは、あぶねえから来るんだぞ。
 安心なところには誰も来ねえぞ」。
 だけど、避難ということは叶えられなかった。
 4月10日、また近畿大学の先生が来た。住民の前で「安心です。大丈夫です」。「マスクもいらない」って。
 次の日、4月11日、「(計画的避難区域の指定が発表されて)ほれ、逃げろ。ほれ、避難しろ」と・・・。
「人をコケにすんな」って、みんな怒ったぞ。


村長「放射能の中で生きる術は?」 

 他方で、3月末に、京大の今中助教のグループが入ってきた。
 さーっと飯舘村を調べた。すごい数値が出てきた。
 そこで、村長に提言をするわけだ。
 「飯舘村、危ないですよ。とにかく避難した方がいい」。
 村長、何を言ったと思う?
 「この数値、公表しないでくれ。頼むから」。
 そして、今中さんは、逆に、村長から質問されたそうだ。
 「放射能を浴びながら、ここで生活する術はないか?」
 ・・・そんなこと、あるわけねえべ!


涙を流しながら自分たちで決断 


 3月12日から6月6日まで、牛乳を捨て続けた。
 「計画的避難区域の設定で、牛は飼ってはだめですよ」と言われた。
 「牛は、移動したらだめ。人間は避難しろ」って。
 「どうすんだ!?」。
 それで村の酪農家に集まってもらった。一人じゃだめだ。夫婦で集まれと。
 いろいろ話し合った。
 で、最終的に廃業という決定を下した。
 だけど、そこで俺は、「廃業という言葉は使うなよ」と。廃業とはそこで辞めること。そうすると賠償問題で和解ということが出て来る。だから、「廃業」ではなく、「休止」という言葉を使おう。1回、ここで辞めよう。そして、飯舘村がまた安全になったら、また、みんなで始めよう。そういう決断をした。
 われわれは、国・県・村・JAからは、一切、フォローをされなかった。
 自分たちで、涙を流しながら、決断をした。「牛を辞めよう。だめだ」と。

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(酪農家の議論/長谷川さんが講演で使った画像)


連れて行かれる牛をみんな追っかけた

 自分たちで決断をしたとはいえ、情けなかった。これは。
 「牛2頭を、屠畜(食肉用に殺すこと)して下さい」と言われた。そこから放射性物質が検出されなければ、全部、殺してもいいよって、屠畜していいと。われわれ酪農家は、そこに進むしかなかった。
 奥さん方、みんな、「ごめんね。ごめんね」って。牛、連れて行かれる場面で、みんな追っかけた。
 私は、酪農家の代表として、みんな立ち会ったけど、「なんたるこった。こんなこと、ほんとに、この世の中にあんのか」って思った。

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(別れ際、牛に涙を流しながら話しかける女性/同上)


国会まで走った

 約60頭ぐらい処分されてから、私は―
「これ以上だめだ。こんなこと、やってらんねえ。もう殺さない」。
 思い切り走って、国会まで行った。
「俺、牛、殺さないぞ~」。
 そうして、5月25日に、ようやく、移動制限を解除にしてもらった。
 それはみんな喜んだ。もう牛、殺さなくて済むわけだから。
 そうして、飯舘村の外の酪農家に乳牛は引き取られていった。

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(大事に育てた牛を見送りながら涙する青年/同上)

 これは、長泥地区の田中君。
 彼は、東京生まれの新潟育ち。牛がやりたくて、やりたくて、長泥地区に入植した。今年で10年の節目。
 牛が連れて行かれた。・・・泣いた。


「原発さえなければ」と仲間が自死


 やっと「安心したなあ。牛はいなくなったけど」と思っていたとき、もっとも恐れていたことが起きちゃった。
 飯舘の隣の相馬市の酪農家。私の友人だった。
 彼は、「原発さえなければ」と、こういうメッセージを残して、逝っちゃった。

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(壁にチョークで走り書きした遺書が/同上)

    ねえちゃんには、たいへんお世話になりました。
    長い間、お世話になりました。
    私の限度を超しました。
    2011年6月10日PM6時30分。

    ごめんなさい。
    原発さえなければと思います。
    残った酪農家は原発に負けないで、頑張って下さい。
    先立つ不幸を・・・
    仕事をする気力をなくしました。

 こういうメッセージを残して、彼は、逝っちゃった。
 彼には、7歳と5歳の息子がいた。
 これは、こういう講演活動ということで、遺族の方々の了解を得て、使わせてもらっている。
 そして、時を同じくして、私の隣の部落の102歳のおじいちゃん。
「お前ら、避難しなくちゃなんねえんだべ。俺がいたんでは、足手まといだべ」。
 自らの命を絶った。
 南相馬市では、93歳のおばあちゃん。
 「私は、お墓に避難します」。
 こういうことが、どんどん起きていった。
 これからも、起きるやも知れない。


執行部は放射能を甘く見ている

 いまの飯舘の田んぼは、村の人たちが、「みっともない。こんなことにしておけない」って、被ばくを覚悟で、みんな、草、刈っちゃった。
 いま、田んぼについては、きれいになっている。 

◇見守り隊

 飯舘村民の有志300名が集まって、24時間体制で、「全村見守り隊」をやっている。
 先日、見守り隊のお手柄があった。空き巣、一件、ご用にしちゃった。
 夜、ずっーと行ったら、避難して、人がいないはずの家の二階に、明かりがチラチラ見える。
 あれって、思って見たら、見慣れない車がいる。
 110通報して、5分もしないでつかまっちゃった。

◇特別養護老人施設

 介護施設には、お年寄りが残っている。
 村長が、「村を守るんだ」、「村で誘致した企業を守るんだ」、「雇用を守るんだ」って言って、「村」にしがみついている。
 その裏で、村民は被ばくを続けている。それが現実だと思う。
 そして、われわれも、特別養護老人施設の人たちを、移動させる方がはるかにリスクが大きいと思って、それで置いた。
 ところが、今になって見ると、介護をするのが若い人たちで、それが通っていくわけ。その辺はどう見るのかなって、すごく私も疑問。
 見守り隊もそう。われわれぐらいの年になれば「いいべ」って、私はいっているけど、中には若い人も行っている。被ばくさ、しにいっているわけだから。
 その辺もこれからキチッとした対応を取って考えていかないと。

◇最大限のリスクを

 はっきりいって、村の執行部は、放射能というものを甘く見ていると思う。
 やっぱり村には、村民を守る義務がある。
 そうした場合に、リスクというのは、最大限のリスクを考えて、決定をしなければならない。そう私は思う。
 それが、今回、ちょっと抜けたのかなという思いがする。


コミュニティを守って

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(伊達市内の仮設住宅/同上)

 いま私は、仮設住宅にいる。ここに私と女房と私の親二人、4人で住んでいる。
 私は、区長として、前から村に言っていた。
 「仮設に入る人は、行政区単位でまとめろよ。コミュニティを崩したらだめだぞ。必ずまとめろよ」。
 村は、やんなかったな。入居がだんだん始まって、それでもやらないから、これはだめだなと思ったから、自分で動いた。
 自分で5つの条件をつくってみた。
 ひとつは、大きな病院が近いこと。ひとつはスーパーが近いこと。あとは、近くに住宅地があり、コミュニケーションが取れる。あとは、木造のところ。そして、やっぱり自分のふるさと・飯舘に近いこと。
 それでぴったりのところがあった。伊達東(伊達市伏黒)。
 私の前田地区では、21戸の人がここに来て生活している。
 すぐに畑も借りた。みんな喜んで、ニコニコって野菜づくりをやっている。
 

「除染まっしぐら」はおかしい 

 国策として原発を推し進めてきたわけだから、もし事故が起きたらば、その対応ということがきちっと整備されているもんだとばっかり思っていた。
 ところが実際、起きてみたら、「除染は、どういう方法がいいか」とか、今、やっている。
 「なんだ、これは」と思う。
 いま、村では、除染まっしぐらで行っている。「除染するんだ」「村に戻るんだ」って。
 それりゃ、俺だって戻りたいよ。だけど、俺は、村長にたいして、はっきりと申し上げている。
 「除染一本だけではだめだ。村を出る方向、それもいまからシュミレーションして行かないと、だめでしょ」と。私は、ずっと言っている。
 なぜかというと、5年、6年、除染、除染とやっていて、それで、だめだったらどうすんだ。その5年間は、無駄な5年だべって。
 「やっぱり今から、二本レールで、除染がだめだったら、ぽんと乗り換えられるような方法を持たらないとだめじゃないの」。
 いま行政はまっしぐら。村民の声を一切聞かない。
「だめだ、村長。振り返れ。初心に戻れ」。
 こう言っている。
 「村民の声を聞け。みんなでやっぺ」。
 でもいまんとこは、全然聞く耳を持たず。そういう状況だ。


村を出る方向も

 私だって、ふるさとには帰りたい。
 でも、果たしてそれがどうなのか。わかんない。年間被ばくが10ミリシーベルトになったら、帰りたいと言うかも知れない。
 でも、私らは農家。そんな汚染されたところで、農家は何にもできない。
 今、村は、除染について、「家の回りは2年、農地は5年、山林は20年」と言っているけど、それを、除染したとしても、雨風で同じだろうって。私はそう思う。
 例えばコメ。基準値が500ベクレル。じゃあ499ベクレルはいいのって、そういう論法になると思う。
 だけど、われわれ農家は、プライドがある。やっぱり国は「基準値は安全の基準」というけど、われわれは安心という部分があると思う。
 私ら以上の人は帰っても、若い人は帰んない。私も、息子と4人の孫がいる。戻そうとは思わない。そんな若い人が帰って、子育て・子作りなんかできるような環境じゃない。そりゃ、だめだ。
 だとすれば、われわれが飯舘に戻って、われわれが生涯を閉じれば、そこで飯舘村は終わり。そういうことになる。
 だから、やっぱり飯舘村民は、これから何年か後には、そういう決断を迫られるだろうなって、そういう思いがする。


風化と差別に抗して

 そういう中で、一番、子どもたちがかわいそうだ思う。
 広島・長崎の原爆、あのときに差別が起きた。まさにこれから、この福島県、飯舘村、すべてで、そういう差別が起きる。
 いま、私は、全国を歩いて、二つのお願いをしている。
 ひとつは、絶対に風化をさせない。こういうとんでもない事故を。
 もうひとつは、差別が起きない社会づくり、差別ができない社会づくり、そういうものを、これから、みんなで、やっていかないとだめなんだろうなって、私は思う。
(了)





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  1. 2011/12/12(月) 16:33:29|
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全村避難から約5カ月  飯舘村の現在    

 

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 10月の飯舘村。小高い山々、その間に広がる田畑。
 たびたび冷害に襲われながら、米と野菜と牛と花の複合経営に取り込み、豊かな村をつくってきた。


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 しかし、いま一面に広がるのは、耕作の断念を余儀なくされ、荒れ果てた田畑だ。
 いうまでもなく放射能汚染のためだ。



雨どいの下 100ミリ


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 10月11日、短時間だが、「愛する飯舘村を還せ!! プロジェクト」の佐藤健太さんに、飯舘村を案内してもらう機会があった。
 佐藤さんのご自宅を見せてもらった。

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 佐藤さんは今、福島市内に避難を余儀なくされている。
 飯舘村の自宅には、3匹の犬たちが。大喜びで出迎えてくれた。イノシシの猟犬だそうだ。福島市内から、お父さんと交代で、餌を与えに通っている。

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 家の雨どいの下の放射線量を測定した。
 見えにくい写真だが、102マイクロシーベルト/時と表示されている。
 誤作動ではない。これが10月11日現在の数値。
 事故以前だったら、原発の中で、かなり厳しく管理されたところにしか、こんな線量はなかった。それがいま目の間にある。3月には同じところで、300マイクロシーベルト/時を超えていたという。
 ここに8日間いるだけで、被ばく線量は20ミリシーベルトを、40日間で100ミリシーベルトを超える。しかもそれは、外部被ばくだけの話だ。
 
 3月11日、地震で飯舘村も大きく揺れ、電気も携帯電話も止まった。その後、沿岸部からの避難者が、飯舘村にぞくぞくやってきた。避難所が開設され、村民が総出で、救護・支援にあたった。佐藤さんも「助けられる。助けないと」という思いで、消防団の一員として奮闘したという。
 ところが、避難者の多くは、津波被害よりも、原発事故からの避難だった。そして、飯舘村から、さらに西へ避難していった。それを見て、すごく不安になったという。
 14日に3号機、15日に2号機・4号機が爆発。南相馬市から川俣町の方に抜ける県道12号線が、避難の車で大混雑していた。
 このとき、佐藤さんを始め、飯舘村にいた人びとは、大量に放射能を浴びていた。
 ただ、そのときは知識もなく、放射能のことは漠然としか分からない。線量計で村内を測定し数値も出たが、その数値の意味が分からなかった。だから、不安に駆られながらも、「まさか、飯舘村まで避難することにはならないだろう」と思っていたという。
 その後、長崎大の山下教授など、権威といわれる先生たちが次々と村にやってきて話をしていった。「安全です。子どもも問題はない」と。

 ところが、4月に入って、一転、飯舘村を計画的避難区域に指定するという話になった。
 その転換の背後には、日本政府にたいするIAEAの働きかけがあったらしい。IAEAに言われるまで、国は、飯舘村の村民を避難させるつもりはなかったのだ。
 国は、放射能拡散の予測もしていたし、実際に現地に来て放射線量の測定も行っていた。だから、福島第一原発から北西方向に位置する飯舘村に放射能雲が流れて、村民らが被ばくしていることも分かっていたはずだ。
 どころが、そのことを村民には知らせなかった。知らせないどころか、「安全です」という言葉で言いくるめようとしていた。
 佐藤さんは、「あの『安全だ』という話は何だったんだ」という憤りを禁じ得ないという。



山下教授と経産省の官僚


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(飯舘村役場。現在、役場機能は福島市飯野町に移っている)

 村役場に災害対策本部が設置された。その本部長は菅野村長だったが、山下教授や経産省からきた30代の官僚が、村長を常に取り囲むようにしていたという。
 私たちは、テレビで、苦悩する菅野村長の姿を何度も見てきた。しかし、そのテレビに映らないところで、山下教授や官僚が、村長を取り囲んでいた。
 緊急事態に際して、村長をサポートするという名目だろうが、それだけでないことは想像に難くない。

 山下教授は今はいないが、この官僚は今も役場にいるそうだ。
 この官僚について、比較的最近のエピソードを、佐藤さんが話してくれた。
 「おしどり」という2人組のお笑い芸人がいる。彼らは、原発事故以降、反原発デモに参加するとともに、政府や東電の記者会見に足を運び、それをネタにエッジの利いたしゃべりで注目されている。そのため広告代理店に睨まれ、担当するテレビ番組が打ち切りになったという。そんなおしどりと佐藤さんら飯舘村の青年の間に交流が生まれた。
 ところが、この官僚が、佐藤さんにたいして、「おしどりと付き合うな」という趣旨のことを言ってきたという。

 どれも飯舘村をめぐるほんの一断面に過ぎないが、ここから、国・官僚や山下教授らが、原発事故に際して何を考えたかが垣間見える。
 彼らが、原発事故発生で心配したのは、住民の被ばくではなく、国の秩序が揺らぐこと。そして、国の秩序を守るためなら、住民がいくら被ばくしても仕方がないと判断した。そうとしか思えない。そのためなら、放射能が降り注いでいても「安全です」と言うし、役場に乗り込んで村長をコントロールするし、言論にも介入するということなのか。



村のつながりと村民の健康


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 上の写真は、村役場前に設置されている線量計。
 菅野村長は、この線量計に表示される数値が高いことを嫌って、あるとき、スイッチを消すように指示したという。
 菅野村長自身は、全村避難に反対していた。もちろん国・官僚や山下教授に、単純に同調したわけではない。菅野村長は、村長なりに考え、避難によって、村のつながりが壊れてしまうことを恐れた。
 たしかに村のつながりは大切だ。しかし、これだけの放射能が降り注いでいる中で、村民の健康よりも村のつながり、という話にはならない。
 佐藤さんらは、山下教授や官僚たちにたいする厳しい見方とは違うが、村長の姿勢にも疑問を呈していた。

 ところで、放射線量に関して言えば、役場前に表示されている数値は、これでも低い方だ。
 上述した佐藤さんの自宅のように、公式の測定に出てこないが、高線量の場所がいたるところに存在している。
 また、文科省の公式の測定でさえも、たとえば、長泥地区のアスファルト上で、10マイクロシーベルト/時前後の数値だ。

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(長泥地区に設置されている文科省のモニタリングポスト)

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(地区の掲示板に掲示された空間線量。毎日、10時頃に数値が貼り出される。この写真を撮影したのは16日で、13日から16日の数値が出されていた)



高線量下でも工場が操業

 
 震災前6千人余がいた村民は、いま現在その大半が避難。村内に残っているのは、約200人。特別養護老人ホームなどにもお年寄りがいる。
 しかし、実は、昼間は、8社の企業の工場などが操業している。また見守り隊が350人ぐらいいる。昼間の人口は1000人を超えると思われる。

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 上の写真は、菊池製作所という東京に本社のある精密加工の工場。カメラの電子部品などの加工をしている。村の中にいくつか工場があり、約250人が勤務。
 村の外に避難している若い人たちが、昼間だけ出勤してくる。
 従業員には、線量計が持たされている。しかし、これには、問題がある。
 ひとつは、線量計をつけているのは、工場にいるときだけということ。
 いうまでもなく、被ばくするのは、工場にいる間に限ったことではない。福島市内に避難している人も、そこで被ばくしているし、通勤の過程も被ばくしている。しかし、会社は、そのことを関知しようとしない。
 もうひとつは、積算の被ばく量が20ミリシーベルトを超えた段階で解雇されるということ。
 放射線管理区域でもないのだから、20ミリシーベルトどころか、年間で1ミリシーベルト以上の被ばくは法律上、許されない。しかも、そういう環境で働かせておいて、20ミリシーベルトを超えたらと解雇というのは、二重に不当だ。ここには、原発の作業員の雇用実態と同じ問題がある。
 福島県の最低賃金が低い(657円 10月現在)上に、原発事故と全村避難という困難の中で、こういうことがまかり通っている。



健康生活手帳のとり組み


 佐藤さんらは、いま、村民にたいする「健康生活手帳」というとり組みを始めている。
 3月の原発事故以降、それぞれの村民が、「いつ、どこで、何をしていたか」を記録しておく作業だ。
 3月、あの放射能が降り注いでいるとき、何も知らされずに、その下にいた。全員が被ばくをさせられた。「あってはならないことだが」と前置きしつつ、健康被害が出る可能性も否定はできない。そのとき、どうやってたたかうか。
 幾多の公害訴訟がそうであったように、その被害と原発事故との因果関係を立証することは容易ではない。それをいいことに、国や東電は、被害者をどんどん切り捨てる。そういうことが容易に予想される。
 だから、佐藤さんらは、もしもそういうことが起こったときのために、たたかうための武器として、「健康生活手帳」をつくり、村民に記録を呼びかけている。
 そして、「健康生活手帳」に記録するという作業を家族や仲間同士で行うことで、全村避難で失われた村民同士のつながりを、回復するきっかけにもなればと期待している。
 
 佐藤さんは29歳、「飯舘生まれ、飯舘育ちの生粋のビレッジボーイ」という好青年。
 その佐藤さんのお話を聞いていて、佐藤さんら飯舘村の村民が、とてつもなく大きな困難の前に悪戦苦闘しているように感じた。
 放射能を浴びさせられるという、想像もしなかった事態。そして、ひとつの村がバラバラにされてしまうという事態。国や東電は、その苦しみや痛みを全く意に介していない。
 そういう国や東電と対峙し、必死に声をあげ、抗議している。
  飯舘村の現状と困難を、私たちはまだほとんど共有できていないと感じた。




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  1. 2011/10/17(月) 15:14:15|
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