福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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浜通りにおける歴史津波と口碑伝承  ――科学を問い直す


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(福島県相馬市、新地町付近の東日本大震災津波による浸水概況図 国土地理院作成)




 東日本大震災の被災地・南相馬市で、「貞観・慶長地震と津波 口碑伝承をおろそかにするなかれ」と題する連続講座が行われている。講師は東北学院大学名誉教授の岩本由輝(よしてる)氏。テキストは、近刊の『歴史としての東日本大震災』』(岩本由輝編著 2013年 刀水書房)。会場は南相馬市中央図書館、主催はメディオス・クラブ。
 相馬市在住の岩本氏は、相馬地方に残る口碑伝承を掘り起し、古文書と合わせて検討を加え、869年の貞観津波と1611年の慶長津波の評価を行っている。とくに地震学の世界において、慶長津波の過小評価が行われてきたことを指摘、論争的な展開に紙幅を割いている。


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(岩本氏は1937年生まれ。お話は、該博な知識と反骨精神に溢れている)

       
 この連続講座に参加しながら、そこで「おそろかにするなかれ」と言われている口碑伝承の地を訪ねてみた。
 以下では、【Ⅰ】と【Ⅳ】において、岩本氏が展開している論争的な問題意識について考察し、【Ⅱ】では、口碑伝承の現地訪問の報告を行い、【Ⅲ】で慶長津波の被害規模と範囲を文献などで確認するという形で話を進めてみたい。



 
【Ⅰ】 慶長津波の過小評価



 岩本氏の論旨は、概ね以下の一節に述べられている。
 「3・11大震災直後、1142年前の〝貞観津波以来〟ということがいわれ、慶長津波という表現そのものはあったが、〝日本史年表〟などでもあまりとりあげられていなかったことから、ほとんど注目されなかった。しかし、次第に400年前の慶長津波を再考察しようという動きが高まっている」
 「(2012年度版『理科年表』で東日本大震災について)『869年貞観の三陸沖地震と1869年三陸沖地震クラスの津波地震が合わせて再来したとの見方がある』としているが、これまで矮小化されてきた慶長津波に関しては、何の言及もないところをみると、慶長津波は依然として矮小化の呪縛のなかに放置されているようである。 
 私はこれまで『理科年表』などの記事や数字は中立的なものと思っていたが、地震や津波に関する記事を見て、その数字が〈科学的〉に〈正確〉を期すと称しながら、口碑伝承とみなすものを排除して、矮小化の方向に動いていることを、ことに慶長津波や明和八重山津波の記事をみて実感させられた。そのさい、学界の動向が反映しているのであろうが、そこにはある種〝政治的〟なものを感じないわけにはいかなかった。少なくとも、地震や津波に関しては、この間、排除されてきた口碑を改めて再評価する必要があると言えよう。口碑伝承をおろそかにするなかれ、と私が強調するのはもっぱらそのゆえである」(『歴史としての東日本大震災』)
 少し解説してみたい。
 
◇慶長津波とは

 慶長津波とは、1611年(慶長16年陰暦10月28日)、三陸沖を震源とした地震によって発生した津波。
 その範囲は、北海道南西部から東日本太平洋沿岸の広範囲に及ぶ。その被害の規模は、1971年度版『理科年表』によれば、「伊達領内で死1783人。南部、津軽で人馬死3000余。三陸地方で家屋流出多く、溺死者1000をこえた。岩沼付近でも家屋皆流出。北海道でも溺死者多かった」
 東日本大震災の400年前、それと同規模かそれ以上の津波が来襲していたのである。

◇理科年表と学界の変化

 ところで、『理科年表』とは、国立天文台(1988年までは東京大学東京天文台)が編纂する自然科学に関するデータ集。1925年から続けられており、編纂者からも分かるようにオフィシャルなもの。
 その1971年度版では、慶長津波に関する記述は上の通りだったのだが、それが1989年度版を境に変化する。複数の説があるものはより小さい方を採用し、科学的に立証できるものに絞って記述。そうすることで、慶長津波の範囲を東日本太平洋沿岸から三陸の枠内に押し込めるという矮小化が行われていると岩本氏は指摘する。そして、『理科年表』の変化と軌を一にして、地震学の学界全体が見解を変化させていった。
 他方、郷土史の分野では、口碑伝承を丹念に掘り起こすことによって、仙台平野における慶長津波の調査・研究が行われていた。そして、慶長津波の再来に警鐘を鳴らし、仙台市と宮城県に対して津波対策の提言が行われていた。(飯沼勇義 1995年 『仙台平野の歴史津波』)
 しかし、地震学者や行政当局はこの警鐘と提言を取り合わなかった。それどころか、学者は、それまで自身も採用してきた古文書や口碑伝承に対して、「疑わしい」「創作だ」と攻撃し、ネガティブ・キャンペーンを展開した。(渡邊偉夫 1999年「三陸沿岸に来襲した貞観津波と慶長津波に関する疑問の資料」『津波工学研究報告』、2002年「ビスカイノが見た慶長三陸津波」『月刊海洋』)
 このような経緯があったわけだが、結局、2011年3月、慶長津波からちょうど400年目に、同規模の地震と津波が東日本太平洋沿岸を襲い、大きな被害をもたらした。歴史津波と口碑伝承に関する研究と警告の妥当性が、痛ましい形で実証されてしまった。
 こうしてみると、東京電力や原子力工学研究者が、地震や津波の「想定」を過小に見積もり、危険を指摘する研究者を排除してムラを形成してきたことは周知のことだが、地震・津波の研究者たちもまた同じ轍を辿っていたということになる。

◇学者の責任

 このような経緯にたいして、岩本氏は、以下のように指弾する。
 「3・11大地震における津波は、津波は三陸リアス式海岸という常識をこえ、宮城県南部から福島県浜通り地方に襲いかかった事実を前に、慶長津波の矮小化にのみ、その精力を費やしたかにみえる渡辺〔上述の渡邊偉夫〕やその言説に迎合した地震津波学者の責任は大きい」(『歴史としての東日本大震災』)
 なお、東日本大震災によって大きな被害がもたらされ、慶長津波に関する自説の破綻が突きつけられるに至っても、2011年10月の中央防災会議では、データ不足を理由に、今後の被害想定の対象から慶長津波を除外している。


  

【Ⅱ】 口碑伝承を訪ねて



 さて、それでは、岩本氏が調査した慶長津波に関する口碑伝承の地を訪ねてみたい。
 相馬市柚木(ゆぬき)、相馬市黒木の諏訪神社、新地町福田の地蔵森神社、宮城県岩沼市の千貫(せんがん)神社の4カ所。



相馬市柚木 「てんとう念仏」「急ぎ坂」


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 まず、相馬市柚木蓬田(よもぎた)。ここは、海岸から約4キロ前後。沿岸の平野部から丘陵の間に入ったところ。上の写真のように谷合に水田が広がり、少し高いところに民家が数軒並ぶ。標高は5メートル強。


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 ここに、「てんとう念仏」と通称で呼ばれている場所がある。
 水田から民家の脇を通って、丘に登っていく。その道が上の写真。
 <津波が来たときにこの山に登り、念仏に唱えて津波が収まるように祈った>ということから、この地が「てんとう念仏」と言われるようになったという。

 もうひとつは、すぐ近くにある「急ぎ坂」と呼ばれる坂。
 <大きな津波が来て急いで駆け足で坂道を登った>ということからこう呼ばれるという。
  相馬地方は、1611年の慶長津波以降、大きな津波は来ていない。だから、現存する住民は東日本大震災以前に津波は経験していないが、400年前の記憶を口碑として今も語り継いでいる。


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 今回の東日本大震災の際、津波は用水路を逆流して、ちょうど上の写真の辺りまで浸水し、10日以上の引かなかったという。〔冒頭の浸水概況図を参照〕 



相馬市黒木 諏訪神社 

 
 今回の津波で大きな被害の出た松川浦から相馬市の市街地を経てさらに内陸に入る。
 地形は平坦だが、少し小高くなったところに神社がある。相馬市黒木にある諏訪神社。海岸から約6キロ。標高は約33メートル。


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 ここには、次のような言い伝えがある。
 <昔、大津波があったとき、このイチョウのてっぺんさ、舟をつないだんだと> (岩本氏が幼少の頃、祖父の義妹から聞いた話)
 また、次のような郷土史研究もある。
 <大昔大津浪があつた時、その(境内の杉の大木)いただきに舟をつないだ> (相馬女子高校〔現・相馬東高校〕郷土研究クラブ編集 『相馬伝説集』 『歴史としての東日本大震災』より)


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 イチョウは現存しているが〔写真上〕、杉の大木の方は、東日本大震災で社殿に倒れ掛かったため、やむなく伐採され、今は碑だけが残っている〔写真下、碑の付近から社殿を望む〕。いずれも、樹齢500年と推定されている。また、この神社の鎮座は1535年という。
 このような年代からして、ここで語り継がれている津波とは、869年の貞観津波ではなく、1611年の慶長津波ということになる。
 海岸からの距離もさることながら、標高33メートルの地点で、400年前ならまだ今ほどの大木ではないにせよ、木の上に舟をつなぐとなると、どれほどの大津波だったのかということになる。



新地町福田 地蔵森神社


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 宮城県丸森町と福島県との境に、標高348メートルの地蔵森山がある。新地町福田地区の集落を通って山間に入り、福田峠で車を降りて急な山道を15分ぐらい歩いた。上の写真は山の中腹から眼下に見えた阿武隈川。
 山頂に着くと小屋があった〔下の写真〕。福島県新地町福田にある地蔵森神社。
 福田の集落は海岸から約3キロ、地蔵森山の山頂は海岸から約6キロ。


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 小屋は粗末だが、中は手入れがされている。神社というのに地蔵が祀られていた〔下の写真〕。


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 ここに「御舟地蔵」という津波にまつわる話が残っている。
 <福田の地蔵森山の上に、御舟地蔵または船越地蔵と呼ばれる石の地蔵さまがある。
 この地蔵さまは、東へ4キロも離れた山ろくの舟輪沢というところに鎮座していたが、むかしこの地方が大津波に襲われたとき、舟に乗ってこの山頂に遷座したという。土地の人は、これを奇瑞(きずい)としておまつりしているが、ことに漁師の人たちにあつく信仰されている>(『新地町史 民俗編』)
 舟輪沢は、海岸から西へ4キロ。なお地蔵森から舟輪沢が<東へ4キロ>とあるが恐らく間違いで約2キロ。舟輪沢の標高はわからないが、1キロほど海岸寄りの福田小学校で標高は約22メートル。
 これは、文字通り標高348メートルまで津波が到達したと解するか、あるいは、舟輪沢まで浸水しために地蔵を抱えて山頂まで駆け上がったということなのか。それを判断する材料はないが、後者だとしても、相当の大規模な津波だ。


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 『新地町史』には次のような話が続けて紹介されている。
 <明地に近いところに小鯨というところがある。これは大津波のとき鯨が寄ったところだという。
 また新地駅の北の作田に八千(はっせん)山という小高い山がある。やはり大津波のときこの山に登って八千人(多勢の意)の人が命を助かったと伝えている。
 この山の上には山神さまがまつってあるが、常磐線開通のとき山を二つに掘りきったので、山自体は原形をとどめていない>(『新地町史 民俗編』) 
 なお小鯨は、福田小学校から北西に7~8百メートルの地点。少なくとも舟輪沢まで浸水したとすれば、小鯨まで鯨が流されてきても不思議ではない。
 上の写真は福田小学校の前から海岸方向を見たもの。新地町も東日本大震災の津波で大きな被害を受けており、海岸部では建物がなくなっており、海がすぐそこに見えていた。〔冒頭の浸水概況図を参照〕



宮城県岩沼市 千貫神社


 宮城県岩沼市まで足を延ばした。
 

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 東北本線や国道4号線のすぐそばにある千貫神社。
 ここは、海岸から7キロ、千貫山の標高は186メートル。 徳川家康の動静を側近が記録した「駿府記」(『史籍雑簒』二)の中に、伊達政宗から家康にもたらされた以下のような報告が記載されている。
 <所領内の海辺の人や建物が(去る10月28日に)大波がやって来てことごとく流失し、溺死者5千人ほど出た。・・・政宗のために肴を採りに来た侍2人が、漁師に命じて沖に出ようとしたが、漁師たちは潮の様子がおかしいと拒んだ。侍の内の1人は漁師の話を聞き入れたが、もう1人は強引に舟を出させた。舟が沖に出たとき、海面が天に向かって盛り上がり、山のような大波がやってきた。舟は沈まなかったが、波が収まってから気づくと、漁師たちが住んでいる里に近い山の松の木の傍らにいた。これがいわゆる千貫松である。その松の木に舟を繋いだ。その後、山を下り、里に行ってみると、家は1軒も残らず流されていた。陸に残った侍も漁師も流されて死んでいた>(『歴史としての東日本大震災』より 岩本口語訳を要約)
 これも想像を絶する規模の津波になるが、次にように考えると十分にリアリティが出てくる。
 千貫松とは、1本の松ではなく、麓から山上に連なる松林。そして、麓にある鳥居付近の標高は5メートルで、阿武隈川がすぐ近くを流れている。しかも、かつては阿武隈川が分岐し、この辺りを囲むように流れていたという。とすれば、津波が千貫山麓まで押し寄せることは十分ありうる。
 東日本大震災においても、名取市から岩沼市にわる仙台空港が大きな被害を受け、沿岸部で津波による犠牲が多数出ているが、慶長津波はその規模をはるかに上回ることになる。




【Ⅲ】 慶長津波の被害の規模と範囲



 口碑伝承の地を実際に歩いてみると、東日本大震災とも重なりながら、慶長津波の様相が実感させられてくる。
 それに踏まえて、改めて慶長津波の被害の規模とその範囲を、『歴史としての東日本大震災』で扱われている古文書や口碑伝承を中心にその他の資料にも当たりながら整理してみた。



被害の規模


◇相馬藩

 陸奥中村藩相馬氏の年譜記録『相馬藩世記』には以下のような記載がある。
 <(慶長16年の陰暦)10月28日、海岸一帯が生波(津波)に襲われ、相馬領の者が700人ほど溺れ死んでいる>(『歴史としての東日本大震災』より 岩本口語訳) 

◇仙台藩

 また、仙台藩伊達氏の年譜記録『伊達治家記録』には以下のような記載がある。
 <10月28日、午前10時過ぎ、領内で大地震があり、津波が来襲し、領内で1783人が溺死するとともに牛馬85匹が溺れ死んでいる> (『歴史としての東日本大震災』より 岩本口語訳)

◇「駿府記」

 さらに、上でも見た「駿府記」では以下のように記載されている。
 <所領内の海辺の人や建物が(去る10月28日に)大波がやって来てことごとく流失し、溺死者5千人ほど出た>
 <南部すなわち盛岡藩や、津軽すなわち弘前藩の海辺でも人や家が津波で流され、人馬3千人余りが死んだ> (『歴史としての東日本大震災』より 岩本口語訳)


 
津波の範囲


 【Ⅰ】でも見たように、地震学の世界では、1611年の慶長津波のことを「慶長三陸津波」と表記するように、三陸に限定したものとしている。しかし、古文書や口碑伝承を踏まえるならば、北海道から福島県浜通り地方の広範囲にわたっている。とくに岩本氏が明らかにしているように、福島県浜通り地方において口碑伝承が確認できる。

◇北海道南西部

 17世紀に発生した津波の痕跡が、北海道の南西部で発見されるとともに、アイヌの口碑伝承を調査した結果、太平洋側を中心に多数の口碑伝承が確認された。(高清水康博 2005年 『北海道における津波に関するアイヌの口碑伝説と記録』)

◇三陸海岸

 以下の地名の被害実態が、古文書に記載されている。
宮古村〔現・岩手県宮古市〕、黒田村〔現・岩手県宮古市黒田町〕、越喜来(おきらい)村〔現・岩手県大船渡市三陸町〕、今泉〔現・岩手県陸前高田市気仙町〕など。 (前2者は「古実伝書記」、後2者はビスカイノ『金銀等探検報告書』 『歴史としての東日本大震災』より)

◇仙台平野

 仙台平野では、浪分神社〔仙台市若林区〕、浪切不動堂〔仙台市宮城野区〕、蛸薬師堂〔仙台市太白区〕、念佛田〔ねんぶた 仙台市宮城野区〕、七ヶ浜町の湊浜・菖蒲田浜〔宮城県宮城郡〕、千貫神社〔岩沼市〕など、広範囲にわたって慶長津波の口碑伝承が確認されている。 (飯沼勇義 1995年『仙台平野の歴史津波』) 
 さらに、広範囲に浸水・被災した後、直ちに大規模な新田開発が繰り広げられたことが調査によって明らかにされている。つまり新田開発の記録や遺構が残されている所はとりもなおさず津波の浸水域に対応することを示している。 (飯沼勇義 1995年『仙台平野の歴史津波』)
 また、 近年の調査で、仙台平野の亘理町と岩沼市において、慶長津波の可能性の高い津波痕跡が発見された。(澤井裕紀など 2007年 『ハンディジオスライサーを用いた宮城県仙台平野における古津波痕跡調査』)

◇新地町 ⇒【Ⅱ】で見た通り

◇相馬市 ⇒【Ⅱ】で見た通り

◇双葉町

 『双葉町史』に以下のような伝承が記載されている。
 <(双葉町細谷は)伝説細谷千軒といって、海岸まで大変に栄えたという。
 古老の話では、昔、海津波で被害を受けてから、人家も移動したとのことである。
 現在は、海岸もかなり浸食されているが、昔はかなりの集落で、出土品も耕地整理の折に発見されている。『双葉町の人と伝説』より>(『双葉町史』第5巻 民俗編
 
◇大熊町

 『大熊町史』に以下のような伝承が記載されている。
 <野上向山に「魚畑(いよばたけ)からかい森」がある。大昔、大津波が起きてこの地一帯は海水に侵され、その水が引いたあと魚介類が残ったので名付けられたという。『双葉郷土誌』>(『大熊町史』第1巻 通史)
 大熊町野上は、海岸から熊川を遡って8~10キロ。現在、帰還困難区域とされ、入ることはできない。


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(大熊町、双葉町付近の東日本大震災津波による浸水概況図 国土地理院作成)



「空白域」こそ危険


 岩本氏は、『仙台平野の歴史津波』(飯沼)で述べられている「空白域」にかんする問題を強調している。
 「空白域」とは、過去に歴史津波があったが、久しく津波がなかった地域。そして、「空白域」こそ、要注意だとしている。そして、実は津波常襲地帯とされる三陸ではなく、この「空白域」において、津波に関する口碑伝承がたくさんあると指摘している。 
 ところが、その「空白域」では、津波に関する口碑伝承が科学の名において否定され風化させられてきた状況がある。そして、そのことが、今次の東日本大震災において被害を大きくしている面を否めない。
 三陸海岸や宮城県沿岸部では、明治以降にも何度も津波が襲来しており、その犠牲の供養と後世への教訓の石碑を各地で見ることができる。ところが、福島県浜通り地方で過去の津波の話というと、1960年チリ沖地震による津波になるが、その話というのは、例えば、いわき市四倉辺りでは、<潮がものすごく引いて、取り残された魚やタコがたくさん採れた>という話として語られている。それは、恐ろしい記憶というよりも、<面白いように採れた>という話になってしまっていた。
 そして、浜通りでは、東日本大震災の際、<大きな津波は来ないから>と避難をしなかったり、あるいは海を見に行ったりしたために津波の犠牲になったという事例がある。
 「口碑伝承をおろそかにするなかれ」である。




【Ⅳ】 科学を問い直す



 以上のように、口碑伝承を掘り起こす作業を辿ってみると、岩本氏が批判する通り、『理科年表』に象徴される公式見解の不可解さがよくわる。
 そうすると、改めて、どうして、慶長津波を過小評価する必要があったのかという疑問が避けられない。
 この点について検討したい。



新産業都市と開発計画


 『歴史としての東日本大震災』の共著者である佐々木秀之氏(東北学院大東北産業経済研究所特別研究員)が次のような事実を提起している。
 「東日本大震災の後、仙台平野の津波研究は、仙台港の建設計画に関連して疎外される場面があったことが指摘されている」(『歴史としての東日本大震災』)
 1964年、仙台港は、新産業都市建設促進法の指定都市となり、電機、石油、鉄鋼、ウラン濃縮、発電などの重厚長大型の工場が次々に進出。高度成長期に即した開発が続けられた。
 「そうしたことから、仙台一帯が地震津波の危険地域であるといった研究は、関係者にとって、受け入れられないものとなっていたのである。つまり、そうした研究結果が公表されると、企業誘致や開発計画に支障が出るであろうことや地価の下落を招いてしまうことを恐れたのである。実際、仙台平野における地震津波の危険性が高いことを指摘した津波工学の研究者に対して、脅迫めいた電話がかけられたこともあったそうである」(『歴史としての東日本大震災』)
 【Ⅰ】の引用で岩本氏が「(慶長津波の過小評価に)ある種〝政治的〟なものを感じないわけにはいかなかった」と述べているが、これがその根拠のひとつだろう。



原発立地との関連も


 岩本氏は、『歴史としての東日本大震災』の中で、福島第一原発の立地決定後に日本原子力産業会議が行った調査報告(1970年8月)の以下の一節を引いている。
 「福島県周辺においては、強震以上の地震は約150年に1度、烈震以上のものは約400年に1度位の割合でしか起こらず、福島県周辺は地震活動性の低い地域であると言える。従って福島県周辺で過去に震害を受けた経験も少なく、とりわけ当敷地付近においては特に顕著な被害を受けたという記録は見当たらない」(『原子力発電所と地域社会 地域調査専門委員会報告書(各論)』 )
 ここに「400年に1度」という文言を見つけてまず驚く。1611年の慶長地震・津波からちょうど400年目の2011年に、奇しくも東日本大震災・大津波が起こっている。  
しかし、ここでいう「約400年に1度」とは、400年に一回は起こるという警鐘の意味ではなく、全く無視できる程度という意味で使われているのだった。
 しかも、「当敷地付近においては特に顕著な被害を受けたという記録は見当たらない」とも述べている。が、上でも見たように、双葉町細谷の伝承は敷地内そのもの、大熊町の伝承も当該地域。いずれの伝承も、当該地域で編纂された「郷土誌」などで確認できるものであり、現在は、図書館で手にできる『町史』に掲載されている。
 つまり、ここでもまた、双葉・大熊に原発を立地するという結論があって、そこに向かって都合のよくデータを取捨している姿を見ることができる。



シミュレーションという擬製


 「シミュレーションなどというと有難そうに聞こえるが、しょせんは人間が作ったマニュアル(雛形・手引き)にしたがって地震や津波が動くと思っている錯覚に過ぎない」(『歴史としての東日本大震災』)
 岩本氏の批判は、地震学者たちが「科学的」としている方法にまで及んでいる。
 地震学では、地震という極めて複雑な挙動に対して、物理学に基づいて近似的なモデルを設定し、そのモデルに依拠してシミュレーション(模擬)を行い、それに基づいて一定の予測や分析を試みている。
 一見科学的な手法のようだが、よく見ると、モデルを確立することが目的となり、事実やデータはモデルのための手段になっている。だから、確立されたモデルにとって説明のつかない事実やデータは排除してしまう。それが口碑伝承の類なら、科学の名において簡単に切り捨てられる。そして、モデル自体が、政治的経済的な要請によって斟酌されているというのが上で見た学界の実情だ。
 ところが、私たちは、科学的と称せられるものの水準がこんな程度のものであっても、逆に「科学的でない」と切り返されると弱い。岩本氏も「科学的でないといわれることは近代人にとって致命的である。私なども、浅薄でも科学主義の方が、重厚に見えるものでもオカルト主義よりはましであると思っているところがある」(『歴史としての東日本大震災』)と自戒している。そして、そういう近代人のあり方が、貴重な口碑伝承を風化させる方向に作用してきた。
 「しかし、科学的と称していた地震学や津波学のていたらく、あるいは原発を始動させることはできても、非常時になると制御することができない原子力科学者の有様ではない、無様さをみていると、口碑伝承など科学ではないと退ける科学それ自身が浅薄なオカルト主義に堕しているとみなさざるをえない」(『歴史としての東日本大震災』)と岩本氏は手厳しく喝破している。


未来への教訓


 慶長の大津波の伝承、そして、それを恣意的に過小評価してきた「科学」についてみてきた。ここから、何を教訓として得るべきだろう。
 次の大災害を生きぬくために、先人の残した口碑伝承に真摯に耳を傾け、対策を講じるべきこと。東日本大震災を体験したわれわれが、現代の口碑伝承を残していくということ。
 そしていまひとつは、地震、津波、原発事故、被ばく、避難という現実の中にある真実を、偽りの「科学」の節穴からではなく、民衆自身の体験や実感からつかみ直すということではないだろうか。

(了)




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  1. 2013/05/06(月) 12:00:00|
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