福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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「事故は終わった?復興している?これを見てほしい」 ――浪江町住民

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 散乱する靴。靴たちが救いを求めて這い出してきているように見える。
 浪江中学校の玄関。3年余りこのままだ。 


  不自然な静けさ


 浪江町の柴口正武さんに案内をしていただいた。(写真下 6月上旬)
 柴口さんは中学校の先生。浪江町に自宅がある。現在は、相馬市内で避難生活を送る。


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 浪江駅前のロータリーでまずお話を伺う。

  ――  静かですね。
 柴口さん:ひとけが全くなくて、音がないのがなんか不自然でしょう。
 あっ、いま、野鳥の声がしましたね。震災前だったら、駅前でそんなことはあり得なかった。野鳥の声がするなんて。

 駅前の線量は毎時0.48マイクロシーベルト

 
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 駅の反対側には体育館が(写真上)。2011年4月、開業予定だったという。

 柴口さん:中学校ではね、体育館のオープンを楽しみにしていたんですよ。スポーツ大会とかいろいろできるねって。

 しかし開業を目前に地震、そして原発事故。地震に対しては堅牢で、外壁や窓も壊れていないが、一回も使われないままだ。


  「もう、ここには帰れない・・・」

 
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 柴口さんのご両親が暮らしていた家を見せていただいた。
 駅から南にほどない住宅街の一軒家。今は生い茂る草木に覆われているが、灯篭があり、茶室があり、住んでいた人の思いが偲ばれる庭だった。


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 家の中まで入った。すると・・・


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 地震で飛び出した食器が散らばったまま。
 この辺りは海から4キロ以上離れているが、川が近く、津波がここまで押し寄せる危険があるということで、すぐに避難の指示が出されたという。
 ご両親は直ちに近くの浪江中学校に避難。それから原発事故が起こり、バスでさらに避難。そして3年余りの歳月が・・・。
 畳は腐り、ネズミなどの小動物がかじった跡、そして散らばる糞・・・。

 柴口さん:この状態を見て、母親は、もう、ここには帰れないって、そう言ってました。ショックだったと思います。

 家の前の線量が、1.0マイクロシーベルトを超えていた。

  ――  除染はこれからですよね?
 柴口さん:いや、この一角は、モデル除染ということで早くにやってもらったんですが・・・。


  学校がホットスポット


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 浪江中学校の校庭。車が、草に埋もれている。
 車を置いてバスで避難を余技なくされた人のものだろう。


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 浪江中学校は周辺に比べても線量が高い。
 校庭で3マイクロシーベルト以上。玄関前の側溝は6~9マイクロシーベルト。


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 線量が高いこともあり、散乱した靴の片付けもままならないという。
      
 柴口さん:今日、ご案内したのは、この状態を見てもらいたかったからなんです。「復興している」とか、「事故は終わった」というけど、それが本当なのかを。

 政府は、川内原発を皮切りに原発の再稼働と原子力依存の政策を進めようとしている。しかし、この現実から目を背けたままでは、同じ悲劇を繰り返すことになる。


以上




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テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2014/10/30(木) 16:00:00|
  2. 浪江町
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浪江町・帰還困難区域の桜



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 津島の桜がちょうど見ごろを迎えていた。〔写真上〕
 4月28日、「放射能測定センター・南相馬」が行っている空間線量測定に参加、浪江町の帰還困難区域に入った。
 2011年の事故以来、南相馬市の原町区、鹿島区、区域再編後の小高区などにおいて年2回の測定が行われ、その都度、住民らがボランティアで参加してきた。
 今回は、帰還困難区域に指定されている浪江町の西部の測定も行われた。帰還困難区域とは、「5年間を経過してもなお、年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある、現時点で年間積算線量が50ミリシーベルト超の地域」。浪江町の場合、面積で8割が帰還困難区域に該当する。
 測定の方法は、地域全体を500メートルのメッシュに区分して網羅し、その一区分ごとに一地点を選んで、地上1センチと1メートルのデータをとり、それを集計して地図上に反映するというもの。作成された汚染地図は、住民に広く配布され、地域全体の汚染状況や線量の変化を対象化することに貢献してきた。




 赤い舌



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 原町を出発して6号線を南下、浪江町に入り114号(富岡街道)を西へ。帰還困難区域の室原に入る手前に検問所があり、通行証を提示。



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 私の班が担当したのは、請戸川に沿って国道114号線を、室原~川房~昼曽根~赤宇木~津島と西に向かうコース上の測定点。
 下図は、文科省が航空機モニタリングで作成した放射性物質の分布状況。第一原発から「赤い舌」が伸びている。2011年3月15日、福島第一原発から大量に漏出した放射性物質が、北西方向に吹く風に乗って、請戸川の谷筋に沿って流れ、この一帯を舐めつくし、山にぶつかる辺りで雪とともに降り注いだ。さらに山を越えて飯舘村から伊達市、福島市まで流れていった。こうしてこの一帯を高濃度の汚染地帯にした。
 私の班が担当した測定地点は、3年後の赤い舌を辿るものだった。

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 昼曽根22マイクロシーベルト



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 何地点か測定をしながら、大柿ダムの北西端の川房にある大柿簡易郵便局のモニタリングポスト〔写真上〕に着いた。
 ここは、114号から南に葛尾村方面に行く道との分岐になっている。簡易郵便局の他、中山商店などがあって、人びとが休憩に立ち寄るところだったという。
 モニタリングポストの表示は毎時9.649マイクログレイ、手持ちの線量計は毎時12.46マイクロシーベルト。グレイとシーベルトと単位が違うが、1グレイ=1シーベルトとみなすというのが国の指針なので、やはり低く表示されている。



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 ここまでの集計でも〔写真上〕、西に進むほど測定値が高くなっていく。室原に入ったところでは3マイクロシーベルト台だったが、大柿簡易郵便局では12マイクロシーベルトに上がっている。


 
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 東北電力の昼曽根(ひるそね)発電所〔写真上〕。100年前につくられた出力500キロワットの水力発電所。しかし、原発事故に伴って、現在は稼働を停止している。
 戦前、国家統制で統合される以前、福島県には数多くの発電事業会社があった。そのひとつである磐城水電株式会社(小高町)が、大正時代につくったのが昼曽根発電所。磐城水電は、小高町など周辺5カ町村に給電していた。
 発電所前の橋のたもとで測ると、地上1メートルで22.26マイクロシーベルト〔写真下〕。 測る位置を少し変えると下がったが、やはり極めて高い。

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 発電所から少し進むと、倒れたままの看板があり、「田中建設」の名前が。〔写真下〕
 田中建設といえば、原発と密接な関わり持つ双葉町の建設会社。同社の創業者で社長だった故・田中清太郎は、1963年から約20年にわたって双葉町の町長を勤めている。その間、福島第一原発の誘致などに大きな役割を果たしたと、東京電力から評価を受け、同社には、東電関連会社から、毎年多額の工事が発注されてきた。

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 この日の最高値26マイクロシーベルト



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 昼曽根にある落差5メートルの滝「一反渕(いったんぶち)」。〔写真上〕
 原発事故以前、請戸川には、ヤマメやイワナの放流が行われていた。本当なら解禁の時期だ。



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 道路脇にフレコンバックの山が。〔写真上〕
 広大な山林の中、線量も高い地域で、除染が点々と行われていた。



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 幾重にも連なる大きなベルトコンベヤーが目に入る。 〔写真上〕
 2011年4月上旬、放射性物質で汚染された砕石がここから搬出され、二本松市のマンション建設などに使われた。そのことが2012年1月になって公になり、大きな問題となった。まだ記憶に新しいが、これがその採石場だ。
 この場所は、福島第一原発から北西に約26キロ。20キロ圏外なので、2011年4月上旬の時点では避難区域ではなかった。計画的避難区域に指定されたのは4月22日。
 もっとも、政府は、事故直後から、20キロ圏の外にあるこの辺りで、高い線量が観測されていることを把握していた。が、そのことを住民にも、業者にも知らせなかった。また、同じ時期、隣接する飯舘村では、山下俊一長崎大教授らが入り、住民に「放射能の心配はいらない。国の言うことに従って下さい」と説いていた。
 汚染砕石問題もそういう中で起こったことだった。



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 114号を一旦南に逸れて林道を進んだところにある民家。〔写真上〕
 桜や水仙の花が健気に咲いていた。3年以上の月日で荒れているが、住んでいた人が、花を大切にしていたことを偲ばせる庭だった。
 ここで、この日の測定の最高値を記録した。地上1センチで26.27マイクロシーベルト。〔写真下〕
 この場所に1年間いると、単純計算で200ミリシーベルトを超える被ばくになる。
 これが3年後の実態。線量が十分に下がるまでには100年単位の時間が必要だ。

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 伏せられた地名



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 再び114号に戻って西へ。ここは、大字赤宇木(あこうぎ)字塩浸(しおびて)。難読の地名で知られる。
 写真上の石井商店のところを右折して山に入れば、手七郎(てしちろう、てっちろう)を経て飯舘村長泥(ながどろ)に下る。また、そのまま富岡街道を進めば津島の町を経て、川俣町、福島市に至る。
 塩浸という地名は、九州に3か所ほどあるが、いずれも「しおひたし」と読み、関連はないようだ。浪江の塩浸は塩の道だったことに由来しているという。かつて浪江の浜では製塩が行われ、その塩がこの街道を通って中通り方面に運ばれていた。そして、この塩浸で、塩と食料品の交換が行われていたという。 ここが浜通りと中通りをつなぐ交通・交易の要衝だったことが窺える。
 しかし、原発事故以降、この地名は別の意味を持たされた。
 原発事故直後、文科省は、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の試算で、浪江町の赤宇木や津島の方向に大量の放射性物質が飛散することを予測していた。そして、その予測に基づいて、15日には現場に入って測定を行い、赤宇木の手七郎や塩浸などで毎時255~330マイクロシーベルトという数値を観測していた。その後も継続的に極めて高い線量を観測、大量の放射性物質が流れてきていることを把握していた。にもかかわらず、文科省は、それがどこなのか、その後1カ月の間、伏せていた。



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 津島に入る手前に、南津島の方に南下する道があり、この先に日本テレビの人気番組「ザ!鉄腕!DASH!!」のDASH村があった。里山の豊かさと美しさ、住民との交流などの映像が思い出される。DASH村は、福島第一原発から25キロの地点で、現在は帰還困難区域となり、無残な姿になっているという。



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 津島の町の中に入る。街道筋らしく、道が適度に曲がっている。それに沿って、津島中学校、津島小学校、松本屋旅館、コクブン商店などが並ぶ。小さな町だが、人びとが行き交い、賑わいがあったことを感じさせる街並みだ。そして、満開の桜・・・。
 下の写真は津島中学校。震災の翌日から、浪江町の浜の方の住民がぞくぞくと避難、人口約1400人の津島に、約8千人が避難してきたという。そして、小学校や中学校の体育館、公民館などに逗留した。
 そこに、高濃度の放射性物質が降り注いだ。そのことを上述のように文科省は早い段階で把握していたが、町役場にも、住民にも知らせなかった。そのために、わざわざ津島方面に避難してきてきた住民が、ここで無用な被ばくを強いられることになった。

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 二度の棄民


 
 「国策によって二度も棄民された」。浪江町の女性がそう語っていたことが思い出される。
 一度目は、敗戦で国に捨てられ、中国から命からがら引き揚げてきたこと。そして二度目は、戦後の労苦を経て余生を楽しもうとしていたとき、原発事故によって放射能に追われ、再び逃げ惑ったこと。
 「国策によって捨てられる」。その言葉が重い。

 ところで、浪江町は、今年3月、「復興まちづくり計画」を策定した。2017年3月を目途に、比較的線量の低い国道6号線と役場の周辺を中心に、5千人の帰還と移住を見込んで、「復興」を進めるとしている。
 しかし、収束作業は、依然として汚染水問題に振り回されている。さらに浜通りや双葉郡の今後はどうしていくのか。上で見てきたように高線量が長期にわたって続く地域はいったいどうなるのか。こういう問題に対して、国も、町も、真剣に向き合っているとはいえない。見通しもビジョンもないのが実情だ。そういう中で、「戻れ、戻れ」という掛け声だけが聞こえる。
 三度目の棄民になりはしないだろうか。 (了)








テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2014/05/23(金) 14:40:00|
  2. 浪江町
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浪江町  「戻る、戻らない」を超えて――町民自身による復興のために

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(あった。あった。――住民はみな自分の家を探し、見つかると喜んだ。津波で流された請戸を模型で復元した「記憶の街ワークショップ for 浪江町」/なみえ3.11復興のつどい/3月16日 二本松市内)


         
 被災から3年目に入った福島。マスコミを通して伝えられるのは、国や県、行政が進める「復興」。しかしそれは、依然として約15万人の人びとが先の見えない避難生活を送っている実情とはかけ離れている。
 本稿では、2万人が全町避難を余儀なくされている浪江町で、住民自身の思いを汲んだ復興の取り組みを始めている鈴木大久さん(53 南相馬市、仙台市に避難)にお話しを聞いた。


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 鈴木さんは、浪江町で代々続く味噌の製造元を経営、事故以前、町の商工会などの活動を通して、青年らとともに町の活性化に取り組んできた。原発事故後は、町の復興計画策定委員を務め、さらに、住民自身による復興のための団体を立ち上げて動いている。
 国や県、行政が避難を続ける住民に冷淡で、帰還を促す圧力をかけている中で、鈴木さんは、「戻る人も、戻らない人もいていい。どちらかに絞ってはいけない」と主張。とくに「県内や県外に避難して戻らないという人も浪江町民だ。そういう人たちへの生活や就労の支援にも力をいれるべき」と考えている。そして、「どこにいても浪江町民なんだと思えるようにアイデンティティを確立する事業を始めたい」という構想を持って動きはじめている。そして、鈴木さんは、「政党や行政による組織の政治ではなく、住民自身による政治を」という政治姿勢を信条としているが、それも、鈴木さんの曽祖が自由民権運動に参加していたと聞けばうなずける。
 鈴木さんのお話しからは、国の発表やマスコミの報道では見えない、今の福島が抱える内情がリアルに見えてくる。原発立地地域に暮らしてきた人びとの意識と構造、被災後の復旧・復興をめぐって住民の間に生じた分断という問題、住民にとって生活再建にならない東電賠償の実情、そして、このような住民の現実や心境を県内外の様々な運動が必ずしもくみ取れていない課題などだ。
 被災から3年目を考える上で、重要な方向性が提起されていると感じた。
     

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(復元模型に、通っていた請戸小学校があった。この復元模型は、神戸大学大学院・槻橋修研究室が企画、「まちづくりNPO新町なみえ」が共催。制作には多くの大学生が参加)


 鈴木さんのお話を以下の様に、6つの章に分けて整理した。

 【Ⅰ】区域再編前の一時立ち入り
 【Ⅱ】地震・津波と原発事故
 【Ⅲ】「戻らない」という選択もあり
 【Ⅳ】原発立地地域の中で
 【Ⅴ】国が進める区域再編・賠償
 【Ⅵ】復興の環は仕事とアイデンティティ




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




【Ⅰ】 区域再編前の一次立ち入り



小丸地区34~38マイクロ


――まず、先ごろ、一時立ち入りで浪江の中の様子を見て来られたのですね。 〔インタビュー時は、4月1日の区域再編の前〕

鈴木:そう、浪江も4月から避難区域が3区分に再編されますからね。比較的自由に立ち入りできるような印象でしたが、よく読んでみるとそうでもない。特に、帰還困難区域にされる地域は、これまで以上に立ち入りが難しくなりそうです。
 そういうわけで、先日の一時立ち入りの際に、帰還困難区域になる地域を回ってみました。この目で現状を見ておきたいと思って。無用な被ばくを覚悟してね。

――線量は依然として高いわけですね。

鈴木:高いですよ。とくに帰宅困難区域は。浪江は、請戸(うけど)とか海の方は比較的低くて、西に進んで行くとどんどん高くなって行きます。
 僕の家は、駅に近い権現堂(ごんげんどう)にあるんですが、ここは避難指示解除準備区域とされるところです。で、そこから西の方に走って、まず大堀(おおぼり)地区に行ってみたんですが、居住制限区域から帰還困難区域に入るところには、もうバリケードやゲートが準備されて、出番を待っているという感じでした。ここで分断されるんですね。
 で、大堀地区に入ると、「陶芸の杜おおぼり」にあるモニタリングポストで、毎時13マイクロシーベルト。手持ちの線量計では毎時18から20マイクロシーベルトですね。
 ここは、江戸時代から続く「大堀相馬焼」で知られたところです。窯元を回ったんですが、地震の傷跡もそのまま。割れずに残った大堀焼がひっそりとしてました。
 それから、小丸(おまる)地区の入り口の小丸橋〔第一原発から約8キロ〕のところには、牛の脱走防止ゲートが設置されていました。電気柵ですね。中に牛が10頭ほど。眺めていると、ちょうど、「浪江町・和牛改良友の会」の人たちと岩手大学の人たちがやってきて。放射線の影響調査でもしているのでしょうか。血液採取をしているようでしたね。
 ここのモニタリングポストは、毎時23.38マイクロシーベルト。手持ち線量計では34から38マイクロ。単純計算で年間積算300ミリシーベルト。2年が経っても未だにこの数値ですよ。本当に先が思いやられますね。


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(文部科学省の航空機モニタリングによるセシウム汚染地図。放射能雲が、請戸川に沿うようにして進み、津島地区から飯舘村長泥(ながどろ)地区へと流れて行ったことがわかる)


鈴木:その後、末森(すえのもり)を通って室原(むろはら)に入り、114号線を西に行って、賀老、大柿ダム、昼曽根(ひるそね)まで行ってみました。
 昼曽根は、僕の友人が少年時代を過ごしたところ。そこには、20キロ圏のゲートがあって、こっちが内側になるでしょうけど、ゲートに阻まれて、それ以上は行けない状態でした。このゲートがなくなる日は、本当に来るんでしょうかね。
 昼曽根発電所前で毎時16から20マイクロシーベルト。結局、2~3時間動いて、被ばくは合計で46マイクロシーベルト。

――短時間なのに、かなりの被ばくです。

鈴木:そう、だから、この数値をどう捉えるか。それが、復興を考える上で、大切なことだと思うんです。
 たしかにこの2年間で、事故直後よりはかなり線量は下がりました。それはセシウム134の半減期が短いから。でもセシウム137の半減期30年、はるかに長いですね。だから、これからはもうゆっくりとしか下がらない。
 こういう環境に住民を戻してよいのかということです。


ネズミの被害


――一ところで、浪江のご自宅の方で、ネズミがすごいとか?

鈴木:夏まではいなかったんです。秋口になってから。仕掛けておいたネズミ駆除のシートに10匹ぐらいかかっている。体調5センチぐらいのハツカネズミ。もともとはいなかったものですよ。最近は、ドブネズミですね。ふすまとか、押し入れの角とかがかじられているんです。
 山元町とか亘理(わたり)町〔※〕でもネズミの被害が大変だってニュースなっていたんですけど、人が住んでいてもそんな状況だから、浪江なんて誰もいないからネズミの天国ですよね。

〔※いずれも福島県の隣接する宮城県の津波被災地〕

――そういう光景を見るのはつらいですね。

鈴木:そう、みんな「もう帰えんなくてもいいよ」って。草がぼうぼうで、ネズミが荒らしまわり、見てガッカリするだけだから。一時立ち入りで帰る度に、どんどん悪くなってくるのを見ているわけですよ。
だから、かなりの人が一次立ち入りに行かなくなってますね。


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(仕掛けた駆除シートにかかったネズミ。鈴木さんの自宅)




【Ⅱ】 地震・津波と原発事故



――話が少し戻りますが、2年前の地震、津波、そして原発事故と避難のことを改めて伺います。

鈴木:地震が来たときは、味噌の仕込み作業が終わって、機械が止まっていたんで不幸中の幸いでした。うちの工場の被害はタンクが脱輪したとかありますが、それほどひどくはなかったですね。店の中はガシャガシャ、床はビシャビシャでしたけど。でも、うちの近所の畳屋さんは1階が完全に潰れていて、おじいさんが亡くなりました。
 で、地震の次に、10メーター以上の津波が来ると。逃げなきゃと周りでは言っていたんだけど、ここ〔浪江町権現堂地区〕は標高があったんで大丈夫と判断していました。実際、津波は、浪江では国道6号線は超えなかったですね。
 もっとも、連れ合いの親父さんの会社も流されたし、姉夫婦の家族もうちに避難してきたし、うちの従業員も子どもを連れてうちに避難してきましたから。うちの工場が避難所みたいになってましたね。


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(権現堂地区の自宅直近で倒壊した家屋)


原発事故と避難

 
――原発が危ないという情報が入るのは?

鈴木:ずっと一晩中、テレビは見てました。原発がどうも怪しいぞという状況でしたね。それでも、まだ、明日も朝から工場の片付けが大変だねって言っていたんですが。
 で、朝、そろそろ片づけを始めようかというとき、広報車が町内を回っているんですね。「10キロ圏内に避難指示が出た」と、で「津島の方面に避難して下さい」と。〔※〕

〔※浪江町は、原発から約4キロ~40キロの範囲に東西にわたって長く広がる。権現堂地区は約9キロ〕


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〔避難の様子を紙芝居にして上映=写真上/自らの体験と重ねながら見る住民=写真下/なみえ3.11復興のつどい〕


――そこで津島への避難の指示があったのですか?

鈴木:そうですね。町としての広報です。
 行政の避難計画では、行政の境界を超えて避難所を設置することは想定してないわけです。で、浪江で原発から一番遠いところといったら、津島なんですよ。津島は原発から20キロと40キロの間ですね。
 それに、南には原発があって、北も6号線が津波で寸断されちゃって行けない。だから西に行くしかない。で、そこにみんなが集中した。大渋滞で、津島から権現堂までずっとつながっていましたから。〔※〕

〔※津島地区に避難していた人たちは、放射能雲の流れを知らされず、数日間留まったため、被ばくをさせられている〕

――鈴木さん自身の避難は?

鈴木:僕は、西は、何となくまずいなと思っていたんですよ。で、北へ旧道やいろんな道を使い分けて、一旦、鹿島の知り合いの家で2泊。
 で、14日の朝、近くのグランドを見たら警察と消防の車両がうじゃといたんですよ。ほとんどタンク車ですね。それが朝一斉に出て行った。たぶん3号機の爆発の前。〔14日11時01分 3号機で爆発〕
 それを見て、これはただ事じゃないなと思って、鹿島を離れて福島市を経由して、米沢の温泉旅館に1週間ぐらい。その後、茨城の取手に部屋を借りられて、そこに落ち着くという形になったんです。


仮設の建設

 
――すると、しばらく取手で避難生活をされた?

鈴木:そのはずだったんですけど、連れ合いの親父さんが、会社を再開することになってそれをいっしょにやるという話になったんですね。仮設住宅の給排水設備です。僕は代々続く味噌屋のオヤジですよ。ただ若い頃、東京にいたとき、設計の勉強もしたり、システムエンジニアをやったりしてたんでね。
 5月連休には原町に事務所を借りて、職人さんらとそこで寝泊まり。もう飯場状態でしたね。仮設をつくりに来ているんだけど、自分たちが原子力災害で避難しているわけだから、みんな家がないんですよ。
 新地町や鹿島町の仮設、それから原町の仮設もやりました。去年の夏までは、そういう感じでしたね。
 とにかく一所懸命、仮設をつくってましたよ。だって、いつ浪江に戻れるかもわかんないし、まして味噌造りがまたできるかどうかなんてわかんないでしょ。今でもわかんないんだから。だから、周りの動きは気になりながらも、この仕事を一生やっていくのかな、なんて思いながら仕事をしていたんですね。




【Ⅲ】 「戻らない」という選択もあり



復興計画策定委員に


――そうすると、町の復興に関わるようになる転機は?

鈴木:浪江町の「復興ビジョン」(2012年4月策定)ができてきたのを見てからですね。
 当初は、脇で見ていたんですよ。というのは、馬場町長は、もともと「戻る、戻る」しか言わなかったんで。最初からもう「戻る」でしたから。僕はそれに反感を持っていたんでね。
 戻りたいという気持ちはそうなんだけど、「戻らなければいけないんだ」という言い方をするんですよ。だから、町の動きに対して、静観する態度でいたんです。
 でも、できあがった復興ビジョンを読んだら、「戻らない選択もありだ」と書いてあった。「戻る人も、戻らない人も、浪江町民だ」「戻る人も、戻らない人もサポートしていくんだ」という姿勢が出ていたんで、そうかと思ったのがまずきっかけですね。  


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(馬場有〔たもつ〕町長/なみえ3.11復興のつどい)


――具体的には何をされたんですか?

鈴木:その後、復興ビジョンを元に復興計画をつくるんですが、そのメンバーを公募するという話が出て、そこで手を挙げたんです。
 戻るだけの計画だったらやるつもりはなかったんですよ。戻らない選択をする人にたいしても、浪江町民として不利益にならないように、支援をするんだというんだから、それだったら俺がやることもあるかなと思って。
 当初、公募の枠は4人か5人。蓋を開けたら応募が40~50人。最初の復興ビジョンのときは、20人ぐらいだったのに。
 当初の考えでは、いろいろな団体さんの肩書のついたお歴々を集めて20人、そこに5人ぐらいを公募で入れてというつもりだったんでしょう。ところが、ものすごい人数が来ちゃったんで、結局、全員をメンバーにして、復興計画策定委員が100人になりましたからね。
 で、6つの部会をつくって、そこに20人弱ずつ配置してということで、復興計画策定委員会というのが始まった。それが去年の6月かな。


「戻る」一辺倒への異議


――町長の「戻る」一辺倒に反感を感じたと言われましたが、その意味は?

鈴木:まず、ひとつは、もう少し冷静に考えなさいよと。今の線量はこのぐらいあってね。これが自然減衰ということを考えても、そう簡単に生活できるようなレベルまで線量は下がらないでしょうと。それから、原発の状況が不安定な中で、戻るだけの選択肢しか残さないというのは、あまりにも不条理でしょうと。そういう思いなんです。
 僕は、震災直後の5月、商工会の総会があってその場で会長と副会長に食ってかかったんですよ。彼らも「戻る」としか言わなかった。「事業再開のためにも、町を復興させるんだ」とか言ってね。
 それに対して、僕は、若い人たちにはいまの段階で戻るという意識はないよと。そんな中でこのまま突き進んだら、浪江町に限界集落をつくるだけだぞ。10年後にはなくなるよ。そんなもんつくってどうすんだと。別なことを考えないとだめだろうっていう話をしたんです。
 それから、もうひとつ大きな問題は、「戻るんだ」と主張することが、「戻らない」という選択をすることに対して、罪悪感を生じさせてきたわけです。
 町が「戻る」と言っている。町民の中にも、「戻る」という声もある。そういう状況の中で、「戻らない」って言うと、「お前は浪江を捨てるのか」という話になるわけです。誰も捨てたいなんて思ってないですよ。思ってないのに、「捨てるのか」、「逃げるのか」って言われる。
 そういう問題は、避難指示が出た直後からあったと思うんですよ。避難指示で出て、町民は、みんな浪江町といっしょに動いたわけではないんですよ。初日、2日目、1週間もしたら、もうほぼ全国の都道府県に浪江町民がいるという状況になってますから。
 双葉・大熊は、町と町民がある程度、まとまって動いていました。それは、初発の誘導があったのも否めないかもしれないけど。ところが、浪江は、行政本体とともに動いた人間は少なくて、各自が各自の判断で、もうあっという間にバラけてしまった。
 それだけに、「捨てるのか」といったことを言われると、それなりに効くわけですよ。

――その論議は形を変えてずっと続いていますね。

鈴木:未だに、「戻る、戻らない」の論争というのはありますね。
 これは、僕としては、結論は出さなくていい、というか基本的に論じる必要はないと思うんですよ。
 「戻る、戻らない」ということを争点にするから、対立するわけです。これは、もう全く相いれない。どっちかが、どっちかに折り合いをつけるような話にもならないわけだから。戻りたい人は何があっても戻るんですよ。戻らないという人は、何があっても戻らないんですよ。
 だから、町の復興計画でも、「戻る、戻らない」という議論はするべきではない。対立を生むだけで、いつまでたっても結論はでない。だから、その議論をやめましょうというのが僕のスタンスなんです。

――概ね上の立場にいる人が「戻る」という主張をされますね。

鈴木:だいたい声の大きい人が「戻る」で、声になっていないというか、「戻らない」という声はあるけど、取り上げてもらえない。
 それから、県は一所懸命、相当に一所懸命ですね。
 本来、震災以前の基準で考えたら、福島市は全員避難ですから。あそこが避難できなかった理由は、県庁所在地だから。だから誰も避難できなかったんです。
 「福島市が動いたら、福島県はなくなる」というのが、彼らの意識ですから。だから何があっても避難ということは口が裂けても言えないというのが県なんですね。
 だから、福島市内なんかでは、周辺が毎時1マイクロシーベルトあっても、普通に学校が行われているという異様な光景がありましたから。
 県は、そのための理論武装をやってきているわけです。福島市が安全だとか、そこに生活ができるんだということを認めさせるための仕組みをずっと作り続けてきている。で、それ以外のエリアに対して、「福島市が大丈夫なんだから、南相馬なんかぜんぜん平気じゃん、浪江も大丈夫でしょ」という理屈でくるわけですね。


【参考資料】・・・・・・・・・・・・・・・

浪江町が公表している住民の避難状況
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




【Ⅳ】 原発立地地域の中で



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(棚塩集会所から見た棚塩地区の北部。ここに東北電力の原発立地計画があった)


――ところで、放射線や被ばくに関するそういう知識や見方は、いつから持っていたのですか?

鈴木:基本的には、事故の前からです。
 30歳で浪江に戻ってきて、いろんな団体、組織に入って動いていました。
 で、浪江も、原発の立地町村エリアですから、小高・浪江原発のね。それなんか東北電力が着工に向かってかなりプッシュをかけていました。それに隣り町に行けば、双葉、大熊、富岡と東京電力の福島第一、第二原発があるわけです。

◇電力アドバイザー

 そうすると、原子力関連施設を見に行く機会がものすごく多いんですよ。ほとんど全国を見ています。PR活動の一環として、電力会社がやるわけです。あくまでも、いかに安全であるかをアピールするためのものですけど。
 僕は、東北電力の電力アドバイザーをやっていた時期もありました。地域の電力アドバイザーというのがあって、東北電力の情報をもらって、意見交換をする場を年に何回か持って、電力の施設を見学したり、所長さんなんかともいろいろ話ができる立場なんです。
 僕は、原子力についてはかなり懐疑的に見ていたんで、そういう場で、必ず、「原子力発電所は本当に安全だと思ってますか」ということを訊くようにしていたんです。それに対する答えは、ほとんどが「安全だ、安全です」となりますよね。でも、唯一、東海村の原子力発電所のときだけ、「大変、危険なものです」と。日本原電の職員ですけど、相当に上の人だと思いますよ。そういう人が、「こういう形で、こうなって、危険なんだ」と。「だから、その危険に対して、どう対応するかを一所懸命やっているんだ」という論理なんですね。
 ああ、なるほど、この人はまともなことを言っているなと関心した記憶があります。もう20年以上前の話ですけど。


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(東京電力が福島第一原発のモニターを募集したサイト)


◇原子力防災研修

 あと、消防団をずっとやっていました。全国の原子力発電所の立地町村の広域消防署、つまり福島では双葉消防署、それから泊原発のあるところ、浜岡原発のあるところと、全国の広域消防署の職員の原子力防災研修というのが毎年あるんです。
 それに僕が派遣されたんです。そこで、ガイガーカウンターの使い方とか、タイベックを着用して活動するとか、除染のやり方だとか、という講習があるんです。だから、そういう知識は持っていましたね。

◇反原発の学習会と東電の監視

 それから、浪江でも、反原発の勉強会とか、集会とかをやっていて、僕もそこに行っているんですよ。
 発電所の人たちの言ってることだけを聞いていてもしようがない。それと対峙している人たちの意見も聞いて、それを自分なりに咀嚼して、そうやって自分で判断すべきだろうと思って。だから、どっちにも顔を出していたんですよ。そうやって、いろんな話を聞いてはきたんですね。  
 でも、面白いですよ。反原発の集まりの出入り口では、必ずチェックしている人がいますから。東電関係の人たちでしょうね。反原発の集まりに出入りする人間を監視している。必ずいますね。
 第一原発7・8号機増設に関して、環境アセスメント調査の報告会があって、それに行ったときです。東京電力の方が分厚い報告書を出してきて、それなのに2時間で終わるというから、「そもそもどういうことだ」というところから入って、「このページのところのこのデータなんですけど・・・」とかいろいろ訊いていたら、僕の質問に答えていた東電1Fの課長さんが、いきなり「いつも義兄さんにはお世話になっています」っていうんですよ。
 東電の1Fの課長さんなんか、僕は初めて会う相手なんだけど、僕のことを知っているんですね。私の義兄が東電関係の仕事なんだけど、そういう縁者だという情報が入っているんですね。
 しかも、この報告会に出たのも、前もって申し込みをしたわけじゃなくて、ちょっと行ってこようかって入っただけですよ。
 「お世話になっています」というのは、要するに俺に黙れと。質問しないでねという意味だなと僕は取りましたけどね。みんな大人しく聞いているだけで、質問する人もあんまりいないもんでいろいろ訊いてみたんですけどね。もっとも、反対運動をされている方は、公聴会とか、環境アセスの報告会にはいなかったような感じがしますね。


話題にならない原発


――当時、地域の人びとは、原発についてどう受けとめ、反対運動をどう見ていましたか?

鈴木:まず、積極的な推進派というのは、本当に直接の利害関係のある人たちだけですよ。
 で、大半の住民は、賛成・反対のどっちかというよりは、問題視しない。
 ただ、地域の構造として、原発に依存し過ぎちゃっているんですよ、立地町村というのは。行政の財政も そうだし、そこに住んでいる人たちの雇用や収入もそうだし、あらゆる面で。
 だから、そういう人たちは、基本的に反対はしないんですよ。それは積極的に賛成もしないけれども、反対行動は起こさない人たちですね。
 そういった地域の構造に関わりのない、本当にごく一部の人たちが、反対できるポジションにあるわけです。もちろん意識的にいろんな考えを持って、反対行動をされているんでしょうけれども、本当にごく一部の人しか、反対という意思を表示することはできない。もう、環境がそういう環境になっている。ということが一番大きいんだろうと思いますね。
 それは、双葉・大熊だけではなく、浪江でもそう。たぶん相双地区、浜通りで、原発・火発〔下図〕に絡んだ仕事をしていない人の方が少ないですよ。何らかの形で関わっている。それは、6次か、7次かの下請けとか、原発・に関連する業種として。僕ら商売人はそうでもない人も多いのかもしれないけれども、勤め人だったら、ほとんどそういう絡みの人でしょうね。
 だから、話題にもならないです。原発が安全か安全じゃないかということは話題に乗らないぐらいの環境ですよね。
 そういう環境の中で、その反対派の人たちは、集会を開いたり、勉強会を開いたりしているから、余計にそこに出入りする人というのは、異質な感じを受ける、回りから見ると。という構図なんじゃないでしょうかね。
 僕自身について言えば、浪江の原発建設は地権者の反対運動にあって実現してませんけれども、まあ、僕は、積極的な反対派ではなかったですね。それに、1F、2Fはもう物心ついたときにはあったわけですから。なので、それに対してどうこう言うことにもならない。下の世代はまして、そうですからね。
 ただ、7、8号機が増設にならずに、浪江の原発の建設にも至らなかったんで、そう簡単には認められないというのが社会の流れだったんだろうなとは思います。


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(3・11以前、浜通りには原子力発電所が2か所、火力発電所が4か所あった)


目論見は大きく外れる


――では、地元の経済にとって原発の立地はどういう影響を持っていましたか?

鈴木:原発にたいして反対かどうかという話は、いま言ってきたようなことなんですけど、地元の経済にとってどうだったかという点から見たら、話は全然違ってくると思うんですね。
 もともと、立地当時の人たちは、原発を誘致することでいろんな意味で地元に経済効果があるだろうと目論んで、受け入れたわけです。当初の未来図は、原発ができた後で、それ以外の産業がどんどん張り付いてくるだろうというものですね。
 でも、その目論見が見事に外れてしまって、原子力以外に何もないという町になってしまった。
 そこで、電源三法交付金みたいなものができた。「受け入れたんだから」っていうクレームに対して、「お金あげるから、なんとかやって」という構図になってしまったと思うんですよね。
 それでも、双葉町が財政破たんしかかって、で、原子力以外に何もないから、さらに交付金を当て込んで、原発をもう一度増やすしかないということで、7、8号機の増設を求めるというところまで行くわけです。

――結局、電源三法交付金でよかった事はありましたか?

鈴木:ないですね。
 たしかに行政的にいえば、三法交付金だけが命綱でしょう。浪江町はそれがほとんどないから、浜通りの他の町村から比べると、財政的には相当厳しかったはずなんですね。
 双葉とか大熊とかは、新しい建物とかボコボコ立って、公共施設に対するお金の使い方なんかも桁違い。 でも、それが幸せでもなんでもないと思いますよ。そんなものは何の足しにもならないといったら怒られるけど、それで幸せを感じることなんてないんじゃないかなと思いますね。


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(双葉町に掲げられている看板。文言とは裏腹に、双葉町の財政は原発立地による税収や交付金に依存、慢性的な財政危機に陥って09年には早期健全化団体に転落した)


浪江の独自性


――そうすると原発を受け入れなかった浪江町はどういう町だったんでしょうか?

鈴木:浪江は、原発を受け入れていないから、お金も入って来ないけど、その分、独自の考え方で、独自の町づくりをたんたんとやってるということだったと思います。
 だから、商工会の青年組織なんかもしっかりしている。いろんなイベントを自分たちでやったりとか。何をやるにしても、だいたい浪江が発端なんですね。
 で、僕らが協賛金集めに四苦八苦してやっているイベントが、双葉、大熊ではいきなりボンとお金が下りてくるわけですよ。東電の寄付で500万とか。行政から補助金500万とか。それでもうなんでもできちゃう。僕らはもう個人商店を一軒一軒、果てまで全部回って歩いてお金を集めて、ヨサコイとか、請戸の花火とか、お祭りやイベントを企画したりと、ずっとやってきてたんです。
 浪江はそういう意味では、自立した人間が代々脈々といて、自分たちの発想で物事をつくり出していくということに関して、他の町村に負けないと思います。


 
 
【Ⅴ】 国のペースで進む区域再編・賠償



国・東電・県・町村の利害の一致


――ここで、原発事故後の2年間の国や県の政策について伺います。とくにこの間、区域再編や賠償が国のペースで進められています。

鈴木:結局、東電の利害、国の利害、県の利害、そして町村の利害が、みんな一致した方向に向かっているという風に思うわけです。住民を除いてね。
 国としては、基本的に、そんなにお金は使いたくないということがあります。
 東京電力もそうです。東電としては原発も再開したいだろうし、損害賠償の額はなるべく少ない方がいいだろう。で自分たちが被告人席に座りたくないという考えもありますよね。
 だから、国としても、東電としても、「福島は安全である」と国際的に承認してもらわなくてはいけないという思いがあるのでしょう。
 さらに福島県です。福島県としては、県そのものが避難するという選択をするわけにはいかないという事情があるわけです。だから福島県も「安全ですよ」としたいわけです。で、避難基準をどの辺に持っていくかなどで、どちらかというと、県の方から国に頼んでいるという観がありますね。で、県が主体的に動いた結果、国は、これ幸いとばかりに方向性を決めたという風に見えます。
 で、町村の行政はどうか。やはり、「戻る」ということを第一義にしないと自分たちの存在意義がなくなるということは否めないんですね。
 そうしていく中で、結局、開けてみたら、そちら側の人たち全員の利害が一致してしまったわけです。唯一、そこに加われなかったのは住民。そこに住んでいた住民。住民を除外した形で、それ以外の利害が一致して、同じ方向に向かって動き出したという印象がありますよね。それは、もう賠償も、除染も、すべてです。


大きな分岐点


――こういう流れがつくられたポイントはどの辺だったのでしょうか?

鈴木:地方自治体の側が、最初の段階で主張できなかったのが敗因だろうと見ています。
 先ほども言いましたが、行政が、「戻る、戻る」としか言わなかったことですね。僕は、まず、行政は、「戻らない」という方向で動くべきだと訴えていたんですが。
 それは、もちろん、放射線量や健康被害の問題ということがまずあるけど、もうひとつ僕が言いたかったのは戦略の問題ですね。国や東電と交渉して、自分たちの主張や要求を通す上で、「戻らない」と主張することが一番強いカードになるはずだと思っていましたから。
 津波の被害だけだったら、ストレートに復興でいい。でも、われわれは、原子力災害で避難しているんだから、避難の次が必ず問題になる。その準備を始めるべきだと。
 もちろん、被災直後は、災害復旧としてやらなければならないことがたくさんあった。でも、そういう状況でも、町の中に少数のチームをつくって、次のステップのための準備しておかないと出遅れると思っていたんですね。
 3、4月辺り、役場に行って、町長に何度もそういう話をしていたんですよ。そのための手伝いが必要なら俺やるから。
 まあ、そのときの町長にとってみれば、相当、厳しい話だったんだと思いますけど。
 で、そのときは町としては、「それどころじゃないよ」という判断でしたね。

――なるほど、振り返ってみると、その議論はすごく重要な問題提起だった。

鈴木:ものすごく重要な分岐点だったと思うんですよ。
 当時の僕の主張は、町でも受け入れられなかったし、商工会でも理解してもらえなかったし、青年部にも深く理解はしてもらえなかった。
 その後、青年部の人間を捕まえて、その話はしたんですよね。その後、青年部で集まりをやって、「戻らないという選択をすべきではないのか」ということになって、町長の方へ商工会青年部として意見書を出すという流れになったんです。11年夏過ぎか秋に。
 10月ぐらいに商工会長に会ったら、「大久君の言った通りになってきているね」って言われて、だからあのときいったでしょって。で、「じゃあ、どうすればいいんだ」っていう話になるわけね。震災1年目のもう終わりぐらいから、そういう話になっていて、町でも復興ビジョンをつくっているぐらいのときですね。
 最近になって、「戻らない選択をすべきではないか」という流れは、一部にある。行政にも出ていている。でも、ずーと「戻るんだ」と言い続けて来たことがいま仇になって、ここにきて「戻らない」という発想になかなか転換できないでいるというが実情でしょう。


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(浪江町の区域再編にかんする住民説明会。昨年12月)


賠償ではなく補償を


――国は、区域再編と賠償をリンクさせていますね。

鈴木:賠償は帰還が前提になっていますから、基本的には、区域再編を受け入れて、ようやく賠償が始まるという流れですよね。
 国の論法は、「復旧・復興をするにしても、損害賠償の算定をするにしても、警戒区域である限りはできませんよ。だから三区分の区域再編に賛成して下さいね」と。
 まあ法律論としてはそういうことだろうけど、そうは言っても、何回も立ち入りはしているし、自衛隊や警察はガンガン入っていろいろやっているわけです。だからやればできるんだろうけども、国は、法律を盾にできないというわけです。
 本当は、みんな、警戒区域のままで賠償や復旧についてやってほしいと思ってますよ。でも、国は、基本的にお金を使いたくないし、県も、できるだけ住民を戻したい。そういうことで、補償を求める人も、帰還を求める人も、区域再編を受け入れるしかない。そうしないと何も進まないという構図に押し込まれているわけです。

――提示されている賠償の額も、生活再建にはほど遠いという声があります。

鈴木:そうですね。
 でも、賠償の話が出た当初から、大した金額じゃないというのは、本当は分かってなければいけなかったはずなんです。でも話をしていると、どうも、みんな、よく分かんなかった感じですね。「100%賠償します」という言葉だけが先行してしまって、その100%とは何を意味するのか分かっていなかったわけです。
 で、あの計算の方法が出たときに、このくらいだったら、これしか出ないんだよという話をすると、「それじゃあ家が建たないじゃないの」って。

――その計算の方法について、わかりやすくお願いします。

鈴木:避難区域になった土地や建物にたいする賠償ですね。それは、震災当時、減価償却で残っていた資産価値を100として、そこから何パーセント減ったかと。6年間帰れなかったら、「100%賠償します」という意味です。3年で帰ったら6分の3になります。
 基本的にはそれしかないわけですよ。あとは、その残存価値の出し方がいくつかあるというだけです。
 ひとつの計算の方法は、現在の固定資産税の課税評価額から計算するというやり方。
 それから、もうひとつは、同規模の建物をいま造ったらいくらになるかということで計算するというやり方。
 どの方法をとっても、結論は基本的には同じです。いずれにせよ、築年数47年以上の木造は、残存価値ゼロ。ただ、ゼロというわけにもいかないんで、「最低でも20%は補償します」と。新築時の価値の20%は残っているとして、その20%分にたいして、100%になるか、6分の5になるか、6分の3になるか、ということです。
 だから、よっぽど新しい建物でもない限り価値がないわけです。


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(事故発生前の価値を100として、「6年で100%賠償」とする財物賠償の仕組みを説明する図)


――どう考えても生活再建ができない仕組みではないですか?

鈴木:そう、何の落ち度もなくて、国が逃げろと言ったから逃げて、逃げている間にダメになった建物なのに。それって誰が責任をとってくれるんだという話のはずなんですよ。
 それは、損害賠償法による、減額した価値に対しての損害の賠償という制度を採用しているところに問題があるんですね。その損賠の制度でやる限り、われわれが求めているところの、「逃げろと言われて逃げたんだから、逃げた先にもう一軒家を建てなきゃなんないでしょ。だから、それにかかるだけの補償をしてくれよ」という議論とかみ合わないですよ。

――車が家に突っ込んで復旧するというのと全く性格が違いますね。

鈴木:そう、全然違う。にもかかわらず、国が指針を出すときに、損害賠償法という法律を使った。ここが一番大きな問題。今回の補償に関する一番大きな問題は、そこで損害賠償法を元にしていることだと思っているんですね。
 だから、「時効は3年だ」という話がちらほら出てくるわけです。「時効はないです」と東電は言ってはいるけど、法律としての時効は3年。だから、法律で押されたら、それにたいしてクレームをつけても絶対に負けるんですよ。

――つまり議論の枠組みからおかしいと。

鈴木:そう、その枠組み自身がおかしい。われわれが受けた被害は、損害賠償法で解決するようなものではないということです。そこを、ちゃんと国に言わなくちゃいけない。それこそ地方行政がやるべきだろうと思っているんです。
 賠償じゃなくて、あくまでも補償なんだと。補償という言葉を使わないと、決して、生活を再建できるような金額にならないんです。
 それを認めさせるには、「戻る」と言ってちゃだめなんですよ。「戻る、戻らない」の議論をしていちゃだめ。「あなた、戻ろうとしてるんでしょ。だったらそこにモノはある。傷んでいるけど。傷んだ分は賠償しますから。で戻れますよね」と言われてお終いなんです。
 もっと早い段階から騒いでいれば、流れは違ったかもしれない。住民も、自治体も、県も、町も、国に対して、「なんてことをしてくれたんだ。もう住めないじゃないか」という話を前面に出していれば、違った結果になったのかもしれないですけどね。

――賠償をめぐって批判が出されていますが、枠組みそのものを問う議論になかなかなっていないようです。

鈴木:いまの枠組みでは、期待している賠償は得られないとは誰しも思っているでしょう。
ただ、あくまでも、その枠組みの中で、もうちょっと何とか額を挙げるような算段をしようと思っているの か、あるいは、枠組みそのものを変えなくちゃいけないと思っているのか。そこは、何とも言えない。で、法律家のような人たちは、やっぱり法律に則ってるんで、損害賠償法を使うとなったら、その枠組みの中で、という風になるしかないということじゃないでしょうか。




【Ⅵ】 復興の環は仕事とアイデンティティ


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(県内各所の仮設住宅で作られている飾り物や手芸品。活動の活発さが窺える)


――先ほど「戻る、戻らない」を超えて、というお話がありましたが、では、鈴木さんが、浪江町の復興計画に携わる中で考えている方向性はどういうものですか?

鈴木:まず、第一義的には、町に戻らないで生活が確立できるようにするということです。
 そのために必要なハードとしては、「町外コミュニティ」とか、「仮の町」というものです。それをどう整備していくかというのがまず必要です。
 そして、その前提として、町外コミュニティで暮らすために、そこでどうやって収入を得るのかということです。仕事をどうするのかということです。仕事をどうするかを基軸にして、生活の場について議論すべきだろうと思っているんです。仕事が確立しないことには、戻ってどうするという議論も進まないでしょう。


仕事の確立と分散型の町外コミュニティ


――たしかに仕事の問題がカギですね。

鈴木:そうなんですね。ところが、復興計画策定委員会の中の議論は、なかなか、そうならなかったんですね。
 町外コミュニティの部会と生活再建の部会があり、僕は産業再生の部会に入りましたが、生活再建の部会では、賠償の話しかしないわけですよ。
 それから、町外コミュニティの部会では、広大なニュータウンをつくろうみたいな議論と、それに対して、それぞれの避難先に分かれるけど、そこである程度まとまって何カ所かに仮の町をつくった方がいいじゃないかという議論がされて、結論的には後者が選択された。それは、前者があまりにも非現実的だから。
 ところが、どの議論でも、住む場所のことしか議論されなかった。そうすると避難している先では商売を再開できないとか、基本的には、これまで、浪江、双葉、大熊、小高ぐらいを商圏にしていたわけだけど、それがもう完全に崩壊してしまっているとか。だから、まとまったところをつくってもらわないと商売はできないと。結局、町外コミュニティがどんな形でできあがるのかという議論が重要視される。
 農林水産業に関しては、地場に戻らないと話にならないんで、打つ手なしと。結局、産業を復興させるための計画ができあがらないで議論が終わってしまったんです。

――そうすると具体的にはどういうことが必要でしょうか?

鈴木: 町外コミュニティというのは、浪江にあったコミュニティをそのまま移動させて、まとまって再構築させようという考え方ですね。それはそれでありかもしれないと思うんですが。でも、僕は、もうひとつ、離散してもよしとしないといけないんだろうなと思っているんです。
 というのは、それぞれが自分の生活を成り立たせる条件は、みんな違うわけです。だから、「町外コミュニティをつくったから、どうぞ来てください」と言われて、そこに移って生活が成り立つ人もいるだろうけど、そうでない人もいる。
 そこでは生活が成り立たない人は、自分の求める条件に合致する場所に行っていいわけです。また、いま避難している先でそれなりに生活できるのであれば、そこに留まればいい。しかし、パートとか、非正規の仕事にしか就けていない人も多いわけです。
 そこで、そういう人たちには、自分の思うところで、思う職業に就つけるように支援をする必要があるわけです。
 そういう意味で、仕事の確立ということを中心に考えたら、離散した形もありなんだということを言いたいわけです。


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(浪江町の小・中学生を中心にしたご当地アイドル「NYTS」=ナイツ。浪江町のB級グルメ「太っちょ焼そば」をPRするために結成。映画化の話も進んでいるという/なみえ3.11復興のつどい)


アイデンティティの確立


鈴木:もうひとつは、町外コミュニティがどういう形になるにせよ、その前提として、アイデンティティが大事だと思うんです。まずは、「浪江町で育ったんだ」とか、「浪江町民なんだ」、「浪江はこういうところだったんだ」「そこが故郷なんだ」というアイデンティティを確立すべきだということです。
 そういう共通の意識をもって各地に分散するのと、アイデンティティを忘れ去ってしまってバラバラになってしまうのでは、全く意味が違うと思うんですよ。
 つまり、アイデンティティを確立する事業。「浪江という故郷はこういうところなんだ」という記録を残すことです。その記録を見れば記憶が呼び覚まされ、思い出されてくる。そういうことを事業として確立させるべきだろうということです。
 町に付いて行くもよし、都合のいいところに移住するもよし、だけど、「われわれは浪江に育ったんだということを忘れるなよ」という一点でつながる。それをもってそれぞれの場で、それぞれの生活を確保していくということです。
 大変な挑戦ですよ。でも、相馬藩というのは、もともと移民の町なんです。北陸から一向宗の門徒たちが入ってきた歴史がありますから。

――鈴木さんらが始めた「FOR LIFE FORUM 浪江」〔※〕の活動はそこをやろうとしているのですね。

鈴木:そういうことですね。僕らの仲間で議論した中で生まれてきたことが、そういうことなんです。
 いま浪江町民は、いろんな形で活動をしています。例えば、浪江町の商店会が中心になった「まちづくりNPO新町なみえ」とか、B‐1グランプリで有名な「浪江焼麺太国(やきそばたいこく)」とか、それぞれ自分たちの考え方で活動しているし、外部からの話ですけど、「なみえ復興大学」という構想もひとつの形をつくって行こうとしています。
 そういった中で、僕たちが担うべきところはなんだろうか、というような話をしてきました。

〔※原発事故により避難を余儀なくされた浪江町民と浪江出身者が、問題意識の共有をもとに結成されたソーシャル・ネットワーク・プロジェクト〕

◇アーカイブス

 そこで、やっぱり記録だよねということで、「浪江町のアーカイブス」をつくるということが出てきたんです。
 アーカイブスをつくろうと発想はいろんなところでやっていますね。例えばネット上で東日本大震災のアーカイブスを写真とか動画とかで。それはそれでいいんだけども、浪江町のことはここに来ればすべてがあるというものを構築していきたいと。
 みんな、同じようなことを考えているけど、それぞれが自分のところで囲い込むんじゃなくて、全部オープンに一か所にまとめて、誰でも利用できるような形のものをつくっていきたい。そういうのがまず一つなんですね。
 まだ、暗中模索ですけれども、アーカイブについては、いまちょうど、失われた町を模型で復元してもらって展示をしています。これも一つの形だと思います。


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(仮設住宅で取り組まれているフラダンス。繋がりを保つ役割を果たしている/なみえ3.11復興のつどい)


◇県外移住者への支援

 それから、浪江には戻らないという移住者にたいしてできることはないだろうか、ということを、個人的には主眼に置きたいと思っています。戻る人には、支援はいくらでもあります。行政が喜んでやるでしょうし、国もそれにたいしていろいろなことをやるでしょう。
 でも、「戻らない」、あるいは「県外に出ていく」という人に何の支援もない。あまりにもなさ過ぎる。
 まず、そういう人への支援があまりにもなさ過ぎることを、多くの人に知ってもらわないといけない。さらに、その人たちが仕事と生活を確立するために必要なことを何かということですね。だから、定住して生活がちゃんとできるというところまで追っかけて、見届けていく必要があるでしょうね。僕が一番やりたいのはそこなんです。一番難しいところなんですけど。

◇つながる・つなげる

 それから、僕らの「FOR LIFE FORUM 浪江」は、そういういろいろなことを取り組んでいる組織や団体と繋がって、いま何をやっているかという情報を得て、それをつないで、オープンにしていく。そうすることでみんなで考えてもらう。そういう場が必要なんではないかと思っているんです。
 たとえば、浪江町の復興計画は、僕も参加して作ったわけですけど、その後、その具体化については、全然、表に出てこない。役場に訊くと「いま詳細の計画を立てていますから」って。何で詳細の計画をクローズドでやるんだろう。何でオープンにしないんだろうということですね。  
 行政に限らず、どこも自分のところで情報を囲ってしまって表に出さない。ある程度、形になってはじめて、結果だけが出て来るという感じ。住民にとってプロセスが大事なのに、そのプロセスが見えない。
 だから、そういういろいろな動き、取り組みを集約して、オープンにできる場所をつくりたい。僕らの「FOR LIFE FORUM 浪江」を、そういうポジションに持っていけないだろうかと思っているんです。
 様々な意見も受け入れながら、みんなに知らせて、オープンにして行く。その中でみんなで方向性を見つけられるようになるのが一番いいんじゃないか。だから緩やかで縛りのないつながり。強制力とか抑え込まれないような組織。組織化して形にして、その形に当てはめていくという発想では、どこもいっしょになるでしょう。
 そういう穏やかなつながりということを行政がやれるのであれば、それでいいんです。でも、いまの行政にはできないでしょう。だから民間でやるしかないですね。
 行政と対峙するというのではなく、手を携えられるところは、いっしょになってやっていきましょうと。また、対極の意見の人たちとも、携えられるところは携えて行きましょうと。われわれは、その真ん中に立って、両方を見ながら、みんなで方向性を見出していく。
 民主主義の再生というか、民主主義というのは一度も生まれたことはなかったんですね。今の政治、組織的な政治には、無力感を感じていますね。政党や行政による組織の政治ではなく、住民自身による政治をということです。そういう民主主義をつくっていくようなプロセスの一つなのかなと。そのスタートラインだと思っているんです。



【参考資料】・・・・・・・・・・・・・・

浪江町住民意向調査の結果
 復興庁、福島県、浪江町が合同で、今年1月に行った15歳以上の意向調査の結果(一部抜粋) 
     (回収数11,298人 回収率61.7%)


★避難指示解除後の帰還意向
解除後すぐに浪江町に帰りたい 2.3%
条件が整えば浪江町に帰りたい 4.2%
自宅に帰れるのであれば、解除後すぐに帰りたい 2.6%
自宅に帰れるのであれば、条件が整いさえすれば帰りたい 13.2%
しばらくは二地域居住を考えている 16.9%
まだ判断がつかない 29.4%
浪江町には戻らないと決めている 27.6%
無回答 3.8%
 
★浪江町に戻らない理由(戻らないと決めている者=3,115人)
放射線量に対する不安があるから  75.3%
原発の安全性に不安があるから  66.5%
家が汚損、劣化し、住める状況ではないから  63.8%
医療環境に不安があるから  54.8%
生活に必要な商業施設などが元に戻りそうにないから  52.1%
浪江町に戻っても仕事がなさそうだから  35.6%
他の住民が戻りそうにないから  35.5%
町外への移動交通が不便だから  33.8%
介護・福祉サービスに不安があるから  30.8%
浪江町内での教育環境に不安があるから  23.6%
今の環境で子どもの教育を継続させたいから  19.5%
農林畜産、漁業を営むことができなさそうだから  7.5%
その他  12.1%
無回答  2.3%


復興庁と浪江町で作成した復旧の工程表(福島民報によるまとめ)
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(了)





テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2013/04/12(金) 15:00:00|
  2. 浪江町
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区域再編後の浪江



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(請戸小学校から請戸の町があった方向を見る)


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(請戸小学校の正面玄関にある大きな地図)


 全町が避難区域となった浪江町。
 その浪江町で、4月1日、避難区域の再編が行われた。

 下図のように、概ね常磐線より海側が避難解除準備区域、常磐線と山麓線(県道いわき浪江線)の間が居住制限区域、そして山麓線より西側は帰還困難区域に再編された。
 面積では町の8割が帰還困難区域、人口では町民2万人の約8割が居住制限区域および避難解除準備区域になる。


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 解除後の浪江町を走った。




6号線から幾世橋へ



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 南相馬市から6号線を南下、請戸(うけど)川をわたると信号のある交差点に出る。
 ここで左に行くと請戸方面、右に行くと114号線で浪江の中心市街地から帰還困難区域の室原(むろはら)。
 まず、左折して請戸方面に向かった。
 交差点の東西にバリケードがあり、町が手配した警備員がいる。


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 幾世橋(きよはし)に入るとすぐに倒壊した家屋が目に入る。

 看板を見つけた。ひとつは、「浪江小高原発準備本部」。


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 こ先にある棚塩(たなしお)地区で、東北電力が原発立地を計画していた。
 
 もう一つの看板は、住民が出したもの。


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 憤りが替え歌に込められている。




原発立地計画のあった棚塩



 幾世橋の住宅街を抜けると、開けた視界に一戸だけぽつんと。
 

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 ここは棚塩地区。広く豊かな水田地帯だった。しかし北の小高いところを除いて、ほとんど津波に流れてしまった。

 棚塩集会所の前に壊れた碑があった。碑文は佐藤雄平知事によるもの。
 

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 読んでみると、明治期には大凶作があり、その救済事業として農業基盤整備が行われたこと、また、戦後は食料の増産や機械化に応じて圃場の整備が進められたことなどが記されている。
 が、後段になると、原発立地の話になり、その見返りとして、県道整備や保養施設建設が行われたという話になっている。
 
 1968年、当時の木村守江(もりえ)知事が東北電力浪江小高原発建設の構想を発表。
 しかし、棚塩の農民たちは、戦前戦後の労苦を経て豊かな農地をつくってきた誇り高い人びと。彼らは反対同盟をつくり、様々な切り崩し工作を受けながら、ついに原発建設を許さなかった。

 原発の建設は許さなかったのだが、津波によって壊滅的な被害を受けた。さらに助かった者も原発事故によって避難を余儀なくされた。
 
 碑は、津波の衝撃で、奇しくも原発立地の話のところで割れてしまっていた。

 なお、東北電力は、今年の3月28日、浪江・小高原発新設計画の取りやめを正式に発表した。




漁師町だった請戸



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 請戸川では、鮭狩りが盛んだった。
 少し上流にヤナ場があり、東北随一の漁獲高を誇っていた。

 橋を越えて請戸の町があったはずのところに入ると、船が。


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 漁港から押し流れた漁船だ。
 港にはほとんど残っていない。


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 請戸の歴史は古く、小型船の漁港としては福島県内で有数の規模だった。


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 港から南を眺めると、第一原発の排気塔や作業のクレーンが。
 ここは第一原発から約6キロだ。


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 家が軒を連ね、活気のある漁師町だったことだろう。
 今は土台を残すだけ。
 主のいない家で、水仙が花を咲かせていた。


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 供養塔が建てられている。
 浪江町で津波による死者は184人、その大半が請戸地区だ。


 
 
奇跡的に犠牲のなかった請戸小



 沿岸から500メートルの請戸小学校。


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 正面玄関から入ると、下駄箱があり、大きな地図や絵が迎えてくれる。
 が、ひっそりとしている。


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 1階の教室はどこもこの惨状だ。


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 給食室に入ると、大きな鍋が。
 しっかりと固定されているために流されていないが、その分、蓋が激しく歪んでいた。
 そして壁には、3月11日の給食の数が。


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 3月11日は卒業式だった。
 体育館の床が水圧で陥没している。
 時計が、津波で電源の落ちた時刻を指していた。


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 2階には津波の被害は及んでいなかった。
 黒板から児童たちの学校生活がしのばれる。

 津波が学校を襲ったのは、地震から約40分後。
 生徒と職員はその前に避難し、奇跡的に全員が無事だった。
 校舎を最後に出た教頭先生は、押し寄せる津波に追いかけながら逃げたという。
   



両竹地区に小さな鯉のぼり



 浪江町の南端まで行ってみた。
 ここは両竹(もろたけ)地区。


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 ここから先は帰還困難区域。少し先が双葉町との境だ。
 もっともこの地点の空間線量率は、手持ちの線量計で毎時0.30マイクロシーベルト前後。
 原町、小高と同じように沿岸部は比較的低線量だ。
 

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 女性が鯉のぼりを見つめてたたずんでいた。

 
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 土台だけ残った自宅。藤崎さんは、ここで娘さんとお孫さんを亡くしている。
 お孫さんは当時4歳。生きていれば今年が小学校の入学。そこで供養のため、鯉のぼりを立て、ランドセルを買ってあげたのだという。

 この近所だけでも10人が亡くなった。そこら中に遺体がごろごろしていた。それでも消防団が30人ぐらいは助け出していた。
 が、原発が危なくなったと避難指示が出て、救助活動も中止に。ガレキの中でまだ声がしているし、助けられる。なのに見捨てなければならなかった。
 そういう話をしてくれた。

 藤崎さんの家は、津波で流された上に避難区域となって入れなかった。東電賠償の対象にもなっていない。今は南相馬市で借り上げ住宅に暮らしているが、ここにはもう戻らないという。


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 浜風に吹かれて、鯉のぼりが元気よく泳いでいた。




114号線を西へ




 浜を離れて、114号線に入り、西に向かった。


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 市街地を通り過ぎて進むと、室原地区の手前でゲートにぶつかる。


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 ここから先は許可証がないと入れない。


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 帰還困難区域のすぐ手前の家に戻っている人がいた。
 この家は居住制限区域、隣りは帰還困難区域。なんとも不条理な区分だ。
 なお、この地点の空間線量率は、毎時0.40マイクロシーベルト。

 建設業を営む赤間さんは、ここに自宅と事務所がある。
 この日、電気が復旧する。井戸なので汲み上げるのに電気が戻れば水も使えるという。

 赤間さんは、事故後、郡山に避難。しかし、ここでの事業再開のために戻ってきた。東電の計算方式による賠償額では、自宅と事務所を他の場所で再建することができないからだ。子どもも独立しているので、ここで事業再開を目指したいと考えている。ただ、従業員がそろわないので、なかなか目途が立たないという。



 
線量の高い市街地



 114号線を戻り、浪江町の中心市街地へ入った。


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 商店街の中心をなしていた新町通り。


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 ところどころに倒壊した家屋が。
 昨日まで営業していたかのような店も。


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 役場機能は二本松市にあるが、区域再編とともに職員が一部戻っている。
 独身者が中心、新入の若い職員もいるという。
 

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 向こうに見えるのは浪江駅の駅舎。
 線路が草のつるに取られている。


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 運休を知らせる掲示がそのまま。
 乗り捨てられた自転車もそのまま。


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 駅のホーム付近の草地で空間線量率を測ってみた。
 表示は、毎時3.16マイクロシーベルト。地上1メートルでだ。
 アスファルト上でも毎時0.50から1.00マイクロシーベルト。
 想像よりも高い。
 ここは避難指示解除準備区域。その基準は年間20ミリシーベルト以下。なので、こういう数字が出ていても解除に向かおうとしている。

 が、果たして、この環境で生活すると、どういう影響があるのか。また、これから除染をするというが、この市街地をどう除染するのか。それが町の再建につながるのか、あるいは、住民の生活の再建になるのか。
 簡単には答えの出ない問題が山積みである。

 

(了)

 

テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2013/04/06(土) 16:45:24|
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