福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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原発が大熊・双葉に来たとき  ~証言・半世紀前の真実


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 中間貯蔵施設予定地の地権者である双葉町の池田耕一さん(84)。前回(3/14掲載)のインタビューでは、国の中間貯蔵施設の進め方に対して、「納得がいかない」という池田さんの気持ちを語っていただいた。今回は、時を大きく遡って、原発の立地が大熊町、双葉町に決まっていった当時、池田さんが実際に見聞きしたことをお話していただいた。

 事故を起こした福島第一原発の立地が大熊町、双葉町に決まっていく経緯は今日でも不透明な部分が多い。記録に残る限りで最初に立地に関して言及したのは1957年1月、木村守江参議院議員(当時)が双葉町の後援会で行った「この土地を全部利用するには原子力発電所きりない」(*1)という演説だろう。その後、佐藤善一郎知事(当時)が「三十三年(1958)当初から、ひそかに企画開発部に命じて、立地の適否について検討をさせ」(*2)、福島県庁を中心に極秘裡に進められた。その後、公式の動きとなるのは1960年5月、福島県が「大熊・双葉地点が最適である」と確認するところからであり、1961年6月、東京電力が同地点の土地取得を決定し、1964年7月には、福島県開発公社が地権者から用地取得の承諾を取り付けるという流れで運んでいる。「設置は比較的円滑に行われた」(*3)というのが公式の認識になっている。
 しかしその進め方は実際のところどうだったのだろうか。
 代々農業を営んでいた池田さんの家は原発予定地ではなかったが、その予定地の隣の行政区に位置し、池田さんは当時、行政区で開かれた「部落説明会」(*4)に参加している。
池田さんは、約50年前のことだが、東京電力などが行なった説明の中身を今も覚えている。福島県と東京電力は、住民の知識や情報の不足、出稼ぎなどの労苦に付け込み、原子力という問題についての説明を極力あいまいにした上で、「発電所の寿命は20年。その後は一大観光地にする」という話をしたというのだ。
 それから半世紀。大熊町、双葉町は「一大観光地」どころか、一帯が放射能で汚染され、すべての住民が先の見えない避難生活を余儀なくされている。半世紀後のこの苛酷な現実と、半世紀前、バラ色の未来を描いて見せた説明会。未来を考えるためにも、半世紀前の事実を検証し教訓にする必要があるだろう。

*1 木村守江 『続・突進半生記』 1984年 
*2 佐藤善一郎伝記刊行会 『水は流れる 佐藤善一郎』 1983年 下線は引用者
*3 日本原子力産業会議 『原子力発電所と地域社会』 1971年
*4 『双葉町史』(双葉町1995年)、『原子力行政のあらまし』(福島県2010年)には地権者に対する説明会の記録はあるが、地権者以外の説明会の記録はない。お話しから1964年の用地買収と前後する時期に、双葉町郡山行政区の住民を対象に、福島県や東京電力が出席して行われた説明会と思われる。




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(原発はこのような断崖を削ってつくられた。大熊町夫沢付近)


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◇「出稼ぎがなくなる。町が潤う」


――原子力発電所の立地が決まっていった当時のお話を伺います。

池田:もう、50年も前のことだけどね。部落説明会があったんだ。こういうのは親父が出るはずなんだけど、ちょうど親戚のご法事があってね、親父はそっちに行くってことで、説明会の方は私が代わりに行くってことになった。「どんな会社が来るのか、池田家を代表して、よーく話を聞いてきてくれ」と親父に言われて。
 当時、「どんな会社が来るのか」という感じで、原子力発電所なんてことは誰もわかってなかったね。
 説明会に出ているのはだいだい父親らの世代で、私なんか一番若いんで、後ろの方の席で黙って聞いていた。県会議員の人とか、会社の人たちが前の方に座ってたね。
 とにかく「大きな会社が来る」という話になっていた。原子力発電所とかいう話とは大分違うよ。で、「会社が来て、周辺の町村が潤って、生活も豊かになる」と。
 その頃は、みんな出稼ぎをしてたからね、どこの家でも。大事な息子が静岡まで行ったとか、トンネル工事の落盤で死んだとか、いろいろあったね。
 だから、「出稼ぎをしなくて済むし、町が潤うんだから、協力して下さい」って説明されれば、それりゃ、みんな協力するよね。そんなにいい話ならね。


◇「発電所の寿命は20年。その後は一大観光地に」


――説明会の場では、原子力発電所についての説明はなかったのですか?

池田:全然出ていないね。「発電所」とは言ってたと思うけど。まあ、もっとも、あのとき原子力発電所と言われたとしても、どういう危険があるかなんてことは分からなかったと思うんだけどね。原子力そのものが分かんないから。
 だから水力とか、火力とか、そういう発電所なのかなあと思ってたね。
でも、会社側がこういうことは言ってたよ。「もし何か失敗した場合には、避難道を放射状に、扇の骨のように作るから、安心して下さい」と。それで私はね、あら、会社の方で、「事故が起きたときは逃げて下さい」と言ってるんだから、これは危険なものなのかなってことは考えたよ。だって、危険でないものに避難路はいらないわけだから。
 だけど説明の中で、原子力の原子という言葉はあまりはっきりしてなかったね。そこをはっきり言っていたら反対という人が出て来るもの。広島・長崎に原子爆弾が投下されて、何十万人もの人が死んでいるんだから、それはだめだってことなるよ。だから、あのときはなんかこうオブラートに包んだような感じで、原子という言葉は表現しなかったと思うんだな。
 それから、会社はこういうことも言ってたんだ。「発電所は寿命が20年間」だと。そう、20年って言ったね。それで20年したら、「全部取っ払って更地に戻して、今度は遊園地にする」と。「大きな池をつくって、金魚を泳がしたり、お花畑にしたり、一大観光地にするんだ」と。こういうことを言ったんだよ。これはこの耳で聞いているからね。

――原子力発電だということが分かってくるのはいつ頃になるんですか?

池田:それはかなり後だね。工事に着工(1967年)してからだね。
 情報の早い人と遅い人がいるからね。当時、私は、黙々と農業をやっていて、あんまり出歩かないから情報は遅いんだよ。だから、私の記憶では、原子力発電所らしいということは、地層調査が終わって、工事が始まって大型重機などが入ってきてからだね。
 だから、もう反対とかという話にもならなかったわけよ。もう、どんどん工事が進んでいるんだから。


◇原発で働いて


――すると原発が危険なものだと思うようになったのは?

池田:原発で働くようになってからだね。
 第一原発ができてから、来てくれって言われて、原発の警備の仕事をすることになったんだな。正門で一人ひとりIDカードを提示させて、ヨシってやるやつだ。それから、テレビモニターが6、7台並んでいる部屋でずっとにらんでいるとか。イギリスの船で核燃料が搬入されたときの警備もあったな。夜中に男がフェンスをよじ登ってきたということもあった。これは魚釣りをしたかっただけだったんだけど。それから、「ダイナマイトをしかけた」という電話が入ったっていう騒動もあったな。
 そういう中でも、危険区域から出てくる作業員の管理だね、神経を尖らせるのは。責任があるから、もう一所懸命やったよ。
 建屋の中に入った作業員が出て来たら計量器に乗ってもらう。足の形が書いてあるところに乗ってもらって、足に放射能がついていたら、ランプがピカピカ、ブザーもビービー。手の方も同じ。何もないときは、ランプつかないからハイ、ヨシって感じだけれど。建屋の中に入った作業員は、一発で出た人はほとんどいないね。どっかに放射能をつけて出て来る。で、ランプがついたら、そこに大きな流し台があって、工業用石鹸みたいなので、ガーって洗うわけ。早く帰りたいから、もう夢中になって。で、放射能がついていればまたビー、ハイもう一度って。ブザーがなるときは5回でも6回でも。上からの命令だからね。
 こういう感じで12、13年やってたよ。なかなか農業だけでは食べられないからね。

――そうすると、当初、原子力についてしっかり説明をされないまま建設されて、その後、実際に原発の現場を経験してどう感じましたか?

池田:工業用石鹸みたいなので、作業員に手足を洗らわせて、厳重にチェックするということをやっているうちに、これは恐ろしいもんだなと。
 というのはね、そういう作業に入った人が、病気になったりして亡くなっているんだよ。うちの親戚でも、末家(ばっけ)の旦那が死んでるからね。原発で稼ごうってことでいろいろ資格を取って、危険区域に入って作業をやって、いい金取って他所さんの田圃も買って、地盛りして家を新築したんだ。10年以上勤めたかな。でもある時もう見る見る弱っちゃって、私よりはるかに若いのに、コロッと死んじゃった。病気は白血病。
 もちろん、東電側では放射能で死んだなんてことは言わないよ。そんなの一人もいないということだから。絶対安全という安全神話がもう頭の中に叩き込まれているからね。われわれもそういう教育を受けているから。だから、作業員が死んでも、「放射能とは全然違うんですよ」とか、「持病ですよ」って、「放射能とは全然関係ないから」ということになるんだけど。
 でも、白血病で死んでいる方は他にもいるよ。細谷のHさんというのがいて、この家の大事な旦那さんもやっぱり白血病で。普通、回りにそうそう白血病なんてないよね。
 もちろん、私らもね、「放射能で死んだんだ」なんてことは一言も言ってないよ。医者じゃないし、東電がやっぱり怖いし。ただ聞かれれば「あの人は原発で働いていた」と。それから、「白血病で死んだ」と。これは言えるよね、事実だから。
 親戚とか回りで、原発に行って稼いで、だけど白血病になって死んでしまうというのを見ていると、これは怖いなとようやく分かってきたんだ。安全というのも神話なんだなって。
 でもそういうことが分かってきたときは、もうどうしようもなかったんだよね。だって町全体が原発に組み込まれてしまったようなもんだから。

――改めて、原発の立地が決まったころのことを振り返るとどんなお気持ちですか?
 
池田:あのときね、「20年で寿命だ。その後は遊園地だ」って言ってたけど、その後40年まで延ばして、挙句の果てにこの様でしょ。遊園地どころの話じゃないでしょ。そういう説明をした人たちはどういうつもりだったんだい。みんなもう生きてないだろうけど。
 だから、今の「中間貯蔵施設」の問題だって同じだよ。「30年以内」なんて話は全く信用できないよ。
 たまたまね、父親の代りに部落説明会に出ることになったけど、そこに参加していた親父の世代の人たちはみんな亡くなっている。50年前だからね。この話はもう誰も語れないわな。だから、言っておかないと思ってね。


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(事故後、最初の一時帰宅。2011年7月)


◇原子力を受け入れたのか


 池田さんのお話を受けて、原発の立地が大熊町、双葉町に決まった当時の状況について、少し振り返ってみたい。
 というのは、福島原発事故の被害について東京などで話題になると、「そうは言っても福島の人は原発を受け入れたんでしょう」という反応によく出会うからだ。また福島県内でも、「大熊町、双葉町の人らはお金をもらって原発を受け入れたから」という声も少なくない。
 たしかに、反対を押し切って土地が取り上げられたというわけではない。反対運動もなく、土地の買収も円滑に進んだとされている。
 しかし、少なくとも、池田さんのお話しからわかることは大熊町、双葉町の住民が、福島県や東京電力から、原子力発電ということについて正面から提起され、それに納得して賛同したというわけでは全くなかったということだ。
 原子力発電がどういうものかという知識を住民はほとんど持っていなかった。当時は茨城県東海原発が1960年1月に着工したところで、全国民の大半が、原子力発電に関する知識を持ちようがなかった。
 そういう住民に対して福島県と東京電力が行った説明は、「オブラートに包んだような感じ」「原子という言葉は表現しなかった」「私の記憶では、原子力発電所らしいということは、地層調査が終わって、工事が始まって大型重機などが入ってきてから」というのだ。
 もちろん、福島県や東京電力がその説明の中で、原子力発電について触れなかったということはないだろう。しかし用地交渉に当たった県職員の報告(*1)によれば、広島・長崎の原爆の記憶と原子力発電とが結びつくことに神経をとがらせつつ、「石炭、石油を燃やすと同じように、核分裂によって発生するエネルギーを水に加えて、あとは、火力発電所と同じであるという説明を行った」とある。
 原子力ということが、参加した住民の印象に極力残らないようにして、まさに「オブラートに包んだような感じ」で飲ませてしまうというやり方したということだ。
 そして、そのオブラートというのが、「出稼ぎをしなくて済む」「町が潤う」「遊園地」「一大観光地」という甘言だった。

*1 横須賀正雄 「東電・福島原子力発電所の用地交渉報告」(『用地補償実務例(Ⅰ)』1967年)


<死者720人超、放射線障害5000人>の試算


 では、原子力発電の危険性について、国、福島県、東京電力は、当時、どういう認識だったのだろうか。少なくとも、国、福島県、東京電力などの中枢レベルでは、原子力発電の危険性について相当厳しい認識を持っていた。
 原子力発電を日本に導入するに当たって、原発事故が起こった場合の損害賠償に関する法律を制定する必要があった。その前提として、原発事故の被害がどれくらいなるのかという試算を行っていた。科学技術庁が日本原子力産業会議に委託して行った「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆被害に関する試算」(1960年4月、以下「試算」)(*2)。その試算は、いつかの条件や仮定によって幅はあるが、最悪の場合、<死者720人超、放射線障害5000人、永久立ち退き10万人、被害総額は最高で3兆7千億円>に至るという衝撃的なものだった。
 国は、原発推進のためにこの試算を機密扱いにし、40年後の1999年に公表されるまで、国は試算を行ったことすら否定し続けた。と同時に、原子力損害賠償の仕組みの構築や立地地域の選定などの前提にこの試算があった。
 1964年4月に原子力委員会が策定した「原子炉立地審査指針」(*3)はそのことをはっきりと示している。「原子炉は、どこに設置されるにしても、事故を起さないように設計、建設、運転及び保守を行わなければならないことは当然のことであるが、なお万一の事故に備え、公衆の安全を確保するためには、原則的に次のような立地条件が必要である」と述べた上で、「原子炉は、その安全防護施設との関連において十分に公衆から離れていること」「原子炉の周辺は、原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること」「原子炉からある距離の範囲内であって、非居住区域の外側の地帯は、低人口地帯であること」としている。
 つまり、試算のような重大事故を前提とし、それが最大の懸案だという認識なのだ。そして、そういう事故が東京のような大都市部で起こったら大変だから、僻地・過疎地に持っていけという考え方を提示した。そういう基準で、大熊町、双葉町が選定された。京浜工業地帯を中心とした高度経済成長を支えるための電力だが、重大事故による犠牲は、大熊町、双葉町の住民に押しつけるという判断がなされたということだ。
 しかしこういう判断だということを国、福島県、東京電力も言えるはずもない。そこで当該の住民に対して行われた説明は、「出稼ぎをしなくて済むし、町が潤うんだから、協力して下さい」。「発電所は寿命が20年間」「その後は撤去して遊園地に」「一大観光地にする」。こういう詐欺にも等しい行為が、立地の出発点において行われていたということをわれわれは確認しておく必要があるだろう。

*2 今中哲二 「原発事故による放射能災害」参照
    http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/genpatu/gunshuku9905.html
*3 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19640527001/t19640527001.html


◇「出稼ぎをしなくて済む」


 さて、いまひとつ見ておきたいのは、「出稼ぎをしなくて済む」という言葉の持っている意味だ。
 出稼ぎの問題は、原発立地当時の問題に触れたとき住民から異口同音に語られる。実際、それは当時の大きな社会問題であり、切実な問題だったからだ。
出稼ぎとは、主に東北や九州の農村から、農閑期に数カ月にわたって東京などに出て、土木建設現場で働くこと。戦前からかなりあったが、戦後は高度経済成長の中で激増している。1964年の東京オリンピックを契機とした地下鉄、高速道路、下水道工事などの非熟練労働に従事した。重層下請制度の下、低賃金・長時間・無権利で労働災害が多かった。出稼ぎ出る者にとっても、残される家族にとっても辛い問題であった。(*4)
 しかし、そういう思いまでしてなぜ出稼ぎに出る必要があったのか。「農業だけでは生活が苦しい」(1972年農林省の面接調査)。これが大きな理由だった。
 では、どうして農業で生活できないのか。それは、高度経済成長という国策のために、政策的に仕向けられたというべきだろう。
 ひとつは、高度経済成長を推し進めるためには鉱工業の輸出の促進が至上命題であり、そのために貿易自由化が進められた。その結果、農産物輸入が激増し農業に打撃を与えた。そのために農家は農業外に収入を求めざるを得なくなった。二つには、農業の生産性の向上を掲げて稲作を中心に機械化が促進された。機械化は労働時間の短縮には貢献したが、同時に機械の購入のためにまた農業外の収入に走らざるを得なくなった。
 ここまでなら農政の失敗という話になるかもしれないが、そうではなかった。自由化や機械化を進めることで農業と農村を縮小合理化し、農業人口を都市部に引き出し、京浜工業地帯を中心とする労働力として投入する。そういう政策的な意図があった。だから農政でありながら農業と農村を破壊するということを意図的に進めた。その政策によって、都市近郊では兼業化が進むが、近郊に雇用がない地方では、出稼ぎや就職という形で、労働人口の流出となっていたのだ。(*5)(*6)

*4 林信彰 「農業政策の破綻と出稼ぎ」(1947年9月 横浜市「調査季報」43号 特集 出稼ぎ労働の問題点)
        http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/seisaku/chousa/kihou/43/kihou043-012-019.pdf
*5 飯島充男 「福島県農業の現状と展望」(1980年8月『福島県の産業と経済』山田舜編)
*6 物質文明を拒否する立場から出稼ぎ拒否と論じた当時の論考に草野比佐男『わが攘夷』(1976年)がある。


◇未来のための教訓


 こうして見ると、「出稼ぎをしなくて済む」という言葉を、住民らがどういう思いで訊いたかがわかってくるのではないだろうか。と同時に、出稼ぎをせざるを得ない窮状が、国策によってつくりだされたものだということに強い矛盾を感じる。さらに、そういう窮状に付け込む形で、原発の立地が進められたのだった。しかも、推進する側はその危険性を知りながら、そのことをひた隠しにして進められた。危険性を知っているが故に、窮状にあえぐ地域に押しつけたのである。(*7)
 原発の建設が始まると、一時的に雇用が急増した。しかし、建設ブームは一時的なものだった。原発は、関連産業を生み出すような性格ではなく、浜通りに産業の集積が進み、一大工業地帯になるというのは全くの幻想であった。
 出稼ぎは形の上ではなくなったが、それは形を変えて、定期検査時の作業に、重層下請制度の末端に動員されるものであった。福島の原発が稼働時は定期検査作業を求めて全国の原発を回った。それは形を変えた出稼ぎでもあった。そして、定期検査時の作業は被ばく労働であり、健康被害を不可避とするものであった。原発の危険性の説明もなく、原発が立地され、その原発に働きに行っていた住民が、被ばくによる健康被害で苦しみ、そのことを訴えることもできないまま亡くなっていった。
それを目の当たりにすることを通して、「これは怖いなとようやく分かってきたんだ。安全というのも神話なんだなって」と気づいていく。しかし、同時に、「そういうことが分かってきたときは、もうどうしようもなかったんだよね。だって町全体が原発に組み込まれてしまったようなもんだから」。
 池田さんのお話から、原発という国策がどのように進められたのか、そして立地地域の住民がどういう思いをしてきたのか、ということを窺い知ることできる。と同時に、池田さんの証言から、本当に脱原発を進めるためには何が必要なのか、脱原発を訴える側がどういう人びとのどういう思いと結びつく必要があるのかという教訓を示してくれているように感じた。

*7 ここでは言及していないが、いまひとつの窮状として、1958年に大野村と熊町村が合併してできた大熊町の町財政の悪化という問題があった。


      ・        ・         ・

 なお、上で「反対運動もなく、土地の買収も円滑に進んだとされている」と述べた。たしかに運動といえるような動きはなかったが、しかし実は反対の声や抵抗の動きが存在していた。これについては回を改めて報告したい。(了)


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テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2015/07/01(水) 16:00:00|
  2. 双葉町
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信念は曲げられない  双葉町・井戸川町長の退任

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 2月7日、双葉町役場埼玉支所(埼玉県加須市)で、井戸川双葉町長の退任式が行われた。井戸川町長は、昨年末、町議会からの不信任決議を受け、一旦は辞任を拒否して議会を解散したものの、今年1月23日に、辞意を表明した。

 退任式のあいさつとその後の記者会見において、井戸川町長は、財政再建の取り組みから原発事故による苦難の7年2カ月を振り返った。その中で、被ばく問題、中間貯蔵施設、区域再編、賠償問題などについて、自らの信念を語った。そして、辞任の真意を、「不条理の流れに対して、同調できない」「信念を曲げられない」と述べ、「現実を現実として、より広範囲に訴えていくために、町長職の枠を超えて、双葉町民、郡民、県民のために、行動していきたい」と今後の決意を表明した。
 もっとも双葉町民の意見は様々だ。生活再建が遅々として進まない中で、「国に抵抗するより、早く賠償を」という苛立ちの声もある。また、町長の主張を極端と見る向きもある。
 井戸川町長は、町民の健康と町の将来を考えて、信念を貫いてきた。その信念は、原発事故によって故郷を奪われ、避難生活を強いられるという苦難と、原子力ムラの中にあった双葉町のあり方への反省から生まれたものだった。寝る間も惜しんで本を読み、資料に目を通して、原発事故と被ばくと健康被害の真実をつかもうと努力していた町長の姿を、近くにいた町職員は見ていた。
 国と東京電力を相手に、不条理を告発し、信念を貫こうとする井戸川氏の存在は、これまでもこれからも、双葉町と福島県にとって必要な存在だろう。

 以下は、町長の退任式でのあいさつ、記者会見での発言、懇談での会話を再構成したもの。また、昨年3月に行ったインタビューを、本記事に続けて再度掲載した。合わせて読んでいただきたい。


★この間の経過★
11/28井戸川町長、佐藤知事・双葉郡町村長との協議会を欠席
12/10町長、双葉地方町村会・会長を辞任
12/20双葉町議会、町長に対する不信任決議案・可決
12/26町長、町議会を解散
 1/23町長、辞職を表明
 2/4町議選、開票
 2/7町長、退任式




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【Ⅰ】 財政再建から原発事故



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(町職員約50人が集まって、午前9時から退任式が行われた)



肉がないから痛くて


 ちょうど7年と2カ月です。平成17年(2005)の12月8日、町長になって初登庁いたしました。
 いろいろ課題を抱えた中での始まりでした。覚悟の上で、飛び込みましたが、やはり、入ってみると、大変な内容になっておりました。
 平成19年(2007)には、双葉町の予算を組むことが困難でした。もう、その困難さというのは、たとえて言えば、普通にすわっていることができなかったですよ。お尻に肉がなかったんです。肉がないから、座っていられないんですね、痛くて。だから体を、しゅっちゅう斜めにして、斜めにしてという感じでした。〔※〕
 これは、誰かの所為ということではなく、やはり町全体として反省すべきことだと思いました。ただ、「大変だ。厳しい」と言っていたら、町全体が暗くなってしまう。だから、それは、言わないで来ました。引き受けたわけですから。
 困難な中にも、努力をすると前が開けてきました。特段の能力がなくても、誠意を持って努力する。これに尽きると思います。 あの苦しみを何とか乗り越えて、日本一の町をつくろうといろんな施策をやり、原発に全部、依存するんじゃなくて、町民力を高めてやっていきたいという思いがあって、頑張りぬいたんですね。

〔※ 双葉町の財政は、原発立地による税収や交付金に依存してきたが、慢性的な財政危機に陥り、09年9月には早期健全化団体に転落。事業を止めるなど、歳出を厳しく見直して、10年度決算で財政健全化団体から外れた〕


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(様々な思いが込み上げてか、うっすらと涙ぐむ。退任式で)



「壊れないで」と祈るも


 あの苦しい財政再建を何とか乗り切って、「やれやれ、双葉町も段々いい方向に来たな」というときに、この事故の発生でした。
 地震の最中、本当に早く収まることを祈っておりました。「原発がダメになる。壊れる」。あの揺れ方に、そう思いました。「壊れないでくれ」と祈っておりましたけれども、残念ながら、壊れてしまいました。
 その後、今日まで、海図のない航海に出ました。日本全体が混乱の最中にあったにしても、いくらかでも道標があれば、このような思いをしなくても済んだと、そんな風に思います。



東電に反省なし


 よもや、埼玉の地で、最後(退任)を迎えるとは予想だにしませんでした。
「原発事故は起こらない」と国・東電は繰り返し言い、それを何回も何回も確認して参いました。しかし、事故は起きました。これは、「起きてしまった」のではなく、「起こされてしまった」のです。「完全に騙されていた」と私は思っております。
 2006年の津波対策をやらなかったことが、引き金だと思います。〔※〕
 事故は、起きてしまいました。不幸にも起きてしまいました。
事故後の対応は、「東京電力という会社の正体を出したな」と思っております。
 人権無視、責任回避。事故対応についても、賠償についても、「被害を与えてしまった」という反省の様子や、あの平和な双葉町を住めない町にしてしまったことへのお詫びということが、感じられません。むしろ「まだまだ隠ぺいしているな」とさえ思えるわけです。

〔※ 東京電力は、04年のスマトラ沖大津波を受けて、06年、巨大津波に襲われた際の被害想定や対策費を見積もっていた。また、08年にも、同様の試算をしていた。しかし、いずれも、津波対策の強化は行わないと決定した〕



原因者は健在


 本来なら、事故の原因者が、私より先に職を辞して、反省をしなければならないのに、未だに多くの方が在職しております。
 避難のやり方も、救済の仕方も十分でない中で、町民は、本当に日々、喘いでおります。あの状況を原因者は体験しているのでしょうか。一時、体験したとしても、それは、全部を体験したわけではありません。われわれはすべてをなくしたわけであります。
 ところが、事故を起こした加害者が辞めないで、被害者である私が辞めるんですよ。原因者は、ピンピンしてますよ。
 このことは、やっぱり大きな意味を持っていると私は思っているんです。こういうことが、日本社会で容認されるとすれば、とんでもないことです。私は、身をもって、このことを世の中に訴えていきたいと思っています。


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(最後の仕事。書類に判子をつく。町長室で)

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(すでに外していた町長のバッチを取り出し、「こういうものが欲しくて仕方がない人もいるんだね。その気持ちがわかんないよ」と。気の措けない関係者との懇談で)




【Ⅱ】 不条理に抗して



 辞職の理由ですが、やはり、私は、今の流れに対して、同調していくことができないと思ったことでしょう。



安全が確保されてない


 まず、この事故は、福島県の双葉地方の事故ではありません。地球規模の事故だと私は思っております。にもかかわらず、もう終わったかのような雰囲気すら作られようとしております。しかし現実はレベル7のまま、今も放射能を出し続けています。
 私は、大きな責任を背負いながら、町長をやっていました。町が続くことも、子孫が繁栄することも、私の責任であります。
 しかし、今、子孫の繁栄が担保されていない。中間貯蔵施設の問題、避難基準の20ミリシーベルトの問題、今も放射能を出し続けている問題。国に「いつになったら安全なのか」と問い合わせても何も答えない。そういう危険な中に、町民を戻すわけにはいきません。
 復興という名の下に、避難した町民・県民を帰還させようという政策に、私は反対であります。むしろまだまだ避難が足りないと、もっともっと避難させなければならなかったという思いであります。
そんな思いから、私は、意を決して、ジュネーブに赴いて、国連人権理事会にこの不条理を訴えました。〔※〕
 将来の子どもたちのことを思って、同調者のいない中、独断でやりました。「福島県内が危険だ」と叫ぶ首長は、私しかいません。私は、あえてこの役をやろうと、自分自身で決めております。

〔※ 井戸川町長は、昨年10月、国連人権理事会で日本の人権状況を審査する会合が開かれるのを前に、ジュネーブの国連欧州本部で、NGO主催の会合に出席、原発事故による住民の被ばく状況と国・東電の事故対応の問題を訴えた〕



20ミリ基準


 私は、以前から、「一般公衆の被ばく限度は1ミリシーベルトだ」と言い続けてきました。「20ミリシーベルトでいいよ」という議論とは、相容れることはできません。
 いま福島県内では、「安心教育」、つまり「安全じゃない安心教育」が徹底されています。そういう教育の危険さをひしひしと感じています。
 したがって、わが町民についても、その安全の知識を深めていく必要がある。1ミリシーベルトという原理原則を、深めていく、広めていく、知ってもらう。この取り組みを今後とも続けて行かなければならないと思っています。
 また、放射線の作業に従事する方には管理区域の基準があるわけだから、同じように、住民に対しても基準を設定して、安全を確保する必要があります。
 私の考えから言うと、今の福島県には住めません。


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(廊下で、町職員の労苦をねぎらい、あいさつを交わす)



いわき移転問題


 そういう考えを持っていながら、議会の圧力で、役場機能をいわき(いわき市東田町 あずまたまち)に移すことを決定しましたが、このことを今は反省しております。
 「放射能の量がひどいな」という思いが元々あったのですが、ある報道番組を見て、「やっぱりそうだ。現実はそうなんだ」と思いを強くしました。
 子どもたちを被ばくさせないように、ここ(埼玉県)まで離しました。しかし、役場をいわきに移すことによって、その思いが崩れてしまう。私としては、納得できないものであります。



中間貯蔵施設と区域再編


 それから、中間貯蔵施設の問題です。
 町議会の不信任決議の内容に、「双葉町は、双葉郡の他の町村と協調して行かなければならない」とありますが、「双葉町の復興のために、中間貯蔵施設は認めなければならない」という議会と、私は、相容れることはできません。
 何の約束もない中で、受け入れるかどうかの議論もないままで、国や県が、「双葉町に中間貯蔵施設を造れ」ということの不条理さをずっと訴えてきました。
 「30年で持ち出す」ということについて、誰も明確な話をしません。福島県からも回答はありません。「双葉町が住めなくなることについて、どう思いますか」という質問もしましたけど、明確な答えがありません。
 それから避難区域の見直しです。
 避難するときは、われわれは無条件で避難させられたんですが、帰還となると、いろいろと条件が出てきております。避難区域の見直しが、われわれ被害者のいない所で行われていることについて、どうしても納得できないものがあります。



「仮の町」


 町民は、非常に困難な環境に置かれ、苦しんでおります。一刻も早く、この苦しみから、脱出させたいという思いで、2011年5月頃には、「仮の町」の構想をまとめました。しかし、合意を形成するに当たっては、非常に難しいという風に思いました。前例のないことですから。
 避難を指示・命令した国が、避難によって困らないようにしてくれれば問題もなかったのですが、そうではなかったので、町民は、今のことで精一杯で、町の将来のことまで考えるに至らない状態です。今の生活の困窮ですね。その意識の方が強いと感じております。
 ただ、子どもたちの意見を見ますと、「どうしてもふるさと双葉に帰りたい」という意見が多いようであります。やはり「まとまりたい」という意向が強いようです。
 商店を再開するにしても、全く見知らぬところでやるよりは、町民をお客さんにした方がいいという気持ちが出て来ると思うんですね。時間が経つと「やっぱり、まとまるところがほしいなあ」となると私は思っています。
 そういうことで、私は、とりあえず、まとまることを進めたかったんですけども、まだまだ、宣伝、説得が足りなかったと思います。


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(町民、職員、さらに多数の報道陣が見送りに集まった)



賠償問題


 町民のみなさんの声は、「賠償問題を進めろ」ということでした。「早く避難区域の見直しを決めて早く進めろ」ということが圧倒的に多かったと思います。
 これは、いま政府の方とも話を詰めまして、だいだいいい線まで来ていると私は思っておりますので、新しい議会の下に、それを説明を聞いて、納得していけば、早い段階で、町民にはお知らせできると思います。いろいろお叱りをうけましたけど、納得できるものになってくると思います。
 ただ、国・東電から示された賠償をとにかく求めるという姿勢について、私は、「非常に危険だな」と思っています。自分たちで築くべき賠償というのもあるはずです。
 いま、東電の財物賠償でもって、新しい土地と家を求めるという動きがあります。これは、賠償のあり方として、私は、間違っていると思います。財物賠償はあくまでも財物賠償です。
 「賠償を進めるために、区域の見直しをやるんだ」ということが言われます。が、区域の見直しによって、不利益を被る町民が発生するのです。私は非常に懸念を持っております。
 区域の見直しと賠償を切り離すことができればと思うんですけど、いま一緒にされています。



旧騎西高校の避難所


 騎西高校〔※1〕のあり方については、当初から、納得している人はいません。
 国には、「いつまでも置いておかない方がいいんじゃないですか。早く何とかしていただきたい」と言ってきました。
 国は、交通事故の事例をもって、賠償を行っていると言いますね。でもね、交通事故を起こせば、代車を用意しますよね。それで「とりあえずの不便さを解消して下さい」と言いますよね。それは加害者の側が用意するんですよ。今回、ちょっとおかしいのは、災害救助法〔※2〕で対応していることなのです。それで満足できるわけがないんです。満足していると思われたら困るんです。「一刻も早く代車を用意してもらいたい」と国にお願いをしてきましたが、依然として、騎西高校に置かれている状態なんですね。
 いわき辺りに行くと、町民から、「町長が騎西高校に置いている」と言われますが、そうじゃないんですよ。「代車を用意して下さい」ということを言っているんです。新車はまだいいです。双葉町はまだ新車を買う段階ではありませんから。やがて買える段階になったら、賠償金を使って新車を求めるのが、帰還のプロセスかなという風に思っております。

〔※1 埼玉県加須市の閉校となった高校の校舎。避難所として、当初約1400人、現在約140人の町民が生活している〕

〔※2 災害救助法は、災害発生時に、応急的な救助、食料や水の提供、救急医療などの実施を目的とする法律。あくまでも応急的な対応であって、原発事故による避難の長期化と深刻な汚染ということに対応していない。まだ、原発事故は、自然災害ではなく原因者・加害者が存在するという点でも、性格が違う〕


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(退任を惜しむ声に町長は、「まだまだこれからだから。何も終わってないよ。頑張ろうよ。一緒にいるよ。子どものため、町のためには、まだまだやることはたくさんあるから」と答えていた)



町議会の解散


 それから、なぜ町議会を解散したかですね。
 私が聞き及ぶ町民の意見は、私に対するよりも、議会に対する厳しい意見でした。議会を解散したのは、あれだけ厳しい意見があることも踏まえて、町民のみなさんに判断をしていただきたかったわけです。
 町議会を解散した上で、自分も辞職したことについて、いろんな意見があるのは存じております。解散したときに候補者の擁立も考えましたが、それがうまくいかなかったということもありますね。それから、自分のやりたいことができないだろうと思いました。引き続き町政を担っていく態勢ではないと判断しました。

◇正面から政策論議を
 町の執行部と議会とが談合してたらいけないんです。執行部と議会が談合したらなんでもできてしまう。密室で。それがあったから、町の財政が、あんなにおかしくなってしまったわけです。それを踏まえて、私は絶対に談合をやらないようにしてきました。
 議場で正面から議論するのが当たり前で、そのための議場なのです。だけど、一般質問をする議員の方が、本当の政策論議ができない。「政策論議をしてくれればいいなあ」と思っていたんだけど、裏での談合の方が大きな影響力があって、議場ではなんか小さな話しかできない。日本の議会制民主主義の根幹から直さないといけない。そう思っていたから、信念を曲げない。議会にすり寄っていくことはしなかったんです。
 痩せても枯れても、井戸川は、こんなちっちゃな井戸川だけれども、心まで売るつもりはないですから。信念を曲げるつもりはありません。
 だから、私のことが、「邪魔で困る」という人はいっぱいいたと思いますよ。



 
【Ⅲ】 より広範囲に訴えるために



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 私なりに、不条理な部分とたたかってまいりました。町長職を続けることによって、事故のわい小化とともに、このたたかいもわい小化されてしまうことを、私は恐れました。 
 現実を現実として訴えていくため、より広範囲に訴えていくために、町長職をやっていることは不都合だと考えました。
 この事故の正しい歴史を残すために、まだまだやりたいことがあります。今後は、要請があればいろんなところで語って、希望を述べて行きたいと思っています。そういう道が待っているようであります。双葉町民、郡民、県民のために、力を発揮できればという思いで、双葉町の枠を外れるために、辞職を決意したわけであります。
 私は、財政再建のために、「とにかく町を潰せない」と町長になることを決意しました。途中でとんでもない事故に遭遇して、今度は、町民の健康のため、子孫繁栄のために、頑張っていきたいと考えております。

(了)




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  1. 2013/02/15(金) 15:40:00|
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【再掲】 井戸川双葉町長インタビュー(2012.3.6)

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(双葉町民の避難所であり、役場機能も移転している埼玉県加須市の旧・騎西高校)


 上掲の井戸川双葉町長退任の記事と合わせて、昨年3月に行ったインタビュー記事を再度掲載する。
  本サイトでは2012年4月1日付で掲載、また『変革のための総合誌 情況』(2012年5・6月号 情況出版)に掲載された。



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双葉郡民を国民と思っているのですか
    

          
―― 双葉町・井戸川町長に聞く




 原発事故で放射能がまき散らされた双葉町は、依然として、高濃度の汚染状態にある。今も、町民約6,900人が避難生活を強いられている。
 政府は、除染作業で出る汚染土などを保管する中間貯蔵施設を、その双葉町を初めとする強制避難地域に設置しようという案を提示している。
 この政府の方針にたいして、「どうして双葉郡〔※〕が引き受けなければならないのか」と、厳しい態度で臨んでいるのが、双葉町の井戸川克隆町長(65)だ。今年1月には、野田首相にたいして、「双葉郡民を国民と思っているのですか」と迫っている。
 そこに込められている思いを中心に、お話を聞いた。

〔※双葉郡: 浪江町、双葉町、大熊町、葛尾村、富岡町、楢葉町、広野町、川内村の8町村を指す。東電の原発・火発が多数立地し、原発事故により、大半が避難区域に指定されている。〕



積算線量


 
 井戸川町長のお話の中に、民権の要求ともいうべきものを感じた。
 福島県は、自由民権運動の発祥の地のひとつ。近代日本確立期の国家による暴政に抗して、民衆が、自らの手で自由と権利をつかもうとした運動だった。原発事故という未曽有の艱難に立ち向かう中で、いま、この運動の精神が、福島の人びとの中から蘇ろうとしている。そんな力強さを感じた。

 なお、お話からも分かるように、井戸川町長もまた、「原子力ムラ」の中で生きてきた人のひとりだ。むしろそういう人が、原発事故とその後の政府の対応の中で、いま、このような態度を表明するに至っていることに、私は注目したい。
 

【インタビューは、3月6日、双葉町役場埼玉支所内】
 


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(井戸川町長。05年に初当選し、現在、二期目)



「もう、終わりだな」と


――「仮の町」構想や中間貯蔵施設の問題について、詳しくお話をうかがいたいのですが、その前に、改めて事故当時のことを。

井戸川:1号機が爆発した3月12日は、役場にいました。私のすぐ前が建物だったから、爆発は見えないのですよ。ただ、音だけは聞きました。鈍い音ですね。(原発は)ものすごく大きいものですから、ボンですね。ボンっていう感じ。
 それから、圧力容器・格納容器を包んでいる断熱材のグラスウールが舞いあがって、それが降ってきたのですよ。大きいのから、小さいのから。空から降ってくるのですよ。音はしない。静かに降りてくるのですよ。
 「もう、これで終わりだな」と思いました。「ここで、おれは終わりだな」と。
だから、今は、その延長戦で、終わったのだけど、まだ生きているのですよ。

――そのとき、他の人は?

井戸川:だいたい300人ぐらいいましたね。みんな被ばくしていますよ。

――国の方から、避難に関する指示は?

井戸川:ない、ない。そんな細かいことを国がやるわけがないじゃないですか。

――ヨウ素剤は?

井戸川:双葉町は、配りました。

――その後、避難先が、川俣町、それからさいたまスーパーマリーナ、そして、最終的に埼玉県加須市の旧・騎西(きさい)高校になりました。そこを選んだ理由は?

井戸川:簡単ですよ。スーパーアリーナから、(騎西高校の)他に行くところがなかったのですよ。当時はもう混乱していたから、県内は、とても戻れる状況ではなかったのです。



体を張って



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――福島第1原発事故による汚染土などを保管する中間貯蔵施設を、政府が、双葉郡に設置しようとしていることにたいして、町長は、「どうして双葉郡が引き受けなければならないのか」と、厳しい態度を取られています。

井戸川:「原因者が誰なのか」ですね。中間貯蔵施設を受け入れたら、私どもが、原因者になってしまう恐れがあるのですよ。
 貯蔵が30年という話ですが、なぜ30年なのか、私にはわかりません。どこから出た30年なのかもわかりません。そんな長いスパンのことを、誰もいなくなって、中間貯蔵施設だけが残ってしまったときに、「どうしてそれを受け入れる責任があったのか」ということを、後世に残しておかなければなりません。
 ですから、双葉郡で受け入れる責任ということを、政府には、しっかりと立証してもらわねばなりません。
もう一つは、東京電力が、「あれ(まき散らされた放射能)は、私のものではない」と言い切りましたね。〔※〕
これは、おかしな話ですよね。だとすれば、なおさら、双葉町が受け入れる道理はありませんよね。
 おかしなことになっているわけですよ。「放射能汚染がひどくて、ここは、長い間、住めないから、中間貯蔵施設をつくる」というけど、誰がそうしたのですか。放射能汚染がひどいのだったら、なおのこと、「早くなんとかして下さい」というのが普通ですよね。

〔※福島県内のゴルフ場経営者が、東電にたいして起こした裁判で、東電側が、放射性物質を「無主物」と主張。 無主物とは、「所有者のない物」「誰のものでもない物」の意〕

◇民主主義か恐怖社会か

井戸川:そういう私の発言が封殺されるとすれば、これはもう日本というのは恐怖社会ですね。恐怖社会の入り口にあるような気がするのですよ。
 もし、日本が民主主義国家であれば、議論を重ねて、後世にも理解してもらえるような明確な理由を示さなければなりません。
 「汚染が濃いから、住めなくしてしまえ」と言える人は、この世にいないと思う。そういう判定をする人は。たとえ裁判でもそれはできないでしょう。
それを政治的にやれるとしたら、これは暴挙でしかない。強制力を持ってやるとすれば、これはもう民主国家ではありませんね。
 なぜ双葉郡に、中間貯蔵施設を造るのですか。放射能を撒いた責任を負う者が、何でそんなことをできるのですか。なんの言葉も出せないはずですよ。私としては、ここは、しっかりと体を張ってでも、頑張っていきたいと思っています。


――「早く除染をして欲しい」という流れが一方であり、それを利用して、「中間貯蔵施設を受け入れろ」という圧力になっているという印象を持ちますが。

井戸川:大いに感じますね。報道でもって、既成事実を固めていこうというやり方。これは、まさに恐怖社会そのものですよ。
 「では、最終処分のことはどうするのか」という議論もなしにですよ。
 いま除染をするために中間貯蔵施設と言っていますけど、その前は、除染をするために仮置き場って言っていましたね。いつの間にか、仮置き場っていうのが飛んじゃって、今度は中間貯蔵施設になってしまっているのですよ。まったく滅茶苦茶です、言っていることが。 だから、滅茶苦茶なことを言われているとすると、私らは、余計、「約束はできないな」と思います。
 恐ろしいことが始まろうとしているのです。話をすり替えているのですね。

◇権利の行使

――町長は、野田首相にたいして、1月に福島市内で開かれた会合の場で、「双葉郡民を国民と思っているのですか」と迫りました。

井戸川町長:われわれは、原発災害で避難しているのです。
 ところが、どうも、われわれの知らないところで、なんでも決めてきて、押しつけるようなことを、「示す」とか、「説明する」と言ってやってくるわけです。私たちが、議論に参加しない中で進められることについては、やっぱり納得もできませんよね。
 また、多くの郡民が、被ばくしています。ところが、被ばくにたいするケアというのはまったく進展していません。クローズされています。
 例えば、双葉町民が、避難先の九州の方で、検査を受けようと思って病院に行った。その病院が、福島県立医大に確認したら、「検査はやらないで下さい」と言われたというのです。
これは、国民として扱われていません。生きる権利はありますから。いろんなことを集約すると、国民としての権利の行使です。
 少なくとも、被ばくさせられているというのは、われわれが望んでいるわけではなくて、一方的なことです。しかも、情報をクローズされて、十分な開示がされない。そういう中で、どういう選択をしてよいかわからない状態で被ばくしているのですね。
 なのに、今もって、われわれを被ばくさせた人たちが、まだわれわれの眼に見えるところにいるんですよ。おかしいですよね。「もうこれで終わりか」という極限の状態を経験していないから、平然としていられるのでしょうね。
早い段階から、「ホール・ボディー検査をして下さい」と、国の上の方にお願いしてきました。でも、放置されてきました。今もって人数制限です。
 甲状腺検査だって、やる気があるのか、ないのかわかりません。人数制限して、「そのぐらいのシコリは大丈夫です」って。本人にとっては、シコリがあること自体、問題なのですよ。それを「問題ありません」とかなんとかって、外部の人から、いとも簡単に切り捨てるように言われている。
 この現状見たとき、国民として扱われているとは、私には思えません。



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◇私の怒りは、そんな簡単なものではない

――国や東電にたいして、町長は、強い不信感を表明されています。

井戸川:これは、少し整理してお話ししたいです。
 事故以前、私は、東京電力と原子力安全・保安院の方が役場に来ると、いつも「安全ですか」と問いかけておりました。
 それにたいして、東電や保安院は、「町長、そんな心配をする必要はない。事故は起きないから」と言われ続けてきました。
 しかし、事故の後、いろんな情報が入って来ました。
 最近では、今年の2月26日の報道によれば、政府の地震調査委員会事務局が、震災の前に、宮城・福島沖で巨大津波発生の危険を指摘する報告書を作成していたということです。ただ、震災の8日前に、東電など原発を持つ3社から、巨大津波や地震にたいする警戒を促す表現を変更するように求められて、そのように修正していたということでした。
 もしその予測を素直に、間違ってもいいから、世間に発表していれば、あるいは、岩手、宮城、福島、茨城、千葉で亡くなった方の何人かは、減らすことができたのではと思います。
 また、東京電力は、福島第一原発に、高さ15メートルを超える大津波が遡上する可能性があると、08年春に試算しながら、津波対策の強化は行わないという決定を行っていたことも明らかになりました。
 あるいは、アメリカは、79年のスリーマイル島の原発事故を受けた対応を、即座に行ったが、日本政府は、対策を取らないで放置したということもわかってきました。
 許せないと思います。許すことができません。
 東京電力は、原子力発電所を持つ資格などありません。資格のない会社が、原子力発電所を運転していたのですよ。そして、今もって、発電所から出た放射性物質を、自分の物ではないと断言している会社ですよ。社会的に許せます? そのために、県内のみなさんは被ばくしたり、迷惑を受けたり、苦しんでいるのですよ。
 大事なのは、企業倫理です。社会道徳です。社会の正義ですね。これを自覚できないような会社が、あのような危険なものを持って、対策も講じないで、表だけ安全を見せかけてきて、裏は何にもなかったというのが現実です。
 私の怒りは、そんな簡単なものではないということですよ。これを擁護するような政府ならば政府も悪いですね、絶対に。政府が率先して、これを正さなければなりません。監督責任あるわけですから。


――ところで、町長は、以前に、福島第一原発の7・8号機の増設を求めたとされていますが?

井戸川:私は、7・8号機は、早く造りたかったのです。
 なぜかというと、老朽化している原発(第一原発1~5号機 マーク1型)を止めるには、別の発電所に移動させなければならなかった。それが遅れたために、今回マーク1型の発電所が、ものの見事に狙い撃ちされてしまったのですよ。
 第二原発は少しレベルがいいのですよ。(第一原発)1号機から4号機が、一番、劣悪な条件の中で設置されているのです。だから、もっと早い段階でシフトしていれば、こういう事態にならなかったと思うのです。
 そういう意味で「早くやれ」って、私は言っていました。
 原発が好きで言ったのではなくて、安全のために言ったのです。

――1号から4号機について、早く廃炉にしろということだったのですね。

井戸川:それを言葉にすることは、なかなかできませんでしたけどね。そういう思いはありました。



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(役場の入り口)



若い者が計画し実行を


――町長は、昨年暮れに、≪町民が新たな場所へ集団避難し、学校や病院を備えた「仮の町」を、3年以内をめどにつくる≫という「仮の町」構想を打ち出されました。

井戸川:具体的にどの場所ということは申し上げていません。具体的なものはこれから積み上げます。
 「仮の町」構想では、子どもたちが、「これなら住みたいね」と思える未来型のものを目指したいと思っています。われわれ高齢者は、「そこに一緒に住もうよ」ということで、年寄りができるような役割をしながらも、子どもを育てていくのによい環境を用意すべきだと思っています。
 もちろん、根底には、省エネであるだろうし、防災機能も十分備えたものでなければならいだろうし、いろいろと中身はつめていく必要があると思いますけど、漠然と言えるのは、「住んでみたくなるもの」を準備する必要があると思っています。
 後は、これから議論をつめて、町民のみなさんに参加してもらって、形にしたいということです。

――町民懇談会でのみなさんの反応は?

井戸川:まだ、あまり突っ込んで議論はしていないです。来年度〔2012年度〕になったら、町民のみなさんのところに行って、意見を引き出すということですね。
 立場のある私が、あまり先に言ってしまうと、それで固まってしまうということを注意してきました。新年度になれば、スピードアップして、それをみんなに諮っていくということになると思います。

―「仮の町」構想の実際の進め方は?

井戸川:いわゆるチームを作っていこうと思っています。
 「仮の町」といっても簡単でないのですよ。相当お金もかかるし、仕事量も相当なものです。学校から何から全部ですから。あんな小さな町だけど、やっぱりそこには詰まっているのですね。それに近いものを用意するというのは、すごいことなのですね。日本でこれは初めてになると思います。それだけ大仕事だと思っていますので、だから議論もそのぐらい大きいものと思っています。
 昔の移民とか、入植とか、ダム建設の移転とかの例はあるけど、でも、みんな違うんですよ。町ごとじゃないのです。
 やっぱり、町ごとというところにこだわりがある。町民のみなさんがそうなのです。

――避難を強いられている町村では、「戻る、戻らない」をめぐって、分断が持ち込まれているという状況がありますが、その辺りを、町長はどう見ていますか?

井戸川:それ(「戻る、戻らない」の分断)はありうることだと思って、考えていかないといけません。
 だから、最大公約数の中であっても、子どもたちを中心に考えていきたい。子どもと子どもを持つ親が、「ここなら住んでみたい。こういうものなら住みたい」という意見に、われわれも従うということが一番いいのかなと。われわれの発想で、われわれがつくってしまったところに、若者が住むとは限りませんから。大前提は、この次の町を支えてくれる若い人たちがそれを認めてくれることです。あるいは、若い人たちが、自分たちで、構想を築き上げる。計画を作って実行までを若い人らがやっていくような形で、参画をしてもらってやっていけば、なんとかなるのではないだろうかと思っています。
 とにかく、町はなるべく一つにしたいと思っています。無理をしないということと、子どもたちが「ここならいいよ」ということ、放射能レベルも含めて、そういうことが大前提ですから、場所については、私は、今の時点ではこだわっていません。



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(写真上:約500人の町民が、廃校になった高校で避難生活を送る。一教室を区切って、数家族が入っている。町長もここで暮らしているという。
  写真下:車はいわきナンバーがほとんど)

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除染の効果はない


――この間、国の除染モデル事業として、大熊町の役場などをやり、また、自衛隊を投入して、楢葉と富岡、浪江、飯舘村の役場の除染をしましたが、双葉町だけは、町の判断として、除染をしませんでした。

井戸川:「(政府が)双葉町の除染をしたい」と言ってきたのですけど、「それは待っていただきたい」と言いました。
 なぜ除染の着手を遅らせるかというと、ひとつは、納得できる作業風景をまだ見た覚えがないからです。
 今、いろんな業界の方が除去技術を競っており、二年ぐらいするといいものが出てくるのではないだろうかという思いがあります。それができるまでは、ということで待ってもらっています。
 確実で有効な方法が見つかれば、費用も少なくなるのではないだろうかという期待も込めています。
 今のやり方は、荒療治だと私は思っています。
 大量の水を使って流すというマニュアル通りにやったら、下流域はどんどんと放射能の堆積場になってしまって、環境汚染をさらに広げてしまうのですね。
 田んぼの土をひっくり返したって、脇の部分は残ってしまうわけですから、そうするとまったく効果なんてないと思っています。   
 森林の除染も、明確にまだ示されていませんよね。
 ただ期限ありきで、25年度で終わると言っていますけども、これでは駄目ですよね。われわれのところは、限りなく放射能を取り除いてもらわないといけませんから。おかしな話ですね。
 除染を待ってもらうもう一つの理由は、(除染を行う主体について、政府の示した指針では)「市町村の責任において行なう」というものね。
 なぜそこにこだわったかのかというと、例の無主物〔※〕です。「ああ、そういうことだ」と。それで「市町村の責任で」って言いきったのだなと。
 だけど、市町村に責任があるでしょうかね。私はないと言い張ってきました。
 それからもう一つ大事なことは、今でも第一原発から放射能が出続けているわけですから。これが確実に止まらない限りは、除染をやっても、汚染は続くのですね。だから、時間ではなくて、確実なことをやるべきだと、私は思っております。

〔※ 放射能を撒きちした責任はないという東電の答弁書〕

――同じ双葉郡でも除染についての対応に違いがありますが。

井戸川:それは、それぞれの地域の判断で進めていることなので。
 私は、年1ミリシーベルト以下にできるほどは、除染の効果は期待できないと判断しています。
 それから、私は被ばくしています。放射能には、いま非常に敏感です。年1ミリシーベルト以上は住む環境じゃないと思っています。
 ただ、この辺の1ミリシーベルトの許容範囲というのは、双葉郡の中でも、ばらつきがあるところですが。
 双葉郡の首長の中でも、直接に被ばくをしているのは、双葉町長・浪江町長ですね。後の六町村長さんは、直接は被ってないと思いますね。いくらかは被ばくをしているとは思いますけど。
 被ばくの度合いに違いがありますから、その辺の中で議論していかないといけないと思います。

――新しい技術の確立ができない場合、実際、チェルノブイリの経験では除染はできていないわけですが、その場合、除染に使う費用を、町の移転のための費用に使うべきとお考えですか?

井戸川:私は、その方がいいと思っていますね。それが、今、町民の望んでいる姿だと思います。いま困っているのは生活なのですよ。安心できる場所なのですよ。みんなで固まって住める場所なのですね。そういう環境を欲しがっているのですよ。

――国が言っている除染より、町を動かして欲しいということですね。

井戸川:そうなりますね。今回の町政懇談会でも、多くは、「どこかに早く、このままでは嫌だよ」という声が非常に多かったのです。
 だから、町を動かすという方を優先しています。やっぱり現実的な話だと思います。だって、除染って、いつまでに完璧に終るのかという行程表がないでしょう。その間、何年待てばいいかっていったら、町民はもうくたびれますよ。
 それよりも、「時間がかかるのは、後にして、いま求めていることを先にやってよ」っていうのは、これは人情でしょう。私もそう思いますよ。



「予算が組めません」



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――09年9月に双葉町が早期健全化団体に転落しました。町の財政危機の中で、町長は無給でやっておられるというお話がありますが。

井戸川:それは誤解です。無給というのは、平成21年(09年)の1月から3月まで、手取りをゼロにしたのです。〔※〕 
 あれは、双葉町の財政が非常に逼迫して、健全財政法の4つの指標がクリアできなくなって悔しかったことがひとつ。もう一つは、(08年暮れに)派遣切りがあり、日比谷にテント村ができましたね。あの映像を見たときに、ショックだったのですよ。「このような善良な働き手、優良な納税者を、日本国は、なんといとも簡単に社会から排除するのだろう」と思って、悔しかったのですね。
 手取りゼロには、このように二つの理由があったのです。それ以後はもらっています。現在は7割カットでやっています。

〔※ 09年1月から3月、報酬を、税金と健康保険分税分の5万6千円にした。〕

――原発立地自治体の財政が、一時的に潤っても、長い目で見たら破綻に追い込まれていくという歴史ですね。

井戸川:いいことを訊いていただきました。もうお話しする機会がないのかなと思っていましたけど、これは是非お話ししたいことです。
 エネルギー基地の盛衰というのは、まさにわれわれが辿った道だと思っております。石炭産業もそうですね。水力発電所もそうですね。エネルギーの基地になったところが、こういうふうになる姿ですね。
 エネルギー基地というのは、残念ながら使い捨てされてしまう。炭鉱は、ボタ山だけが残りました。原発の廃炉にともなっていろいろなものが出ます。降り注いだ放射性物質だけではなくて、廃炉にともなう瓦礫などが発生するのですよ。否応なくね。人形峠には、ウラン鉱石を採った残土が何万立方って放置されています。
 エネルギー産業というのは、いかに短期か、ほんとにちょっとしか栄えない。こういうものだということをわかっていただきたい。そうあってはならないのですけど、おそらく切り捨てになるでしょうね。財政なんかどういうふうになるかわかりません。ほんと厳しいと思います。
 したがって、放射能とこれから未来永劫、生きていくなどという夢物語に、私はくっついていけるものではない、危険だなと思っています。

――同じ原発立地自治体の大熊町の財政が比較的良くて、双葉町が悪かったのは?

井戸川:双葉町は、原発二機だけで、後は何もなかったのですよ。事務本館もなければ、業者村もない。いろんな施設がみんな大熊町にあったのですよ。双葉町に行ってみていただくと、それほど目立つ建物や贅沢な建物はありません。
 だけど、私の話が、メディアに出ますよね。そうしたら、うちの秘書課には、もうすごいお叱りの電話・メール・手紙が、殺到するのですよ。「お前の町が、原発を誘致しなければこんなことにならなかった。山ほどお金貰っておいて」って。「責任は、お前の町にあるのだから、早く放射能を持っていけ」って。
でも、実際、お金は、大して、貰っていないのです。
 原発の誘致が早く、早い時期の交付金は低かったのです。富岡・楢葉は遅かったから、待遇が違うのです。三倍ぐらい違う。それが毎年毎年ですから、こうなっちゃいます。だから借金が残っちゃった。
 それから、最初の頃の交付金というのは、使い方が決められましたから、道路とか建物とかと。そうすると、今度は修理にお金がかかってしまうのです。修理は自前ですから。だからけっこう苦しんできたのです。だけど、そういう話はなかなか伝わらないから。

―誘致したとき、双葉町の主要な産業は?

井戸川:出稼ぎの町でした。あの辺は、ずっとそうですね。「福島県のチベット」と言われていたのですよ。だから、原発ができたのです。
 発電所を誘致して、働く場もでき、関連の仕事もあった。だけど、工場誘致はあまり進まなかった。だから原発関連で働くしかなかったのです。
 だけど、「東京に電気を送り出す」ということについて、なんかわけのわからないプライドというか、誇りがあったのですよ。原発を誘致し、稼働することにたいして、「おれらが、あの東京の3分の1をやっているのだから。おれらが電気を止めちまうと、あれが麻痺するのだから」なんて言っていたのですよ。
 でも、この前、町民に聞いたのです。「余所の県の人から、『福島県に原発があるお蔭だ。ありがとう』ってお礼を言われたことがあるか」って。「ない。そういえば、そういうことを言われたことはない」って。だって、ある新聞記者などは、「電気が福島からきているとは、知らなかった」って言うのだから。



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――町長は05年に初当選して以来、二期目ですが、そういう危機的な財政状況を知ったうえで、どういう思いで、町政を引き受けられたのでしょうか?

井戸川:もともとは、空調をやったり、水道をやったりの設備屋をしていました。
 なぜ町長選に立ったかというと、夕張に近かったのですよ。借金がどんどん増えて、破綻寸前だったのです。もう予算も組めない状態だった。そこで、「会社は潰れてもいいや、でも、町は潰せない」という思いで飛び込んだのですね。
 そりゃあ、つらかったですよ。町長になって、最初の年、12月8日に、初登庁したのだけども、総務課長から、「町長、予算が組めません」と。「なんだ。そんなにひどいのか」と言ったら、「はい」って簡単に。「おいおい、あんまり簡単に言うなよ」って言ったって、「だめなんです」と。
 それから、値切りしたり、事業を止めたりして、なんとか辻褄を合わせました。
 初年度はそれでできたのです。やる要素がいっぱいあったから。次の年ですよ、苦しかったのは。だいたい切れるところはやっちゃっているので。痩せる思いって、こういうことかと思いましたね。
 そんなことをやって、なんとか22年度決算で、収入の中に占める借金返済の割合が25パーセントを切って〔※〕、「やれやれ、少しは、町民のみなさんにも、お金を使えるね」って。「だけど、大きな災害がないといいね」って言っていたのですよ。
 それがこれですよ。震災と原発事故です。当たっちゃったのです。それだけ無念ですよね。
 だから、「事故はない。事故は起きない。絶対に大丈夫だ」って言っていた連中には、つらく当たるのです。

〔※双葉町は、2010年度決算にもとづき、財政健全化団体の指定から外れた。〕



日本のメルトダウン


――双葉町の再生に向けて、おっしゃりたいことを。

井戸川:未来志向の中で、わたしたちは生きていかないといけないなと。逆戻りできませんから。
 だから、双葉町民が、双葉町に戻って、復興という名の下に、放射能の掃除をしたりするということで一生を終わってしまうような人生を選ばせたくないと思う。
 日本だって、そうしないといけないのではないですか。日本が沈んじゃって、若者が今は正社員になれないとか、雇ってもらえないとか、なんか経営者も力がないですよね。最近いっぱい大企業の誤魔化しが出てきたけど、これはなんとかしないと。
 よく成人式とか卒業式で、希望とか未来って言葉を言うけれども、あの言葉に、ものすごく胸が痛むのですよ。
 私は、今日、取材を受けてよかったと思います。わたしがずっとしゃべりたいことをしゃべらせていただきまして。
 ただ、問題は、取材だけで終わらずに、日本という形を変えていく上で、今は、大事な時期だと思うのです。今回のメルトダウンというのは、日本のメルトダウンだと私は思っています。政府がああいうふうに醜態をさらすというのが、日本の姿なのですね。日本が、なんともやりようがなくて、あんな形で右往左往したわけですから。たんなる原発のメルトダウンではなくて、日本のすべてがメルトダウンした。このことは、みなさんと共有したいのですよ。
 だから、どうやって、日本をもう一度、立ち上げていくのかということに、汗を流すべきだなと、私は、思っています。






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  1. 2013/02/15(金) 15:39:00|
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【論考】  「仮の町」構想と民主主義の再生    双葉町の試み

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〔「7000人の復興会議」・いわき市会議 10月14日〕



 福島原発事故をめぐる問題は、依然として多岐にわたる。事故そのものの収束作業にかかわる問題、子どもをはじめ被ばくしている人びとの健康をめぐる問題、家や土地を失った人びとに対する損賠賠償の問題など。そうした多岐にわたる問題の大きな一つとして、事故以来、全住民が避難を余儀なくされている町の再建・復興の問題がある。浪江町、双葉町、大熊町、富岡町では、「仮の町」という構想をめぐる議論が本格化してきている。
 本稿では、双葉町の取り組みを中心に見て行きたい。




【Ⅰ】 「仮の町」とは



 「仮の町」構想とは、福島第一原発事故によって高濃度の放射能に汚染され、長期にわたって帰還できない状態の自治体と住民が、集団で移転しようという構想。全域が避難区域となっている浪江町、双葉町、大熊町、富岡町が、「仮の町」構想を検討している。
 住民の数は、浪江が2万1千人、双葉が7千人、大熊が1万1千人、富岡が1万6千人、合計で5万5千人に上る。なお、福島県民全体では、約16万人が依然として県内外で避難生活を余儀なくされている。


9月から協議会


 「仮の町」という構想が最初に提起されたのは、昨年末、双葉町の井戸川克隆町長による。今年3月には、浪江町の復興検討委員会が「町外コミュニティ」を整備する案をまとめ、大熊町の復興計画検討委員会が「仮の町」の素案を町長に提出、双葉町が「仮の町」移転構想関連予算を可決と、自治体の側が、「仮の町」へ動き始めた。
 国は、当初、自治体の側からの「仮の町」構想の動きにたいして否定的な態度を取っていたが、ようやく6月に入って復興庁や総務省などによる「仮の町」支援体制を発足させた。そして、9月には、避難側の自治体である浪江、双葉、大熊、富岡の各町と、「仮の町」を受け入れ側である会津若松、福島、郡山、二本松、いわき、南相馬の各市との協議会が始まった。
 浪江、双葉、大熊、富岡の各町の「仮の町」方針は以下のようになっている。

【浪江】 具体的な設置場所は未定。いわき市を希望する者が多数
【双葉】 具体的な候補地は未定。役場機能はいわき市に移転する方針
【大熊】 5年後を目標に、いわき市周辺に設置する方針。
     また現在、避難拠点を置いている会津若松市、さらに郡山市や福島市にも
【富岡】 町内の低線量地区といわき、郡山両市の計3カ所に仮の町を設置する方針




【Ⅱ】 「仮」なのか、恒久なのか



 「仮の町」には、「あくまでも元の町に戻るまでの時限的な」という含意がある。しかし、「では、戻れるとすればいつなのか」という問題がある。それは、放射能汚染の現状と今後の推移をどう見るかということに関わる。また、それに踏まえつつ、主体的な選択の問題として、「戻るのか、戻らないのか」という問題がある。これは、住民にとって、簡単に割り切れる問題ではない。双葉町民から出されている声を紹介する。


戻りたい、戻れない


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〔双葉町郡山地区にある農家。この地で16代続いてきたという。昨年7月一時帰宅時。住民の方より提供〕


「牛、米、山菜、茸・・・。その宝の町から、原発事故によって一瞬にして、追い出された。双葉町に戻ることはどうしても叶えたいが、放射能という悪魔が何十年と続くことを思うとすぐには帰れない」
「双葉町は、100年以上、中には300年以上続いてきた家もある。そういう家が住めなくなったことのショックは単純に割り切れるものではない。『ご先祖様が残してくださった土地を自分たちの代で絶やしてしまう』ことに対する悔しさを感じ、それが精神的負担になっている。新しい生活がしたいとは思っても、気持ちの面では中々前に進んでいくことができずにいる」
「町民の心は『永年住み慣れたところに戻りたい。帰りたい』。これは全町民の願いでもある。しかし現実はどうだろう。高齢者は双葉町に帰りたいと言うが、子ども・若い人は放射能に汚染された双葉町に戻るだろうか。町に若者が戻らなければ、20年後には、老人だけの限界集落になって崩壊してしまう」
「残りの人生を考えると、少しくらい線量が高くても、私たち夫婦で双葉に住んで、双葉で野菜を作って生活したい。それが原因で死んでも構わないから、帰るタイミングは国が決めるんじゃなく自分で決めたい」
          (以上、「双葉町復興まちづくり委員会」に寄せられた委員の意見より・要旨)

 断ちがたい故郷への思い、先行きの見えない不安、新しい生活に踏み出そうとする葛藤がある。また、高齢者と若者とでは、将来への思いや現実の受け止め方も違う。
 こうした中で、双葉町では、町のアンケートによれば、住民の約半数が「仮の町は必要」と答えている。


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〔地震で倒壊した双葉町内の民家。今年7月に一時帰宅時。住民の方より提供〕


150年かかる


 「元の町に戻れるのか。戻れるとすれば、いつ戻れるのか」。この問いに簡単に答えることは難しい。しかし、住民の思いを受けとめた上で、科学に基づいた見通しと判断を示す必要がある。
10月16日、臨時町役場がある加須市で開催された「双葉町復興まちづくり委員会」で、同委員でもある木村真三・独協医大准教授が、「チェルノブイリに学ぶ福島・双葉町の現状」と題する講演を行った。
木村氏は、長年、チェルノブイリの実態調査に携わり、また福島原発事故直後から現地に入ってきた経験とデータに踏まえ、双葉町の放射能汚染の現状と見通しについて見解を示した。木村氏の報告は概略、以下のようだった。

<双葉町の空間線量は、低いところでは毎時0・3マイクロシーベルト程度に下がっているが、最も高いところでは、毎時20マイクロシーベルトを超えている>
<10月2日に町内で採取したコケ類から、最大キロ当たり約57万ベクレルの放射性セシウムが検出された>
<こんなに空間線量が高いところを除染するのは意味がない>
<町民が町内に帰還するまでに、少なくとも150年はかかる>


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〔家の中は、地震でものがひっくり返っている上に、壊れた屋根から雨水が入り畳や衣類が腐ってしまっている。昨年7月一時帰宅時。住民の方より提供〕


 「戻れるまで150年はかかる」。辛い現実を突きつける見解だったが、この講演を聴いた町民のひとりは、「概ね、その通りだと思う」と、静かに受けとめていた。
 もちろん、住民にとって、そこは自分の土地なのであって、「戻る権利」がある。町としてはいずれ必ず戻るし、住民は誰しも戻る権利があるということを確認した上で、やはり、何世代かにわたる長期の移住を構想する必要があるだろう。
 そして、その際、重要なことは、その町の再建・復興が、原子力ムラの再生であったり、都市への再度の従属であってならないということだろう。
 この観点を留意しながら、以下で双葉町の取り組みをもう少し詳しく見て行きたい。




【Ⅲ】 双葉町・7000人の復興会議



 双葉町は、約7千人の町民が県内外に避難している。県内に3千600人、県外に3千300人。県内では、いわき市に1千300人、郡山市に700人など。県外では埼玉県に1100人のほか、北海道から沖縄まで各地に散らばっている。
 役場機能は、震災以降、埼玉県加須市に臨時に移動しているが、10月に入って、いわき市南部の勿来地区に移ると発表された。


町民自身による

 
 双葉町の復興への取り組みは、以下のような形で進められている。
 ひとつは、有識者と町内各団体の長などを中心とした「復興まちづくり委員会」。もうひとつは、「町民みんなが主体的に参加して復興まちづくりを考える」という「7000人の復興会議」。この二本立てで進められている。
 この取り組み方はユニークだ。一般的には、町の有力者が中心になり、外部の機関に委託するなどで計画案を作成し、それができあがったところで町民に提示し、承認を取り付けるというやり方になるのが相場だろう。ところが、双葉町では、先に計画案を作成するという作業をあえて行っていない。
 「7000人の復興会議」では、「みんなでまちづくりとは」として、その趣旨を以下のように述べている。

「・・・町民1人1人の思い、これからの生き方、町の在り方について、町民全員から意見を求め、みんなで考えていく。・・・ 町とは、道路や建物などハードがあっても機能しません。そこに暮らす人がいて、その人達の営みがあって支えあい、町として機能するのです。・・・1人1人の事情や思いを吸い上げ、すべての町民の復興が成しとげられるよう、助け合う関係づくりを育むとともに双葉町の復興まちづくりを、町民の手で実現したい・・・。・・・町民自らが担い手となり、みんなの手で早期の復興を目指します」
     (「7000人の復興会議」専用サイトより・抜粋)


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〔ワークショップの様子。10月14日いわき市内〕


会議で様々な意見


 10月14日、いわき市内で開かれた「7000人の復興会議・いわき市会議」を取材した。
 避難先が全国に散らばっている中で、8月から、福島市、東京、新潟・柏崎市、埼玉県・加須市と、避難している町民の多い地域を巡回して、会議が開催されてきた。その5回目。この日の会議への町民の参加者は約40人。いわき市内に避難している住民で、初めて参加する人たちばかり。
 参加者は、5~6人のグループに分かれてテーブルを囲んで座った。ワークショップ会議という形式で、意見を出しやすくする工夫だ。「復興に向けて」という設定で、自由に意見を出し合って行く。出された意見をその場でカードに書き込んでいく。さらに、その意見がその場ですぐに「7000人の復興会議」の専用サイトにアップされる。サイトへのアップは会議のサポーターが行っていた。会議の終盤に、各グループから、意見・議論の発表が行われた。
 グループの討論では、以下のような意見が出されていた。

「仮設住宅は、不便で狭く、家族が一緒に生活するのは困難。だんだん閉じこもりがちになり、落ちこんでいく」「高齢者はそんなに待てない。避難先で葬式はしたくない」「安住の地がほしい。先が見える場所を決めてほしい」
「もう2年近く経っている。全額補償してもらって、早く次のステップの生活に移りたい」
「仕事、教育などで、現在の居住地を継続したい。仮の町へ帰ることは考えつかない」
「仮の町でなく、真の町に。 日本に一つしかない双葉町ならではの町に。自慢、誇り、心のふるさとに」
「これから先何年帰れないか不安。仮の町はどこにできるのか。病院通いのため、できれば孫たちと一緒の場所に住みたい」
「できれば双葉の人と一緒に集まって住みたい」
「『双葉町は帰宅困難である』とはっきりと言ってもらいたい」
「双葉町という行政組織はなくしてもいい」
「町の場所を一つに決める。そして町民に復興スケジュールを見える形で提示する。心がだいぶ疲れているので、見通し、目標を持たせる。そして町民ひとりひとりが役割をもって町づくりをする」


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〔ひとつのグループがカードに書いた意見。10月14日いわき市内〕


 「仮の町」を必要とし、それをどう実現するかという意見とともに、当面する避難生活の苦しさとその改善を求める切実な意見も出ている。また、すでに避難先で生活再建を進めており、「仮の町」ができたとしてもそこに住まないという意見など、立場や条件の違いも出ている。
さらにまた、以下の様に、「仮の町」の是非以前に、この会議の形や進め方にたいする戸惑いや異論も出ていた。

「期待はずれだ。町長と話をしたかった」
「町は、どんな基本構想を持っているのか」
「町と町長が出てこないと話ができない」

 これも重要な意見だ。このことを含め以下でもう少し検討したい。




【Ⅳ】 「仮の町」をめぐる諸課題



法律・制度上の課題もあるが


 たしかに、自治体の中に別の自治体をつくることは前例がないことで、多くの課題が指摘されている。
 有識者は、税金や選挙権、住民票はどうなるのかといった法制度上の課題を提起している。「二重の住民票がカギを握る」という指摘もある。
また、受入側の自治体には、人口増に伴う交通渋滞の発生、教育・医療など公的サービスの負担増などの課題もある。主要な受け入れ側自治体となるいわき市は人口33万人。このいわき市に、双葉郡8町村から約2万3千人が避難している。それに伴って、すでに、住民同士の軋轢という問題も生じている。
 その関連からも、「仮の町」は、一か所に集中してつくるのか、それとも、数か所に分散してつくるのかということも議論になっている。
 このような法制度や行政上の課題があるのもその通りだが、同時に、より本質的な問題を議論する必要があるように思う。


主体は誰なのか


 重要な課題を提起している意見が、双葉町出身の大学院生で、「復興まちづくり委員会」の委員になっている人から出されている。

 「いくら便利で都市工学の視点から優れた町になったとしても、いままで積み重ねられてきた歴史や文化、人と人との繋がりを捨象した町では、双葉町を称する意味がないと思う。仮の町は、そこに生活する人の実態を無視した便乗型復興論ではなく、そこに生活する人々の実態と求めているものをくみ取った上で、現実と理想とを折衷して構想を立てていく必要がある」
  (「復興まちづくり委員会」に寄せられた委員の意見より・抜粋要旨)


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〔いわき市南台にある双葉町の仮設住宅。400人以上が避難生活を送る。10月17日〕


 「仮の町」は、規模からすれば、1960年代に全国で進められたニュータウン開発のようなものとも言える。ディベロッパー、ゼネコン、コンサルタントなどが、跳びつきそうな話だ。そもそも、政府の復興構想会議は、「創造的復興」と打ち出している。経済産業省などは、「ピンチをチャンスへ」を標語にした。要するに、ビジネスチャンスだと言うのだ。実際、宮城・岩手などの被災地域では、復興計画がコンサルタントなどの手によって次々と描かれている。有識者が集まり、自然エネルギー事業で雇用を生むだとか、観光で経済を活性化するなどといった夢物語を語っている。
 しかし、そこには被災した住民の実情や思いが全く反映されていない。誰のための復興なのかという問題が抜けている。
 また、たしかに住宅は必要だ。「仮設住宅は作りました」「はい、次は復興住宅をつくりますよ」。これが国のやり方だ。しかし、住宅は、あくまでも、被災住民が必要としているものの一部分に過ぎない。町としての機能が必要だし、生活のための手段が必要だし、仕事が必要だし、住民同士のつながりが必要だし、教育や文化が必要だ。
 そして、何よりも重要なのは、町づくりにとって何が必要なのかは、そこに住もうとする人たちがよく分かっていることだ。その人たちを措いて町づくりも復興もあるわけがない。
 その点で、双葉町の「7000人の復興会議」の取り組みからは、指摘されているような「便乗型復興計画」ではなく、住民が主人公となって進める「復興まちづくり」を目指そうという姿勢が伝わってくる。


国の本音は


 最初にも触れたように、国は、「仮の町」構想に否定的な態度をとっていた。
 なぜか。国は、そもそも、「長期にわたって帰還できない」という厳しい現実を認めたくなかったということがあるだろう。
 国は、原発推進に固執する立場から、事故による放射能汚染の被害を、できるだけ小さく見せることに終始している。そういう意図から、昨年8月、除染方針を大々的に打ち出し、「除染すれば早期に帰還できる」という幻想を煽ることに躍起になっていた。
 しかし、実際に除染に取りかかってみると、厳しい結果を突きつけられた。除染ではほとんど何も解決しないし、得をするのはゼネコンだけだということが、広く知られるところとなった。
こうした現実を突きつけられる中で、国は、避難自治体の「仮の町」構想を容認する方向に転じたわけだ。

◇統治の問題

 いまひとつ、国が、「仮の町」構想に否定的な態度をとった理由が考えられる。
 国にとって、自治体とは、住民を統治する機構に他ならないという問題だ。もちろん、憲法上の建前では、自治体は国とは別で支配は受けないとなっているが、実態は、国の下で、徴税と治安維持のために住民を管理し、国策のもとに住民を誘導する機構になっている。原発を立地する過程も、その後のプロセスも、自治体という機構が大きな役割を果たしてきたことを見てもこのことは明らかだ。
 ところが、原発事故によって、この自治体という機構が壊れてしまった。そして、苦しみと怒りを抱えた数万人の住民が、国として、掌握のできない状態で存在している。この住民たちが、「仮の町」という不定形な形で動き出すことに対して、国が統治上の不安を感じ取ったとしてもおかしくはない。
 つまり、「仮の町」構想を、本当に、住民を主人公にして進めようとしたとき、どこかで国と対決せざるをえない局面が訪れるだろう。そういう形で真価が問われるという課題もある。


原子力ムラの支配秩序


 住民が主人公となった「復興まちづくり」が双葉町の議論で試みられていると、上述してきたわけだが、本当に住民が主人公になるためには、課題もまた大きいということも、現場の議論から気づかされる。
 ひとつは、先に紹介したように、会議の形や進め方に戸惑いや異論が少なからず出ており、町長に出席してもらわないと話が進まないとする意見や町の方からまとまった方針を示してほしいという意見が出されていることだ。これをどう見るか。
 <政策は誰かが上の方で作ってくれるもの>という観念、あるいは<どうせ上の方で決めてしまうもの>という諦観が、ここにはある。
 いまひとつは、会議など公の場で、堂々と持論を展開するのは、往々にして、地域や団体の役職についている有力者たち。そういう「声の大きい」人たちの意見が前面に出て、それをもって「住民の意志」とされてしまうという問題である。
 この二つの事柄は表裏一体の関係をなしており、これまで長い間、東電を頂点にこの地域を支配する秩序、立地地域における原子力ムラの秩序をなしてきたものである。
さらにいえば、それは、福島に留まらず、われわれ全体が慣れ親しんできた「民主主義」の実態でもある。ただ、都市部では、後者すなわち地域の有力者支配が崩れてきたため、その代わりの仕組みとして、石原や橋下のようなポピュリズムが導入されている。しかし、本質的には何も変わっていない。


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〔全町民に配られているマイノート。普段感じたことや考えたことを書き留めておき、後に復興会議に提出する。ワークショップ会議、専用ウェブサイトと並んで、町民が自分の意見を公に反映するツールだ〕

◇声にならない声に

 一方で、まだまだ意見を言えない人たち、「声の小さい」人たちがたくさんいる。自分の意見を述べ、それを全体に反映させる機会を持っている人はまだまだ少ない。
 たとえば、世帯ごとにアンケートをやれば、やはり「家長である旦那」の意見が反映される。地域で役職があるわけでもなく、家族の中でも「姑」との関係がある「嫁」は、言いたくても言いたいことは言えない。若者も、おやじ世代のやっていることに対して、いろいろ意見を持っていても、それを公に表明する機会は持っていない。
 そういう人たちが声を挙げ始めることで初めて、原子力ムラの支配秩序も突き崩されていくことであろうし、双葉町の試みも、本当に意味で成功に向かうことであろう。
 だからこそ、声にならない声に、すべての人びとが耳を傾ける必要がある。そして、たとえその声が未だ声になっていないとしても、それを聞こうとし続ける姿勢が求められている。それは、また、福島の声を、都市に住む者が聞く姿勢を持ち続ける必要があるということにも通じていると思う。
 このような課題に焦点を当てようとしているのが、「7000人の復興会議」だ。日本の民主主義の再生――いや「再生」というよりも、本当の意味で「新たに作り出す」といった方がいいだろう――をかけて、双葉町の住民たちが開始した試みに注目したい。    (了)







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  1. 2012/10/25(木) 20:44:50|
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