福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

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9月11日 6カ月目の久之浜

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 あれから6カ月目の9月11日、ひっそりと追悼の花束が。



この日もガレキ撤去


台風の日も、花火大会のあとも、休まずガレキ撤去の作業は続けられてきた。
6カ月目のこの日も、いつもの作業。

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十円玉など小銭がたくさんでてきた。丁寧に集める。



午後2時46分


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午後2時46分、地震発生時刻。誰からともなく、この時間になったら黙祷をしようという話になって、作業の手を止めて集まった。
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  1. 2011/09/12(月) 14:11:01|
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久之浜・仮設商店街がオープン

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 地震に津波に火災。その上に原発事故。さらに風評被害。地元の人が5重苦という困難の中で、復興を模索する久之浜。
 その久之浜で、休校中の小学校校庭の一角を利用して、9月3日に仮設の店舗による「浜風商店街」がオープン。それから1週間、震災から半年を目前にした9月10日に、「浜風商店街」を訪ねた。


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久之浜小の校庭。除染のため、8月下旬に表土が削られた。
教育委員会は、10月11日から学校を再開するとしている。
仮設店舗は写真奥の車が並んでいる一帯。
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再開できる喜び


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 中小企業基盤整備機構の補助事業で、商店街整備事業としては県内1号。建物と照明などの簡単な設備を整え、中小企業基盤整備機構がいわき市に貸与。入居者の負担は、内装と光熱費。当面3年の期限付き。9店舗が入っている。


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家電の「プラネットさとう」。家と店は、津波では流されなかったが、火災で焼失。仲のいいご夫婦が、力を合わせてここまで来た。


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駄菓子屋の「あかもの屋」。店は辛うじて焼け残ったが、こちらで営業。
お客さんはやはり子どもたち。どれにしようか選ぶときが一番楽しい。


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「からすや食堂」。元の店舗は火災で完全に消失。
今日はサービスで醤油ラーメンが400円。昼は席が空くことがなかった。


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リカーショップの「てんぐや」。被災後、早く営業を再開して頑張っていた。気さくによく声をかけてくれるので、おかみさんのファンは多い。


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「スガハラ理容」。理容仲間が道具を寄付してくれて、再開にこぎ着けた。「いつもの顔に囲まれて仕事するのが本当にうれしいよ」と、仕事ができる喜びで笑顔に。


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「石井魚店」。カツオが早くも売り切れ。


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「山の食 川前屋」。いわき市の北西端の山間部・川前町からも出店。地元の野菜や漬け物がよく売れていた。


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てんぐやさんの前で、やっぱりはじまってしまった。昼から冷や酒。「おめぇも、呑んでげ」



子どもからお年寄りまで


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地元のよさこいチームが踊りを披露。


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おばあさんたちがやんやの声援。


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バッバとお孫ちゃんが自然に踊り出す。さすが。



「サタふく」も生中継


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インタビュー受けるのは、ガレキ撤去で活躍、花火大会を成功させた諏訪神社の高木さん。


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福島テレビの「サタふく」。アナウンサーとスタッフ。


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駄菓子屋では、子どもたちも取材。



子どもたちと家族


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今日は暑いから、「うめー」。


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きょうだいで。


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中央台小に仮編入している久之浜小の3年生。
「いじめをするヤツがいてね、突き飛ばしてやった」と力自慢。


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お父さんといっしょに。


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お母さんといっしょに。


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『久之浜通信』という読み応えのある小冊子を発行している村岡さん。
仮設商店街がはじまったことを喜びつつ、「これからもお客さんが来るのか、3年の期限までに恒久的な店舗を出すだけの蓄えができるのか。これからがたいへんだ」と語った。


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「昨日、津波の夢を見ました」という女性。
「もう半年なんて。まだこの間のことのようで」。
この女性の家は山側で津波の被害は免れたが、以前に住んでいた家が流されて土台だけに。家のタイルの破片を見つけて、思い出に取っておいているという。
「まだ、(津波と原発の災害を)どう受け止めいいのかわかない。そういう気持ち」。
笑顔を絶やさないが、晴れることのない心境を語ってくれた。

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  1. 2011/09/10(土) 17:49:57|
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地元青年とボランティアの活躍  久之浜花火大会 その3

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8月27日の花火大会の全過程終了後、スタッフが現場で集約を行う。ひとりひとり発言し、この企画に参加できた喜びを述べた。


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久之浜花火大会 記事
<その1> 「2000発が夜空を染める」
<その2> 「8000人の賑わい」
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合宿のような一週間


 花火大会が一週間後にせまってきた辺りから、本当にできるのか、間に合うのか、といった不安と焦りが交錯した。
 地元の青年たちと、県外から来たボランティアたちが、渾然一体と、合宿のような状態で、1週間を走り抜けた。
  
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 公民館で自炊。この日の夕食は、炊き込みご飯にレトルトカレーをかけたもの。案外おいしかった。

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 深夜0時頃の会議。地元の青年は、神社の禰宜、居酒屋のスタッフ、工場労働者、食堂の料理人など、様々。県外のボランティアは、東京からはもちろん北海道や関西などから。花火大会の成功のために議論を重ねた。



久之浜の全戸にチラシ配布


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 久之浜の世帯数は、約1500。ここにくまなく、手配りでチラシを入れようということになった。とくに山間部の大久地区は家がまばらで大変。
 家にいる人に直接手渡して、花火大会の開催を知らせると、町の青年たちとボランティアが頑張っていることに感謝の言葉をかけてくれた。そして花火大会を楽しみにし、それが復興の契機になればと語ってくれた。



急ピッチで進んだ設営準備 


 昨日までまったく知らない者同士がいっしょに作業をする。うまく行くのだろうかと思うが、同じ目標に向かって、声を掛け合い、補い合って、作業をしていく中で、不思議と連帯感が生まれる。

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軽トラックの荷台にのって現場へ。笑いが耐えない。


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側溝の蓋が外れていると危険。それを探して塞ぐ作業。この蓋がやたらと重い。


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この女性はスコップや木槌の使い方がうまかった。


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川砂を入れて整地。人数が多いと早い。

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ガレキだらけの風景から、整地され、テントが立てられ、ステージができると、花火大会の雰囲気が出てきた。

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  1. 2011/08/29(月) 19:29:57|
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8000人の賑わい 久之浜花火大会 その2

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久之浜花火大会 記事
<その1> 「2000発が夜空を染める」
<その3> 「地元青年とボランティアの活躍」
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絶望的状況から花火まで

 
 8月27日、久之浜で花火大会が行われた。
 しかし、そんなことは、その数カ月前には、想像もつかないことだった。

 下の写真は、3カ月前、5月の久之浜。
 久之浜の町は、津波に流された上に、火災に焼かれ、町の中心部が失われた。ここで63人の方が犠牲に。さらに原発の爆発で大半の人が避難を余儀なくされた。

 震災から2カ月以上たった5月下旬でも、ガレキはほとんど手つかず。復旧とか復興とかと言うにも、どこからどう手をつけていいのか分からない。ここで生活を再建しようという気持ちにもなれない状況だった。
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 5月中頃から、地元の青年たち数人が、何とかしないと集まった。ガレキの撤去をはじめた。全壊・半壊の家屋の中に詰まったガレキを運び出す作業だ。膨大なガレキに比して、あまりにも人手が足りない。
 そこに福島県内外のボランティアが少しずつ集まり始めた。地元の解体業者との連携も生まれた。しかし行政や町の有力者たちは冷ややかだった。

 ガレキ撤去を始めた頃は、秋には目処が出るか、それとももっとかかるのか、そう話し合っていた。 
 6月、7月とだんだん作業がはかどり、そういう中で、花火をあげようという話が、青年たちの間から持ち上がった。当初のイメージは、花火はせいぜい10発ぐらい、あとはミカン箱の上で決意表明、というものだった。
 そもそも、久之浜での花火大会は、1960年代前半を最後に、途絶えている。だから、どうやったらいいかも、誰も知らない。

 しかし、青年たちが各方面に働きかけ、それに応えて協力を申し出る人びとが生まれていった。寄付も集まりだした。そして久之浜の青年たちの思いをともに実現したいという献身的なボランティアが、全国各地からやってきた。

 そして、せいぜい10発ぐらいと思っていた花火大会が、いつの間にか、2000発を打ち上げ、演奏や出店で賑わい、8000人が詰めかける一大イベントとなった。
 


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久しぶりに笑ったよ


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 花火が始まる遥か前の昼頃、火災で家屋の土台だけが残っているところに、人が集まって、焼き鳥とビールで盛り上がっていた。

 津波前、この場所に住んでいた、ご近所同士のみなさんだ。みな一様に家も何もかも失っている。津波に飲まれ、一時は死んだと思われていた人もいる。 
 津波前は、しばしば飲み会をやったり、流しそうめんをしたりと、近所同士で楽しんでいた。旧街道のなだらかな坂に面しているので、「坂道会」と呼んでいたという。
 しかし、家を失い、避難先もバラバラで、みんなが揃うのは、3月以来、この日が初めて。
 この場所で電気屋さんを営んでいた佐藤さん(69 写真左端)は、「久しぶりに、あっはっはって笑ったよ。津波以来だな」としみじみ。
 この日を本当に喜び、楽しんでいた。

 ここのみなさんの希望は、津波の来ない山側の大久地区へ、近所同士でそのまま移住することだという。
 やはり津波の恐怖は容易に忘れることはできない。
 と同時に、ご近所の同士のつながりは何にも代え難い。



 
子どもたちが戻ってきた


 津波と原発事故以来、久之浜では、子どもたちのにぎやかな声をきくことはなかった。
 自宅を喪失した人たちは、家族で内郷の雇用促進住宅や民間の借り上げ住宅、親戚の家などに避難。また放射能を避けて県外に避難さしている子ども少なくない。さらに、放射能問題があるため、久之浜小学校は閉鎖され、久之浜に残っている子どもたちも、中央台の小学校に仮編入し、スクールバスで通っている。

 この日は、外に出てはしゃぐ子どもたちの姿が戻ってきた。


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ヨウヨウ釣り、水鉄砲などに小学生が夢中。

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かろうじて焼け残った建物で、この日だけ駄菓子屋を再開。
おじさんは人気者だ。

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スタンプラリーでシールをゲット。





踊り・儀式・屋台・発言


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「オットット久之浜」という地元の踊り。
歴史は浅くこの数年だが、学校でも教えていて、みんな知っているという。


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この花火大会は、正式には「奉奠(ほうてん)祭花火大会」。
流失した神社跡で儀式が行われた。


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大久地区の人びとによる「じゃんがら」。
「じゃんがら」とは、いわき市に伝わる念仏踊り。起源は江戸時代に遡るとされる。明治政府は、「じゃんがら」に発露する民衆のエネルギーを警戒して禁止した。

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「じゃんがら」は、新盆の行われる。この年の「じゃんがら」とくに意味深い。


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どこも屋台は大賑わい。

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久之浜の小学生(写真上)と、20代の女性(写真下)などが次々に登壇し、それぞれの思いを言葉にした。


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  1. 2011/08/29(月) 11:11:42|
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2000発が夜空を染める  久之浜花火大会 その1 

 8月27日、津波と原発の被害の大きかったいわき市久之浜で、鎮魂と復興をかけて、花火大会が行われた。久之浜での花火は実に50年ぶり。2000発が夜空を染めた。
 <その1>では、花火の写真16コマをお送りする。



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久之浜花火大会 記事
<その2> 「8000人の賑わい」
<その3> 「地元青年とボランティアの活躍」
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 見事な花火で、感動を与えてくれた平銃砲火薬店の主人。
 風貌も人柄も個性的。


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  1. 2011/08/29(月) 09:46:59|
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ガレ花3 人びとの心にも花を咲かせた

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ガレ花1 ガレキに花を  7月12日アップ
ガレ花2 思いでの映画館 8月16日アップ
ガレ花3 これはアートだ 
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津波と火災の傷跡が残る久之浜。
そのガレキに花を描こうという思いつきから始まった企画。
芸術家でもなんでもないボランティアたちがやってどうなるかという心配もあった。
しかし、やがて、「ガレ花」という名前もできた。
そして、家を失い、あるいは半壊の家に暮らす住民たちが、このガレ花を、心から喜んでくれた。
ガレ花は、久之浜の人びとの心にも花を咲かせた。


下の3つの写真は、解体予定の家屋のガレ花。
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ガレ花が評判になり、現在、住んでいる家の方からも、「こんなにきれいになるならウチもやって」と、ガレ花の依頼が。
下の2つの写真がそれ。
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解体予定の蛸屋さんの家。海と蛸とガレ花を組み合わせた。
その作成風景。
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手前は津波に流された車。
激しく変形した上に、火災で焼け、その後に錆びて、無惨な姿に。


ボランティアスタッフの車。これもアートだ。
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  1. 2011/08/20(土) 17:18:13|
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ガレ花2 思いでの映画館

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津波と原発事故で大きな被害を受けている久之浜。
いまでは想像もつかないが、久之浜に映画館があった時代があった。
1960年代には大変な活況を呈したが、もう廃館になって40年ぐらい経つ。
その映画館跡が震災を期に撤去されることになった。そこで、手向けにこれを飾ろうということになった。

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建物の中はがらんどうだが、スクリーンが残っている。


どう飾るか。花を描くだけではなく、折角だから、映画館らしくデザインしようとなった。
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こうしてフィルムのイメージで飾ることに。
廃墟が明るく蘇っていくようだ。


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通りがかった高岡英子さん(77)が、「若い人たちがやってくれて。うれしいねえ。気持ちが明るくなるよ」と声をかけてくれた。

高岡さんは、双葉郡楢葉町の生まれ。結婚して久之浜にやってきた。当時、楢葉町から見たら、久之浜は賑やかな町場だった。
飾られた映画館跡を見て、その当時を思い出したという。
「当時は貧しかった。仕事もきつかった。だから土曜日は女の人たちの楽しみ。映画に集まってワイワイ。思い出がいっぱい」。

まるで映画を見るように、津波後の現在と、はるか昔の人びとの喧噪が重なって見えてきた。

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  1. 2011/08/16(火) 15:46:42|
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ガレキに花を

津波と火災で町がガレキとなった久之浜。
かろうじて残った建物に花が咲いた。

このお家は時計屋さん。この付近20軒で、ここに残ろうとしているのは2~3軒。この家の住人は、避難所生活に耐えかねて、電気も水も復旧しない4月中旬から、ここに戻って生活再建をはじめた。
この家に住み続けるつもりで、明るくしてほしいと花の依頼が。
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久ノ浜駅からよく見える土蔵にも。
近くで、倒壊を免れた家の人が、「朝、窓を明けたら花が描かれているのでびっくり。思わず娘を呼んで、見て、見てって叫んだわ」。
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作業の様子

① 壁に、燃え残った木片で下書き
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② スプレーで下塗り
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③ 次に型をあててスプレー。これで花の中に花が
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④ どんどん色を重ねていく。重ねるほど不思議な模様に
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⑤ 高いところも梯子で
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⑥ 完成。少し離れて見ると、更地になってしまった中、燃え残った一軒に花が咲いている
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  1. 2011/07/12(火) 21:16:43|
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3・11から4カ月目

津波から4カ月目の7月11日。
気温は30度を優に超えているだろう。この日も久之浜でガレキの撤去作業が続いた。
30人近くのボランティアが参加。1日で2件の撤去を完了した。

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地震発生時刻の2:46に作業の手を休め、黙祷

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一軒でこれだけのガレキが出る

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  1. 2011/07/11(月) 20:39:20|
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6月の久ノ浜 

5月中、行政は、壊滅状況の久之浜にほとんど何もしなかった。8社の零細な解体業者を手配しただけだ。

久之浜の住民は、屋内待避が4月22日に解除されるまで動きがとれず、その後も、今後の津波対策や原発事故の状況から、久之浜にこれから先、住むことができるのかどうかと、不安を抱いている。そして、誰からも明確な方針が示されないことに、先が見えない苛立ちを募らせている。

そういう中で、久之浜といわきの青年たち数人が、倒壊した家屋の中に詰まったガレキを撤去する作業を自主的にはじめた。人づてにその話が伝わり、様々な人びとが参加し始めた。

倒壊した家屋の持ち主に連絡を取り、解体か修復かの意志を確認し、ガレキを取り除き、分別し、解体業者に引き継ぐ。この過程に行政は介在していない。自主的な行動だ。
この作業が週7日、休まず行われている。朝10時頃、久ノ浜の諏訪神社社務所に集まり、4時頃まで。少ないときは3~4人、多いときは30人ぐらい。近くは福島で自らも被災した人がかけつけ、東京・関東からも入れ替わり訪れ、遠くは関西や北海道から、1日だけの人も、1週間から1カ月の人もいる。

久之浜の住宅地図に、全戸の破壊状況を集約している。諏訪神社の社務所が、実質的なセンターになっている。
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土蔵の中。何十年も昔のもの、家族にとって大切なものが出てくる。多くは海水を浴びてしまって使えない。
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破壊がひどいため、どこから手をつけたらよいか、作業の展望が見えず、重たい気持ちになる。
それは、その家の人にとってはもっと重い。ついこの間までそこに生活していたのだから。ひとつひとつに思い出があり、手が止まってしまう。
外からボランティアとしてきた者は、そういう人の思いを慮りつつ、撤去作業を進める。
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重機が使えるのはガレキの撤去が終わってから。それまでは手作業で進めるしかない。
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この日初めて出会った者同士が、地元の青年をリーダーに、共同作業を進めていく。はじめはぎこちないが、声を掛け合う内に、連携がうまくいくようになる。そうなると、何か同志的な気持ちが芽生え、一軒をきれいに開けたときは達成感を味合う。
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始めは、何もかも諦めているような印象を受ける家主の人も、ボランティアたちの丁寧な作業と、ガレキが撤去された家を見て、前向きな気持ちになっている様子がわかる。
この家の人は、代々100年暮らした家に、感謝の気持ちを表していた。
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  1. 2011/06/30(木) 21:00:10|
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5月の久之浜

津波から2カ月たつ久之浜。漁師町として賑わいのあった町が、津波と火災によって、一面焼け野原。戦災のあとのようだ。
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被災した車。津波の力でアルミ缶のようにひしゃげ、火の勢いで焼けただれている。
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砲撃を受けた後のように見えるマイクロバスCIMG1459_convert_20110716111358.jpg


ポストの変形が、津波と火災の激しさを物語る。CIMG1386_convert_20110716102407.jpg


土台だけ残った家の跡に花束が。
「おじさん 早く帰って来て下さい ばあちゃんも、みんなも待ってます」という添え書き。
久之浜で49人が亡くなり、14人が不明に。
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家は跡形もない。庭だったことも言われないわからない。でも泥の下からお母さんが植えた草花が。
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津波到達時刻を指したまま。
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「捜索終了」の張り紙。この家の人はどうなったのか・・・CIMG1457_convert_20110716110534.jpg


漁協に残る看板。高木よしおさんは、久之浜を代表する形でいわき市議をつとめていた。津波の第一波は逃れ、救援に奔走する中、第二波に飲まれた。誰に聞いても「いま、よしおさんがいてくれたら…」と残念がる。
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海岸近くにある幼稚園。園児たちと職員は、この向かいにある高架の上に避難して全員無事。
しかし園児の無事を確認した後、自宅を様子を見に戻ったお母さんが、第二派の津波に飲まれた。

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3月11日以前と以降で海の見え方が違うとも言う。地盤が大きく沈下したため、海が高く見えるようになったらしい。
漁場であり、遊び場であり、ずっと親しんできた目の前の海のことを、あれ以来、地元の人は気持ちの上で遠ざけているように見える。

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ツバメが来た。変わり果てた風景に、戸惑っているようだ。
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大きなクロハエが大量発生。水産加工業が多く、そこから流れ出たイカやタコが腐敗し悪臭を放つ。
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「何度来てもないなあ」
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遠藤十九二さん(とくじ 77)は、避難先から散歩がてら自宅跡を見に来ている。土台だけ残った自宅前で、遠山さんに会った。
「ここは加工場、向こうの祠は、子どもの頃の遊び場で、思い出の場所」
「何度来てもないなあ~」。流された自宅はもうそこにはない。自身に言い聞かせるようにそうつぶやいた。

遠藤さんの家は堤防の際にあった。ここで息子さんと2人で漁具を商っていた。久之浜にあがった魚は、「常磐もの」と呼ばれ、筑地で良い値がついたという。200カイリの設定で、サケ・マスなどの遠洋漁業が打撃を受け、大きなところが廃業に追い込まれる中、久之浜の漁民は、いわき沖の近海魚で漁業を続けてきた。

「みんな、ここで家を直して暮らすことに、二の足を踏んでいる」。なぜなら、「舟はあるけど、家はないから」。地震発生直後に、津波を避けて舟を沖に避難させたので、舟が残った漁師は多い。が、漁師の家が堤防よりに多く、ほとんどが家を失った。
しかしそれだけではない。「本当はいまはシラス。6~8月は禁漁で、9/1からまた漁が始まる。でも原発事故で海が汚染しているからね。もう無理だろう」。

原発にたいする怒り、それを受け入れてきた経緯にたいする憤りが吹き出す。
「原発ができた頃、40年前から不信感をもっていた。人間がつくったもので、完全なものはない。作ったものは壊れる」
「(反対運動はどうだったのかという問いに)ムシロ旗の話もあったけど。半農半漁だから、金が入って、行動にならなかった」と無念そうに語る。
「福島第一原発(1~4号機)を1基つくるたびに、補償金が入っている。それは全部、船主と乗り子で分けてしまった。そして、家を立て直したり、借金の返済や赤字の穴埋めに使っちゃった」。
「電源三法で何ができたって?小学校の照明、中学校の楽器、村の運動場、消防が手押しのリアカーから車になった。そんなぐらい」
漁具商である遠藤さんは、漁業の一環ではあるが、漁師ではない。だからこれまで一切補償金はもらっていない。
今回初めて、久之浜が4月22日まで屋内待避地域に指定されたため、東電から100万、また家屋を失ったため、県から見舞金45万を受け取った。
その点で、漁期が限られ、半農半漁で行くしかなく、常に借金を抱えている漁師の大変さに理解を示しつつ、漁師が金に負けたことにたいして、厳しい批判を持っている。
「はっきりいって(漁師とそうでない人との間には)溝がある」
 

しかし、遠藤さんはそのあとにこう付け加えることを忘れなかった。
「なんで東京に原発をつくらないのか。東京の人間のためになんでこんな目にあわなければならないのか。それが本音。原発との共存共栄なんてありえない」

 遠藤さんは、厳しい言葉のあと、それを和ませるように、「まあね。ソフトボールの審判を25年もやってたからね。ものごとをはっきりさせたい性分なんだ」と笑いかけてくれた。






30キロ圏内の久之浜末続地区


久ノ浜駅までは5月中旬に開通したが、この駅には電車は来ない。

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末続地区の住民の数はもともと少ないが、海岸線の家はほとんど壊滅している。
久之浜全体の復旧が遅れているが、その中でも末続地区は5月末にやっと重機が入るという遅さ。放射能の危険についてもどこからも通知はない。住民は捨て置かれていると感じている。

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  1. 2011/06/01(水) 11:18:56|
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原発は東京へ持っていけ  畳看板を出した新妻完之(さだゆき)さん


震災から約1カ月後の4月7日、福島第一原発から約30キロ圏に近い国道6号線沿いに、「原発どこかえ もってけ」と、大書した畳の看板が出た。
6号線は、もともと江戸と仙台を結ぶ陸前浜街道。福島第一原発の建設工事の際、アクセス道として拡幅・整備された。いまは事故処理作業にむかう東電や自衛隊の車両がひっきりなしに通る。
そこに畳看板を出した新妻完之(さだゆき)さん(68)を訪ねた。


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太平洋に面して、南北にのびる波立海岸。堤防に沿って国道6号線が走る。その道沿いに久之浜町田之網地区の集落がある。
いまは穏やかな海が広がっているが、3月11日、津波に襲われた。国道沿いの家はほとんど全半壊。1階を津波が突き抜け、柱だけが残っている状態。同地区約100戸で5人が亡くなり、3人が行方不明だという。
その上に原発事故だ。
新妻さんも、水素爆発直後から2週間、いわき市南部の娘さん宅に身を寄せた。そして、いまは近くの知人宅から、昼間、壊れた家の修復に来ている。そこでお話を聞いた。
新妻さんは、3歳のとき、東京から、親の実家である田之網に戦争で疎開してきた。そしてここで育ち、地元の製造業で40年働いた。「私はここに愛着がある」という。
単刀直入に、「あの看板をだされた気持ちを聞かせて下さい」と切り出すと、「座って話しましょう」と、作業の手を休めて、材木の上に座るように勧めてくれた。
〔以下、新妻さんの話〕

       ・  ・  ・  ・  ・  ・

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現場にいない記者会見


ニュースで、東電とか大臣の記者会見をやっているけど、東京にいて何でわかるの。地元が放射能でこれだけ逃げ回っているのに、どうして東京で記者会見できるの。ファックスとか電話だけでどうして答弁できるの。
こんな大惨事で、世界のフクシマになってしまっているのに、記者会見が、何で10キロとか20キロのところに、現場事務所をおいてやれないの。
それを見ていて、わたしはもう腹わたが煮えくりかえってね。



石原・天罰発言


もうひとつは、東京都知事・石原慎太郎。あえて呼び捨てにするけど。「津波は天罰」と発言。
津波で何十万人(が被災)でしょ、そして原発でしょ。いまだってみんな逃げ回っているんだから。かわいそうだよ。家を捨て、牛・馬・豚・鶏…みんな殺処分でしょう。かわいそうだよ、あれは。
そういう中で、ああいう言葉は…。もう心が張り裂けそうになってね。
あの言葉は、おれは絶対に許さない。あとで謝罪して撤回したみたいだけど。一回言ったら、消えないからね。腹にあるから出たんだ。撤回したって、絶対に許さない。
地元の人らにとって、あの言葉は一生、頭から離れないし、消えない。



東京へもっていけ


東京電力の電気は、地元では使ってないんだから。1ワットも。みんな東京さ、引っ張っていくわけだから。それが三つ目の腹が立ったことさ。
畳に「原発はどこかえもってけ」と書いた。本当は、「原発は東京さもってけ」と書きたかった。
だけど、東京の人がみんな悪いわけではないんだから、「どこかえもってけ」にした。だけど本当は「東京へもってけ」と言いたかったわけ。



ムシロ旗


通る車に、チラシを配るんでも良かったんだけど。そんな暇もないし。それで、ちょうど家の流れた畳を、そこ(6号線)の下り線・上り線のどっちからも見えるように、2枚ずつ立てた。
江戸時代は、ムシロ旗に書いたよね。それが一番いいんだろうけど、それじゃ雨風で飛ばされちゃうから。それで、畳にすれば、残るんじゃないかと、畳1枚に一文句づつ、「原子力はいらない」「原発はいらない」と書いてね。




原爆投下と原発


原発が来たのが40年ちょっと前(1966年に1号機の設置許可)かな。私が20歳ぐらいのとき。
「原発? 原子力? 広島や長崎があれだけ戦争でやられて、原爆を落とされて、なんでまたそれを福島にもってこなければならないのか」と、そういうふうに私は思っていた。
まだ社会のことはわからなかったけど、そういう危ないものをどうしてここさ、もってこなければならなかったのかなと思っていた。回りもみんなそう。
原子炉というのはどういう設備で、どういう風にやるという説明もなく、「ただ原発ができるようだ」ということを聞かされただけ。
そして結局、いま被害を受けている。しかも、放射能のこともあって、(久之浜は)復興がいちばん遅れている。
そういう諸々の思いがあって、畳に書いた。
近所の人もみな同じ気持ち。「完之君、よくあげたなあ」って。

       ・  ・  ・  ・  ・  ・


胸の内が晴れた


新妻さんの話は、静かで丁寧な調子で始まったが、次第に怒気を含んで、声が大きくなっていった。
その憤りは、政府や東電に向けられているとともに、福島に原発を押しつけておきながら、そのことに無関心できた都市の人びとにたいする糾弾でもあった。そして反原発がお題目に過ぎなかった左翼にも。
しばらくして厳しい語り口から、また穏やかな調子に戻って、「話をして、少し胸の内が晴れました」と言ってくれた。



何者かが撤去


実は、畳看板は今はない。5月7日、朝、新妻さんが、いつものように家の片づけに来たら、番線が切られ、畳がなくなっていた。「だれが持っていったかわからないけど、普通の人じゃない。東電の人か。ひとりではできないから」。
当初、「取られても、何度でも立てるぞ」と思っていたけど、いまは少し考えている。「いま原発の現場で作業している人は頑張っている」。この人たちは、大臣や東電幹部とは違うと思っている。「(畳看板を)外した人がそういう人だったら、わかる気もする」。
いずれにせよ、新妻さんや田之網地区の人びとの原発と政府・東電にたいする憤りは収まるはずもない。やがて、畳看板撤去の真相が見えてくるとともに、より大きな怒りが、より大きな方法で叩きつけられるに違いない。

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  1. 2011/05/17(火) 16:21:01|
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