福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

毎週金曜日の抗議と17万人の「さよなら原発」


yyg0716-02.jpg





 7月13日に行われた首相官邸前の抗議行動と、16日に行われた「さよなら原発10万人集会」に参加した。

 



官邸前で、抗議、抗議、また抗議

 

kti0713-01.jpg


 13日17時過ぎ、霞が関。普段なら帰宅の流れになる時間帯。しかし、毎週金曜日だけは違う。この日も、地下鉄の駅出口から、続々と人が流れ出てきた。
 官邸方向に向かう歩道上で、福島原発事故と大飯原発再稼働にたいする抗議が始まっていた。


kti0713-02.jpg

kti0713-03.jpg


 この日、駅出口の階段を上ると、警察官が多数並んでいた。鉄柵や装甲車を配置して、官邸に向かう歩道の通行を制限。「参加者の安全確保のため」と説明している。が、どう見ても、抗議行動を妨害している。


kti0713-04.jpg

 
 多くの人が、官邸前にたどり着けいないまま、その場で、声を張り上げた。
 再稼働を決断した野田首相にたいする抗議と、市民の声を力で押しつぶそうとする警察に、抗議の声は一層、高まった。





17万人の「さよなら原発」



 

yyg0716-01.jpg


 作家の大江健三郎さんらの呼びかけで開催された「さよなら原発10万人集会」。10万人どころか、17万人が集まった。第一ステージのあるサッカー場も、第二ステージのあるイベント広場も、周辺の植え込みも、人で埋まった。
 参加者の表情を見ると、各種の運動にかかわっている人びとも少なくないが、個々人の思いで、家族や友人らと集まった人びとも、たくさんいた。

 会場の第二ステージでは、11じ頃から、音楽のライブやトークが行われた。 
 そして、第一ステージでは、12時過ぎから、大江健三郎さんや瀬戸内寂聴さんなどの呼びかけ人が発言。さらに、福井県から、大飯原発の地元で反対運動を続けてきた中嶌哲演さん、福島県から、東電幹部らを刑事告訴した「福島原発告訴団」団長の武藤類子さんが訴えた。
 武藤さんは、「福島の現状はあまりにも厳しい」と、虚構の「収束」や「復興」の中で、自殺に追い込まれる人がいる深刻な現実を訴えた。


yyg0716-03.jpg


 集会後、参加者は、都内を3つのコースに別れてパレード。冒頭の写真のように、人の流れが、川のようだった。



福島から それぞれの思い 


yyg0716-05.jpg


 上の写真は、福島から参加した3人。中央は、福島県庁前で毎月6日に「沈黙のアピール」を行っている佐々木慶子さん。

 ある福島からの参加者は、パレードでの沿道からの声援に激励されたといい、また、ある参加者は、「福島の事故は収束していません」と、宣伝カーが東京の人びとに向かって訴えるのを聞いて、心強く思ったという感想を述べていた。


yyg0716-04.jpg


 上の写真は、福島県二本松市から、自宅庭の汚染土を携えて、「灰の行進」をしてきた関久雄さん。右手で指示している袋がその土。現在でも4マイクロシーベルト/毎時前後の汚染だという。
 関さんは、「この土の放射能は私たちのものではない。東電と国に返したい」と訴える。17日、東電本社と経産省に向かった。



           ・        ・        ・        ・



 日本でも、かつて、10万・20万という人が、抗議の行動に立ち上がった歴史があった。が、たとえば、1960年の安保闘争のうねりは、国会での批准とともに、引いて行ったという。
 しかし、いま、原発をめぐって、人びとの抗議のうねりは、「収束」が宣言されようが、「再稼働」が押し切られようが、収まる気配がない。
 毎週金曜日の抗議は続く。そして、9月には、再び10万人規模の集会がもたれる。
 福島原発事故を引き起こした人たちが退場し、被害者への謝罪と完全賠償が行われ、すべての原発の停止・廃炉が決定されるまで、このうねりは続く。


 



スポンサーサイト

テーマ:東北関東大震災 - ジャンル:ブログ

  1. 2012/07/17(火) 16:54:47|
  2. パレード・座り込み
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

被災1周年 福島県民が全国に訴える    3・11県民大集会

 

CIMG4532-600.jpg 
(3月11日 2時46分、全員で黙とうを行う。 郡山市・開成山球場)

 




 地震・津波・原発。3・11から1年。福島の人びとは、言い知れぬ喪失感と、時を経ても癒されない気持ちを抱えて、この日を迎えた。

 3月11日、各地で、追悼と新たな出発を模索する行事が行われた。そのひとつ、郡山市内で開催された、東日本大震災・福島原発事故1周年「原発いらない!3・11福島県民大集会」に参加した。



IMGP2142-400.jpg
(球場の椅子席が埋まり、会場の外に人が溢れた。1万6千人が参加)


 集会は、加藤登紀子さんのオープニング・コンサートのあと、実行委員会委員長として、福島県教組委員長の竹中柳一さん、呼びかけ人を代表して、福島大学副学長の清水修二さん、連帯のあいさつとして、作家の大江健三郎さんが、それぞれ発言した。
 さらに、県民の訴えとして、自主避難者、強制避難者、農業者、漁業者、高校生など、7人が登壇した。

 この7人の県民の訴えが、何より心を揺さぶった。7人はどの人も特別の人ではないが、被災の現実に、否応なく向き合って生きているがゆえの、真実の言葉と深い思想が、聞く者の胸に鋭くせまってきた。
 実行委員会委員長の竹中さんが、「福島の思いを全国に発信したい」といい、「この集会が終わりではなく、大きな変革の始まりとしたい」と訴えたが、いみじくも、県民の訴えは、日本の変革を訴えるメッセージとなっている。

 以下に、6人の県民の訴えを全文掲載した。できるだけ多くの人に読んでいただきたい。 



CIMG4585-600.jpg
(集会後、3つのコースにわかれて市内を行進した)



自主避難しても福島を思う


 福島市から米沢市に自主避難している3児の母親
                    かんの・ともこ さん


CIMG4522-400.jpg 


◇逃げる・逃げない、食べる・食べない

 3人の子どもを持つ母親です。
 3・11原発事故を境に、目には見えない放射能が降り注ぎ、放射線量から高い地域から遠ざかっても、自身やわが子がすでに被ばくし、いずれ影響が体に現れるのではないかという不安は、付きまとっていました。
 毎日、毎日、否応なくせまられる決断。逃げる・逃げない、食べる・食べない、洗濯物を外に干す・干さない、子どもにマスクをさせる・させない。様々な不自由な選択をしなければなりませんでした。
子どもたちは、前のように自由に外遊びができません。学校の校庭で運動もできない。運動会もプールも中止。子どものことを、日に日に考えるようになってきました。

◇子の健康を思い自主避難へ

 そこで私たち家族は、10年後、後悔したくないという思いから、子どもの夏休みを機に、福島市から山形県米沢市に、同居していたお姑さんと子ども2人と私の4人で、自主避難しました。
 現在は、借り上げ住宅に住んでいますが、避難生活は経済的負担がかかり、二重生活や住宅ローンが重くのしかかります。
 仕事の都合で家計を支える父親は、地元・福島市を離れられず、週末だけ子どもに会いに来ています。
 そして、私は、精神障がい者の施設で、いろいろな支援に携わっている仕事をしていますので、米沢市から毎日、福島市内に通勤しています。
 子どもたちは、区域外通学ということで、2月から米沢市の小学校に転校しました。
 福島からきた子と運動着の色が違うことで、いじめに合うのではないかと心配しましたが、1学期からすでに福島からの転校生がいたり、いじめの事実もなく、2学期からの転校生は十数名おりました。
 学校の先生やお友だちにあたたかく迎え入れられ、お友だちもあっという間にできて、遊びに行ったり来たりしています。
 外で思いっきり遊ぶこともできます。米沢は、雪が多く、スキーも生まれて初めての経験でしたが、「楽しい。滑れるようになった」と、うれしそうに話してくれます。
 中には、学校や環境になじめず、福島に戻られた方もおります。

◇子どもの心の叫びは

 子どもたちは、不満をいわず、元気に過ごしていますが、子どもの心の叫びは――

 原発がなければ、福島から米沢にくることも、転校することもなかったし、福島の友だちと遊ぶこともできた。
 米沢はマスクもいらない。放射能を気にすることなく、外で遊べる。
 でも、福島の方が楽しかった。

――と、時折、寂しそうな顔をします。
 私たちは、福島第一原発の事故がなければ、福島を離れることはありませんでした。子どもを守りたいと、米沢にきました。それでも福島が好きだという気持ちは変わりません。
ありがとうございました。



「頑張ろう。日本」でなく「変えよう。日本」を


               二本松市で有機農業を営む
                      すげの・せいじ さん


CIMG4528-400.jpg 


◇農業者への打撃

 原発から約50キロの二本松市東和町で、コメ、トマトなどの専業農家をしています。
 原発事故から1年。とりわけ、自然の循環と生態系を守り、健康な作物、健康な家畜を育み、何よりも子どもたちの命と健康のために取り組んできた、有機農業者への打撃は深刻です。
 「落ち葉は使えるのか、たい肥は使えるのか、米ぬかは、油粕は・・・」。これから様々な資材を検証しなければなりません。
 改めて、福島の地域支援の大切さを感じています。
 津波で家も農地も流された農家。自分の畑にすら行くことができず、避難を余儀なくされている苦渋。そして自ら命を絶った農民。
 私たちは、耕したくても耕せない農民の分まで、この苦しみと向き合い、耕して、種をまき、農の営みを続けてきました。

◇再生の努力とそれを潰すもの

 その結果、放射性物質は、予想以上に、農産物への移行を低く抑えることができました。新潟大学の野中教授をはじめ、日本有機農業学会の検証により、粘土質の有機的な土壌ほど、セシウムが土中に固定化され、作物への移行が低減されることが分かってきました。
 つまり、有機農業による土づくりが、再生の光であることが見えてきました。
 幸い、福島県は、農業総合センターに有機農業推進室がある、全国に誇れる有機農業県です。見えない放射能を測定して、「見える化」することにより、「ああ、これなら孫に食べさせられる」と、どれだけ農民が安心したことか。夏の野菜も、秋の野菜も、ほとんどゼロから30ベクレル以下でした。
 ただ、残念なことに、福島の特産である、梅・柿・柚子・ベリー類は、50~100ベクレル以上。きのこ類も菌糸がセシウムを取り込みやすく、山の原木があと何年、使えないのか。椎茸農家や果樹農家の中には、経営転換を迫られる農家、離農する農家が出てきています。
 1月に農水省で発表した福島県の玄米調査では、98・4%が50ベクレル以下です。500ベクレル以上出たわずか0・3%の玄米が、センセーショナルに報道されることにより、とれだけ農民を苦しめているか。
 私たちは、夏の花火大会の中止、福島応援セールの中止、ガレキの問題など、まるで福島県民が加害者であるような自治体の対応、マスコミの報道に怒りをもっています。マスコミが追及すべきは、電力会社であり、原発を国策として推し進めてきた国ではないか。

◇人間と原発は共存できない

 私たち人間は、自然の中の一部です。太陽と土の恵みで、作物が育つように、この自然の摂理に、真っ向から対立するのが原発です。
 農業と原発、人間と原発は共存できません。
 戦前、東北の農民は、農民兵士として、戦地で命を落とし、戦後、高度経済成長のもと、高速道路に、新幹線に、ビルの工事に、私たちのおやじたちは、出稼ぎをして、労働力を奪われ、過密化した都市に電気を送り、食糧も供給してきました。
 その東京は、持続可能な社会といえるでしょうか。
 福島の豊かな里山も、きれいな海も、約3500年も続いてきた黄金色の稲作文化も、まさに、林業家、漁業家、農民の血のにじむような営農の結果なのです。つまり、第一次産業を守ることが、原発のない、持続可能な社会をつくることではないでしょうか。

◇生産者と消費者を分断するのではなく

 私たちのおやじたちは、そのまたおやじたちは、30年後、50年後のために、山に木を植えてきたように、田畑を耕してきたように、私たちもまた、次代のために、子どもたちのために、この福島で、耕し続けていきたいと思うのです。
 そして、子どもたちの学校給食に私たちの野菜を届けたい。孫たちに食べさせたい。そのためにしっかり測定をして、放射能ゼロ目指して、耕していくことが、福島の私たち農民の復興であると思っています。
 生産者と消費者を分断するのではなく、都市も農村も、ともに力を合わせて、農業を守り、再生可能なエネルギーをつくり出して、雇用と地場産業を住民主体でつくり出して行こうではありませんか。
 原発を推進してきた、アメリカ言いなり、大企業中心の日本のあり方を、今変えなくて、いつ変えるのでしょうか。いま転換せずに、いつ転換するのでしょうか。
 「頑張ろう。日本」ではなく、「変えよう。日本」。今日を、その出発点にして行こうではありませんか。



夫の採ってきた魚を市場で売る、活気ある仕事をもう一度


         相馬市で夫とともに漁業を営んできた
                            さとう・りえ さん


CIMG4539-400.jpg 


◇真っ黒い波が山のように 

 去年の3月11日、東北沿岸は、巨大津波を受け、私たちが住む相馬市も、甚大な被害を受けました。漁業、農業、観光業、すべてを飲み込み、美しかった松川浦の風景は、跡形もありません。
 私は、港町で育った漁師の妻です。夫が所属している相馬双葉漁業協同組合は、毎年、水揚げが毎年、70億円と、沿岸漁業では全国有数の規模を誇っていました。私は、その日も明け方5時から、水揚げした魚を競りにかけ、販売し、午後1時ごろに自宅に戻り、魚の加工販売の準備をしていました。そのとき、あの地震が起きたのです。
 長い揺れが収まり、ぼう然としながら、落ちてきたものを片付けていると、消防車が「津波がくるから避難して下さい」と、海岸沿いを巡回していました。私は、「ほんとに津波なんか、くんのかぁ」と、半信半疑で道路から遠くの海を眺めると、真っ黒い波が山のように見えたのです。
 「だめだ。逃げろー」。息子は子どもを抱きかかえ、私は夫ともにやっと高台に駆け上がりました。そして、そこから見た光景は、まるで地獄のようでした。
 それから私は、もう夢中で実家の両親や弟たちを捜したのです。
 その頃、弟は、自分の船を守るために、すぐに命も顧みず、必死に船を沖に出したのです。沖では仲間たちと励ましあいながら、津波が落ち着くのを待ち、やっと帰ってこれたのは、3日後でした。
 しかし、両親は逃げ遅れ、家ごと津波に飲まれて、帰らぬ人となりました。本当に残念でなりません。

◇放射能が再開を許さない

 そして、津波から守った漁師たちは、9月になれば、何とか漁に出られると思い、失った漁具を一つひとつ揃え、頑張っていました。
 しかし、放射能がそれを許しません。
 毎週、魚のサンプリングをして、「来月は大丈夫だろう。船は出せる」と期待しては、落胆の繰り返しでした。市場や港は、変わり果てた姿です。元通りになるまでには、まだまだ時間がかかりますが、私たちは、1日も早い漁業の復興を望んでいます。
 現在、漁業者は、海のガレキ清掃に出ています。しかし、夫たちは、もう一度、漁師として働きたい、私は、市場で夫の採ってきた魚を売る、活気ある仕事がしたいのです。そして、もう一度、あのおいしかった福島の魚を、全国の皆さんに送り届けたいのです。



「新しい避難村」を要求する


        飯舘村から福島市に避難中の農業者
                      かんの・ひろし さん


CIMG4550-400.jpg


◇すべてを失って

 5月から福島に避難して、お世話になっています。
 飯舘村では、高原野菜を作っていました。しかし、今回の原発事故で、すべてを失ってしまいました。野菜を国民の皆さんに届けることができません。飯舘村の農家は、ほとんどが農地も牛も、すべてを失って、涙を流して、廃業しました。もう、飯舘村で農業を行うことができないのです。
 避難をしていても、何もすることがないのです。農家は、農業をやることが仕事です。どうやって生きろというのですか。誰も教えてくれません。

◇放射能は火山灰じゃない

 事故から1年が過ぎます。
 飯舘村は、去年の3月15日の時点で、44・7マイクロシーベルト/毎時です。この高い放射線量の中に、飯舘の村民は放って置かれたんです。長期間、被ばくをさせられたんです。
 誰の責任ですか。
 さらには、放射能まみれの水道水まで飲まされていたのです。加えて、学者も、国も、行政も、「安全だ」といっていました。
 どこに安全があるんでしょうか。その物差しがないでしょう。これをどうしてくれるんですか。答えがほしい。
 国民に、国も学者も、政治家すべてが、正しく教えるべきであり、正しく道を引くべきであります。死の灰をまき散らしておいて、「放射能は無主物」〔※〕だと言います。
何事ですか。火山灰ではないのです。原発事故は天災ではないのです。明らかに人災なのです。
 東京電力と国は、きちんと責任を取って下さい。
 
〔※ 誰の所有にも属さないの意。二本松市のゴルフ場が、放射性物質による汚染の除去を求めて、仮処分の申し立てたことにたいする、東電側の答弁書にある言葉。「東電には責任はない」という意味〕

◇何が除染だ

 いま、大手ゼネコンが、相馬・双葉地域に入っています。
 「除染、除染・・・」。歌の文句のようです。何を言葉を並べているのでしょうか。
 路頭に迷う住民の、私たちの今後の暮らしのことについては、住民の意向をなにひとつ汲んでいません。今後の暮らしの希望の持てる施策がないのですよ。こんなことで、許せますか。よいのですか。それはないでしょう。
 被害を受けて私たちは、悲惨な思いで生活をさせられています。まだまだ長生きできたはずの村の高齢者が、次から次へと他界していきます。家に帰れないで、避難先で悲しくも、旅立ちます。

◇新しい避難村を

 放射能の心配がなくて、元のように、美しい村になって、安心して、安全に暮らすことができる、そういう生活の場所と、いままでのようなコミュニティーの形を作った「新しい避難村」を、早く、早く、私たちに建設して下さい。
 美しかった飯舘村は、放射能で、そこには暮らせません。新しいところを、求めなければならないのであります。国にも、行政にも、子どもの健康と、若者が未来に希望を持って、暮らすことができる、そういう生活できる、そのためには、住民の意向を、十分に反映した新しい施策を要求します。
 皆さん、この悲惨な原発事故を、この事故を、二度と起こしてはなりませんし、この起きた実態を、風化させてはなりません。国民が忘れてはならないのです。
 福島県の皆さん、全国の皆さん、とくに福島県の皆さん、県民が一丸となって、もっともっと声を大きくして、全国に、世界に訴えていきましょう。

 

原発について何も知らなったが、いまここに立っている


         富岡高校から避難してきた女子高生
                          すずき・みほ さん
 

CIMG4558-400.jpg 


◇ヨウ素剤が配られて

 私の地元は郡山ですが、サッカーがしたくて、(サッカーの名門)富岡高校に進学しました。寮生活をしながら、サッカーに明け暮れ、仲間と切磋琢磨の充実した日々を送っていました。
 地震が起きたのは、体育の授業中でした。ものすごい揺れで、あのとき必死で守ってくれた先生がいなければ、私は、落下してきたライトの下敷きになっていたと思います。
 校庭に避難しているとき、まさに津波がきているということ、そして、原発が爆発するということは、想像もできませんでした。
 この震災が起きるまで、私は、原発のことを何も理解してしませんでした。
 翌日には、カップ麺と携帯を持って、川内村に避難しました。乗り込んだバスの中には、小さな子どもを抱えた女性や、お年寄りの方がいました。自衛隊や消防車が次々とすれ違っていく光景は、現実とは思えませんでした。避難所に着くと、小さな黒い薬を配る人たちがいました。それは、恐らく、安定ヨウ素剤だと思います。配る様子は、とてもあわただしく焦っているようで、私は、やっと事態の深刻さが飲み込めました。

◇原発作業員の方を思うと

 1号機が爆発し、川内村も危なくなり、郡山に避難することになりました。
 私のことを郡山まで送ってくれた先生は泣いていました。先生には、原発で働く知人がいたのです。
 原発事故を終わらせることができるのは、作業員の方だけだと思います。でも作業員の方は、私の友人の両親であったり、誰かの大切な人であったりします。こうしている今も、危険な事故現場で働いている人がいます。
 そのことを考えると、私は胸が痛みます。

◇「頑張れ」という言葉は嫌い

 爆発から2か月後、私は転校しました。たくさんの方々がやさしく接してくれ、サッカー部にも入部し、すぐに学校にも馴染むことができました。
 でも、私は、被災者になっていました。被災者ということで、様々なイベントに招待されたりもしましたが、正直、こういう配慮や優しさは、かえって自分が被災者であることを突きつけられるようで、それが一番、つらいものでした。
 「頑張れ」という言葉も、嫌いでした。
 時がたつにつれ、原発事故の人災ともいえる側面が、明らかになってきています。原発がなければ、津波や倒壊の被害にあっていた方々を、助けに行くことができました。それを思うと、怒り、そして悲しみでいっぱいです。
 人の命を守れないのに、電力とか、経済とか、言っている場合ではないはずです。
3月11日の朝、私は、寝坊をして、急いで学校に行ったのを、覚えています。天気も晴れていて、また、いつものような一日が始まろうとしていました。
 しかし、その日常に戻ることはできません。線量が高い郡山で、生活し続けることに、不安を持っていますが、おじいちゃん・おばあちゃんを置いて移住することはできません。私は、原発について何も知りませんでしたが、いまここに立っています。
 私たちの未来を考えていきましょう。



国策によって二度も棄民された


警戒区域の浪江町民で本宮市の仮設住宅で暮らす
                          たちばな・りゅうこ さん


CIMG4564-400.jpg


◇着の身着のまま

 浪江町は、原発のない町。しかし、原発が隣接する町です。
 私は、先の大戦から引き揚げてきて以来、浪江町に在住していました。現在は、本宮市の仮設住宅に入居中です。それまで9か所の避難所を転々としました。
 あの原発事故のときの避難の様子は、100人いれば100人の、千人いれば千人の苦しみと悲しみの物語があります。語りたくとも語れない、泣きたくとも涙が流れない、つらい思いをみんな抱えています。
 津波で多くの人が亡くなった浪江町請戸(うけど)というところは、原発から直線で6~7キロの距離です。でも、事故の避難のために、その捜索もできずに消防団を初め、救助の人たちは、町を去らなければならなかったのです。
 3月11日は、津波による高台への避難指示、3月12日が、「避難して下さい」というのみの町内放送でした。「なぜ(避難なのか)」がなかったのです。したがって、ほとんどの町民は、2~3日したらと思って、着の身着のまま避難しました。そこから、そのまま長い避難生活になるとは、どれほどの人が考えていたでしょうか。
 もっとも、浪江町長へも、国からも、東電からも、避難指示の連絡はなかったとのことです。町長はテレビで避難指示を知ったといっています。テレビに映ったので初めて知りましたとのことでした。
なぜ浪江にだけ、連絡がなかったのでしょう。原発を作らせなかったからでしょうか。〔※〕疑問です。
 そんな中で、避難はまた悲劇的です。114号線という道路を避難したのですが、そこを放射線の高いところばかりでした。朝日新聞の「プロメテウスの罠」の通りです。
 津島の避難場所には、3日間いました。テレビはずっと見ることができました。15日に、再度、東和の避難場所に変更。この日の夜まで、携帯電話は、一切通じませんでしたから、誰とも連絡の取りようもなく、町の指示で動くしかありませんでした。
 12日と14日の太陽の光がチクチクと肌を差すようだったのが、いまでも忘れられません。

 〔※ 東北電力の小高浪江原発建設計画にたいして、住民は、農地・土地を武器にした抵抗で、今日まで阻止をしてきた。〕

◇戦争の記憶

 12日の避難は、私にとっては、戦争を連想しました。戦争終結後、中国大陸を徒歩で集結地に向かった記憶が蘇りました。
 原発事故の避難は、徒歩が車になっただけで、えんえんと続く車の列と、その数日間の生活は、あの苦しかった戦争そのものでした。
 そして、私は、怯えました。国策によって二度も棄民にされる恐怖です。いつのときも、国策で苦しみ悲しむのは、罪のない弱い民衆なのです。
 3・11からこの1年間、双葉郡の人びとのみならず、福島県民を苦しめ続けている原発を、深く問い続けなければいけないと思います。脱原発・反原発の運動をした人も、しなかった人も、関心があった人も、なかった人も、原発があった地域も、なかった地域も、福島第一原発事故の被害を隈なく被りました。

◇差別と分断

 そして、復興と再生の中で、差別と分断を感じるときがあります。これを見逃すことなく、注視していくことが、今後の課題ではないでしょうか。
「福島は、東北は、もっと早く声を出すべきだ」との意見があります。でも、すべてに打ちひしがれ、喪失感のみが心を覆っているのです。声もでないのです。展望が見えない中で、夢や希望の追求は困難です。しかし、未来に生きる子どもたちのことを考え、脱原発反原発の追求と実現を課題に、生きていくことが、唯一の希望かも知れません。

◇子どもが大人に問うだろう

 先の戦争のとき、子どもたちが大人に、「お父さん、お母さんは戦争に反対しなかったの?」と問うたように、「お父さん、お母さんは原発に反対していなかったの」というでしょう。とくに54基もの原発をつくってしまった日本。そして、事故により日々、放射能と向き合わざるを得ない子どもたちの当然の質問だと思います。
 その子たちの未来の保障のために、「人類とは共存できない核を使う原発はもうたくさん、もういらない」との思いを示すこと。一旦、事故が起これば、原子炉は暴走をし続け、その放射能の被害の甚大さは、福島原発事故で確認できたはずです。この苦しみと悲しみを日本に限って言えば、他の県の人たちには、とくに子どもたちには、体験させる必要はない。膨大な金と労力を原発のためでなく、再生可能なエネルギーの開発に向けていくべきです。
 なぜいま原発稼働?このように大変なことに遭遇していても、まだ、「原発が必要だ」という考えは、どこから来るんでしょう。他の発想をすることができないほど、原発との関わりが長く深かったということなのでしょうか。
 でも立ち止まって考えましょう。
 地震は止められないけど、原発は人の意志で、行動で止められるはずです。

◇傷はあまりに深い

 私たちは、ただ静かに故郷で過ごしたかっただけです。
 あの事故以来、われわれは、何もないのです。長い間、慈しんできた地域の歴史も、文化も、それまでの祖先からの財産も、われわれを守っていた優しい自然も。
 少し不便でもいい、少し堪えた豊かさでいい、どこに根を張っていけるかなんて考えられません。
 子どもやわれわれが、放射能を気にせず生きることのできる自然を大事にした社会こそが望まれます。
 どうぞ全国のみなさん。脱原発・反原発に関心を持ち、お心を寄せて下さい。
 ささやかでいい、確かな一歩をみんなで踏み出すために力を寄せて下さい。
 そして、もう少しの間、寄り添って下さい。傷は、あまりにも深いのです。
 3・11福島県集会の私からの訴えと、いたします。ありがとうございました。

 



以上

テーマ:東北関東大震災 - ジャンル:ブログ

  1. 2012/03/15(木) 10:17:20|
  2. パレード・座り込み
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

福島の思いを全国に発信したい    福島県教組委員長 竹中柳一さんに聞く

 震災・津波と原発事故から1年を迎えようとしている中、「原発いらない!3・11福島県民大集会 ~安心して暮らせる福島をとりもどそう~ 」という大きな行動が、郡山市・開成山野球場を会場に開催されようとしている。
 集会の実行委員長として、その準備に奮闘されている福島県教職員組合・中央執行委員長の竹中柳一さんにお話をうかがった。

〔インタビューは1月下旬、県教育会館〕


CIMG3860-600.jpg


―― 大きく4点ぐらいでお話をうかがいます。
 一つは、昨年4月に、文科省が出した「子ども20ミリシーベルト基準」にたいして、福島県教組として声明を出されました。これをめぐる当時の状況についてです。
 二つ目は、県教育委員会が、昨年11月に作成した「放射線に関する指導資料」についてです。これにたいして、県教組として「見解」を出されていますね。
 三つ目は、竹中委員長ご自身が、南相馬にお住まいで、被災されました。そのご苦労と思いについてです。
 最後に、今年3月11日に開催される「原発いらない!3・11福島県民大集会」に向かっての訴えをお願いしたいと思います。よろしくお願いします。



【Ⅰ】 県教組声明で20ミリ基準に反対



委員長: まず、昨年4月の県教組の声明についてですね。
 原発事故から1か月以上経過してから、文科省が、ようやく「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」(昨年4月19日)という文書を出しました。いわゆる20ミリシーベルト基準ですね。
 これは、「リスク&ベネフィット論」〔※〕にもとづいて、ぎりぎりのところの上限を取ったというきわめて行政的な発想なのですね。
 本来、「年間20ミリシーベルトなら大丈夫」という話は、科学的な根拠などないわけです。さらに内部被ばくの問題もあります。
 だから、私たちは、教組も「これでは、子どもの命と健康を守れない」と声明を出しました。


〔※ リスク&ベネフィット論: 被ばくによるリスクを問題にする場合、同時に、核兵器や原発から得られる利益(ベネフィット)について勘案し、両者のバランスをとる必要があるという考え方。ICRP(国際放射線防護委員会)の基本的な考え方〕


―― 4月に学校を始めるかどうかが大きな問題だったわけですね。


委員長: そうです。これだけの線量で学校をやれるのか、窓を開けていいのかといったことが問題になりました。
 そういう中で、文科省の20ミリ基準に、一番激しく反応したのはお母さんたちですね。
親御さんは、要請というより、学校に怒鳴り込んでこられるという感じでした。
 20ミリ基準によって、学校現場も親御さんも巻き込んで、振り回されわけです。校長だって、辛かっただろうなと思います。
 4月は、まだいいんだけど、だんだん暑くなるでしょう。だけど、窓を開けたら、「なんで開けるんだ」って苦情がくるし、逆に、開けないと、「こんな暑いときに何をやっているんだ」となる。担任や学校は板ばさみですよね。
 一番の問題は、今回の事故の経過の中で、国がますます信用できなくなったということです。だけど、そういう中で、学校が信用されるのかといったらそうではない。学校だってどうしていいかわからない。そういうところに追い込まれているわけです。
 だから、私は、教職員も、保護者も、そしてなによりも子どもたちが、等しく被害者だという立場です。


CIMG1633-400.jpg 
(文科省の20ミリ基準にたいして、福島の親たちが要請行動に立ち上がった。昨年5月23日)


―― 教職員や保護者らの抗議の中で、文科省は、5月末に「1ミリシーベルト以下を目指す」という文書を出しましたが。


委員長: それは、あくまでも目標なんです。いつまでにということが入っていないですし。「1ミリシーベルトを目指す」という将来の目標であって、「20ミリシーベルト以下であれば大丈夫」というスタンスは変化していません。
 避難区域の区別だって、「20ミリシーベルト以下だったら住めるよ」と言っているわけだから、基本的な考えはまったく同じです。
 さらに「学校生活において1ミリシーベルト以下を目指す」というのも、官僚が、いろいろ計算とか基準をひねくり回して、言ってきたわけです。
 あくまでも学校の中に限ったことだから。「学校内では大丈夫だけど、学校以外のことは知りませんよ」という立場です。
 しかも、学年を累計するということだから。学年というと、4月1日から3月31日までです。だから、一番、線量の高かった時期、3月12日から3月31日までは除外しているのです。


―― 県教組の声明と要請にたいして、県教委の側の態度は?


委員長: 県教委から、何もないですね。
 具体的な動きは、それぞれの地域、とくに線量が高い郡山、福島といったところの保護者がまっさきに声をあげました。その声に動かされる形で、一番はじめに郡山市が、学校の除染を始めたわけです。
 あれは、もうやっぱり保護者の力ですね。
 それから、幼稚園から高校まで1万人以上が、見切りをつけて出て行ったわけです。「子どもを育てる環境じゃない」と、県外に転校して行きました。


―― 保護者との関係で見たとき、教職員は?


委員長: 教職員は、被害者であると同時に加害者です。私は、そういう自覚を持ってもらいたいと思っています。
 というのは、原発ある市町村では、原発推進派の力は大きいので、「安全だ。安心だ」という神話の片棒を、知らず知らずのうちに担がざるを得なかったというのがあります。
 原発の体験学習とか遠足といったものを、結構やっているんです。おみやげも持たしてくれるし、無料でバスも出してくれるし。これは安上がりですよね。だから、「いいな」っていうふうになるんです。それは、結局、電力料金をそのような経費も含めて決定できるという仕組みそのものが巨大な力を原子力関連事業に与えている一例だと思います。


―― それに反対するのはなかなか厳しいものがあったということでしょうか?


委員長: 私自身は、原発関連の体験学習や遠足などは計画したことも、行ったこともありません。ただ、やっぱり行く人は行きますよね。
 「行くこと自体が悪いのか」と言われたら、現場では反対することはむずかしいですが、結果としては、原子力行政と電力会社の網の中に入っちゃうわけです。全体で声をあげて行こうという話にはなかなかならなかったですね。


―― いま原発周辺から避難してきている50~60代の方から、「子どもの頃、学校で、先生から、『原発は危険だ。広島・長崎を体験した日本が、なぜ原発を作るのか』と言われた。だから、ずっとそう思ってきた」とお話を聞きました。


委員長: その頃はね。しかし、だんだんと薄れてきました。労働界全体で、労働組合が、追い込まれていったということがあると思います。   
 だから、教職員も、原発推進に一役買っていたというのは間違いないことです。その反省から始めなければいけないと思います。



【Ⅱ】 原発事故に触れない「放射線教育資料」 



CIMG3855-400.jpg



―― 県教育委員会が、昨年11月、「平成23年度放射線等に関する指導資料」を作成しました。それは、どういう内容ですか?


委員長: 文科省が、昨年10月に、小学校から高校の児童・生徒を対象にした「放射線副読本」を作りました。福島県の教育委員会が作った「指導資料」は、「文科省副読本」のままです。
 「指導資料」は、原発事故で苦しむ福島の人びとの現状や思いについて、全くといっていいほど、触れていません。そもそも、原発事故について、全然、触れていないですから。これには、腹が立ちましたね。
 教職員にたいする研修会でも、「原発には触れない」「原発については中立の立場を取る」との教育委員会側の発言があると報告されています。
 原発事故について、唯一、触れているのは、避難や退避の考え方のところ。だけど、これがひどいんですよ。読みあげると・・・
 「今回の原子力発電所の事故のように、放射性物質を扱う施設で事故が起り、周辺の影響が心配される時には、市役所、町や村の役場、あるいは県や国から避難などの指示が出される。周辺のデマなどに惑わされず、混乱しないようにすることが大切である。児童・生徒に対しては、家族や看護士や教師の話、テレビやラジオなど、正確な情報を得ることや、家族や教師などの指示をよく聞き落ち着いて行動することが大切であることを指導する」
 飯舘村などでもそうなんだけど、混乱も何も、そもそも避難の指示がでなかったたわけでしょう。国や学者に騙されたということが大きいわけです。国とか県の言うことがいかにだめだったかということを、身にしみてわかっているのに、よくぞこういうことをシラッと書けますよね。
 これは、怒っちゃいますよね。
 だから、市町村によっては、「とてもじゃないけど、こんなものは使えない」「子どもたちに言えない」ってなっています。
 市町村で独自に作ろうという動きもあります。


IMGP2054-400.jpg
(県教委の「放射線教育」にたいして、県教組として見解を出した)


―― 県教組でも、独自の資料を作っていると聞きました。


委員長: はい。県平和フォーラムの向けと、教員向けに、二つ作ります。
 私たちとしては、教員向けが大事なんで、4月から、どういうスタンスでやればいいかということについて、詳細なものを、Q&A形式にして作ります。


―― 「指導資料」は、4月から扱うわけですね。


委員長: そうですね。学級活動や理科の中でやるということになっています。


―― そうすると、これを教えなければいけないということになるわけですか?


委員長: そうですね。内容どおりにね。


―― そうすると、「これは教えられない」という現場の気持ちとぶつかるわけですね。


委員長: そうです。結局、学校現場で、国策と対峙することになるんですね。
 例をあげれば、双葉郡(原発立地地域)の教員の場合、クラスにいる子どもの親御さんが、東京電力や原発関連に勤めているということがいくらでもあるわけです。
 その子どもを前にしては、「原発は危険だ」ということを言えるか。教員が子どもを通じて対峙しているのは、親も含めたその地域のあり方。原発によって成り立っている社会に相対していかなければならないわけです。それは厳しいことですよ。
 だから、「何が教えられて、何が教えられないのか」ということを明確にして、子どもに対応する必要があると思っています。私たちは、そのことを教員に知ってもらいたいという立場で、私たちの独自の資料を作っています。
 例えば、低線量の被ばくの影響についてどう見るかです。「閾値はない」、少なくとも、「『安全です』とは言いきれない」といったところです。
 実は、振津かつみさん〔※〕に監修してもらっています。相談しながら、いい資料にしたいと一生懸命やっています。
 良いものができれば、全国でも使ってもらいたいですね。


〔※振津かつみ: 医師。放射線基礎医学が専門で、チェルノブイリ事故被災者の支援に長年携わっている。〕



地域との結合を目指して


―― 原発立地周辺での地域との関係の厳しさを言われましたが、逆に、地域住民と教育労働者とが結びついたときの強さというのもありますね。20ミリシーベルト問題や放射線教育での教組の頑張りもそういう意義があるのでは?


委員長: 時代が難しいし、地評といったところがセンターになっていた頃とは、全然、違います。
 ただ、やっぱり、これから目指していく方向は、地域住民との結びつきというところだろうと思うんですよ。
 そういう点で、保護者と教職員を敵対関係にするような動きが、ずっとありますね。「ダメ教員」とか、「教育の再生」とかいう宣伝です。政府、財界、テレビ、新聞が、キャンペーンを張ってきましたからね。教育基本法改悪、教育再生会議などの辺りから、そういう流れがすごかったですね。
 教育基本法改悪のときは、教職員組合としては一生懸命に取り組んだし、全国的な盛り上がりもありましたが、マスコミは、教育基本法改悪の問題性を、まず取り上げてくれなかったですね。
 私が、ちょうど、教組の副委員長になったとき、最初に取り組んだのが教育基本法改悪でした。新聞広告を出したり、街頭宣伝カーを回したり。
 教育基本法の教育の独立というのは、行政の不当介入にたいする独立ということだったんです。ところが、それが、議員の方々などは、不当な介入というのは労働組合のことだと思っている人がいるんです。
 どうして戦争を起こしたのかということです。教育勅語や御真影で、国民が批判的な精神や自立的なものの見方をできなくなったときに、そういうことになるんだというのが身にしみてわかったからです。
 だけど、いまそれがまったく逆の意味になってしまっています。
 よその国を「独裁だ」「恐ろしい国だ」と言っているけど、「日本は大丈夫なのかよ」と言いたくなりますね。大本営発表みたいなのが、今、原発事故の発表でも、行われているわけでしょう。  



【Ⅲ】 南相馬での被災と屋内退避



―― 委員長は、南相馬市にお住まいで、被災されています。

委員長: 3月11日に地震がありましたが、なんとか家までは戻れました。妻と子どもたちは幸いなことに無事でした。
 ただ、妻の母親の家が、海から50メートルも離れていないところでした。その日の夜に、捜しに行ったんですけど、夜だったからよくわかりませんでした。避難所も回りました。
 翌朝は晴れで、また、捜しに行ったら、家がまるっきりもうなくて、海の中なんですよ。土台だけが残っていました。
 そして、その日のうちに、遺体が発見されました。
 そうこうしていると、12日に原発事故が起きて、あれあれって言っているうちに、屋内退避ですから。このころはずっともう家の中にいました。
 屋内退避に関して、今でも忘れられないのが、西山という審議官ですね。屋内退避って言ったのはいいんだけど、ただ屋内退避だけ言って、ずっと中にいろというのが無理に決まっているじゃないですか。外に出なければならないときもあるわけです。それで、「外から戻ったら、着ているものは脱いで、ビニール袋に捨てて下さい」と言うんですよ。
 脱いだものをどうすんだということです。何回も外に出でたらどうするのか。原発の作業員は、防護服を一回着たら捨てているわけだ。だけど、われわれには防護服も何もないべって。
 ほんとにあれはひどかった。何に言ってんだって腹が立ちました。
屋内退避になって、どんどん食料がなくなっていくでしょう。
 そのうち、17日になって、桜井市長から避難について重要な説明があるから、最寄りの学校に集まってくれということになりました。
 医療品や食料がもうない。ガソリンも危ない。放射線より、むしろ、ライフラインの方が問題で、「市としては責任を持てないから、逃げるのであれば、市がバスを用意します。行き先は群馬県と新潟県です。どれだけ希望者がありますか」という説明でした。 
私のところは、電気・水道は大丈夫で、食料もある程度あったので、籠城を決めたんですよ。家は締めきって、換気扇も回さないで、核シェルターみたいなものですね。
 ようやく3月22日に、私だけ、福島市の方に来たんですよ。こっちに来たら食料があったんです。20日辺りから、米がなくなってきて、1日2食になっていたから、いよいよだめかなっていうときに、川俣町で店がやっていたんですね。


――福島市に行くには飯舘村を通って行くのですね。


委員長: そうです。線量計を導入してから、飯舘村を通ると、車の中で、ピピッて警告音が鳴るんですよ。車の中で毎時5マイクロを超える箇所が何カ所かありました。
だけど、南相馬市の線量は、だいたい福島市の半分、飯舘村の4分の1ぐらいでした。
 だから、「これは下手に動かない方がいいな」と判断しました。
 
 

――小高区や双葉郡の教職員の方の状況は?


委員長: 私なんかより、ずっと大変なんです。
 家がなくて、福島市の友人の家に泊まりながら出勤していたりね。
 しかも学校は避難所になっていますからね。だから、校長や教頭で家が警戒区域になった人は、当時、ほとんどが学校に泊りこんでいましたよ。自分の家がない人は泊るしかないですしね。



【Ⅳ】 「福島をとりもどしたい」という思い



―― 津波震災と原発事故から1年を迎える3月11日、「原発いらない!3・11福島県民大集会 ~安心して暮らせる福島をとりもどそう~」という大きな催しが、郡山で開催されます。委員長も、福島県平和フォーラム代表として、準備に奮闘されています。
 昨年12月10日の日比谷野音の集会で、委員長が登壇し、厳しさと力強さを込めた訴えをされました。
「3月11日以来、何が変わったか。何も変わっていない。日本のあり方が変わらない限り、子どもたちに未来はない。日本を変えていこう」と。そして、「福島の思いを全国に発信し、福島の思いを日本全体で共有する。そういうものとして3月11日をやるんだ」という趣旨でした。


委員長: 思いとしては、今、言われたように、「変わってない」という気持ちが強いですね。変わってないばかりか、福島以外の全国では、原発事故ということが、もう終わったと思っている方が多いのかなという気がします。
 ところが、私たちにとってみたら、事故は現在も進行中だし、ますます広がっているというのが現実なんです。それなのに事故が収束したなんて、とんでもない話です。
 変わっていないという点では、原子力安全委員会の班目委員長だって変わってないですね。誰も責任を取っていないし、謝ってもいないのです。
 賠償の問題もあるけど、私は、「変わってない」というところに、一番、腹が立つんです。つまり、この国は、イラク戦争(2003年)のときに、「大量破壊兵器がある」と言って、武器を運んでいたわけです。だけど、その後、戦争を始めたアメリカ自体が「大量破壊兵器はありませんでした」と言っているのに、それを大義として参加した日本の政治の責任について、この国は、ほとんど忘れてしまっている。
 それと同じことが、福島原発事故でも起こりつつあると思うのです。
 津波ではなく、原発が原因で、直接ではないにしても、亡くなった方もいっぱいいると思うんです。避難所や避難の過程で亡くなったり、故郷を追われて亡くなったり。家族もばらばらにされているし。子どももストレスを受けている。食品の問題もありますね。農産物もとんでもない被害を受けている。いろんなところでいろんな目にあっているわけです。
 ところが、東京に行くと、普通に歩けば、何もなかったような感じですよね。AKB48とかが話題になっているわけでしょう。
 片や、同じ日本なのに、福島では、いろんな目にあって苦しんでいる。これは、割り切れない思いがしますよね。


―― 「日本を変える」というメッセージも発信されました。


委員長: この原発事故という事態を梃子にして、日本を変えてかないといけないと思います。というか、このままでは、とんでもないことになるという気がしていますね。
 私たちの世代の場合、ちょうど鉄腕アトムから始まって、高度経済成長を享受してきたわけだから、自分自身がとんでもない目に遭うのは、ある意味では、自業自得だって思うんです。だけど、その後の世代の人は、そういう恩恵も受けていない。
 だから、これは、やり続けるしかないし、言い続けるしかないと思っています。
 それは、たまたま原発から23キロのところで、避難しなくてすんだという、そういう自分に与えられた運命なのかなと思って、自分自身の思いとしては、もうやらざるをえないし、やるのが当たり前だろうって思っています。


――集会名称に「福島をとりもどそう」とあります。


委員長: 「福島をとりもどそう」には、いろんな意見もあるんですがね。
むしろ「もうとりもどせない」と考える方が、本当なんだという人もいます。「子どもたちが福島には住めないから、避難させる運動を作るべき」「除染というのは間違っている」と。
 ただ、やっぱり思いは、「福島をとりもどそう」なんですよ。福島県の大地から放射能物質を取り去りたいという思いとしてあるんですよ。


―― 「福島県では原発は将来にわたり行わない」という文言もあります。


委員長: 電力労連は、未だに、原発の再稼働というスタンスに立っています。それは、「もう原子力はたくさんだ」という思いとは違うわけだから、難しいわけです。
そこで、ちょっと限定をして、「福島県では」となっているのはそういう意味なんですね。「福島県ではもうやめよう」と。
 もっとも、ここには、全国に向って言っているという意味もあります。そこが、ひとつ大きなポイントなのです。
 福島と同じ様なリスクや運命が、原発を持っているところには、等しくあると思うんです。福島だけの問題だなんて言われたら困ります。そこら辺も発信したいと思います。
「福島県では原発はもうやらない。あなたたちの県ではどうするのですか」という思いを、突きつけたいという気持ちがありますね。
 私の個人的な思いとしては、原発のある道府県は、全て最終処分場を引き受けるしかないと思っています。モンゴルに持っていくなんてひどいことを言っているでしょう。
 そこに住んでいる人間の覚悟として、最終処分場まで引き受ける覚悟がなければ、原発をやってはいけないんですよ。福島県は10基も原発を作ってしまったけど、福島県民として、最終処分場までやるという覚悟までしての決断だったのか。もしそこまで考えたら、誰も原発はやらないでしょう。
 30年・40年ではなくて、何十世代にもわたることです。これは、どう考えても、ご先祖様にたいして申し訳ないし、将来の人にたいしても申し訳ないことでしょう。


―― 3・11集会はどういう陣形になりそうですか。


委員長: 私たちは、ずっと準備会をやってきて、農協とかいろんな団体に入ってもらいたいと努力中です。
 労働組合も、生産者の団体もというのが理想なんですけどね。
 私の考えだと、一番ダメージ受けたのは、この土地を使って生産をしている方々、農業・畜産ですよね。その方たちの声を聞きたいですね。



資本の論理に抗して



委員長: 私は、集会などでよく言うんだけど、農業は、土を作るのに、10年はかかるでしょう。それは、結局、経済の論理から外れているんですよね。「儲ける、儲けない」の話だと、1年とか半年でしょう。10年をかけないとできないものが大事なんだけど、そういうものを原発は潰してしまったんですね。
 おかしいのは、10年もかかるものが安くて、1年でできるようなものが高かったり。価値基準がまったくおかしいですね。ひっくり返っていると思いますよね。
 きれいなで安全な水とかが、ほんとは非常に価値が高いはずですよね。それに比べて、ICチップなんかは価値が低いと思います。価値の新しい基準が必要だと思うんです。


―― 資本主義の限界が、こういう形で見えているということに、もういい加減、気づかないといけない。そういう非常に大事な警告ですね。脱原発のスローガンの基底に流れる思想にかかわることだと感じました。



【Ⅴ】 権威を疑い、自分で考える



―― ところで、学校では、何を教えられているのですか?


委員長: 私は英語なんですよ。
 もっとも、私も、変わってますから。大学にも6年もいたし、学生運動みたいなこともやりました。
 大学は、千葉大学です。しかし、入ったのは、理学部物理学科、出たのが人文学部の哲学科。それで、公務員をやってから、教員の免許を取り直しました。
 もともと、東京・葛飾の生まれなんです。「三丁目の夕日」みたいな生活をしていました。


―― 福島に赴任されたのは?


委員長: 大きな理由の一つは、東京のごみごみした生活に疲れたというのがあるんですよ。できれば、福島のように、空間がうんといっぱいあるところに来たかったというのがあります。


―― どういう思いで教員に?


委員長: 教員なんて、なる気はなかったんですよ。
 中学校のときは、教員なんて、「権力の手先だ」と思っていました。「先公」と「ポリ公」と同じ言い方をしていました。私が中学生の頃は、それが普通でした。
 ただあることをきっかけに、30歳近くになってから、自分の根本的な考えやものの見方が、中学生の時代のある教員との出会いに大きく影響されていたことに気づきました。それから、教員をめざしました。
 極端ないい方かもしないけど、「結局、教員は、国や文部科学省の枠の中にいる」と判断できる子どもが育てばいいと思っています。
 「教員だって間違えたことを教えるし、国もとんでもないことをするんだ。だから簡単に信じてはだめだ」という気持ちを持って卒業してもらう。これがすごく大事だと思っています。何かものを考えるときの基本なんですね。一回は疑ってかかるという姿勢をどこかで持ってないと、こわいんですよ。このことを中学生時代のその教員に教わりました。
 教員として、「本当のことは、自分で調べ、納得のいくまで考えて、自分自身で責任を持って判断しないとだめだ」ということを教えられればいいと思っていました。


―― それは、今の福島の状況や国の問題にたいする委員長の姿勢にも、貫かれていますね。


委員長: そうですね。基本的なスタンス変わらないですね。


―― 今日は、長い時間、ありがとうございました。







テーマ:東北関東大震災 - ジャンル:ブログ

  1. 2012/02/18(土) 16:01:21|
  2. パレード・座り込み
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

福島の女性たち  経産省前に座り込む


CIMG3271_convert_20111030194651.jpg

「わたしたちは、福島県からやってきました。
 原発は、もう真っ平! 今すぐ止めたい!」
 このように訴え、福島の女性たち約100人が、東京・霞ヶ関の経済産業省前に座り込んだ。
 これに応えて、多くの人が応援にかけつけた。
 初日の10月27日だけで、その数、約800人。
 座り込みは、連日10時から15時まで、10月27日から29日の3日間、続いた。

〔上の写真は、この行動を呼びかけた福島の女性たち。左から、人見やよいさん(郡山市)、蛇石郁子さん(郡山市)、佐々木慶子さん(福島市)、佐藤幸子さん(川俣町)、武藤類子さん(田村市)、椎名千恵子さん(福島市)〕


CIMG3280_convert_20111030195451.jpg
経産省前の通りが人垣で一杯に。

東京から、全国から、応援にかけつけた人びと。
CIMG3285_convert_20111030195549.jpg

CIMG3290_convert_20111030195649.jpg

CIMG3295_convert_20111030195912.jpg

CIMG3310_convert_20111030200124.jpg



CIMG3297_convert_20111030200020.jpg
記名する講談師の神田香織さん。神田さんもいわき市出身。

関東に避難してきている子ども連れのお母さんたちも集まって座り込み。
CIMG3314_convert_20111030200329.jpg

CIMG3317_convert_20111030200437.jpg



CIMG3293_convert_20111030195803.jpg
反原発犬。実はこの犬君は、イラク戦争(03年3月開戦)に反対する行動のときも、反戦犬として活躍。あのときはまだ子犬だったが、もう12歳。立派になった。


CIMG3269_convert_20111030195035.jpg
短時間でもと、平日にもかかわずかけつける人がたくさんいた。混雑する受付の風景。

CIMG3328_convert_20111030200659.jpg
記者会見の風景。その後ろに2つのテントが並ぶ。左側が「原発いらない福島の女たち」のテント。
その右は「9条改憲阻止の会」のみなさんのテント。この場所にテントを立て、泊まり込みで抗議行動を続け、27日の段階ですでに47日。これもすごいことだ。

CIMG3321_convert_20111030200534.jpg
左側のテントの中を覗かせてもらうと、チラシをセットする作業が行われていた。





テーマ:東北関東大震災 - ジャンル:ブログ

  1. 2011/10/30(日) 20:19:35|
  2. パレード・座り込み
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ママの会 3カ月ぶりのパレード

CIMG2444_convert_20110831163404.jpg


 8月28日午後、いわき市内で、「さよなら原発 子供たちと私たちの未来を守るパレード!」の集会とパレードが行われた。約250人が参加。
 「いわきアクション!ママの会」と「NO NUKES MORE HEARTS」の共催で、5月15日以来、3カ月ぶり。
 参加者の表情は前回よりもさらに明るく、沿道の人たちの声援も、前回よりも多かった。 
 東京から駆けつけた太鼓隊が大いに盛り上げてくれた。


CIMG2416_convert_20110831162621.jpg
パレードの出発。ちょっと緊張。

CIMG2430_convert_20110831162728.jpg
出発すれば、もう元気一杯。

CIMG2470_convert_20110831163503.jpg
みなとても表情がいい。

CIMG2436_convert_20110831163307.jpg

CIMG2432_convert_20110831163154.jpg
親子で決めてきた。
―暑くないですか? ―仕事でいつもこれです。
ダイオキシンを扱っているそうだ。

CIMG2479_convert_20110831164026.jpg

CIMG2477_convert_20110831163933.jpg
「くたばれ!東電」と入ったお揃いのTシャツ。
いつもこのスタイルで登場するいわきの若者グループ。

CIMG2473_convert_20110831163800.jpg

CIMG2472_convert_20110831163555.jpg

CIMG2502_convert_20110831164226.jpg
東京からきた さっちゃんのシャウト。

CIMG2500_convert_20110831164132.jpg
公園にもどって最高潮に達する太鼓隊。

CIMG2519_convert_20110831164317.jpg
ママの会の鈴木薫さんがまとめの発言。


テーマ:東北関東大震災 - ジャンル:ブログ

  1. 2011/08/31(水) 17:29:20|
  2. パレード・座り込み
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ママが動いた 初めてのパレード 

5月13日 いわき市長への申し入れアクション


 いわき市在住の若いお母さんたちが、メールなどで連絡を取り合い、「いわきアクション!ママの会」を立ち上げ、行動をはじめた。5月15日に「さよなら原発 放射能汚染のない平和な未来を求めるパレード!」を呼びかけ、その直前の13日午後、いわき市長への申し入れ行動を行った。


CIMG1255_convert_20110715204008.jpg


 赤ちゃんを抱いた母さんをはじめ20人をこえるお母さんらと市民が参加、市長の代理として出席したいわき市危機管理監にたいして、要望書(下記)を読み上げとともに、お母さんたちから「市は、放射線のモニタリングをなぜやらないのか」「市は、独自で放射線核種の分析器などを持って、市民の安全に取り組んで欲しい」「市は、国と県に頼り過ぎではないか」「子どもを安心して育てられるように取り組んで欲しい」など、切実な訴えがなされた。



子の命がかかっている


CIMG1249_convert_20110715203738.jpg


 参加したお母さんに感想を聞いた。
 斉藤さん(30代、子ども4人、連れ合いはいわき市で消防士)が詠大(えいた)くん(原発震災直前の2月28日生まれ、写真の赤ちゃん)を抱いて参加。
 「いわきで生まれ、育った。いわきで子ども育てたい。しかし今は心配で心配でしようがない。なのに、市は、事務的で淡々としている。数字の問題ではなく、こういう子どもの命がかかっているということを見てほしいから、今日、この子をつれてきた」
 このお母さんは、申し入れの場でも涙ながらに思いを訴えていた。





5月15日 「さよなら原発 in Iwaki、FUKUSIMA 放射能汚染のない平和な未来を求めるパレード!」

いわき市中心部の平(たいら)中央公園で、1時間ほどの集会ののち、いわき駅まで約1時間のパレードをおこなった。「いわきアクション!ママの会」と「NO NUKES MORE HEARTS」の共催。


CIMG1286_convert_20110715204423.jpg
ママの会・鈴木さん(左)とNO NUKES MORE HEARTSのMISAOさん(鈴木さんの友人、東京)。パレードを企画した中心人物2人


 参加者は、500人。いわきをはじめ福島県内から400人、東京など県外から100人。いわき市はもちろん福島県下で、3・11以降、はじめての原発反対の街頭行動。集会は行われているが、街頭行動ははじめて。ママの会という形で、母親たちがが動き出したことが大きい。


CIMG1282_convert_20110715204124.jpg

CIMG1311_convert_20110715204541.jpg

CIMG1319_convert_20110715204659.jpg

CIMG1331_convert_20110715204814.jpg

CIMG1350_convert_20110715204924.jpg


子どものことならやるしかない


CIMG1368_convert_20110715205040.jpg


ママの会についてパレードの先頭で横断幕をもった女性たちに聞いた。
 いわきのお母さんたちのお茶飲み話から始まり、5月1日に立ち上がった数人の集まり。子どもの同級生つながりなど。
 全員、運動経験はゼロ。パレードの横断幕を持つだけで緊張で体がガチガチ。 
 「私たちは保守的なんです」と自認するが、「子どものことになったら、やるしかない」「今回はもう怒っているの」「はじまる前は30人ぐらいかと思っていたが、こんな集まってびっくり」「お母さんたちはみな同じ気持ち。今日のことをもっと早くたくさんの人に知らせたら、もっと集まったと思う」
 最後に、「今日は良かった。みんなに伝わったと思う。これからもやります。全国にこういうお母さんたちが行動していることを伝えてください」と。

テーマ:東北関東大震災 - ジャンル:ブログ

  1. 2011/05/15(日) 21:11:30|
  2. パレード・座り込み
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。