福島 フクシマ FUKUSHIMA

津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに

原発が大熊・双葉に来たとき  ~証言・半世紀前の真実


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 中間貯蔵施設予定地の地権者である双葉町の池田耕一さん(84)。前回(3/14掲載)のインタビューでは、国の中間貯蔵施設の進め方に対して、「納得がいかない」という池田さんの気持ちを語っていただいた。今回は、時を大きく遡って、原発の立地が大熊町、双葉町に決まっていった当時、池田さんが実際に見聞きしたことをお話していただいた。

 事故を起こした福島第一原発の立地が大熊町、双葉町に決まっていく経緯は今日でも不透明な部分が多い。記録に残る限りで最初に立地に関して言及したのは1957年1月、木村守江参議院議員(当時)が双葉町の後援会で行った「この土地を全部利用するには原子力発電所きりない」(*1)という演説だろう。その後、佐藤善一郎知事(当時)が「三十三年(1958)当初から、ひそかに企画開発部に命じて、立地の適否について検討をさせ」(*2)、福島県庁を中心に極秘裡に進められた。その後、公式の動きとなるのは1960年5月、福島県が「大熊・双葉地点が最適である」と確認するところからであり、1961年6月、東京電力が同地点の土地取得を決定し、1964年7月には、福島県開発公社が地権者から用地取得の承諾を取り付けるという流れで運んでいる。「設置は比較的円滑に行われた」(*3)というのが公式の認識になっている。
 しかしその進め方は実際のところどうだったのだろうか。
 代々農業を営んでいた池田さんの家は原発予定地ではなかったが、その予定地の隣の行政区に位置し、池田さんは当時、行政区で開かれた「部落説明会」(*4)に参加している。
池田さんは、約50年前のことだが、東京電力などが行なった説明の中身を今も覚えている。福島県と東京電力は、住民の知識や情報の不足、出稼ぎなどの労苦に付け込み、原子力という問題についての説明を極力あいまいにした上で、「発電所の寿命は20年。その後は一大観光地にする」という話をしたというのだ。
 それから半世紀。大熊町、双葉町は「一大観光地」どころか、一帯が放射能で汚染され、すべての住民が先の見えない避難生活を余儀なくされている。半世紀後のこの苛酷な現実と、半世紀前、バラ色の未来を描いて見せた説明会。未来を考えるためにも、半世紀前の事実を検証し教訓にする必要があるだろう。

*1 木村守江 『続・突進半生記』 1984年 
*2 佐藤善一郎伝記刊行会 『水は流れる 佐藤善一郎』 1983年 下線は引用者
*3 日本原子力産業会議 『原子力発電所と地域社会』 1971年
*4 『双葉町史』(双葉町1995年)、『原子力行政のあらまし』(福島県2010年)には地権者に対する説明会の記録はあるが、地権者以外の説明会の記録はない。お話しから1964年の用地買収と前後する時期に、双葉町郡山行政区の住民を対象に、福島県や東京電力が出席して行われた説明会と思われる。




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(原発はこのような断崖を削ってつくられた。大熊町夫沢付近)


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◇「出稼ぎがなくなる。町が潤う」


――原子力発電所の立地が決まっていった当時のお話を伺います。

池田:もう、50年も前のことだけどね。部落説明会があったんだ。こういうのは親父が出るはずなんだけど、ちょうど親戚のご法事があってね、親父はそっちに行くってことで、説明会の方は私が代わりに行くってことになった。「どんな会社が来るのか、池田家を代表して、よーく話を聞いてきてくれ」と親父に言われて。
 当時、「どんな会社が来るのか」という感じで、原子力発電所なんてことは誰もわかってなかったね。
 説明会に出ているのはだいだい父親らの世代で、私なんか一番若いんで、後ろの方の席で黙って聞いていた。県会議員の人とか、会社の人たちが前の方に座ってたね。
 とにかく「大きな会社が来る」という話になっていた。原子力発電所とかいう話とは大分違うよ。で、「会社が来て、周辺の町村が潤って、生活も豊かになる」と。
 その頃は、みんな出稼ぎをしてたからね、どこの家でも。大事な息子が静岡まで行ったとか、トンネル工事の落盤で死んだとか、いろいろあったね。
 だから、「出稼ぎをしなくて済むし、町が潤うんだから、協力して下さい」って説明されれば、それりゃ、みんな協力するよね。そんなにいい話ならね。


◇「発電所の寿命は20年。その後は一大観光地に」


――説明会の場では、原子力発電所についての説明はなかったのですか?

池田:全然出ていないね。「発電所」とは言ってたと思うけど。まあ、もっとも、あのとき原子力発電所と言われたとしても、どういう危険があるかなんてことは分からなかったと思うんだけどね。原子力そのものが分かんないから。
 だから水力とか、火力とか、そういう発電所なのかなあと思ってたね。
でも、会社側がこういうことは言ってたよ。「もし何か失敗した場合には、避難道を放射状に、扇の骨のように作るから、安心して下さい」と。それで私はね、あら、会社の方で、「事故が起きたときは逃げて下さい」と言ってるんだから、これは危険なものなのかなってことは考えたよ。だって、危険でないものに避難路はいらないわけだから。
 だけど説明の中で、原子力の原子という言葉はあまりはっきりしてなかったね。そこをはっきり言っていたら反対という人が出て来るもの。広島・長崎に原子爆弾が投下されて、何十万人もの人が死んでいるんだから、それはだめだってことなるよ。だから、あのときはなんかこうオブラートに包んだような感じで、原子という言葉は表現しなかったと思うんだな。
 それから、会社はこういうことも言ってたんだ。「発電所は寿命が20年間」だと。そう、20年って言ったね。それで20年したら、「全部取っ払って更地に戻して、今度は遊園地にする」と。「大きな池をつくって、金魚を泳がしたり、お花畑にしたり、一大観光地にするんだ」と。こういうことを言ったんだよ。これはこの耳で聞いているからね。

――原子力発電だということが分かってくるのはいつ頃になるんですか?

池田:それはかなり後だね。工事に着工(1967年)してからだね。
 情報の早い人と遅い人がいるからね。当時、私は、黙々と農業をやっていて、あんまり出歩かないから情報は遅いんだよ。だから、私の記憶では、原子力発電所らしいということは、地層調査が終わって、工事が始まって大型重機などが入ってきてからだね。
 だから、もう反対とかという話にもならなかったわけよ。もう、どんどん工事が進んでいるんだから。


◇原発で働いて


――すると原発が危険なものだと思うようになったのは?

池田:原発で働くようになってからだね。
 第一原発ができてから、来てくれって言われて、原発の警備の仕事をすることになったんだな。正門で一人ひとりIDカードを提示させて、ヨシってやるやつだ。それから、テレビモニターが6、7台並んでいる部屋でずっとにらんでいるとか。イギリスの船で核燃料が搬入されたときの警備もあったな。夜中に男がフェンスをよじ登ってきたということもあった。これは魚釣りをしたかっただけだったんだけど。それから、「ダイナマイトをしかけた」という電話が入ったっていう騒動もあったな。
 そういう中でも、危険区域から出てくる作業員の管理だね、神経を尖らせるのは。責任があるから、もう一所懸命やったよ。
 建屋の中に入った作業員が出て来たら計量器に乗ってもらう。足の形が書いてあるところに乗ってもらって、足に放射能がついていたら、ランプがピカピカ、ブザーもビービー。手の方も同じ。何もないときは、ランプつかないからハイ、ヨシって感じだけれど。建屋の中に入った作業員は、一発で出た人はほとんどいないね。どっかに放射能をつけて出て来る。で、ランプがついたら、そこに大きな流し台があって、工業用石鹸みたいなので、ガーって洗うわけ。早く帰りたいから、もう夢中になって。で、放射能がついていればまたビー、ハイもう一度って。ブザーがなるときは5回でも6回でも。上からの命令だからね。
 こういう感じで12、13年やってたよ。なかなか農業だけでは食べられないからね。

――そうすると、当初、原子力についてしっかり説明をされないまま建設されて、その後、実際に原発の現場を経験してどう感じましたか?

池田:工業用石鹸みたいなので、作業員に手足を洗らわせて、厳重にチェックするということをやっているうちに、これは恐ろしいもんだなと。
 というのはね、そういう作業に入った人が、病気になったりして亡くなっているんだよ。うちの親戚でも、末家(ばっけ)の旦那が死んでるからね。原発で稼ごうってことでいろいろ資格を取って、危険区域に入って作業をやって、いい金取って他所さんの田圃も買って、地盛りして家を新築したんだ。10年以上勤めたかな。でもある時もう見る見る弱っちゃって、私よりはるかに若いのに、コロッと死んじゃった。病気は白血病。
 もちろん、東電側では放射能で死んだなんてことは言わないよ。そんなの一人もいないということだから。絶対安全という安全神話がもう頭の中に叩き込まれているからね。われわれもそういう教育を受けているから。だから、作業員が死んでも、「放射能とは全然違うんですよ」とか、「持病ですよ」って、「放射能とは全然関係ないから」ということになるんだけど。
 でも、白血病で死んでいる方は他にもいるよ。細谷のHさんというのがいて、この家の大事な旦那さんもやっぱり白血病で。普通、回りにそうそう白血病なんてないよね。
 もちろん、私らもね、「放射能で死んだんだ」なんてことは一言も言ってないよ。医者じゃないし、東電がやっぱり怖いし。ただ聞かれれば「あの人は原発で働いていた」と。それから、「白血病で死んだ」と。これは言えるよね、事実だから。
 親戚とか回りで、原発に行って稼いで、だけど白血病になって死んでしまうというのを見ていると、これは怖いなとようやく分かってきたんだ。安全というのも神話なんだなって。
 でもそういうことが分かってきたときは、もうどうしようもなかったんだよね。だって町全体が原発に組み込まれてしまったようなもんだから。

――改めて、原発の立地が決まったころのことを振り返るとどんなお気持ちですか?
 
池田:あのときね、「20年で寿命だ。その後は遊園地だ」って言ってたけど、その後40年まで延ばして、挙句の果てにこの様でしょ。遊園地どころの話じゃないでしょ。そういう説明をした人たちはどういうつもりだったんだい。みんなもう生きてないだろうけど。
 だから、今の「中間貯蔵施設」の問題だって同じだよ。「30年以内」なんて話は全く信用できないよ。
 たまたまね、父親の代りに部落説明会に出ることになったけど、そこに参加していた親父の世代の人たちはみんな亡くなっている。50年前だからね。この話はもう誰も語れないわな。だから、言っておかないと思ってね。


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(事故後、最初の一時帰宅。2011年7月)


◇原子力を受け入れたのか


 池田さんのお話を受けて、原発の立地が大熊町、双葉町に決まった当時の状況について、少し振り返ってみたい。
 というのは、福島原発事故の被害について東京などで話題になると、「そうは言っても福島の人は原発を受け入れたんでしょう」という反応によく出会うからだ。また福島県内でも、「大熊町、双葉町の人らはお金をもらって原発を受け入れたから」という声も少なくない。
 たしかに、反対を押し切って土地が取り上げられたというわけではない。反対運動もなく、土地の買収も円滑に進んだとされている。
 しかし、少なくとも、池田さんのお話しからわかることは大熊町、双葉町の住民が、福島県や東京電力から、原子力発電ということについて正面から提起され、それに納得して賛同したというわけでは全くなかったということだ。
 原子力発電がどういうものかという知識を住民はほとんど持っていなかった。当時は茨城県東海原発が1960年1月に着工したところで、全国民の大半が、原子力発電に関する知識を持ちようがなかった。
 そういう住民に対して福島県と東京電力が行った説明は、「オブラートに包んだような感じ」「原子という言葉は表現しなかった」「私の記憶では、原子力発電所らしいということは、地層調査が終わって、工事が始まって大型重機などが入ってきてから」というのだ。
 もちろん、福島県や東京電力がその説明の中で、原子力発電について触れなかったということはないだろう。しかし用地交渉に当たった県職員の報告(*1)によれば、広島・長崎の原爆の記憶と原子力発電とが結びつくことに神経をとがらせつつ、「石炭、石油を燃やすと同じように、核分裂によって発生するエネルギーを水に加えて、あとは、火力発電所と同じであるという説明を行った」とある。
 原子力ということが、参加した住民の印象に極力残らないようにして、まさに「オブラートに包んだような感じ」で飲ませてしまうというやり方したということだ。
 そして、そのオブラートというのが、「出稼ぎをしなくて済む」「町が潤う」「遊園地」「一大観光地」という甘言だった。

*1 横須賀正雄 「東電・福島原子力発電所の用地交渉報告」(『用地補償実務例(Ⅰ)』1967年)


<死者720人超、放射線障害5000人>の試算


 では、原子力発電の危険性について、国、福島県、東京電力は、当時、どういう認識だったのだろうか。少なくとも、国、福島県、東京電力などの中枢レベルでは、原子力発電の危険性について相当厳しい認識を持っていた。
 原子力発電を日本に導入するに当たって、原発事故が起こった場合の損害賠償に関する法律を制定する必要があった。その前提として、原発事故の被害がどれくらいなるのかという試算を行っていた。科学技術庁が日本原子力産業会議に委託して行った「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆被害に関する試算」(1960年4月、以下「試算」)(*2)。その試算は、いつかの条件や仮定によって幅はあるが、最悪の場合、<死者720人超、放射線障害5000人、永久立ち退き10万人、被害総額は最高で3兆7千億円>に至るという衝撃的なものだった。
 国は、原発推進のためにこの試算を機密扱いにし、40年後の1999年に公表されるまで、国は試算を行ったことすら否定し続けた。と同時に、原子力損害賠償の仕組みの構築や立地地域の選定などの前提にこの試算があった。
 1964年4月に原子力委員会が策定した「原子炉立地審査指針」(*3)はそのことをはっきりと示している。「原子炉は、どこに設置されるにしても、事故を起さないように設計、建設、運転及び保守を行わなければならないことは当然のことであるが、なお万一の事故に備え、公衆の安全を確保するためには、原則的に次のような立地条件が必要である」と述べた上で、「原子炉は、その安全防護施設との関連において十分に公衆から離れていること」「原子炉の周辺は、原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること」「原子炉からある距離の範囲内であって、非居住区域の外側の地帯は、低人口地帯であること」としている。
 つまり、試算のような重大事故を前提とし、それが最大の懸案だという認識なのだ。そして、そういう事故が東京のような大都市部で起こったら大変だから、僻地・過疎地に持っていけという考え方を提示した。そういう基準で、大熊町、双葉町が選定された。京浜工業地帯を中心とした高度経済成長を支えるための電力だが、重大事故による犠牲は、大熊町、双葉町の住民に押しつけるという判断がなされたということだ。
 しかしこういう判断だということを国、福島県、東京電力も言えるはずもない。そこで当該の住民に対して行われた説明は、「出稼ぎをしなくて済むし、町が潤うんだから、協力して下さい」。「発電所は寿命が20年間」「その後は撤去して遊園地に」「一大観光地にする」。こういう詐欺にも等しい行為が、立地の出発点において行われていたということをわれわれは確認しておく必要があるだろう。

*2 今中哲二 「原発事故による放射能災害」参照
    http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/genpatu/gunshuku9905.html
*3 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19640527001/t19640527001.html


◇「出稼ぎをしなくて済む」


 さて、いまひとつ見ておきたいのは、「出稼ぎをしなくて済む」という言葉の持っている意味だ。
 出稼ぎの問題は、原発立地当時の問題に触れたとき住民から異口同音に語られる。実際、それは当時の大きな社会問題であり、切実な問題だったからだ。
出稼ぎとは、主に東北や九州の農村から、農閑期に数カ月にわたって東京などに出て、土木建設現場で働くこと。戦前からかなりあったが、戦後は高度経済成長の中で激増している。1964年の東京オリンピックを契機とした地下鉄、高速道路、下水道工事などの非熟練労働に従事した。重層下請制度の下、低賃金・長時間・無権利で労働災害が多かった。出稼ぎ出る者にとっても、残される家族にとっても辛い問題であった。(*4)
 しかし、そういう思いまでしてなぜ出稼ぎに出る必要があったのか。「農業だけでは生活が苦しい」(1972年農林省の面接調査)。これが大きな理由だった。
 では、どうして農業で生活できないのか。それは、高度経済成長という国策のために、政策的に仕向けられたというべきだろう。
 ひとつは、高度経済成長を推し進めるためには鉱工業の輸出の促進が至上命題であり、そのために貿易自由化が進められた。その結果、農産物輸入が激増し農業に打撃を与えた。そのために農家は農業外に収入を求めざるを得なくなった。二つには、農業の生産性の向上を掲げて稲作を中心に機械化が促進された。機械化は労働時間の短縮には貢献したが、同時に機械の購入のためにまた農業外の収入に走らざるを得なくなった。
 ここまでなら農政の失敗という話になるかもしれないが、そうではなかった。自由化や機械化を進めることで農業と農村を縮小合理化し、農業人口を都市部に引き出し、京浜工業地帯を中心とする労働力として投入する。そういう政策的な意図があった。だから農政でありながら農業と農村を破壊するということを意図的に進めた。その政策によって、都市近郊では兼業化が進むが、近郊に雇用がない地方では、出稼ぎや就職という形で、労働人口の流出となっていたのだ。(*5)(*6)

*4 林信彰 「農業政策の破綻と出稼ぎ」(1947年9月 横浜市「調査季報」43号 特集 出稼ぎ労働の問題点)
        http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/seisaku/chousa/kihou/43/kihou043-012-019.pdf
*5 飯島充男 「福島県農業の現状と展望」(1980年8月『福島県の産業と経済』山田舜編)
*6 物質文明を拒否する立場から出稼ぎ拒否と論じた当時の論考に草野比佐男『わが攘夷』(1976年)がある。


◇未来のための教訓


 こうして見ると、「出稼ぎをしなくて済む」という言葉を、住民らがどういう思いで訊いたかがわかってくるのではないだろうか。と同時に、出稼ぎをせざるを得ない窮状が、国策によってつくりだされたものだということに強い矛盾を感じる。さらに、そういう窮状に付け込む形で、原発の立地が進められたのだった。しかも、推進する側はその危険性を知りながら、そのことをひた隠しにして進められた。危険性を知っているが故に、窮状にあえぐ地域に押しつけたのである。(*7)
 原発の建設が始まると、一時的に雇用が急増した。しかし、建設ブームは一時的なものだった。原発は、関連産業を生み出すような性格ではなく、浜通りに産業の集積が進み、一大工業地帯になるというのは全くの幻想であった。
 出稼ぎは形の上ではなくなったが、それは形を変えて、定期検査時の作業に、重層下請制度の末端に動員されるものであった。福島の原発が稼働時は定期検査作業を求めて全国の原発を回った。それは形を変えた出稼ぎでもあった。そして、定期検査時の作業は被ばく労働であり、健康被害を不可避とするものであった。原発の危険性の説明もなく、原発が立地され、その原発に働きに行っていた住民が、被ばくによる健康被害で苦しみ、そのことを訴えることもできないまま亡くなっていった。
それを目の当たりにすることを通して、「これは怖いなとようやく分かってきたんだ。安全というのも神話なんだなって」と気づいていく。しかし、同時に、「そういうことが分かってきたときは、もうどうしようもなかったんだよね。だって町全体が原発に組み込まれてしまったようなもんだから」。
 池田さんのお話から、原発という国策がどのように進められたのか、そして立地地域の住民がどういう思いをしてきたのか、ということを窺い知ることできる。と同時に、池田さんの証言から、本当に脱原発を進めるためには何が必要なのか、脱原発を訴える側がどういう人びとのどういう思いと結びつく必要があるのかという教訓を示してくれているように感じた。

*7 ここでは言及していないが、いまひとつの窮状として、1958年に大野村と熊町村が合併してできた大熊町の町財政の悪化という問題があった。


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 なお、上で「反対運動もなく、土地の買収も円滑に進んだとされている」と述べた。たしかに運動といえるような動きはなかったが、しかし実は反対の声や抵抗の動きが存在していた。これについては回を改めて報告したい。(了)


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テーマ:「原発」は本当に必要なのか - ジャンル:政治・経済

  1. 2015/07/01(水) 16:00:00|
  2. 双葉町
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原発被害を受けた者が痛みを声にして  5月24日「ひだんれん」設立



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 福島第一原発事故によって受けた被害に対して、国や東京電力を訴える動きが全国に広がっている。そうした中、訴えを起こしている住民、団体をつなぐ「ひだんれん(原発事故被害者団体連絡会)」が設立された。5月24日、福島県二本松市内でその設立集会が開かれ300人が参加した。「ひだんれん」への参加団体は5月24日現在で13団体(*)になった。
(*参加団体:原発被害糾弾 飯舘村民救済申立団、福島原発かながわ訴訟原告団、福島原発告訴団、福島原発被害山木屋原告団、川内村原発事故被災者生活再建の会、南相馬・避難勧奨地域の会、子ども脱被ばく裁判の会、原発損害賠償訴訟・京都原告団、福島原発おかやま訴訟原告団、福島原発被害東京訴訟原告団/オブザーバー参加団体:「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟原告団、みやぎ原発損害賠償原告団、原発さえなければ裁判原告団)

 集会では、秋山豊寛さん(宇宙飛行士、ジャーナリスト、福島県田村市から京都府内に避難)の講演があり、さらに各地の原告や弁護士から取り組みの報告が行われ、「ひだんれん」共同代表の武藤類子さん(福島県三春町)が「手をつなごう!立ち上がろう!」という設立宣言を読み上げた。
 原告や弁護士の報告では、とりわけ以下のような国の動きに対して、苦しみと怒りの訴えが相次いだ。
 ①自民党復興加速化本部が、居住制限区域と避難解除準備区域について、2年後の2017年3月までに避難指示を解除し、精神的損害賠償の支払いをその1年後には打ち切る方針を打ち出した。②福島県が自主避難者に対する住宅支援を2016年度で打ち切る方針を打ち出した。③国が、年間20ミリシーベルトでの避難解除と帰還促進を基本方針として進めている。④国が、次の原発事故を想定し、電力会社を免責するため、被害者が損害賠償の訴訟を起こせないように制度の改悪に着手している。⑤総じて、国が、「原発事故の被害など大したことない」「福島原発事故はもう終わったことだ」として切り捨てようとする姿勢を露わにしている。
 このような動きに対して、設立宣言では次のように呼びかけた。「国と東電に対し、被害者の責任として本当の救済を求め、次の目標を掲げます。1.被害者への謝罪、2.被害の完全賠償、暮らしと生業の回復、3.被害者の詳細な健康診断と医療保障、被曝低減策の実施、4.事故の責任追及‥‥。私たちは、諦めることをしません。口をつぐむことをしません。分断され、バラバラになることをしません。私たちは手をつなぎ、立ちあがります。そして、すべての被害者の結集を呼びかけます」
 以下、集会発言から4団体5人の報告要旨を紹介する。

 

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真っ赤になって怒らねば


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福島原発かながわ訴訟原告団 村田弘さん
(南相馬市小高地区から横浜市に避難)



 福島から神奈川に避難している61世帯174人が現在、横浜地方裁判所で、国と東電の責任を認めさせる訴訟をたたかっています。今月の20日に9回目の口頭弁論を終えたところです。
 ところで、ほんとにひどいと思いませんか。自主避難者への住宅支援の打ち切り、それから居住制限区域などの解除の方針。そういうことが相次いで報道されました。この4年間、収束宣言から始まって、安倍首相のアンダーコントロール発言など、福島の原発被害者を蔑ろにする動きに本当にはらわたがちぎれる思いをしてきましたけれども、今度こそ、本当に許せないというような気持ちになっています。
 一言で言えば、「福島原発はもう終わったことだよ。もう、戦争をやるかどうかなんだから、『原発で被害を受けて賠償しろ』などといっている場合じゃないよ」と宣言しているに等しいですね。私はそう受けとめています。私は昭和17年生まれで73歳になりますが、私が生きてきた70年間の最後に来て、安倍政権という恐怖の集団によって、日本が爆発させられてしまうのでないかと、背筋が凍るような気持ちでいます。
 武藤類子さんが2年前に「私たちは静かに怒る東北の鬼です」と言われて、私も静かに怒ってきました。しかし、もう、そういう段階ではないんじゃないか。本気になって、真っ赤になって怒る必要があるんじゃないか。そういう気持ちで頑張っていきたいと思います。



思っていることを
言えないようにしている、
その根本とたたかう



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原発賠償訴訟・京都原告団 菅野千景さん
(福島市から京都市に避難)



 京都には51世帯144名の原告がいます。大人から子どもまでが原告となり、大阪や兵庫と協力しながらたたかっています。
 原発事故が起きて、食べ物や飲み物、生きるために必要な水や空気、大切な人との関係、それらがすべてこれまでと同じようにはできなくなってしまった。これは、私たち誰もが感じていることだと思います。毎日の食べ物や原発の状態など、そういう緊張感の中で子どもたちの心身の健康を心配しつつ今も暮らしています。
 しかし、その原因であり当事者である東電や国は謝罪もなく、他人事のようにしています。問題のすり替えの繰り返しで、腹の中が煮えくり返ります。
 私は、昨日、福島市に入り、今朝、タクシーに乗って運転手さんとお話をしました。運転手さんは、南向台(福島市。空間線量が高いが避難指示が出されなかった地域)に住んでいるそうです。原発の話もしました。運転手さんは、「(子どもとお孫さんを)もっと線量の低い所に引越しさせるんだ」と話してくれました。私が、「ああ、それはよかったですね。でも、こういう話が、みんなともっと普通に話せる環境になったらいいなあ」と言ったら、運転手さんが振り返って、「本当にそうだねえ。このままではおかしいもんナイ」とおっしゃっていました。
 心の中で思っていることを言えない環境にしている、その根本と、私はたたかっているんだなと感じました。本当のことを言ったら反発や批判を受けるのに、立証もされていないのに「因果関係はない」とか、「問題はない」と言い切る無責任な言葉は正当化されてしまう。そういう現実にとても違和感を覚えます。
 私は県外に自主避難しましたが、福島で暮らす人びと、県内で避難した人びととの間に、これ以上の溝をつくらず、この原発事故で苦しみや不自由さをすべて乗り越えるために支え合うことが必要だと心から思います。
 自主避難者の住宅支援を打ち切るという発表もありました。原発事故で生じた我が家の様々な損失を、個人で訴えて認めさせることが、経済的にも時間的にも精神的にも、本当に難しいと、3年前に実感しました。もう諦めようかと思ったときもありましたが、そのときに、京都で集団訴訟を起こすということを知り、私たちも原告に加えさせていただきました。でも、「東電、国に対してたたかうなんて無駄だ」と言われたこともありました。
 今日ここにきて、みなさんの力強いメッセージに励まされて、また、京都に帰っていくことができます。私は、原発にたいしては本当に無知でしたが、今日ここで、当たり前の暮らしを守ろうとして下さっている方々から勇気をいただきました。
 5月16日、「女たち・いのちの大行進in京都」という集いを行いました。命を守ろう、子どもたちを守ろうという思いの方が、全国から千人以上も集まって下さいました。子どもも大人も今日までたくさんのことを我慢して、諦めて、そして、お別れして、失ってきました。もうこれからは、助け合って、上辺だけの希望ではなく、本当の未来のために、力を合わせて、手を取り合って、進んでいきたいと心から願います。
 


子や孫を思えば
20ミリを基準にしてはならない



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南相馬・避難勧奨地域の会 菅野秀一さん
   
 南相馬市から参りました。南相馬市に特定避難勧奨地点がありましたが、去年12月28日にすべて解除になりました。その解除の理由が、年間20ミリシーベルトなんです。これは高すぎるということで、いま、訴訟を致しております。
 私たちが活動するにあたっての決意を7点ほどにまとめました。
          ・        ・        ・
1. 日本国内のすべての原子力発電所を廃止すること。
2. 日本国内の原子力発電所の再稼働は絶対に反対である。
3. 東京電力福島第一原子力発電所の事故は、過信による人災である。
  国及び東京電力は被災者に対して謝罪すべきである。
4. 原発事故による風評被害は、国の責任において払拭すること。
5. 避難解除基準の年間20ミリシーベルトはあまりにも高すぎる。
  原発作業員の被ばく基準と同じである。
  公衆の被ばく限度は年間1ミリシーベルトである。
6. 原発事故による被ばく者に対して、被ばく者健康手帳を交付すること。
7. 東京電力福島第一原子力発電所の事故は未だに収束していない。
  完全に収束するまで賠償を継続すること。
          ・        ・        ・
 解除で日常的に帰れるようにはなりましたが、現実には、まだまだ20ミリシーベルトを超えるようなところがあります。今から20年も30年も、私の孫たちが、安心して暮らせる、われわれの責任であります。そのために活動して行きたいと思います。



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南相馬・避難勧奨地域の会 小澤洋一さん


 20ミリ撤回ということを訴えています。年間20ミリシーベルトでの避難だとか、避難の解除となっていますが、20ミリシーベルトを世界基準にしたらだめです。
 チェルノブイリの基準では、事故当初は100ミリシーベルト、それが段階的に下がって、5年後に5ミリシーベルトですね。ところが日本政府は、20ミリシーベルトのままでずっと来ております。
 われわれの命の保障や住宅の補償は打ち切って、オリンピックにひた走る。前福島県知事は、国道6号線で聖火リレーをしたいなどと言っていましたが、本当に情けないですね。
 空間線量、地上1メートルで0.14マイクロシーベルトあれば、放射線管理区域なんでんすね、さらに、1.36マイクロシーベルトあれば全面マスクです。
 


先のことを
考えられない状況が辛い



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福島原発おかやま訴訟原告団 大塚愛さん 
(川内村から岡山市に避難)


 
 昨日になって参加を決意しました。7カ月の赤ちゃんを連れてきました。
 77世帯103名が原告団になって2014年3月に提訴しました。原告の多くは、自主避難された方たちで、母子避難で岡山に来ている方もいます。私は、10年間、川内村で築いてきた自給自足の暮らしと、自分で立てた家のすべてを置いて、岡山の方に避難をしてきました。この4年間、何度も振り返ったり、涙を流しながら、生活再建を一歩一歩頑張ってきました。
 避難者の中には、子どもに無用な被ばくをさせたことで、健康診断の結果を気にしながら不安な思いを抱えている方もいます。とても仲が好かった家族がバラバラになり、お父さんは福島に残り、お母さんと子どもだけで岡山で生活を頑張っている方もいます。大好きだったおじいちゃん、おばあちゃんを福島に残し、年に1回、やっと会えるというような方たちもいます。
 原発事故の被害というのは、セシウムも目には見えませんが、受けた被害、心の傷というのも目に見えません。当事者である私たちが、暮らしの中で何が起こったかということを言葉にしないと被害というのは伝わらない。そういうことをこの4年間、つくづく感じてきたので、原告になった私たちは、勇気を出して発言をしています。
 そんな中で、先日、自主避難者の住宅支援打ち切りがニュースになりました。明後日、福島県庁の方に続けてもらうように要望したいと思っております。ある避難者の方が、福島県庁で伝えてほしいという思いをメールで送ってくれました。その方の言葉を読ませてもらいます。
           ・        ・        ・
 なぜ、自主的避難者に対して支援が打ち切られるのか。どんな思いでふるさとを離れ、親族や友だちと離れてきたのか。子どもを思う気持ち、ただそれだけで今を生きている私たちを、どうして支援してくれないのか。知らない土地に、遠い場所に、好んで避難した人なんて誰もいないと思います。
 子どもが生まれて家族になって、これからだというときに、なけなしの貯金を崩し仕事をやめ、すべて福島に残して避難してきました。4年がたち、生活がやっと普通にできるようになり、あの原発事故を振り返らずに、前を向いて行こうとやっと思うようになった矢先に支援の打ち切り。さらに雇用促進住宅は3年後に取り壊しが決まっています。子どもたちがやっと学校や岡山の生活になじんできてくれました。なのに、私たちはまた引っ越しや転校を繰り返さなければいけないのでしょうか。引っ越しにはお金がかかります。福島に戻るにもお金がかかります。親族に会いに一年に一度帰ることだってやっとの状況です。
 やっとの生活をしている私たちにとって残酷でなりません。お金なんかじゃない。将来が見えないことに、先を考えることができない状況が辛いんです。
 みんな同じだと思います。あれからもう4年。私たちにとってやっとの思いで過ごしてきた4年。やっと落ち着いて、子どもの数年後を楽しみにできるようになったばかりなのです。その小さな幸せさえも支援がなくなったら、また振り出しに戻るんです。どうかもう数年、私たち親が「自分たちが決めた道はこれでよかったんだ」と言えるようになるまで、もう少し時間が必要なんです。どこに行けばよいのでしょうか。もうあんな思いはしたくないんです。
           ・        ・        ・
 こういう言葉をいただいています。
 岡山は西日本で一番、避難者が多い地域で、関東から避難をしてきている人がたくさんおられます。そういう方たちが応援に来てくれ、訴訟に加わっていきたいという動きもあります。
 先ほど、秋山さんが、「この会場に来ていない人たちとつながっていこう」という話がありました。岡山では、福島県に留まっている人たちの保養の受け入れをしています。そのお母さんたちは訴訟には加わっていないけれど、同じ思いでいると思います。県内におられる訴訟に加わっていないたくさんの人たちの思いともつながっていけたらと思います。  (了)
 


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  1. 2015/06/01(月) 18:00:00|
  2. 告訴/賠償/ADR申立
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一面の菜の花  南相馬市太田

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 放射能で汚染された農地を菜の花で浄化し、再生する試みが行われている。
 その種からは、菜種油がつくられ商品化されている。
 チェルノブイリでの長い実践と経験に学んだ取り組みだ。

 黄色一色の圃場から、農家の人びとの農業再生にかける思いが伝わる。






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  1. 2015/05/10(日) 17:00:00|
  2. 南相馬市
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萌え出す本陣山




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   ついこの間まで、一面冬枯れだった。
  花たちが一斉に萌え出してきた。

 

         (本陣山=南相馬市原町区 相馬野馬追が行われる雲雀ヶ原に隣接し、かつて藩主が野馬追を観戦した)






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  1. 2015/04/12(日) 12:00:00|
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「納得いかない。どう考えても納得いかないんだ」  中間貯蔵・搬入開始

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(住民説明会の場で、環境省などの官僚たちに向かって、意見を述べる池田耕一さん〔写真中央の起立している男性〕。昨年6月1日)


 3月13日から、大熊町に設けられた保管場への除染廃棄物の搬入が開始された。当初、双葉町の保管場にも同時に搬入を開始する予定だったが、双葉町民から抗議の声があがり、開始が延期された。今後どう展開するかは予断を許さない。
 「保管場」はあくまでも一時的な置き場。除染廃棄物を処理・貯蔵する「中間貯蔵施設」の用地取得は、まだ全く進んでいない。地権者2300余人の同意がないからだ。福島県知事や大熊・双葉両町の首長の受け入れ表明が大きく報道されているが、肝心の地権者で同意に漕ぎ着けたのは現時点まだ2300余人中たった1人。地権者の大半が交渉にさえ入っていない状況だ。にもかかわらず、国は、除染廃棄物の搬入を開始した。

 こうした中で、地権者の一人、双葉町大字郡山の池田耕一さん(84)にお話を聞いた。池田さんは、この地で6代250年続く農家。福島第一原発のサイトから約3キロ、敷地境界からは約1.5キロのところでコメとホウレン草づくりに精を出していた。現在は南相馬市に避難中だ。
 「国のやり方に納得がいかない」
 これが池田さんをはじめとする地権者の率直な気持ちだ。
昨年の説明会で地権者から出された要望や意見に対して、国は答えていない。それどころか、説明会以降、国からの池田さんへの話は、電話が一回あっただけ。誠意が見えない。そして、国は「30年以内に持ち出す」と言っているが、そういう空手形でごまかそうとするやり方に、池田さんは不信を抱いている。用地取得が進まないことを地権者のせいであるかのように世論を仕向け、被災者同士を分断するようなやり方にも憤っている。
 ふるさとを汚染された上に、さらにそのふるさとを永久に奪われる苦しみ。これに対して国は向き合おうとしていない。このことを池田さんたち地権者は訴えている。
 池田さんは、また、「国民全体で負担を分かち合って」と訴えている。中間貯蔵施設問題は、国と地権者との間だけの問題ではないはずだ。ところが、国民の大多数にとって他人事になってしまっている。国民の大多数がそういう意識であることによって、大きな被害を受けた者に、もう一度、被害を与えるような理不尽がまかり通ろうとしている。そして汚染の原因者・加害者らが、そういうことを平然と繰り返そうとしている。
 除染廃棄物をどこに持っていくのかという具体的な議論に入る前に、私たちには、考えるべきことがある。
 池田さんら、双葉町、大熊町の地権者のみなさんの声に耳を傾けてほしい。
 

      ・        ・        ・



まだ何の話し合いもないのに



――13日から、一時保管場所への搬入が始まります。〔インタビューは3月7日〕

池田さん:なんか堰を切ったように、どーっと行こうとしているね。国が流れをつくって、被災している私らを、抑え込もうとしているわけでしょ。
 地権者は2千3百人ぐらいかな。その地権者の同意も取らずに、どうよ、このやり方。しばらく前にはね、「地権者一人ひとりにご説明に伺います」といっていたのに。

――去年の5~6月、国による住民説明会が、また9~10月に地権者説明会が行われましたが、その後、どのように進められてきたのでしょうか?

池田さん:地権者説明会のときはね、国からは、「福島県民の生活を良くするために、大熊さんと双葉さんにお世話になんなくちゃなんない。ご理解ください」ということだったね。
そしてプリントを渡されてね、水田が1平米なんぼ、畑がなんぼ、山林がなんぼ。いやもう、見たら、買い取りの基準がうんと低いんだ。事故前の5割って、私らにとっては半値以下だからね。
 「新たに土地を見つけて、家をつくって、生活して下さいよ」と言われてもね、国の基準では、土地は買えても、家は建たないのよ。いわき市だって原町だって、ずっと高いわけ。なぜ移転先の価格を基準にしないんだって。で、土地を買ったけど家が建たないから借金するとなるけど、みんな高齢化しているから、銀行さんも貸してくれないわけでしょ。
 そんなねえ、放射能がなければあのふるさとに住でいたのに、なぜそんな低い値段を踏むんだって。地権者説明会のとき、「この数字では、家は建たないよ。即見直して下さい」っていったけど、国は「帰って、検討させていただきます」とそれだけ。

――検討した結果は?

池田さん:何も変わっていないね。

――すると、地権者の方に個別の説明は?

池田さん:ないね。連絡も電話が一回だけ。環境省からね。
「地権者の方を訪問していますが、いろんなところに避難していて、わからない人もいて時間がかかっています」と。わかる人を先にやればいいんだよね。
 「で、私のところはいつごろになりますか?」って訊いたら、「池田さんのところは大分遅れるんですが・・・」と。「ああ、いいですよ。でも、できれば早くね」。
 そういうやりとりがあった。それがだいぶん前の話だから。それ以降、何の連絡もなし。
住民説明会を12回に分けてやって、われわれは本気になって意見を言ったよね。でも、それがぜんぜん届いてない。これは情けないね。

――結局、説明会以降、国から何の話もないのに、13日から搬入が始まると。これは大変なことですね。 

池田さん:3月3日の新聞(福島民報「中間貯蔵施設」特集)には、Ⅰ型施設とか、Ⅱ型施設だとか、中間貯蔵施設の配置図が出てるんだよね。もう決まったことのようにね。まだ話し合いだって始まっていないのにだよ。私ら地権者は無視されてるんだよ。
 それから、「一時帰宅のお墓参りは最後ですよ」ってことも新聞に書いてある。今度の3月11日が最後で、除染廃棄物の搬入が始まったらもう墓参りもできないんだね。いやいや呆れちゃうね。こんな状態だったら騒ぐよ。
 これね、相手が国だからね。これが民間の一対一の話だったら、こんなことは絶対に成り立たないでしょ。原子力発電所をつくるときと、なんかやり方がそっくりだね。

※池田さんは、50数年前の原発立地前の住民説明会に参加している。このときの貴重な証言があるがそれは続編として掲載予定



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(原発事故前の池田さんの自宅。6代、250年の歴史が積み重ねられている)



地権者同士のつながりへ


――双葉町としては、今年1月13日に受け入れを表明していますが。

池田さん:残念だよね。だって、12回にわたって説明会をやって、賛成意見を吐いた人は、ほとんどいなかったわけでしょ。で、町民懇談会をやって、そのときも、私から伊沢町長に、「町長、大熊町は受け入れたけど、隣り町が受け入れたからって、双葉町も受け入れなくちゃなんないということはないんだから。地権者とよーく話し合ってから結果を見たらいいんじゃないの」って言ったんだ。でもね、町民懇談会をやって間もなく、受け入れを表明したんだよね。いやー、町長は慎重に事を運んでいる人だから高く評価しているんだけど、もう苦しくて言っちゃったということだろうね。
 本当はね、双葉町だったら郡山と下条(げじょう)の地権者で会議を持って、そこで、何回も議論して結論を見出すというのがいいんだろうけど。集まるということは非常に大事なんだよね。でも、みんな、散り散りバラバラに避難している状態だから、なかなか難しいんだな。
 でも、今年に入ってから、大字郡山の区長の斉藤宗一君(双葉町から茨城県に避難中)が、事態を大変心配して、大字会(行政区の集まり)をやろうということになって、やったんだよ。

――みなさんの意見はどうでしたか?

池田さん:そこで、いろいろ話が出たけど、みんなの意見を総合すると、やっぱりね、息子の代では無理でも、孫や曾孫の代には帰れるのではないかって思っているわけだよ。ふるさと、生まれた家をぶん投げてきたけども。孫、曾孫の代になって、あの恐ろしい放射能がなくなってよかったという時代が必ず来るよ。まあ何十年かかるかわかんないけど、いつかかならず帰れると。
 それなのに、除染廃棄物が山ほど積まれたら、ものすごい量だからね。大字郡山が山になってしまうんだから。で、大気汚染や地下水汚染でダメになって行くでしょう。で、最終処分場ができたとしてそこに持ち出しても、地下水の汚染なんかは何百年と続くでんしょう。水が汚れてしまったら、結局、住めなくなるんだよ。
 大字郡山の人たちも、大熊さんの人たちも、そこで生まれた人にとっては、みんなそういう気持ちなんだな。


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(収束作業中の福島第一原発の排気塔が、大字郡山からは直近に見える)



「中間」「30年以内に」という欺瞞


――国は、「30年以内に県外に持ち出す」としていますが。

池田さん:そもそも、なぜ二つも施設をつくる必要があるんだろうね。なぜ最初から一つに絞らないんだと。膨大な無駄でないか。施設を二つ作って、運び込んで、また持ち出してと、もう膨大なお金がかかる。国はそれほど豊かではないでしょ。最初から最終処分場を見つけてつくったらいいわけでしょ。その方が、金もかからないわけだから。
 それに、「30年以内に県外に持ち出す」というけど、今できないんだとすれば、30年後の孫、曾孫の代になったら、なおさらできないんでないの?

――国は「30年以内」という約束を守るでしょうか?

池田さん:例えば地上権の話ね。われわれは、いつか必ず帰れるって思っているから、土地は売らないで所有権は住民に残したいのよ。これは当然でしょ。だから、国が国有化したいといっても、われわれ地権者は、地上権だけは残して、国に対して貸すということを考えているわけだよ。
 だけど、新聞〔福島民報3/3付〕を読んでたら、「地上権」ということで、「土地の所有権は住民に残す。ただ、地権者の承諾がなくても登記や譲渡、転売ができるため、借り主(ここでは国)には土地賃借権(ここでは地権者)よりも一段強い権利がある」と。
 私らには全く理解できないんだけど、つまり、「30年以内って言ってたけどやっぱりダメだったので、しばらく置いときます」と国が言いだしたとき、「返しなさい」と言っても、地上権の方が強いということでしょ。いや驚きだね。
 それから、中間貯蔵施設に貯蔵されたものを、焼却できるものは焼却して、振り分けて、産業復興に再利用できるものは利用するとか言ってるよね。「30年以内に持ち出す」という話が、いつの間にか、こういう風に使えるんだって話になっちゃってるんだよ。
 こうしてみると、やっぱり、どう考えても、国のやり方って言うのはなんか、われわれにとっては納得いかないね、納得がいかないんだよ。
※環境省 2014年10月28日 衆院環境委員会

――納得できないということのひとつに、そもそも、「中間貯蔵」とか「30年以内」といのが欺瞞だという思いがあるということですね。

 池田さん:そういうことだよ。私らも、ただただ反対しているわけじゃないんだよ。双葉町に汚染廃棄物を持ち込まれるのがいやだということだけを言ってるんじゃない。国も、県も、大熊・双葉の両町も、みんながいい方向になればと思ってるんだ。だけどね、納得できる話を国がしてくれないんだから。


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(震災前、ホウレン草のパイプハウスの中で作業の手を休める池田さん夫妻)



国民全体で分かち合う


――説明会でもふるさとへの思い、ふるさとを失う苦しみを切々と訴えていました。

池田さん:池田家が相馬に来て私で6代目。250年ぐらい前に、鳥取から相馬にやってきた。1代目のご先祖が「相馬二編返し」という民謡の、「ハァ 相馬相馬と 木萱もなびく なびく木萱に 花が咲く 花が咲く」という節にほだされて、こっちを目指したそうだ。頼る親戚も縁故もあったわけじゃないんだよ。
 途中、千葉の銚子で漁師をしたりして、ようやく辿りついたところは、一面平らで、広い広い葦谷地だったんだ。
 「よしここを切り開こう」とご先祖が決めてから、毎日毎日、筋肉労働で、荒地を興して、寝る間も惜しんで、汗みどろになって。そうやって代々、少しずつ水田を広げていった。で、私の代で、3町3段3畝(約330アール)だな。
 コメとホウレン草ね。コメは、インターネットでも販売していて、本当においしいから、人気だったよ。それでもコメだけでは生活を支えることができないんで、パイプハウスで一年中ホウレン草をつくっていた。夫婦二人で本当によく働いたよ。
 そうやって、先祖代々励んで、築き上げてきたものなんだ。だからご先祖がそうやって築いた財産を、そんなに簡単には行かないんだよ。

――先祖代々の土地への思いを誰も踏みにじることはできないと思います。しかし、国は、そういう思いを汲もうとしませんね。

池田さん:そうだね、残念ながら。
 「福島県を復旧・復興しなくちゃなんない。元のきれいな福島県にしなければならない」。そりゃその通りだ。だけどそう言いながら、なぜ大熊、双葉に廃棄物を持ってくるの。そしたらこの2町村は永久に復旧・復興できないじゃないのって言っているんだよ。
 で、大量の廃棄物を一カ所にまとめるから、山のようになるわけだよ。それを同じ国民で、小さく分け合って、持ち合えばということも、言っているんだよ。ちっちゃく分け合って、持っていればいいじゃないの。

――全国民で負担を分かち合って、解決すべき問題ではないかと。

池田さん:そういうことだよ。
 ところがね、例えばこういう話があるんだね。仮仮置き場の契約延長を巡る話だけど。地主さんは、「3年契約じゃなかったのか」って言うわけ。たしかにそういう契約だったからね。で、その町の町長さんが地主さんに詫びてるんだけど、その町長さんがどういう風に話したかというと、「双葉町、大熊町の方々が・・・」って。なんですか、地権者の所為にしているのよ、地権者の所為に。われわれ、別に反対、反対って言ってるわけでもなく、そもそも話し合いもできていないのに、「地権者との交渉が難航して進まない」んだと。
 これは、ほんとに私ら、腹は立てたくなくても、腹立っちゃうよ。大字会でも、「ゴネてないよねー?」っていったら、「そうだー!」ってみんな声を挙げてたよ。

※誤字ではない。仮置き場のさらに前の段階

――同じ被災者同士が分断され対立させられていますね。そして、一番責任のある東京電力や、一番泥を被らなければいけない国が逃げてしまっています。汚染廃棄物をどうするのかという問題を、大熊町、双葉町の人たちに押しつけるのではなくて、国民全員が当事者となって考える必要がある。言い換えれば、現状は国民の大多数にとって他人事になってしまっている。国はそれをいいことに、大熊町、双葉町に押しつけようとしている。「それはおかしいのではないですか」ということを訴えられていると思いました。

池田さん:そう、そう、その通りだね。
 同じ国民で小さく分け合ってと言ったのは、そういうことを言いたかったんだ。
 私ら地権者がどういう気持ちでいるかってことを、国の人にも、国民の皆さんにも、本当にわかってほしいんだ。

〔了〕




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  1. 2015/03/14(土) 12:00:00|
  2. 中間貯蔵施設
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【論考】福島における原子力と官僚支配〔下〕 ~出向官僚の内堀氏が福島県知事に~

【論考】 福島における
原子力と官僚支配 
〔下〕 
~出向官僚の内堀氏が福島県知事に~



 
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(アンケートに答える各候補。右端の内堀氏は「ビジョンがあるのか」の問いに〇と☓の両方を挙げている/昨年10月の公開討論会)


 〔上〕〔下〕にわたる本稿では、昨年10月の福島県知事選挙で、総務省から福島県に出向していた内堀雅雄氏が当選したという事柄を巡って論を進めている。
 既に掲載した〔上〕では、内堀氏がその副知事時代に、プルサーマルの受け入れ決定や原発事故への対応において果たした役割について検証した。また、そのことを通して、中央省庁による地方自治体に対する支配とそこにおける出向官僚の役割という問題を見て来た。
 もっとも、大半の県民にとって、〔上〕で見たような事実は、知らないことではなかった。そういう事実が多かれ少なかれ知られている中で、内堀氏が知事に選ばれた。これはどうしてなのかという問題を〔下〕では考えてみたい。
 
 その問題を掘り下げるために、〔下〕では、一旦、視点とスパンを変えて、明治以来の近代化の歴史、敗戦から高度成長を経て今日に至る歴史の中で形成されてきた、中央と東北・福島との関係、<中央による支配、地方の依存>構造という問題について論及したい。そのことに踏まえながら、知事選の結果を検討し、そこから、震災と原発事故から4年、依然として様々な困難が存在する中で、その困難の基底にあるものは何なのか、そしてその突破の可能性はどこにあるのかを探りたい。



目次
 【Ⅰ】 プルサーマルと内堀氏
 【Ⅱ】 人命より秩序維持を優先
 【Ⅲ】 地方出向による支配        
   ‥‥以上は〔上〕に、以下は今回の〔下〕に掲載‥‥
 【Ⅳ】 <中央の支配、地方の依存>構造  
   (一) 中央主導の東北開発の歴史
   (二) 転換の可能性はあるか
   (三) 中央に対する意識
   (四) 知事選の結果と「脱原発」



   ・     ・     ・



【Ⅳ】 <中央の支配、
      地方の依存>構造




 さて、ここまで、福島県の原子力行政と原発事故対応、そこにおける出向官僚である内堀氏の動きを検証し、中央省庁による地方自治体に対する支配と、そこにおける出向官僚の役割という問題を見てきた。
 ここで、視点を変えて、中央(中央政府と中央資本)と福島県との関係の問題、つまり、明治以来の近代化の歴史、敗戦から高度成長を経て今日に至る歴史の中で形成されてきた<中央による支配、地方の依存>構造という問題を見ることにしたい。そして、脱<支配・依存>構造という現在的なテーマについて考えたい。


(一) 中央主導の東北開発の歴史


 明治から今日に至る東北・福島の歴史の中について、はっきり次のことが言える。すなわち、富国強兵・殖産興業、戦争遂行、経済成長、原発推進、経済のグローバル化といった中央政府・中央資本が主導する国策がまずあり、東北は、その国策遂行のために開発する対象とされてきたということだ。
 そして、中央主導の東北開発は、常に、東北の自生的な動き、内発的な方向性、自立の意思といったものをことごとく摘み取り、中央に依存する以外の選択肢を事実上認めないという形で推し進められてきた。
 その結果もたらされたものは、あらゆる資源の中央への集中と東北の疲弊であり、常に中央を意識し、政治も経済も文化も、中央を基準に見るという意識の支配であった。そして、中央の支配とそれに依存する東北・福島という関係の構造としての固定化であった。
 ごく概括的に、中央と福島の関係史を見てみよう。【*1】

*1 『福島県の百年』 大石嘉一郎 山川出版 1992年11月
「復興期における只見川電源帰属問題と東北開発」上・中・下 仁昌寺正一 東北学院大学論集 経済学 123号 124号 128号 1993年
『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』開沼博 青土社 2011年6月
『なぜローカル経済から日本は蘇るのか』 冨山和彦 PHP新書 2014年6月

  ◇富国強兵・殖産興業と資源収奪

 明治の中央政府は、富国強兵・殖産興業のために、東北開発を構想した。その一環として、福島では、まず、小名浜の築港、安積の開拓、道路の開設などが進められた。そして、中央政府が、福島に求めたものは、米、繭、石炭、電力、兵力といった資源の供給であった。石炭も電力も、中央資本によって京浜地帯のための開発として進められた。
明治の初期の段階では後進県であったわけではない福島が、明治の末期には、中央に資源を供給するだけの後進県に転落している。そして、中央政府・中央資本の支配と福島の側の依存という関係が構造化していく。
 そして、30年代の恐慌から世界大戦に至る中で、戦争体制に徹底的に動員され、犠牲を払い、激しく疲弊させられた。

  ◇経済成長路線に翻弄

 戦後になって、地方自治が認められるなど、形の上での転換はあったが、基本構造に転換はなかった。
 敗戦からの復興を急ぐ中央政府にとって、復興とは東京の復興であった。しかも、敗戦により海外の植民地を失ったことから、その代替として、東北の開発に向かった。そしてその一環として福島では只見川地域電源開発が取り組まれた。その電源開発は、新潟・群馬・福島の三県の主導権争いがあり、東北電力と東京電力の水利権争も絡んだが、結局のところは中央主導で東京の復興のための開発として進められた。
 さらに進んで、中央政府は、京浜・中京・阪神・北九州の四大工業地帯を産業基地とした経済成長路線を追求した。それに対して、東北・福島に与えられたのは、労働力やエネルギーの供給地としての位置だった。それは、東京などの都市部への人口と産業の集中、地方の人口の流出と衰退をもたらした。
 四大工業地帯を中心とする経済成長路線に遅れて、福島でも常磐・郡山地区の新産業都市建設が取り組まれた。それは、中央政府の財政的支援によって道路・港湾を整備し、中央資本の工場の誘致を目指すものだった。人口も所得も増加するというバラ色の未来を期待したものだった。福島県は、「中央に直結する県政」「後進県からの脱出」といったスローガンを掲げ、官民を挙げて取り組まれた。
 しかし、実際には工場誘致は期待したように進まず、福島にもたらされたのは人口流出と農業の衰退、公害問題と県政の汚職であった。そして、高度経済成長が行き詰まる中で、公共事業に対する依存度だけが高まって行った。

 ◇原発に依存するしかない

 原子力発電所の誘致は、新産業都市の計画と前後して着手されている。
 それは、国策のための電力供給地という歴史を引き継ぐものであるとともに、企業誘致による地域開発を期待するものでもあった。また、原子力によるエネルギー革命という幻想に導かれたものであった。
 石炭でも石油でもなく、原子力というエネルギー革命がおこり、その最先端の未来都市が浜通りに生まれるかのように、当初は吹聴された。国策である原発の誘致は、国や東電による働きかけや工作があったことは言うまでもないが、「中央に直結する県政」「後進県からの脱出」を掲げる福島県の側からの強い働きかけがあったことも事実だ。
もっとも、原発の地域経済に対する貢献度が低く、被ばくと環境汚染という問題が明らかになるのに、そう時間はかからなかった。
 しかし、むしろ、そこから福島県の原発への依存度が高まっていった。経済成長が行き詰まり、企業誘致もとん挫する中で、公共事業への依存度が高まることと軌を一にして、交付金や補助金を目当てに、県も立地町村も原発への依存度を高めて行った。

  ◇グローバル化の中で

 2000年代に入る頃から、中央政府と中央資本は、経済のグローバル化に対応して、グローバル展開にシフトしていく。しかし、グローバル企業が、高度成長期のように世界を席巻し、それが日本経済をけん引するといった話は全くの幻想だ。しかも、福島の中小企業の中には世界で勝負できるような技術力を持ったものもあるのは確かだが、地域経済は、圧倒的に農業と小売りや流通やサービス業であり、グローバル経済との連関性は希薄だ。むしろ、福島で考えるべきことは、これを機に地域経済に重心を移しその建て直しを図ることだ。しかし、福島県が選択した道は、「ふくしまの将来を支える成長産業の創出」として、自動車部品、電子部品、医療機器などの先端分野の企業誘致と産業集積に期待するというものだった。
 その結果は、当然の如く、人口も雇用も所得も右肩下がりが続いている。

  ◇3・11後も続く

 これが3・11以前において進行してきた真実の姿だ。そして、福島原発事故は、<中央による支配と地方の依存>構造がもたらした帰結であったともいえる。その結果、双葉郡を中心に取り返しのつかない汚染と破壊を受けた。しかし、なお<中央による支配と地方の依存>の構造から抜け出せてはいない。
 佐藤雄平知事を引き継いで、副知事から知事となった内堀氏が掲げる政策の柱のひとつが、 福島・国際研究産業都市=イノベーションコースト構想である。これはアベノミクスにも位置づけられた国策であるが、要するに、原発事故で産業基盤が失われたところに、「国際的な廃炉研究拠点」「ロボット研究拠点」「原子力関係の研究室の集結」で産業基盤を再構築するというもの。原発事故の後もやはり原子力ということだ。

 
(二) 転換の可能性はあるか


 では、<中央による支配と地方の依存>構造から転換する可能性はあるのかを考えてみたい。
 まず、これまでの歴史の中で、転換の可能性はあっただろうか。やや大雑把になるが、明治から今日の歴史の中で、何回かその可能性を垣間見せるものはあったとみることできある。

  ◇三島県令と自由党派豪農の対立

 1880年代の三島県令(県知事)による道路建設を巡る問題である。中央主導で強権的に進める三島県令の開発路線に対して、会津地方の豪農たちは、地域の開発は住民の意思に沿って進めるべきだとして対立した。自主的内発的なものの萌芽がそこにあった。
しかしそれは自由民権運動の弾圧と軌を一にして押しつぶされ、中央依存に転向・吸収されていった。【*1】

*1 『福島県の百年』 大石嘉一郎 山川出版 1992年11月

  ◇只見川電源開発めぐる中央と東北

 1950年代の只見川地域電源開発を巡る問題である。それは、開発計画をめぐる新潟・群馬・福島の三県の対立、東京電力と東北電力との水利権争いなどが絡み合って展開した。
 しかし、本質的には、敗戦からの日本の復興を、東京を中心とした京浜地帯の復興と考え、そのための電力を只見川上流地域の開発をもって得ようという中央政府と、明治の早い時期に内的発展の道を閉ざされてきた歴史を克服しようと考える福島県および東北地方との対立と見ることができる。その決着は中央政府の側の求める方向に収れんされた。
 そして、地域の主体を押し潰して進められた開発は、福島県内でも豊かなであったこの地域を、典型的な過疎地にしてしまった。【*2】

*2 「復興期における只見川電源帰属問題と東北開発」上・中・下 仁昌寺正一 東北学院大学論集 経済学 123号 124号 128号 1993年

  ◇プルサーマル撤回と自立化の動き 

 上で大きなテーマといて扱ったプルサーマル受け入れを巡る問題である。
 当時、地方分権の議論が活発になっていた。その議論の中には、一方で、グローバリズムの流れに乗って、国の政策をグローバル企業中心に転換し、地方もそれに準じて使えるものは使い、それ以外は切り捨てるという方向の議論があり、他方で、戦後も一向に地方自治が進まないことに対して、中央と地方の歴史的な関係を変えようという方向の議論が起こっていった。
 佐藤栄佐久知事の時代、福島県では、国に依存した県政と経済を自立的なものに転換しようという機運が芽生えていた。そして、県政と経済を自立的なものに転換しようと模索したとき、福島の県政と経済をゆがめてきた原子力政策に対する疑問に不可避に行き着いた。
 しかしそれは、国、原子力推進派、自民党、立地自治体の首長などの圧力の中で押しつぶされて引き戻されて行った。【*3】

*3 『福島原発の真実』 佐藤栄佐久 平凡社 2011年6月

  ◇災害の中でも住民らの協同

 東日本大震災と原発事故への対応を巡る動きである。
 原発事故に対する県の対応の問題は上で検討したが、同時に、それとは別次元で、被災直後から、至るところで、被災した住民が協同し、あるいは外部からのボランティアが合流し、救援や助け合いの活動が取り組まれた。国や行政が対応不能に陥った被災直後の混乱はある意味で支配の空白であり、命の危機に対して、社会的地位や思想信条にとらわれることなく、人びとが協同した瞬間であった。そこには、自治的なものの萌芽が生まれていた。
 しかしやがて、国・行政の巻き返しがあり、あるいは、売名や営利や政治を目的とする人びとの影響力が増大していく中で、自治の萌芽は次第に変質し、あるいは行政的なものに吸収され、あるいは排除され、やがては、元の通りの国・行政による支配に引き戻 されて行くという過程を、現在進行形ではあるが辿っている。
 それは、上述の『災害ユートピア』に描かれている通り、古今東西の災害の中で繰り返されてきた推移であるともいえる。


(三) 中央に対する意識


 以上のように、〈中央による支配と地方の依存〉構造からの転換の可能性を孕んだ機会が、実は歴史上、何回か存在したと見ることができるのではないか。そして、現在もまた、そういう可能性を孕んだ歴史的な過程にあるのではないだろうか。
しかし、その可能性を現実の転換としていくためには、やはり、過去において、どうして転換できなかったのかという問題を掘り下げる必要があるだろうと思う。さらにいえば、そもそも転換の可能性があったということを、歴史認識として掘り起し広く共有していくという作業が必要であろう。
 ここでは、ただ、以下のような問題を指摘しておきたい。
 それは、自治体の首長や地域の有力者たちを規定しており、そのことによって住民の多数派の意識をも規定している<東京が中央>であり、<東北は中央に対する周辺>であり、<中央に逆らっては生きていけない>という意識である。
 「中央はどういっているんだい?中央の話を聞いてから決めるよ」
「中央とのパイプがあるかどうかってことが地方の政治では大事なことなんだよ」
「雇用とか、財源とかというときやっぱり中央と繋がっていないとね」
 こういう会話が現実に日常的にある。<中央>という言葉が独特の響きを持っているように感じる。
 常に中央=東京を意識し、政治も経済も文化も、中央を基準に見て、<東北は遅れている>と感じる。そこには、<中央=東京を中心にした日本の発展と豊かさ>に対して、<それを見習い、追いかけるしかない遅れた地方>という固定観念がある。
このようなあり方がまさに支配というものだが、しかしそれが支配としてなかなか自覚されることはない。
 もちろん、そこには、本当に自分たちの考えで自分たちのことを決めようとしたら、後でひどい目に合う。排除され、叩かれ、地域で生きていけいない状態にされる。だからそんな犠牲の大きいことをするべきではない。あるいは、自分たちで決めようとしたら、中央の方から切り捨てられ、そうなったら地方・地域が成り立たなくなる。そういう恐怖が支配している。それゆえに、むしろ地方の側から中央にしがみついて逃さないようにすることの方が大事ではないか。そういう考えになる。
 <国による支配と地方の依存>構造は、このような意識によって支えられている面を持っているのではないか。たしかに支配には実体がある。しかし同時に、そういう支配を支える意識がある。その意識を対象化すること自体の重要性を強調したい。
 これまでの開発政策の問題も、原発の問題も、それをただただ上から押しつつけられただけで成り立つものではない。こうして、支配と依存の関係に組み込まれ、その中心に原発があった。だから、そこから転換しようにも簡単には転換できない体質にさせられてきた。


(四) 知事選の結果と「脱原発」


 さて、【Ⅰ】~【Ⅲ】で、プルサーマルの受け入れ決定および原発事故への対応において、出向官僚の内堀氏の動きを検証し、【Ⅳ】(一)~(三)で、<中央による支配、地方の依存>構造とそこからの転換の可能性、および住民の意識にかかわる問題を見て来た。
 最後に、以上の論及に踏まえつつ、出向官僚であり原子力行政に深く関わってきた内堀氏が知事に当選した福島知事選挙の結果を振り返ってみたい。
昨年10月26日に投票が行われた知事選の結果は内堀氏の圧勝であった。上で見たように、総務省の官僚であり、プルサーマル受け入れや原発事故への対応を指揮してきた人物である。
 ちょうど同じ時期に沖縄では、辺野古に新たな米軍基地の建設を強引に推し進める国に対して、それに反対する翁長候補が、容認の現職候補に大差をつけて当選し、大きな変化を見せている。対照的に、福島はどうなっているのかと見る向きは県内外にある。


福島県知事選の投票結果
49万0384内堀雅雄
12万9455熊坂義裕
 2万9763井戸川克隆
 2万5516金子芳尚
 2万4669伊関明子
 1万7669五十嵐義隆
有権者数:159万9962人
投票総数: 73万3625人
 投票率:  45.85%



  ◇「レールが敷かれる」

 知事選をめぐる状況について、歎息をもって見ている南相馬市の住民が、次のように説明してくれた。
 「もうレールが、ビシッと敷かれるというか、はっきりと(中央の意思が)わかるんだよね。それに対して、どうしろというんだい。そういう気持ちなんだ、多くの人は・・・」
 「レールが敷かれる」とは、選挙が告示される前に、候補者を「オール福島」で一本化する動きがあったことを指す。自民党県連が候補者選びの過程で分裂したが自民党本部が介入し、また、民主党も独自の候補出馬の動きがあったが潰され、そして、大熊町、双葉町など、原発の立地町であり深刻な被害を受けた自治体の首長らが内堀副知事の出馬を要請するという儀式をもって、内堀氏の出馬が決まった。この時点でほぼすべてが決まった。県民にとって、知事選の本番に入る前に候補者の選択が絶たれてしまっている。
 住民に選択を許さない。ここに中央による支配の姿がよく現れている。

  ◇住民の投票行動

 たしかに、投票率45.85%と史上2番目の低さという事実はある。内堀氏は得票率では66.8%だが、有権者数160万人から見たら、内堀氏への投票は49万人で30.6%、棄権数と他候補への投票数を合わせると、111万人で69.35%。
 しかし、そういう中であれ、49万人の有権者が内堀氏に投票している事実を過小評価するべきではないだろう。
 棄権数と他候補への投票数を合わせて111万人の有権者が内堀氏の名前を書かなかったという点を強調する見方もある。しかし、棄権をすべて内堀氏への批判とするのは無理があるだろう。棄権には内堀氏への消極的な承認も少なからず含んでいる。
 やはり、住民の中の多数が、投票ないし棄権という形で、内堀氏を選択し承認したというものとして結果を見据える必要がある。そして、そこには、<中央>を意識した選択があったと見るべきだろう。
 
  ◇脱原発の候補は選択肢ではないのか

 さらに、「脱原発」を掲げる候補が何人か出ていたが、それは住民にとって選択肢ではなかったのかという問題である。
 残念ながら、その候補者は、多くの住民にとって選択肢に入らなかった。
 「脱原発」は争点ではないのか。脱原発ということが原子力の是非の問題として言われているのだとすれば、そのスローガンはやはり住民の多数とはかみ合わないのではないだろうか。
 それを理解するためにも、次のことを考えてみてみたい。
 「企業誘致が進まない中で、財源確保、雇用確保に原発は必要」【*1】。これは、双葉郡の首長らが、プルサーマル推進を要求したときに出た言葉で少し古いが、ここに原発に依存する論理と心理が滲んでいると思う。
 この首長らも含め、原発の利権にまみれている人びとのほとんどが、原子力に対して信念や確信をもっているわけではない。ただ原発を受け入れることで付随してくる交付金、寄付金、公共事業などが必要なんだという話だ。そこにある論理というより心理は、原子力がいいとか悪いとかという判断はしないで、それどころか危険も限界も承知の上で、原子力であろうが、ハコモノであろうが、先端産業であろうが、なんでもいいから、中央に依存して生きて行くしかないという呪縛であり、中央に依存して行けば恩恵がもたらされるという幻想である。
 その呪縛と幻想は、3・11以降も依然として継続している。
 問題は、「脱原発」を掲げて出馬した候補が、こういう呪縛と幻想を打ち破るような対抗軸になっていないことだ。あるいは、そもそも、原発を成り立たせてきたものが、このような呪縛であるという点を捉え損ねている、つまり、「脱原発」のスローガンが、原発に依存する側の論理を捉えていないのではないだろうか。
 「脱原発」は、脱<中央による支配、地方の依存>構造という問題として打ち出されてはじめて住民の多数の気持ちを捉えていく。中央依存の世界とは180度転換し、中央から自立した世界へ進む。政治も経済もその重心をグローバルから地域に置き換える。成長を追い求めるのではなく定常的な社会に移行していく。中央集権ではなく地域自治を、上から下ではなく下から上へのシステムに作り替えて行く。そういう文明的な転換を進めて行くという希望が必要なのだ。
 誤解なきようにいえば、こういうスローガンを掲げれば選挙で勝てたという話をしているのではない。そういう転換ということがいかに重いものであるかを福島の歴史は示している。しかしまた、福島の歴史を学べば、やはりどこかで転換が必要であるし、可能であるということも見えてくるはずだ。
 そして、そういう文明的な転換が、地域の中での運動として姿を現していくとき、呪縛からの解放が始まっていくのではないだろうか。

*1 『福島と原発』 福島民報社 2013年6月

                                    【了】






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  1. 2015/03/07(土) 16:00:00|
  2. 福島県・行政
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【論考】福島における原子力と官僚支配〔上〕 ~出向官僚の内堀氏が福島県知事に~

【論考】 福島における
原子力と官僚支配 〔上〕

~出向官僚の内堀氏が福島県知事に~ 



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 昨年10月、福島県で知事選挙が行われ、内堀雅雄氏(50才/写真上、昨年10月2日の公開討論会)が当選した。
 少し時間は経過しているが、内堀氏が総務省からの出向官僚であり、福島県の原子力行政と原発事故対応に深く関わってきた人物であるというところに本稿では注目したい。

          ・          ・          ・

★内堀氏の略歴

1986年東大経済学部卒、自治省入省、佐賀県庁、消防庁、福井県庁、大蔵省への出向後、2001年に福島県庁へ
2001年4月生活環境部次長
2002年4月生活環境部長
2004年4月企画調整部長
2006年12月副知事
2014年10月副知事退任、知事選出馬


 福島県知事になった内堀氏は、総務省の官僚で、2001年に福島県庁に出向し、佐藤雄平知事の下で副知事をつとめてきた。出向は通例2年から3年程度で本省に戻ることからすれば、異例に長い。そしてついに知事にまで上り詰めた。
 ちなみに、全国で中央官僚出身の知事は、2015年1月末時点で47都道府県中29人。福島県政史上では、官選知事を務めた石原幹市郎が、戦後、公選に移行した最初の選挙で当選して以来になる。
 ところで、内堀氏は、福島県庁では、生活環境部次長、同部長、企画調整部長、副知事と要職を歴任している。生活環境部も、企画調整部も、県の原子力行政の中心だ。【*1】内堀氏がその部局に在任する過程は、2002年のプルサーマル受け入れの白紙撤回から、佐藤栄佐久知事の辞任・逮捕と、福島県がプルサーマル問題で大きく揺れ動いた時期とちょうど重なる。また、その後、佐藤雄平知事の下で、2010年8月にプルサーマル受け入れ表明に至り、その半年後に東日本大震災と福島原発事故に直面するわけだが、佐藤雄平知事体制を実質的に取り仕切っていたのが内堀副知事であった。

*1 生活環境部の下には、原子力安全対策課や原子力センターがあり、安全対策、災害対策とともに「原子力に係る知識の普及啓発」「原子力に係る広報」を担当する。また、企画調整部の下には、エネルギー課や原子力等立地地域振興事務所があり、「原子力発電所の立地調整」「立地地域の振興」を担当する。(『原子力行政のあらまし』(2010年10月 県生活環境部原子力安全対策課)より

     ・      ・       ・

 ★目次
【Ⅰ】 プルサーマルと内堀氏
(一) 佐藤雄平知事の参考人聴取
(二) 津波対策を外す工作
(三) 副知事が決定的な役割
【Ⅱ】 人命より秩序維持を優先
(一) SPEEDIデータ消去
(二) 虚偽の広報をしようとした証拠
(三) ヨウ素剤の投与を妨害
(四) 官僚の行動と心理
【Ⅲ】 地方出向による支配
(一) 地方出向の状況
(二) 地方自治体の意思決定に介入
(三) 福島県への出向の実態
‥‥以上は今回〔上〕に、以下は〔下〕に掲載‥‥
【Ⅳ】 <中央の支配、地方の依存>構造 
(一) 中央主導の東北開発の歴史
(二) 転換の可能性はあるか
(三) 中央を意識する意識
(四) 知事選の結果と「脱原発」


 【Ⅰ】~【Ⅲ】では、プルサーマルの受け入れ決定および原発事故への対応において、出向官僚の内堀氏の動きを検証する。そのことを通して、中央省庁による地方自治体に対する支配とそこにおける出向官僚の役割という問題を抽出しつつ、日本の政治経済社会のあり方を規定する官僚制というテーマを考えたい。
 ただ、福島県の場合、中央省庁と地方自治体の一般論だけではとらえきれない問題がある。というのは、明治以来の近代化の歴史、敗戦から高度成長を経て今日に至る歴史の中で形成されてきた、中央と東北・福島との関係――ここで中央という場合、中央政府と中央資本を総称する概念とする――<中央による支配、地方の依存>構造という問題を避けることができないからだ。この問題について【Ⅳ】で論及し、最後に、知事選の結果を通して、脱<支配・依存>構造と官僚制支配を越えていく可能性というテーマを考えたい。
 なお、掲載は上・下の二回に分けて、【Ⅰ】~【Ⅲ】は今回、【Ⅳ】は回を改めて掲載したい。



【Ⅰ】 プルサーマルと内堀氏



 福島県は、佐藤栄佐久知事の下で、1998年にプルサーマル計画【*1】を事前了解としたが、2002年に計画受け入れの白紙撤回を表明。その後、曲折を経て、佐藤雄平知事の下で2010年に受け入れを表明した。
 その間、資源エネルギー庁をはじめとする政府、原子力推進派の団体、自民党県議団、立地自治体の首長などから強い圧力が加えられ続けた。極め付けは、受け入れに反対した佐藤栄佐久知事に対して、収賄事件の捏造が行われ、辞職と逮捕に陥れた事件だろう。【*2】
 8年がかりの圧力で、県政の転換が図られていった。このとき、佐藤雄平知事の体制が発足した直後から、事務方トップの副知事として県庁を取り仕切っていたのが内堀氏である。
 内堀副知事の県庁内での実権を伺わせる証言が当時の雑誌記事に残っている。
 「もっか県庁内で(県の幹部職員が)一番信頼を寄せるのは内堀副知事。佐藤(雄平)知事は人事と施策の両面を内堀副知事に任せ切りだが、こういうやり方だと、部課長は知事を差し置き、実質的に采配を振るう副知事に目を向けることになる・・・」【*3】
 さらに、2012年に行われた国会事故調査委員会の参考人聴取の場で明らかにされた次の事実を見てみたい。プルサーマル受け入れに至る過程で、内堀副知事の果たした役割が鮮明になる。

*1 使用済み核燃料を再処理して取り出したプルトニウムにウランを混合して核燃料として再利用する。核燃料サイクルが破綻し原子力政策が行き詰まる中で出てきた苦肉の策で、合理性、経済性はなく危険は大きい。
*2 裁判では、有罪が確定(2012年10月16日、最高裁で懲役2年、執行猶予4年)しているが、以下の文献などからえん罪であり国策捜査であると考えられる。
 『それでも私は無実だ!!』高橋 豊彦 財界21 2008年8月
『知事抹殺』 佐藤栄佐久 平凡社 2009年9月
*3 雑誌の取材に対する自民党県会議員の発言(『政経東北』2010年1月号)


(一) 佐藤雄平知事の参考人聴取


 国会事故調が、2012年5月に、佐藤雄平知事(当時)に対して参考人聴取を行っている。そこでは原発事故に対する県の対応の問題などともに、県が、2010年にプルサーマル受け入れを正式に表明する際の国とのやりとりに関する聴取が行われた。そのような聴取が行われたのは、国会事故調の側に次のような問題意識があったからである。
「私ども(国会事故調)がやはり一つのチャンス(であった)として考えておりますのは、プルサーマルの導入のときだったと思うんですが、このときにやはり津波対策というのが条件になっていれば今回の事故を防げたという可能性を指摘する声もあるわけなんですけども、ちょっとその間の事情を少し伺いたい」(国会事故調・野村修也委員)【*1】
 そして、野村委員の側からは二つの論点で疑義が出される。
 一つは、福島第一原発3号機の耐震バックチェックで津波対策が外されているが、それはどうしてなのかという点。いま一つは、耐震性バックチェックについて、原子力安全・保安院だけでなく、原子力安全委員会の双方によるダブルチェックにすべきだと、福島県の中で議論されていたのに、実際には原子力安全・保安院だけのチェックになったのはどうしてかという点である。

*1 「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会会議録」


(二) 津波対策を外す工作


 当時、県は、プルサーマル受け入れの条件の一つとして、プルサーマルを導入する3号機について、耐震バックチェックを求めた。
 バックチェックとは、一般に、新しい基準が策定されたとき、旧い基準でつくられた機械に対して新基準に照らして調査・審査を行うこと。国は、原子力安全委員会(当時、現・原子力規制委員会)の定めた耐震指針が適用されていない旧い原子炉について、耐震性のバックチェックを行うように指導していた。
 そして、福島第一原発5号機のバックチェックにおいては、貞観津波(869年に東北地方の太平洋側を襲った大津波)について言及され、対策の検討が必要であるとされていた。つまり3・11以前に3・11級の津波という問題が俎上に載せられていた。そして、3号機の耐震バックチェックついても、5号機で行われているチェックと同程度のものを県は求めていた。  
 ところが、実際の3号機の耐震バックチェックでは津波対策が外されていた。そして、そのことに県の側が気づかなかったのか、あるいは故意なのか、問題にしていなかった。非常に不可解である。
 先回りして言えば、3号機は、5号機より古く、津波に対してより脆弱であり、津波対策のチェックが行われれば、その点が問題になってプルサーマル導入にストップがかかるだろうということを、資源エネルギー庁や原子力安全・保安院の官僚たちが危惧して、3号機については津波対策が問題にならないようにする工作を行っていたのだ。

  ◇知事を外して裏で官僚が動く

 この点について、国会事故調と佐藤雄平知事との間で以下の質疑が行われた。〔下線は引用者〕
野村委員:(知事と経産大臣との会合で)3号機も(耐震性バックチェックを)やらなくちゃいけないのかという大臣の問いかけに対して、知事の方から、3号機をやるということを前提にこれまで福島県では検討してきたので3号機なんですということをお伝えになった。
 佐藤知事:はい。
 野村委員:・・・その後、(福島県の)事務方の方に資源エネルギー庁の方から、一体この三条件(プルサーマル導入の条件、耐震、高経年、MOXの健全化)を確認するためには何をすればいいのかということについて問い合わせがあったと思うんですけども、そのことについて知事は御存じですか。
佐藤知事事務的にはやっていたそうですが、しかし具体的には何を確認するんだというふうなところは私どものところには聞こえておりません」
野村委員:・・・5号機の方の耐震バックチェックの中間報告の中で津波が取り上げられていたということは御存じなかったでしょうか。
佐藤知事:それは存じておりません」
野村委員:なぜか3号機の方の耐震バックチェックの中間報告には津波の言及はないわけです。その場合、5号機の中間報告と同程度の確認をという御希望をされていたとするならば、それを照らし合わせて不足を述べるというチャンスもあったかと思うんですが、そのようなことは確認をされなかったんでしょうか。
佐藤知事:それは確認しておりませんでした」
野村委員:まさにこのこと(耐震性バックチェックで津波対策が必要であるかどうか)について知事のお考えを聞けば、・・・保安院の検証が津波対策に及んでいないことを指摘されるのではないかということを、保安院内部等では検討している形跡もあるわけですかが、そのことについて知事御自身にお問い合わせがあったというような事実はございませんでしょうか。
佐藤知事:ありません」【*1】

*1 『東京電力福島原子力発電所事故調査委員会会議録』

  ◇知事への対応策まで

 このやりとりから分かることは、まず、佐藤雄平知事が、プルサーマル受け入れに関わる重要な案件について、事務方に丸投げして、掌握も決裁もしていないという驚くべき事実だ。
 しかし、さらに、問題なのは、福島県の事務方と、資源エネルギー庁、原子力安全・保安院の間で、<知事にここを突っ込まれたらどうするか>とか<そこを突っ込まれないようにするにはどうするか>といった検討を裏でやっていたことが窺われるということだ。
 3号機の津波対策をチェック項目から外す工作が、裏で行われていたのだ。


(三) 副知事が決定的な役割


 さて、耐震バックチェックに関してもう一つの問題である。
耐震バックチェックの検証を原子力安全・保安院に任せたのでは不十分ではないかという声が福島県の中にあった。それは、原子力安全・保安院が、推進側の経産省の下にある機関だからだ。そういうことから、原子力安全・保安院とは別に原子力安全委員会にもチェックをさせて、ダブルチェックにすべきだという方向に、県の側の意見はなっていた。
 しかし、実際には、ダブルチェックは行われなかった。これも不可解である。
 これも、3号機について津波対策が問題にならないようにする工作だった。そのことが以下のやり取りで、よりはっきり出てくる。そして副知事の決定的な役割も明らかになる。

  ◇安全委員会のチェックを外す工作

野村委員:ここ(ダブルチェックの問題)も推進側の方の経済産業省にとってみると大変難しい問題と考えていた節がございまして、ダブルチェックを(県が)要求しますと、当然これ保安院とさらに安全委員会ということになりますから、安全委員会の方は、当時の知見としてこの耐震バックチェックの中間報告の段階でも津波についてより深めた検証を要求すべきではないかという考え方を持っていた可能性があるわけなんですが・・・。
 しかし、保安院の方では、それをやはりダブルチェックをさせるとそういう問題がでてきて、このプルサーマルの導入というのに一定程度の制約が掛かる可能性があるという思いがあったように思われるわけなんですが、そのことについて保安院側の方が福島県の方に問合せをされているんですが、御対応された方はどなたか御存じですか。
佐藤知事:こういうことです。ダブルチェックが必要であるかどうかと、そういうふうなことについては国の方に任せていたということです。
野村委員:国の方に任せているんですけれども、当然これ、知事に確認して、ダブルチェックは御希望ですかということを聞くと、知事の方としては、だったらやってくれというふうに言うのではないかというふうに国は懸念しているわけですね。そこで、何も確認しないで進めるわけにもいかないので、福島県に問い合わせているんですが、そこの部分は御存じないですね。
佐藤知事:聞いていないですね。
野村委員:聞いていないですか。
 国の方の資料によりますと、副知事にまでは相談したと。副知事には相談したんだけれども、そこではとりあえず強い要望がなかったので、これで確認をしたということにしようと
 つまりこれ以上もう一歩知事に聞けば、議会でも・・・ほかの方が御答弁されているわけですけれども、ダブルチェックが必要なんではないかと・・・。・・・ですから(国の方としては)何か(知事が)要望してくるんではないかという思いがあり、一応副知事に確認したので、ここで確認が済んだことにしようといったような趣旨の資料が散見されるわけなんです。・・・」【*1】

*1 『東京電力福島原子力発電所事故調査委員会会議録』

  ◇裏工作で動く官僚の中心に内堀副知事

 このやり取りでわかることは、経産省や原子力安全・保安院が、プルサーマル導入のために、耐震バックチェックから津波対策を外すことに全力を挙げていたことであり、津波対策が行われないことを佐藤知事が気づかないようにするとか、安全委員会のチェックが入らないようにするといった工作に腐心していたということだ。【*1】
そして、佐藤知事は「国に任せていた」と言っているが、その実態は、県の事務方と資源エネルギー庁と原子力安全・保安院の官僚がすべてを取り仕切っており、その中心に総務省の出向官僚である内堀副知事がいたということだ。

*1 なお、津波対策のチェックを避ける工作に腐心するということは、そもそも、経産省や原子力安全・保安院が、3号機が津波に耐えらないという認識を当初から持っていたということを逆の側から証明する重大な事実だ。


 
【Ⅱ】 人命より秩序維持を優先



 プルサーマル受け入れにおいて、内堀副知事の果たした役割を見てきたが、実際に原発事故が発生したとき、内堀副知事などの官僚たちが何を考え、どう動いたかを次に見ていきたい。
 原発事故に対する福島県の対応は、県民の怒りと不信を買っているが、そこにおいて内堀氏の果たした役割はどうだったのか。
 ここでは、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータを県が消去した問題を中心に、さらに「健康被害はない」と断定する虚偽広報の問題、ヨウ素剤投与の妨害について検討したい。


(一) SPEEDIデータ消去

 
 SPEEDIは、放射性物質の拡散を予測し、住民の避難に役立てるシステムだった。そして、県に、文科省から拡散予測データが送られていた。しかし、県は、受け取った予測データを住民避難のために役立てることなく、その画像メール計86通のうち65通を消去していた。
 この問題は2011年6月の県議会でも取り上げられているが、その理由を問われて、荒竹生活環境部長が、「提供を受けた時点で既に過去のデータであったこと、また予測の前提となる放出量データが現実と著しくかけ離れた数値と考えられたこと、さらには本来公表すべき国が公表していないことなどから、(県も)公表を差し控えたものであります」【*1】と釈明している。2011年3月時点では荒竹氏は生活環境部の次長で、2011年4月に内堀氏と同じ総務省から出向している官僚だ。
 そして、この問題について追及を受けた内堀副知事は、「拡散予測につきましては、文部科学省からの提供の有無も含めて、当時私は報告を受けておりません」【*1】と関与を否定する答弁をしている。しかし、これを言葉通りに受け取ることは到底できない。

*1 2011年6月27日 県議会定例会 福島県ホームページ

  ◇内堀副知事は対策本部長
  
 県は、災害対策本部と原子力現地災害対策本部の二つの本部で災害に対応し、災害対策本部がほとんど地震・津波への対応にかかりきりになる中で、原子力現地災害対策本部が、原子力災害の対応にあたった。その本部長が内堀副知事である。
 さらに、県の原子力現地災害対策本部は、政府が設置した原子力災害現地対策本部と合同で原子力災害合同対策協議会を開催し、情報の把握と共有や対策の協議を行っていた。政府の方からは、原子力安全・保安院、文科省、原子力安全員会、自衛隊などの幹部・担当職員、さらに東京電力の幹部・担当社員などが参加していた。本部は、当初、大熊町のオフサイトセンターに設置されたが、機能不全と空間線量の上昇のため、ほどなく県庁の方に移動している。
 こうして見ると、内堀副知事は、原子力安全・保安院や文科省などとともに、拡散予測などの情報を扱う中心にいたのだ。報告を受けたか受けていないかなどという外在的な立場ではなく、すべての情報を検討し判断し指揮をする立場にいたということだ。
また、上で見た荒竹生活環境部長の釈明では、当時、生活環境部次長だった荒竹氏が「公表を控える」という判断をしたかのように読めるが、次長の独断でそういう判断をするということはあり得ない上に、副知事と生活環境部次長のラインがともに総務省からの出向官僚であるということから見ると、むしろそこに内堀副知事と荒竹次長の共通の意思が働いていたと見る方が妥当だろう。

  ◇拡散状況は把握できた

 問題をSPEEDIのデータを公表したかどうかに切り縮めると核心を捉え損ねてしまう。このとき求められていたのは、何らかの方法で放射性物質の拡散状況を把握し、それを元に、避難のための情報をできるだけ早く住民に提供することだったはずだ。
 福島第一原発の電源が喪失し、ERSS(緊急時対策支援システム)が停止しため、放出源情報が得られず、SPEEDIの予測計算も不確かなものにならざるを得なかったのは、国会事故調も報告書で述べており、その通りだろう。
 さらに、24カ所中23カ所のモニタリングポストが地震・津波によって使用不能、可搬型モニタリングポストも通信障害、モニタリングカーもガソリン不足と、何百億円も費やして備えは万全と主張してきたシステムが、ことごとく役に立たなかったのは事実だ。
ではデータが全くなく、お手上げだったのか。そうではなかった。
 文科省は、3月15日午後8時頃、浪江町の20キロライン付近で放射線量を測定している。測定値は、赤宇木(あこうぎ)近くで毎時240マイクロシーベルト。どうしてこの場所を選定したかというと、SPEEDIの予測データからだ。つまり不確かさはあれ、SPEEDIの予測を元に実測すれば、原発から北西方向に、高濃度の放射性物質が拡散していたことを把握できていた。遅くとも3月15日の時点である。【*1】
 また、これとは別に県も、放射線モニタリングを行っており、高い空間線量の地域があることを確認し、15日に原発から35~45キロの地点で採取した葉菜からキロ当たり100万ベクレル以上という高いヨウ素の検出を確認している。【*2】
 その後も、国や県その他の機関が測定を重ねており、全身防護服で測定する職員の姿を目撃したという住民の証言はいくつもある。
 そして、県は、国や東京電力からの情報を、連日開催されていた原子力災害合同対策協議会の場などで把握・共有していたことは間違いない。
 にもかかわらず、住民には、その情報は伏せられた。津島地区には、浪江町の住民が多数避難していた。飯舘村では、浜通りから避難してきた被災者に対して、村を挙げて救護を行っていた。しかし、県は、住民が高線量の汚染地帯に向かって避難し、そこに留まっていることに対して、なんらの措置もとらなかった。

*1 東京新聞「こちら特報部」2011年7月6日
*2 『東京電力福島原子力発電所事故調査委員会報告書』


(二) 虚偽の広報をしようとした証拠


 県は、放射性物質の拡散状況を把握できていたのに、住民に情報を出さなかっただけではない。県は、「健康被害はない」と断定する虚偽の情報を流そうとしていた。その証拠が、東京電力がマスコミに公開した社内テレビ会議の記録映像に残っていた。東京電力本店広報班が東京電力本店に行った問い合わせだ。
「・・・福島事務所からちょっと依頼が来てます。・・・次回発表するプレス文に、福島県庁、具体的には県知事から次の文言を入れてほしいとの話がありました。読み上げます。『これから天候が崩れる予想だが、いま北西の風が吹いており、観測された放射線量から健康被害が出る心配はない』という文言を入れてほしいと。これ、言いたいのは山々なんですが、こういうことでいいのかお諮りしたい・・・」【*1】
14日午後1時20分頃の東電本店と本店広報班とのやり取りの記録の一節。福島県からのこの要請に対して、さすがの東電本店も「ここまで言い切るのはリスキー」という判断をしている。
これが記録されたのは、3月14日11時頃の3号機の水素爆発の直後のことだった。さらに、15日になると、2号機ないし3号機から、事故の過程でももっとも高い濃度の放射性物資の放出があり、南東の風にのって原発から北西方向に、つまり、津島地区から飯館村方向に流れて行った。
県はSPEEDIのデータは不確かだと言って公表しないが、不確かどころか、東電も躊躇するような全くの虚偽情報を広報しようとしていたのだ。
ここに、原発事故と放射能問題に対する基本姿勢のようなものが垣間見えている。

*1 福島民報2012年8月10日「3号機爆発『健康被害はない』」
『東電テレビ会議 49時間の記録』 岩波書店 2013年9月
 


(三) ヨウ素剤の投与を妨害


 県の防災計画では、ヨウ素剤の予防服用を指示することになっているが、県は服用の指示を出さなかった。
 それに対して、三春町は、15日に原発から東風が吹き、放射性プルームが三春町を通過するという情報を独自に収集、14日にヨウ素剤の服用を決めている。人命を尊重した的確な判断だと思われるが、県は、三春町に対して、「国の指示がない」と服用の中止を求め、回収の指示を出していている。
 それだけではない。県は、三春町には中止と回収の指示をしているのに、県立医大の被ばく医療に携わる医師や看護師、さらに被ばく医療に関係ない職員や学生、家族にヨウ素剤を配布・服用させて、その上、配布・服用についてかん口令を敷いていたというのだ。看過できないダブルスタンダードだ。【*1】

*1 「子どもたちの健康と未来を守るプロジェクト」郡山代表・武本泰氏 河北新報「原発事故対応 批判続く」2014年10月4日
 

(四) 官僚の行動と心理


 SPEEDIデータ消去、あるいは、「健康被害はない」という虚偽広報やヨウ素剤投与の妨害という問題について、内堀副知事が直接指示をしているという具体的な証拠は今のところない。しかし、内堀副知事が、平時から県庁内の実権を握り、原発事故に際しては原子力現地災害対策本部長の立場で指揮を執っていたのは紛れもない事実だ。そして、SPEEDI問題をはじめとした県の対応の中に、一貫した姿勢が貫かれているということが見えてくるだろう。
 県の対応は、混乱の中での対応の拙さや判断の誤りという次元ではない。むしろ、原発事故と放射能問題に対して、確固たる考えに基づいて行動しているということだ。
 それは、何か。
 「放射性物質の放出源などが不確かで、信頼性がなく、公開で国民がパニックになる懸念がある」【*1】
 これは、SPEEDIのデータを公表しないという判断について、文科省の官僚が、細野首相補佐官(当時)に対して行った説明である。官僚が情報を抑え、国民はもちろんだが、官邸にさえ伝えなかった。(しかも米軍にだけは伝えていた。)
「国民がパニックになる」とはどうことだろうか。

*1 2011年5月2日 時事通信 下線は引用者

  ◇官僚が恐れるもの

 この問題に関して、国会事故調が大熊町の住民を対象にしたタウンミーティング(2012年4月22日)で、田中耕一委員が興味深い見方を示している。
「事故調の委員になって学んだことの一つが、いわゆる原子力発電にかかわる方が、意外に、事故は起きる場合もあるというふうに言われたときにショックだったこともありますが、もうひとつ学んだことは、エリート・パニックということがありまして、こういう非常に際どい状況になったときに、住民の方々がパニックになるだろうと、上に立つ人、いわゆるエリートが思って、大切な情報を隠してしまう、そういう心理がある【*1】
 田中委員が使っている「エリート・パニック」という言葉は、恐らく『災害ユートピア』【*2】から引いたものだろう。同書は、災害に関する社会学的な研究で、災害の中で生じる既成秩序の崩壊と市民の間の連帯と協同を分析している。
 それによれば、パニック映画に見られるように、災害に際して、大多数の市民はパニックに陥って我先に逃げようとするものであり、そこにヒーローが現れ、リーダーシップを発揮し人びとを救済に導くというふうに、災害のイメージが一般的にはつくられている。
しかし、実際には、大多数の市民は利他的な精神を発揮していると指摘している。パニックに陥るのはエリートの側であるとして、エリートの心理と行動を次の2点のように分析している。
 ひとつは、<市民がパニックに陥る>という見方は、エリートの本性に由来しているという点だ。競争社会の中で他人を蹴落として頂点を極めてきたエリートの目には、すべての人間が自分と同じように利己的であると見えてしまう。そして、災害に際しても、人びとは、私利私欲に走り、自分本位に振る舞うと信じて疑わない。
 今一つは、社会的秩序の崩壊とエリートの恐怖である。
災害は、社会や政府の中に存在していた対立や矛盾を表面化させる。あるいは政府や政治システムの無能さや欠陥を暴き出す。さらには、エリートたちが災害に際して必要だと考える対応と、市民が求める対応との間にかい離が生じる。
そして、政府や政治家や官僚などのエリートが、災害の中で役に立たないと悟った市民たちは、自分たちで動き出し、互いに連携し、自主的な組織をつくっていく。つまり自分たちで自身を治めるということが始まる。災害の直後は、あたかも政府が打倒されたかのような状況が現出する。
 これは、エリートにとっては、自分たちをエリートたらしめてきた秩序の崩壊である。市民の動きは、自分たちに対する挑戦としか映らない。
 だから、エリートは、自分にとって都合の悪い情報を隠して、あるいは立場を使って情報を操作する。また、自分たちこそが秩序だと信じて、市民の活動を押しつぶす。そうやって、秩序を再構築していくことが、政府の仕事になる。

*1 『東京電力福島原子力発電所事故調査委員会会議録』 下線は引用者
*2 レベッカ・ソルニット 米ノンフィクション作家 2010年12月 亜紀書房

  ◇原発事故という威信と秩序の崩壊

 これは、まさに、内堀副知事ら官僚たちの心理と行動に当てはまると言っていいだろう。つまり、内堀副知事らが恐れたのは、原発事故や放射能の拡散ではなく、そういう事態をきっかけとして、国に対する国民の信任が揺らぎ、国の統治が危機に陥る事態ということだ。情報の統制や操作を行う理由もここにあるということだ。
この恐怖心が、官僚たちの行動を規定する心理なのだ。
 3基のメルトダウンをはじめ4基の原発が同時に危機に陥った。この事態は、単に、原発が物理的に壊れたというレベルの問題ではない。
 日本は、明治以来の富国強兵路線で欧米秩序に挑戦するも、多大な犠牲の上に叩き潰された。敗戦から再び経済力を武器に経済成長路線をもって大国化を追求し、その中心的な国策に原子力政策をすえてきた。しかし、経済成長も一時のあだ花でしかなかった。そして、原子力の夢も妄想でしかなかった。日本の大国幻想を形作ってきた虚構が崩壊する衝撃が、福島原発事故にはある。
 このことをどう受け止めるか。
 官僚は、そこに自分たちをエリートたらしめる秩序の崩壊の危機を感じ取り、県民がその秩序からはみ出して自主的に行動していくことを恐れ、原発事故の事実や危険、その重大さを、必死になって隠し否定しようとしてきた。
 <国民が最後まで国を信じて、静かに犠牲になってくれることを望む><人の命よりも国策と秩序維持を優先する>。これが、内堀副知事らと国の官僚たちの行動を規定した心理だったのではないだろうか。



【Ⅲ】 地方出向による支配



 ここまで、福島県の原子力行政と原発事故対応、そこにおける出向官僚である内堀氏の動きを検証してきた。ここからは、中央省庁からの地方出向による地方自治体に対する支配システムという問題を実態的に見て行きたい。


(一) 地方出向の状況


 国から地方へは総数で1666人、地方から国へは1996人。数の上では、「人事交流」という通りにバランスしているように見えるが、国から地方への人事(【表1】)が課長級以上の高位の職務の割合が高いのに比べて、地方から国への人事(【表2】)は圧倒的に低位の職務に集中しており、やはりその非対称性は歴然としている。

【表1】 国から地方公共団体への出向者数
国から都道府県国から市町村
部長級以上 121 202
次長等  89  48
課長等 303  79
その他 707 117
総数1220 446
            1666
2010年8月15日現在 単位は人/総務省公表資料より

【表2】 地方公共団体から国への出向者数
都道府県から国市町村から国
室長級以上   2   0
課長補佐級 554  17
その他1267 166
総数1813 183
           1996
2010年8月15日現在 単位は人/総務省公表資料より


(二) 地方自治体の意思決定に介入


 明治憲法には地方自治の規定はなかった。知事は府県を代表するとされたが、同時に、地方官官制という勅令によって、知事は、天皇に任命される官吏であり、かつ国の普通地方官庁と位置づけられた。そして、知事は内務省の官僚であり、内務大臣によって任命されるとともに府県庁の組織や人事について内務大臣の指揮監督を受けた。【*1】 
 戦後は、このような制度は廃止され、国による地方人事統制の法制度的な根拠は失われた。
 しかし、戦前とは形を変えて、国による地方自治体に対する支配のシステムが戦後も形成されてきた。そのひとつが、中央官庁の官僚が地方自治体に出向する仕組みである。ここで扱う出向とは、中央省庁が、地方自治体にキャリア官僚を派遣することである。
 『地方出向を通じた国によるガバナンス』【*2と題する論文が、出向官僚による地方自治体に対する支配の仕組みについての実証的に研究している。この節では、この研究の要旨をまとめることで、中央官庁による地方自治体支配の仕組みを見て行きたい。

*1 『行政ってなんだろう』 新藤宗幸 岩浪書店 2008年2月
*2 『地方出向を通じた国によるガバナンス』(東京大学行政学研究会・研究叢書4 喜多見富太郎 2007年3月)以下では『出向研究』と略記

  ◇「指定席」

 特定の省庁から自治体の特定のポストへの出向が長期かつ継続的に行われる。これを一般に「指定席」という。
 このように特定のポストが特定の省庁の指定席になると、そのポストに関する情報や経験、人脈やスキルが出向官僚の間で世襲的に蓄積されていくことになる。
すなわち、そのポストに関する実質的な能力や権限が、自治体から出向元の省庁に移転されていく。

  ◇「準組織」

 さらに進むと、自治体の組織図上の縦系列の決裁ルートに、同一省庁による指定席が複数配置される。同一省庁からの出向官僚が決裁ルートの上下に並ぶことになる。そうなると、「出向者間の意思決定」をそのまま「組織の意思決定」へと転化させることが容易になる。
 そうすると、自治体の当該部局は出向元省庁の「出先機関」化し、意思決定の実質的な権限が自治体から出向元省庁に移転される。『出向研究』では、このような組織現象を「準組織」と呼んでいる。

  ◇「埋め込まれた組織」

 指定席や準組織が配置されることによって、あたかもそこに別の組織が埋め込まれる
ような現象となっている。これを『出向研究』では、指定席と準組織をあわせて「埋め込まれた組織」と呼んでいる。
 「埋め込まれた組織」によって、自治体における情報管理や意思決定が影響を受ける。また、「埋め込まれた組織」では、自治体の人事権が実質的に制約され、一部が国に分属している状態となる。

  ◇地方出向の目的

 では、国は、地方出向を通して何を支配しようとしているのか。主要な点をいくつか挙げる。
 国策上、重要な利害関係のある地域開発プロジェクトの推進である。国は、国自身の目的の実現のために、出向官僚を地方自治体に投入して自治体の動きを促進しようとする。
 自治体が行う意思決定が、国の意思や省益に背くようなものである場合、出向官僚が議論や根回しを通じて未然に防止するよう努め、必要とあらば拒否権を行使し、少なくとも修正を求める。自治体の意思形成に対する介入である。
 出向元の省庁の意思を出向先の自治体の組織的意思として形成させる。準組織が成立していれば効果的に自治体の意思決定を支配できる。
 
 このように、中央官庁は、地方自治体への官僚の出向によって「指定席」や「準組織」をつくり、それをテコにして、地方自治体の情報管理や意思決定や人事に介入し、国策上のプロジェクトに対する自治体の動きを促進し、あるいは、国策や省益に反するような自治体の意思決定を未然に防ぐという工作を日常的に行っているということがわかる。
 『出向研究』によると、自治省・総務省が、このような出向による支配をもっとも系統的に行ってきている。


(三) 福島県への出向の実態


 では、中央官庁から福島県庁に出向している官僚の数と配属はどうなっているか。

【表3】 国から福島県への出向
     /課長相当職以上

年度配属部署・役職出身官庁
2010年度

生活環境部次長総務省
商工労働部
産業創出課主幹兼副課長
経産省
農林水産部
農産物安全流通課主幹
国交省
2011年度保健福祉部
高齢福祉課主幹兼副課長
国交省
2013年度企画調整部次長総務省
農林水産部森林保全課主幹
兼副課長
農水省
※出向してきた時の役職だけが記載されている。
 例えば副知事は総務省出身だが表には反映されていない。
※2009年度および2012年度は国からの出向なし。

【表4】 国から福島県への出向
     /課長相当職未満

年度配属部署・役職(人数)出身官庁
2009年度総務部・係員(1)総務省
土木部・係員(1)国交省
2010年度総務部・係員(1)総務省
土木部・係員(2)
上級係員(1)
国交省
2011年度総務部・係員(1)総務省
土木部・係員(1)国交省
2012年度総務部・係員(1)総務省
土木部・係員(2)国交省
2013年度総務部・係員(1)総務省
土木部・係員(1)国交省


 福島県の情報公開制度によって入手した資料によれば、近年の中央官庁から福島県への出向は、課長相当職以上が【表3】、課長相当職未満が【表4】のようになっている。
 『出向研究』では1972年から1998年までのデータを扱っているが、それと合わせてみても、このような出向が、40年以上同じような規模で続いており、また、他の都道府県とも大同小異であると見られる。
 その配属先を見ると、木村守江知事時代の後半(1972年-75年)では、企画調整部と企画開発部、総務部とくに財政課を中心に配属されている。佐藤栄佐久知事時代の前半(1987年-98年)では、総務部を中心に配属されている。
 また2000年代に入ってからは、総務省から生活環境部への配属が行われている。
企画調整部や生活環境部では、上で見た総務省による「指定席」「準組織」の存在が窺える。つまり、『出向研究』が指摘するところの、<特定のポストへの出向が長期かつ継続的に行われる「指定席」、さらに、縦系列の決裁ルートに同一省庁による指定席が複数配置される「準組織」によって、自治体の当該部局は出向元省庁の「出先機関」化し、意思決定の実質的な権限が自治体から出向元省庁に移転される>ということが起こっていると見て間違いないだろう。
 さらに言えば、2006年から8年にわたって副知事が、総務省出身であった。総務省の影響力が県庁内に広く及んでいたことは間違いないだろう。そして、総務省出身の知事が就任した。知事が持つ人事権や予算編成権などの強い権限により、総務省の支配がさらに強まると見ていいだろう。

        ・      ・       ・

 【Ⅰ】【Ⅱ】で、プルサーマル受け入れ過程および原発事故対応における総務省出身の内堀氏の行動を検証したが、そのことを、出向の実証研究とその実態という面からも、裏付けることができると考える。

 「福島における原子力と官僚支配〔上〕」は以上だが、〔下〕では、<中央の支配、地方の依存>構造という問題から、県知事選の結果の検討に進みたい。


【〔下〕に続く】






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  1. 2015/02/18(水) 12:16:00|
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「一方的にこんなやり方はないよ。あんたたちも人間でしょ」  南相馬 避難地点解除・説明会 昨年12月21日







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(高圧的な口調で特定避難勧奨地点解除を通告する高木・内閣府原子力災害現地対策本部長〔写真左・右から3人目〕/怒りを抑えて住民の意向を伝える藤原・大谷行政区長〔写真右・右から1人目〕――12月21日 説明会に先立って行われた行政区長に対する国側の説明)




「特定避難勧奨地点は、健康影響に配慮して、生活形態によって年間20ミリシーベルトを受けるおそれがある地点に注意喚起を行ったものですが、市の除染等により大幅に線量が低下し、現状では健康影響の懸念は考えにくい状況となっていると考えております。
 こうした事実は、逆に、内外にきちんと、線量が下がっているというところを伝えていかなければいけないと思います。それが、南相馬、ひいては、福島県全体の風評被害からの脱却、復興の本格化のために大変重要であると考えております。
 国としては、こうした状況を総合的に判断して、一週間後の12月28日に特定避難勧奨地点を解除することとさせていただきました」

 昨年末の12月21日、「南相馬市の特定避難勧奨地点に関する住民説明会」が開催され、高木陽介・内閣府原子力災害現地対策本部長(経産副大臣、公明党、比例東京ブロック)が、このように切り出した。住民に向かって説明している高木本部長の態度は、きわめて高圧的であった。
 国は当初、昨年10月中の解除を検討していた。しかし、住民の反対の声が強く、特定避難勧奨地点のある行政区の区長らも団結して動き、10月には東京で反対集会や記者会見、国への申し入れが行われた。また、指定解除に反対する地域の署名が呼びかけられ、地域で1210筆も集まった。こうした力の前に、国は一旦、解除決定の延期を余儀なくされた。
 だから今回は、何が何でも決定を押し付けるという姿勢で乗り込んできたわけだ。それが、高木本部長の態度にも表れているのだろう。
 そもそも、この日は朝から異常だった。この住民説明会の開催が住民に通知された段階では、「解除」に関して何も触れられてはいなかった。ところが、説明会当日の朝、NHKのニュースが「12月28日に解除」と流す。住民にとっては寝耳に水だ。国が丁寧に説明し、住民がそれを受けて、納得を得たところで進めるという手続きを、いっさい放棄したやり方だ。頭ごなしに<国が決めたことだから従え>とやれば黙るだろうと考えたのだろう。
 しかし、説明会の会場は反対一色で、たびたび騒然とした。

 以下に、説明会での住民発言(一部・要旨)を掲載する。


tkt003.jpg 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 なぜ報道ありきなのか  
         
             南相馬市議



 われわれ全く理解できませんよ。なぜ朝のNHKで報道ありきなんですか。28日に解除するかどうかは、われわれにきちんと説明して、理解を得た上でやる話でしょ。まずは謝って下さいよ、本部長・・・(同調するヤジ、怒号)。撤回して、ゼロから始めて下さい(拍手)。



 住民の理解は得られてない  

       原町区高倉(たかのくら)住民


 特定避難勧奨地点の解除に当たって、住民の理解が得られたというような報道がありますけど、はっきり申しますが、住民の理解は得られていません。われわれに真摯に向き合って、継続して理解を求める努力をしてください。
 (解除に反対しないという声もあるとの国側の説明に)おっしゃったように、個々に事情が違うんですよ。解除に理解を示しているお宅があるということは私も始めて知りました。だけど、これは個々の家、地点で違うんですよ。だから、解除するんであれば、そういう風に納得、理解を得られたところから解除していってくださいよ。



 私たちをバカにしている  

   原町区大谷(おおがい)住民


 
私たち、今日、喜んで出てきたわけではありません。でも何も言わないでいても前に進むことができないと思って参りました。
 前回(10月の説明会)、私たちが、お願いしたことに対して、(国から)一切の返事はありませんでした。
 私たちは、10月から東京や福島へと南相馬の署名を持参して参りましたが、県の方ではなかなか受け取ってはいただけなかったんです。私たちは、今日の説明会をボイコットしてもいいかなあと思っていました。
 今回の説明会の案内状にも納得はしておりません。最高責任者の名前はどこにもありませんでしたよね。私たちをバカにしているんですか。「この場をやり過ごせば、あいつらは何も言わない」と思っているのでしょうかね。本当に情けない思いです。
 飯館村では向こうが透けて見えるような除染が行われているのに、私たちの回りは、木の葉をさらって上に土を被せただけというところも多くありました。これでは、除染をしていただいても、(線量が)下がることはないと思うんです。
 たとえ解除になって子どもたちが戻ってきても、「道路の両端は線量が高いから真ん中を歩きなさい」って言っても、それは無理です。農地の除染だってまだ始まったばかりで、ほとんどまだされていません。農地や山林の除染が終わった時点で、南相馬の住民全員に被ばく手帳を渡してもいいのではないでしょうか。
 私たちは、ただ待っているだけではないんです。一人ひとりができるだけ線量を下げようとしてやっているのに、いきなり、「12月28日で解除です」なんて・・・。



 家の中の方が高いのに  

           原町区馬場住民


 俺の家の周りは、前の家も西側の家も除染していない。東は畑、後ろは田圃。俺のところだけ除染してもだめでしょう。
 線量が下がらないで解除するなんて絶対反対。周りの家の除染もやりなさいって、掛川君(原子力災害対策本部・住民支援班)に何度も言ったでしょ。それもしないで解除するなんて。
 家の中の線量が高いんだよ。0.8マイクロシーベルトあるんだ。外は0.4マイクロシーベルトなのに。家の中の除染をしてないからだよ。このことも何回も言ってるんだ。これで解除するのかい?



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(上の2枚の写真は、昨年7月に現地対策本部が行ったモニタリング調査。馬場の住民が発言している通り、室内の方が室外より空間線量率が高かった)



健康影響に不安と嫌悪  

          原町区大原住民


 市の広報に出ている数値でも、原町区大原の数値の方が、小高区の34カ所のモニタリング地点のいずれよりも高いんです。公会堂付近の11月の数字で0.608マイクロシーベルトあります。
 家には小学生がいるんですが、大原の自宅には震災後、一度も寝泊まりしておりません。このような状態なのに、賠償では小高区とえらい差が開いております。解除の後3カ月と賠償の期限が決められていますが、どう考えてもおかしいんですよね。不公平です。先ほど国の方で公平にと言われていましたが。飯舘村とかと何が違うんでしょうか。
 宅地の中だけ除染していただいていますが、隣接している農地と20メートルほど離れています。東工大の先生方がおっしゃるには、放射線は20メートルから80メートル飛びますと。だから、いくら除染をしていただいても、その農地からくる放射線で高いのかなと。室内で床上1センチを測ると確かに0.1から0.2マイクロシーベルトと低いんですが、50センチ、1メートルのところを測ると高いんですよね。室外と同等の箇所もあって。放射線が飛ぶからだと思うんですが。
 10月の説明会で、線量を下げるための清掃・修繕をして構わないということだったので、東京電力さんの立会いのもと、ここまでは費用が出るというラインでやったんですが、領収書を東京電力さんの窓口に持っていったところ、2分の1、3分の1に減額されるんですよね。説明会の話がすでに食い違っています。
 それから、子どもたちの健康被害について、確かに実質的な影響があるということは、疫学的にも、科学的にも証明されてないようですので、私たちは、そちらを信じるほかないですが、もしも、私たちの子どもや孫、ひ孫の代で、疫学的な証明を行うようなことになってしまうということが起こると考えると、すごい不安を覚えますし、嫌悪感を感じます。
 ですので、事故当初から転地療養(保養)をしているんですけども、今後も続けたいと思います。高速道路の実質無料化というのは、特定避難勧奨地点で子どもを持つ家族としては今後とも続けてもらいたいという要望です。



あんたたち、
 人間としてよく考えて下さい  

                大谷行政区長


 本部長ね、まだ市長と合意したわけじゃないでしょう。住民の説明もそう。結局、一方的な国の進め方だけで決めてしまうと。あなたたち、言っていることとやっていることが全然違う。住民の意見を聞きながら、市の意見を国に話して、こういうもとでやろうとしているのに、一方的に、こんなやり方はないよ。
 再三、言っていることは、地域全体を安全な地域にして、年間1ミリシーベルトはなかなか難しいけれども、ある程度の値までは下げてくれと。せめて空間線量で2.6とか。そうなったら住民もわれわれもある程度リスクを背負いながら、妥協はするでしょうと。そのリスク分は、被ばく手帳を出せというと、被ばく手帳という名はリスクがあるから、それに替わる(健康被害が出たときに医療的な補償を受けられるように)健康手帳を発行して下さいよと。
 国の一方的な考え。それもいいでしょ。中にはどうにもこうにもなんないときは決断するときもあるでしょ。ただし、みなさん、目の前にいる(国側の)人たちは人間でしょ。われわれと同じ人間でしょ。われわれの気持ちを読んでくれよ。
 それから、いつまでも20ミリシーベルトって、緊急時の値を3年9カ月も過ぎても用いていくんですか。国際放射線防護委員会だって、緊急時は高いけれども、年々下げた値でやりなさいよって指導してるでしょ。それも全然無視。
 これでは、住民の方々は、今日このままで強引に本部長の言っていることをやることは決して望んでおりません。あんたたち、人間としてよく考えて下さい。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



tkt006.jpg 
(馬場地区から南東の福島第一原発の方向を望む。この方向から放射性プルームが流れ、この地域を汚染した/写真は2014年7月)



 【解説】

 南相馬市の市街地から西に車で10~20分も走ると、大原、大谷、高倉、押釜(おしがま)、馬場、片倉などの行政区がある。阿武隈山地の東のすそ野で飯舘村や浪江町津島に隣接している。自然豊かな農業地帯だった。
 原発事故で一帯が高濃度に汚染されたにもかかわらず、避難区域とはならず、特定避難勧奨地点という形で、152世帯(住民約700人)が指定を受けていた。指定世帯で約7割、非指定世帯も含め多くの住民が、市内を中心に避難を続けている。

 ◇「復興の本格化」とは?
   原発再稼働と原子力政策の加速


 復興加速化方針(2013年12月)を打ち出した国は、指定の解除と住民の帰還を急いできた。除染の効果が上がらずその限界が露わになる中で、年間被ばく線量1ミリシーベルトという基準を長期目標と言い換えて棚上げし、年間20ミリシーベルトを新たな基準に、住民の帰還を促す方針を前面に出してきた。小高区、浪江町、飯舘村などの帰還を促進していくためにも、南相馬市の特定避難勧奨地点解除は、国の復興加速化方針の成否のかかった問題となっていた。
 冒頭に高木本部長の発言を紹介したが、解除決定の意味がよく語られている。
 「大幅に線量が低下し、健康影響は考えにくい。こうした事実を内外に伝えていくことが、福島県全体の復興の本格化ために重要だ。こうした状況を総合的に判断して解除する」
 まずは、「線量が大幅に低下した」ということも、「健康影響は考えにくい」ということも、国が一方的に主張していることであって、住民は、納得できる事実の提示も説明も受けていない。
 このこともさることながら、さらに問題なのは、高木本部長の解除の理由説明の力点が、後段の「復興の本格化」というところにあることだ。「復興の本格化」を内外にアピールするために解除するという、論の運びになっている。話の順序が逆だ。当該の住民が第一義ではないのだ。一体、当該住民の意思や健康を無視して推し進められる「復興の本格化」とは何なのか。
 一昨年の12月に決定された国の復興加速化方針を見るとそのことがよく分かる。復興加速化方針の基本的な意図を次のように要約することができる。
 ⑴福島原発事故の被害規模をできるだけ小さく評価する、⑵賠償額はできるだけ抑え、東京電力や国の負担を小さくする、⑶被災地が原子力災害からいち早く立ち直り、廃炉ビジネスなどの新たな原子力政策の拠点となっていくという姿を演出する、⑷被ばくの影響を危惧する声については風評被害対策としてリスクコミュニケーションで処理する、⑸そういう福島復興をもって、全国の原発再稼働と原子力政策を加速する。
 「復興の本格化」とはこういうことだ。そのために、原発事故の被害が続いていると訴える住民の声を抑え込んで、特定避難勧奨地点の解除と避難・賠償の打ち切りを強引なやり方で進めたのだ。

 ◇20ミリで帰還は
   基準の大幅緩和とリスク増大


 特定避難勧奨地点解除の判断の基準は、年間被ばく線量20ミリシーベルトであった。上でも述べたように、国は、年間被ばく線量1ミリシーベルト基準を棚上げし、年間20ミリシーベルト基準で住民帰還を進めている。この20ミリシーベルト基準は、基準の大幅な緩和であり、健康被害リスクの有意な増加が認められるレベルの数値だ。このことは、低線量被ばくのリスクを軽視ないし否定する人びとでも認めざるをえない事実なのだということを強調しておきたい。
 たとえば、電気事業連合会は、「広島・長崎の原爆被爆生存者調査などから、数百mSvという大きな線量の場合であって、100mSvよりも低い線量を受けた被ばく者には、がんなどの発生について有意な増加は認められていません」〔※1〕としている。電事連とは電力会社各社の連合会であり、言うまでもなく原子力発電を推進する団体である。
 「100mSvより低い線量でがんなどの有意な増加はない」という主張に対して、まずは、原子力施設の労働者の調査で、累積10ミリシーベルト前後でも発がんリスクの上昇を示すデータ〔※2〕を反証として挙げることできる。しかし、ここではその議論はおくとしよう。むしろ、ここで見ておきたいのは、かくいう電事連でも、100ミリシーベルトより大きな線量を受ける場合については発がんリスクの有意な増加を認めているということだ。この100ミリシーベルトとは累積の被ばく線量である。
 ところで、20ミリシーベルトを下回ったところは帰還という場合の20ミリシーベルト基準とは、そこで生活すれば、1年間で20ミリシーベルトに近い被ばくをするということだ。この20ミリシーベルトとは年間の被ばく線量である。だから、そこで5年生活を続ければ、累積で100ミリシーベルトに近い被ばくになり、5年を過ぎて生活を続ければ累積で100ミリシーベルトを超えていくことになる。もちろん空間線量率は漸減していくが、半減期の長いセシウム137の寄与度が高くなっていくので、空間線量率の下がり方は緩慢になる。
 つまり、年間20ミリシーベルト基準の帰還ということは、帰還して数年のうちに(もちろん帰還前の初期被ばくや避難先での被ばくも加算されるわけだが)電事連ですら認めるところの<がん発生リスク等の有意な増加>というレベルの累積被ばく線量になるということなのだ。ここで言いたいのは、被ばくのリスクを最も甘く見る人びとの主張に沿ったとしても、そういう結論が導き出されてしまうということだ。〔※3〕
 国が復興加速化方針の柱をなす20ミリシーベルト基準による住民帰還方針は、ICRP(国際放射線防護委員会)などの基準をも大幅に逸脱し、原子力を推進する国々の中でももっとも緩い基準になる。
 日本が、原子力推進の国際競争でその先頭に立とうという野望なのか。そして、そのために、住民にはリスクを甘受せよということなのか。

              ・           ・          ・

  この日の説明会の最後に、住民が吐き捨てるように言った。
「無理を通して道理が引っ込むっていうけど、そんなことは無理じゃないか」
 たしかに国は、住民を前にして、「決定だ」と押し切った。しかし予定時間を大幅に超えて論議しても、参加した住民を一人も説得することはできなかった。住民の心に刻まれたのは、道理のない話を押し通す国の姿であり、取り返しのつかない不信と憤りの蓄積である。



※1 電事連HP「よくあるご質問【8-1】」
※2 文部科学省委託調査報告書「原子力発電施設等放射線業務従事者等に係る疫学的調査(第Ⅳ期調査平成17年度~平成21年度)/この調査に関する論評として、松崎道幸「10ミリシーベルトでも危険」がある。
※3 ここの展開は、井戸謙一「『1年に100ミリシーベルト』は誤解」(河北新報2014年12月8日)を参考にしている。





 以上








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  1. 2015/01/20(火) 17:00:00|
  2. 南相馬市
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折れない。     2015年春

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鹿島の一本松(南相馬市鹿島区右田浜)









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  1. 2015/01/01(木) 00:00:00|
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「待っていても何も進まない。もう我慢の限界だ」 ―被災者が原発事故の被害を訴える


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(除染で出たフレコンバックがうず高く積まれて行く。かつての風景はない/飯舘村・飯樋)





 「3年8カ月、じっと我慢をして待っていた。国、行政が助けてくれるだろうと。しかし一歩の進展もない。我慢の限界だ。このまま黙っていたら東京電力、国によってわれわれ被害者は潰される」(原発被害糾弾 飯舘村民救済申立団・団長 長谷川健一さん)

 11月16日福島市内で、「もう我慢はしない!立ち上がる」のスローガンを掲げ、被害者らでつくる30団体〔※〕共催・賛同し、「原発事故被害者集会」が開催された。
 飯館村民の半数に迫る2837人が11月14日に国の紛争解決センターに申し立てた「原発被害糾弾 飯舘村民救済申立団」。2013年3月に始まり福島県内すべての自治体と隣県の4千人の住民からなる「生業を返せ、地域を返せ!福島原発訴訟」原告団。「原発さえなければ」と書き残して自殺した相馬市の酪農家の遺族が起こした「原発さえなければ裁判」弁護団。年間1ミリシーベルト以下の環境で教育を受ける権利と体制を求めて8月29日に新たに始まった「子ども脱被ばく裁判」。検察の不起訴処分に対し検察審査会で「起訴相当」を含む議決が出される中、東京電力幹部らの責任を追及している「福島原発告訴団」―など、被害を告発し賠償を求める動きが各地で強まる中で、それぞれの取り組みを行てきた住民らが、一堂に会し発言し交流が持たれた。

 以下、被害者団体、弁護団、ゲストなどの十数の集会発言の中から、4氏の発言(要旨)を紹介する。


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※主催:原発事故被害者集会実行委員会/共催:原発被害糾弾 飯舘村民救済申立団、ふくしま集団疎開裁判の会、福島原発告訴団/賛同(27団体):原発損害賠償京都訴訟原告団、原発賠償関西訴訟原告団、原発賠償ひょうご訴訟原告団、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟原告団、福島原発かながわ訴訟原告団、福島原発被害山木屋原告団、原子力損害賠償群馬弁護団、原発さえなければ裁判弁護団、原発事故被災者支援北海道弁護団、原発被害救済千葉県弁護団、原発被害救済山形弁護団、埼玉原発事故責任追及訴訟弁護団、東日本大震災による被災者支援京都弁護団、東日本大震災による福島原発事故被災者支援関西弁護団、兵庫県原発被災者支援弁護団、福島原発事故被害者救済九州弁護団、福島原発被害救済新潟県弁護団、福島原発被害首都圏弁護団、みやぎ原発損害賠償弁護団、やまきや未来の会弁護団、原発賠償関西訴訟KANSAIサポーターズ、原発賠償訴訟・京都原告団を支援する会、全国一般ふくしま連帯労働組合、那須塩原 放射能から子どもを守る会、福島原発かながわ訴訟を支援する会、福島原発さいたま訴訟を支援する会、ぽかぽか★サポートチーム(原発賠償ひょうご訴訟)



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;宝物である子どもたちが   
    危機にさらされている


ふくしま集団疎開裁判の会 
今野寿美雄さん

 
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 私は浪江町から福島市内に来ています。小学3年生の子どもがいます。
 今年の8月29日、福島地裁に「子ども脱被ばく裁判」が提訴されました。
 子ども脱被ばく裁判には二つの裁判があります。ひとつは「子ども人権裁判」、もうひとつは「親子裁判」です。
 子ども人権裁判は、福島県内に住む小中学生が、小中学校のある市町村に対し、子どもには被ばくについて安全な環境で教育を受ける権利が保障されていることを確認する裁判。親子裁判は、原発事故で福島県で被ばくした親子が、子どもの命を救おうとしない国と福島県に対して、正しい救済を求める裁判。この二つが提訴されました。
 現在、子ども人権裁判の原告が35名、親子裁判が158名となりました。井戸謙一弁護士を団長とする弁護団、水戸喜世子(大阪府高槻市)、片岡輝美さん(福島県会津若松市)を共同代表とする支援団が結成されています。

 ◇政府や行政の対応に怒り
 みなさんの宝ものとは一体なんですか。おカネですか。金のネックレスですか。ダイヤの指輪ですか。
 私にとっての宝物とは子どもです。
 いま宝物である子どもたちが危機にさらされています。放射線にもさらされています。こんな環境にしたのでは誰ですか。
 大人たちなんです。子どもたちは、その厳しい中をいま生きていかなければなりません。
 子どもたちに安全・安心を与えられるのは誰ですか。壊してしまった大人たちが、元に戻して子どもたちに与えたいです。子どもは未来からの送りものです。
 私は、事故から現在までの政府や行政のデタラメな対応に怒りを持っています。そして声を挙げました。
 本当は、お母さんたちが話をしたいのですが、いろいろ問題があって、代表して私がここに立っています。お母さんたちは悩んでいます。怒っています。
 子どもは子どもたちを守れない。子どもを守るのは大人の責任です。大きな声を挙げて、ダメなものはダメだと、守るものは守ると、子どもたちに明るい未来をプレゼントしましょう。



生活のすべてを破壊され
          心まで汚染


原発事故被害糾弾 飯舘村民救済申立団 
菅野哲さん


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 私たち飯舘村民はなぜこんな苦しい思いをしなければならないのでしょうか。
 私自身も農家で野菜をつくっていました。すべて失いました。
 あの美しい私たちの村、飯舘村が、消えてなくなろうとしています。無残な姿をさらけ出しています。美しかった私たちの生活空間、その飯舘村をできるなら戻してほしい。それが飯舘村民の一途な願いだと思っています。
 飯舘村の農家の皆さんは、涙を流して、牛を放し、農業を廃業して、やむなく避難をしたわけです。させられたんですね。避難させられて3年半が過ぎました。何が変わったでしょうか。変わったのは、除染でフレコンバックが山積みになっている飯舘村だけです。
 避難をしている飯舘村民の生活環境は、依然として、3年半変わらない。仮設で暮らしている人は3割。7割の人はそれぞれバラバラにアパートで暮らしています。家族がバラバラにされて、じいちゃん、ばあちゃんは、仮設で悲しんでいます。孫の顔も見れない。孫は遠くに行ってしまった。会えない。あの賑やかだった家族の雰囲気が一瞬にしてこの3年半、変わってしまったわけです。
 飯舘村民は避難が遅かった。指示がされない。あの44.7マイクロ(シーベルト/時)の報道がなされたのは、23年(2011年)の3月25日です。その時点で避難をさせられるものと思っていました。しかし逆でした。何回も講演を学者が開いて、「安全です」という宣言です。安心した飯舘村民はその場で暮らしていました。ましてや放射能まみれの水道水まで飲まされて、そのことによってしなくてもいい、無用な被ばくを長期間にわたってさせられたわけです。
 その心というのはいかほどかと。ふるさとを失うというが、私たち飯舘村民にとって、ふるさとではないんです。私たちの生活そのものの基盤でした。それをすべて破壊され、奪われました。その心が、村民には悲しい心としていつまでも残る。いわゆる原発の放射能によって、心までも汚染されてしまったということです。これは一生涯、引き続いて行くことでしょう。仮設でもっともっと長生きできた人が、相当数の数で亡くなってしまいました。悲しいことです。
 この悲惨な暮らしをいつまで続けろというのでしょうか。早く、早く、この放射能の心配がない、元のような暮らしができるように、安心して、暮らせるように、東電は償い、国はその責任を果たすべきだという風に思っています。
 そして、国には二度とこのような悲惨なことを起こさないように、しっかりと政治を行ってほしい。さらにこれからの子どもたちを健やかに育てられる環境をつくってほしい。原発なんか必要ないんです。どうかみなさん、福島県民一丸となって、もっともっと声を挙げて全国に、そして、世界に発信していこうじゃありませんか。


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(「誤れ!償え!」。「償え」は「まやえ」と読み、飯舘村の放言で「弁償しろ」の意だという)



被災者が自ら
 勇気をもって立ち上がった


「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟原告団 
服部弘幸さん


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 私たちの裁判は、震災から丸二年の節目となる2013年3月11日に、福島地裁に原告800名をもって提訴を行った民事裁判です。
 要求は単純にたった二つです。まずは、「元に戻せ」「放射能のなかった元の環境に戻してくれ」。そして、もう一つが、「戻るまでの間、原告一人当たり月5万円の慰謝料を払ってくれ」。要求はたった二つ、シンプルな要求になっております。
 ただ、私たちは、民事裁判ですので慰謝料を要求する形で裁判を起こしましたけど、私たちの本当に狙うものは慰謝料の請求ではありません。あくまでも国と東電の今の無責任な対応に対してのきちんと責任を求め、司法の場で白黒はっきりさせて、国と東電に責任を認めさせる。そういう思いで、私たちは原告に加わり、裁判を行ってまいりました。
 第一回目の口頭弁論からすでに一年以上を経過しています。その間、追加提訴を三回行い、原告団は現在3865名と大きな原告団になることができました。さらに特筆すべきは、県内全市町村に原告の方がいらっしゃることです。手前味噌ですが、「オール福島」、福島県民を代表して、私たちは裁判をたたかっていると自負して裁判を行っています。
 裁判は、一年を過ぎ折り返しを回ったところと、私たちも判断をしております。今まで主に責任論のやり取りをやってきましたが、今度は私たち一人ひとりの被害をしっかりと裁判所に伝えて被害の実情を見てもらって、みんなが苦しんでいる多様な被害を法廷の場で裁判所に認めてもらうという段階に入ってまいりました。

 ◇横のつながりでお互いに励まし合い
 本日、ここにお集まりいただいた様々な団体のみなさんと、私たちと、共通点は何かとえば、被災者が自ら勇気をもって立ち上がった、その一点に尽きるであろうという風に考えております。一人ひとりは小さな声しか出せないけれども、そこでうつむいて被害をそのままにして泣き寝入りするのではなくて、どんなに小さな声であっても、どんな小さな力であっても、声を挙げて、立ち上がって、行動していくことが何よりも大事だ。そういう強い使命感を持って行動をおこされたと思います。
 全国20カ所に上る地裁に、こういった原発訴訟が起こされておりますけれども、そのもっとも大きな裁判として、みなさんを引っ張っていけるようなたたかいを是非していきたいと思っております。
 これを機会に全国の様々な原告団、弁護団、市民団体のみなさんとつながり、お互いを励まし、こういった行動をどんどん作って、いっしょに行動をしていきたいと思います。



被害を徹底的に語り合い訴える

原発さえなれば裁判
飯舘村民救済申立団
福島原発告訴団
弁護団・保田行雄弁護士

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 今回、「もう我慢をしない、立ち上がる」、こういうスローガンのもとに、被害者のみなんさんがこういう形で集まりを持たれたということは、大変画期的なことだと思っています。
 僕自身も東京に住んでいますから、被害者のみなさんたちが、この原発被害を受けて、どんな状態にあるのか、どんな気持ちにいるのか、そのことが正確に伝えられていないという思いに駆られてきました。東京にいますと、国や県や各自治体の長の話すことが、あたかも被害者の声のようにいわれています。しかし本当に苦しんでいる被害者一人ひとりの声は伝わってきません。

 ◇加害者の賠償基準ではなく
 いま被災地の避難をされた地域の人たちも、不動産賠償などが始まりました。不動産賠償の次に来るのは避難の解除の問題。そして避難慰謝料の打ち切りという問題です。しかしどうでしょう。避難慰謝料を打ち切られて、どうやって生活していけというんでしょうか。そういうことがまかり通ろうとしています。
 いままで国は原賠審(原子力損害賠償紛争審査会)をつくり、中間指針をつくって、様々な賠償策を取ってきました。東電もそれに従って賠償の提示を行なってきました。これは実は加害者側のつくった賠償基準であり、賠償の提示であります。
 これから皆さん方が本当に声を挙げて自分たちの被害を訴え、「こんな被害を受けたんだから、こういう賠償をすべきだ」という声を挙げて行くべき時期に来たと思います。
 その意味で今回の集会はとてもよかったと思います。いままで自分たちのたたかいに必死で、他がどんなたたかいをしているか、なかなか知る機会も見る機会も少なかったと思うんですが、この交流こそは、福島原発の被害者から始まり、被害を徹底的に語り合いながら、それを全国に広げて行けば、必ず、皆さん方の願う完全賠償と本当の償いが実現できると思っています。
 幸い、今回、飯舘村の村民の約半数が立ち上がりました。これは恐らく福島における被害者運動を変えて行くものだと考えます。私たちは、飯舘村の村民の皆さんの共に寄り添いながら、そして、今回の福島原発全体の被害者の皆さんと共にたたかっていきたいと思います。今日はそのスタートにしたいと思います。



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(「あの美しい私たちの村が消えてなくなろうとしている。無残な姿をさらしている」菅野哲さんの発言/写真は飯舘村・飯樋)


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 <どんどん復興している><みんな笑顔で前を向いている>―そういうアナウンスが、国、行政、メディアによって執拗に繰り返されている。それが、被ばくと健康被害に危惧を持つことや、原発事故の被害について声を挙げることに対して、<復興の足を引っ張るな>と抑圧する力として働いている。「我慢をする」とは、そういう仕組みの中で強いられているものだった。

 それに対して「もう我慢はしない」として声を挙げ、被災者が自らの言葉で被害を訴え始めた。そして、その被災者同士が互いにつながり始めた。これは、保田弁護士が言われたように、ひとつの転換点になるかもしれない。


以上








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  1. 2014/12/10(水) 18:00:00|
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